Tokyo University of Foreign Studies
東京外国語大学【2001年度カンボジア文献講読ゼミ】

カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜


小倉貞男の現場

〜小倉貞男さんへのインタビュー〜

聞き手:松本由麻 布施岳人
文責:布施岳人
2001年6月18日 ビアレストラン「J's」にて

【小倉貞男】
 1933年東京生まれ。慶応義塾大学卒業後、読売新聞社に入社。社会部記者として、農村の実情や「交通戦争
[1]」など様々な社会問題の報道に携わる。66年から69年にかけてサイゴン特派員を勤め、以来インドシナで精力的な取材研究を続ける。76年から81年にかけてヴェトナムと中国の対立、戦争、79年には、ポル・ポト政権下のカンボジアにおいて拷問、粛清の舞台の一つとなったS21キャンプ跡[2]を、西側記者として初めて取材した。現在は中部大学、上智大学などで教鞭をとっている。


◆ ◇ ◆ ◇

小倉氏はインドシナの現場で何を見、何を思ったのか。四谷のビアレストランで酒肴を交えながら、まずはサイゴンを初めて訪れた時の事からお話を伺った。

―まず、どういった経緯で66年にサイゴン特派員としてヴェトナムに渡られたのですか?

小倉   経緯なんかありません。新聞社っていう所は、上司から言われればその通りやらなくちゃならない。いわゆる研究者、学者のように、語学から始めたなんて事は一切ありません。

―では自分から進んで志願したというわけではなかったのですか?

小倉   当時、札幌の雪祭り帰りの観光客を乗せた全日空機の墜落事故があって、私はその取材のキャップとして、東京湾上にいる海上保安庁の船に乗り込んでいました。ところが、突然部長に「ヴェトナムに行って来い」と言われて。それで帰ってかみさんに「ヴェトナム行けって言ってるよ」って告げたら、かみさんは「ああ、お父さんどうぞ行ってください」と。それですぐ一週間後に発ちました。
 その66年と言うのはね、ヴェトナム戦争が激化して、ヴェトナムの戦争がアメリカの戦争になった時期。朝鮮戦争の後、米軍の海外遠征軍(expeditionary troop)が太平洋を越えて、今度はアジアの大陸に入ったんですよね。多大な犠牲払いながら、共産主義の浸透を防ごうと。とにかく縦横無尽に、めったやたらに人を殺して、殺されてという、凄まじい戦争の時代になった。ヴェトナム戦争がグローバル化して、ソ連だけじゃなく、ヨーロッパに対しても大きな影響を与え始めた時期ですね。

―小倉先生は様々な本のあとがきなどで、インドシナへのこだわりのようなものを述べられていますが、いつ頃からそのこだわりを自覚し始めたんですか?

小倉   行ったときですよ。3月3日。飛行機降りたときにね、これは竜宮に来たのかなと。アオザイがありまして、暑くて、ブーゲンビリアが咲いてましてね。
 それでタクシーに乗ったらね、床がないの。「えーっ!何やってるんだこれー」(一同笑)。乗ったら、地面が見えるの。このくらいの大きな穴が開いて。床のないタクシーに乗ったのは生まれて初めて。それで、まいっちゃったね。みんな平気な顔して乗ってるんですよ。これはね、全然違う世界だと。面白いなって。
 その後僕の歓迎会で、わーっとその事言ったらね、みんな何も感激しないんだよね。そんなの当たり前だって。やっぱり東京の生活と違いますね。行ったら惚れちゃった。
では、そもそもジャーナリストを志した理由はなんだったのか。そのわけを、小倉氏の文化観に大きな影響を与えた農村取材の経緯とあわせて伺ってみる。

―そもそも読売新聞の記者になられたのは何故なんでしょうか?どういった経緯で入社されたのですか?

小倉   これははっきりしてますよ。僕が読売新聞に入ろうと思った理由はね、読売新聞の社会部がね、ものすごく優秀だったんです。これは戦後の読売新聞を見ていただければ分かるけどね、いろいろな問題を告発したり、あるいは十年先を見通すような連載をやったり、これは素晴らしい新聞でした。

―では初めから読売新聞の社会部で社会問題についての報道をしようと考えておられたのですか?

小倉   そうそう。それでまあ運良く読売新聞入って。それで社会部配属されたときは嬉しかった。だけど1964年、僕は山形県の農村に一年間住み込みましてね、「日本の土」という連載をやったんですよ。僕は東京生れの東京育ちですからね、土は知らなかった。小学校の運動場もアスファルトだしね。道も舗装道路でしょ。だけど、日本の農村が大きく変わる時期に、一年間農村を、田植えから収穫まで、あと出稼ぎ、それを取材して、良く分かったね。あのね、文化っていうのは土ですよ。そして民族も土なんですよ。

―小倉先生は農村からの出稼ぎ労働者についても取材されていますね。

小倉   あれも山形や秋田の雪深い農村での話ですね。冬が明けて稲作の準備に入らなくちゃいけない時期、父親は出稼ぎで都会に出ちゃって、農業が立ち行かなくなって、それでお爺さんが苦悩の末自殺しちゃうというような悲劇が、あの頃続出していた。東京オリンピックと大阪万博、それから首都圏における住宅公団の建設があって、出稼ぎ労働者がたくさん都会に来た。それで家に仕送りして生きていくという風に、日本の経済構造が変わってきたんですよ。家を挙げて、村を離れる、挙家離村ですね。
 それが今もずーっと続いてる。だから日本の社会構造の崩壊が始まったのは、やっぱり1950年代の後半でしょうね。僕は東京生まれの東京育ちだからこそ、逆に、客観的に見えたわけですよ。
 ヴェトナム戦争も同じなんです。やっぱり戦争という中で、強制的に経済構造、社会構造が変わらざるを得ない。
こうした農村取材の経験は、サイゴン特派員として氏がヴェトナムに渡った後も、その取材活動に大きく活かされている。

―ヴェトナムに渡られてから、まずどのような取材活動をなされましたか?

小倉   ヴェトナムもアジアモンスーンで稲作地帯でしょ。だから、やっぱりその土からはじめようと思ったね。もちろんヴェトナム戦争も視野にあったけれど、行ってからすぐやったのは何かっていうと、農村に行きました。普通の白いシャツ着て、普通の格好してね、ヴェトナム人に見間違えられちゃった。オート三輪とかバス乗り継いで、メコンデルタをずいぶん歩きましたね。やっぱりヴェトナム戦争の本質は農村の戦争なんですよ。サイゴンは、民衆を代表してない政権です。これはすぐに分かりましたよ。
だから、「土をやるぞ、ヴェトナムの土をやるぞ」ってね。やっぱり文化っていうのは土なんですね。舗装道路じゃないんです。土からあらゆるものが成長して、あらゆる人間の口に入っていく。動物も植物も生きて、それで滅びていく。

―当時のヴェトナムの農村というのはどういった状況だったんですか?

小倉   戦争ばっかりだよ。皆さん戦争って言うとね、なんか大部隊がワーッといって、ガガガって爆撃やって、バーって人を殺してっていうのを想像するかもしれないけれど、ヴェトナム戦争っていうのはね、もう、日常。都会でも(店内を指して)こういうところで爆発が起こる。農村では、米軍が村を攻撃する。ゲリラには大砲使えないから戦車で包囲して、収穫寸前の、黄金色に育った、稲穂の田んぼにグァーっと入ってね、それで向こうの村をせん滅するわけですよ。
 僕が農村取材でバスに乗ってた時、バスの中の乗客はこういう光景を見ると皆立ち上がって怒るわけ。で、「デ・クォック・ミィ」って言うの。つまりアメリカ帝国主義者、アメ公っていう意味ね。それでもう分かったなあ。これアメリカは、ヴェトナムに勝てないなと。
 ヴェトナム戦争は何が原因かって言うと、アメリカが、ヴェトナムの南北統一、これが本当の独立だけど、これを認めようとしなかったこと。アメリカは間違えたんですね、結論から言うと。ヴェトナムが本当に独立した共産主義国家になるかっていったら、ならないです。もっとヴェトナム人は賢いですよ。
 アメリカは地域研究に失敗した。1960年代にはアメリカがヴェトナム戦争やるために、東南アジア、特にヴェトナムね、あの辺の地域研究を一斉に始めたんですよ。でもヴェトナム人の心が分かるような地域研究が出来なかった。だから彼らは、日本にやったのと同じように物量に任せて戦えば、当然勝てると思っていた。
 ヴェトナムの伝統的村落共同体を考えるとね、先ず稲作社会ですから、定着しなくちゃ稲作は出来ません。村の構造にも、きちんと組織、システムが無くちゃならない。ヴェトナムの村落には稲作社会のシステムも、それから徴兵の制度もきちんとあって、これは実に民主的です。これは伝統的村落共同体、「ラン(lang)」と言います。これをアメリカは見誤った。「ラン」っていうのはいまだに残ってるんだよ。ヴェトナム戦争中ホ・チ・ミン[3]は、ヴェトナムを守れとは決して言わなかったんですよ。「ラン」を守れって言った。
 だからヴェトナムでは共産党が威張ってるけども、地方へ行きますと、一番威張ってるのは小母ちゃん、お婆ちゃん。ヴェトナムの農村に取材に行くと、お婆ちゃんが「あんた何よ、あんた中国人でしょ」とか言うから、一緒にいるのが「違うよお婆ちゃん、この人日本人だよ」。でも日本人だろうとなんだろうとね、「あの連中は気に食わない」ってお婆ちゃんが言うとね、村長さんの許可得ても調査できないです。そのぐらいね、伝統的な共同体が残ってるんです。
1975年に民主カンプチアが誕生した際、日本では虐殺の有無について様々な報道、意見が飛び交った。小倉氏自身は、当時のカンボジアへの窓口となっていた北京大使館から入手した民主カンプチアの資料や、78年にヴェトナムに流入したカンボジア人難民からの取材を通じて、虐殺があったことを確信していたという。そうした中で、一体日本のジャーナリズムをどのように感じていたのだろうか。

―小倉先生は、ポル・ポト政権が誕生したときには日本におられたわけですが、当時の日本では民主カンプチア政権下の虐殺の有無について馬淵直樹[4]さん、本多勝一[5]さんらによる様々な報道がなされました。小倉先生はそういった報道をどの様に受け止められていたんですか?

小倉   馬淵君は、イデオロギーだけで「クメール・ルージュは絶対正しい」と新聞記者に訴えた。彼は、プノンペンが陥落して、クメール・ルージュがあそこを占拠した時その場にいたんですよ。それで凄まじい情景を全部見たのに書いてない。誰が考えたってね、クメール・ルージュってのはやっぱり虐殺をした。それでもなおかつ虐殺が無かったなんて強弁した。僕は、彼についてあんまり言いたくない。
 例えば日本の報道っていうのは、特に中国に対して変な遠慮がある。中国は民主カンプチアを育て、支持してたから、中国寄りになれば民主カンプチアも絶対批判しない。だけど、文字を書く人間あるいは映像をやる人間は、そういうことから離れて、自分自身の目で見なければいけない。イデオロギーじゃないんです。
 僕なんか日本でものすごく批判されたわけですよ。クメール・ルージュに埋められた沢山の頭蓋骨の事とかを毎回書いたらね、「小倉ってのは、ヴェトナム共産党に招待されてハノイ行って、頭まで真っ赤っかになっちゃった」って。
 本多勝一君は、ヴェトナムの色々な連載やったりなんかしてるけれども、やっぱり、絶対にヴェトナムが正しいという考えでしょ。
 ヴェトナム共産党も誤謬があります。共産主義批判も誤謬があるんです。当たり前ですよそんな事。アメリカが絶対悪いとか、ヴェトナムが絶対善だとかじゃない。お互いにやりあったんですね。
一ノ瀬泰三[6]と沢田教一[7]、インドシナで命を落とした戦場カメラマン二人も、小倉氏と縁ある人物だった。激動のインドシナを現場から見つめたジャーナリストとして、小倉氏は彼らにどのような思いを抱いたのか。
小倉   一ノ瀬君の事だけども、映画で「地雷を踏んだらサヨウナラ」[8]ってのをやったけどね。ある時サイゴンの日本大使館の仲良かった人に、ジュラルミンケース持って帰ってくれって頼まれて、「いいよ、中身は何?」って訊いたら、「これがどうしようもない奴なんだよ。一ノ瀬泰三っていうカメラマンがね、カンボジアに行ったっきり、帰ってこないんだよ」、死んでるに違いないってわけ。で、中見たら、もう泥塗れの汗臭い下着。あと、撮ったフィルム。一ノ瀬君本人について、僕は全然知らないですよ。持ってってくれって言うから、よっしゃ、ということでね。岡村昭彦[9]さんと引き受けたんです。
 それで東京に持って帰った。すぐ一ノ瀬泰三のおふくろさんに「息子さんの荷物預かってあるから取りに来てください。」って電話したの。そうしたらすぐ飛んで来ました。
 その後クメール・ルージュが倒れて、カンボジアが少しおとなしくなってからね、おふくろさんが、泰三の殺されたところに行きたいって言い出したの。母親の気持ちってすごいね。日本電波ニュース社のお世話でシエムリアップの村まで行って、「泰三はどこにいますか?」って村の人たちに訊いた。人間の肉体が埋まっている所って言うのはね、草を見れば分かる。そこを掘ると、しゃれこうべが出てきた。そしたらね、母親が見て「これが泰三か」と言ってね。分かりませんよ、そんなの。そのしゃれこうべ洗ってもらって、それで供養して、この遺骨持って帰りたいって言ったけど、持ち出し禁止って。
 訳が分からんですよ一ノ瀬君は。ロン・ノル軍の封鎖線を突破して、アンコール・ワットに行っちゃったんですよ。あの道路行けばクメール・ルージュに捕まるに決まってるんだから。でもおふくろさんとおやじさんは、あの泥のような下着を、ものすごく大事にして。おふくろさんにとってはね、その下着に残った息子の匂いをかいで、ああ、この時は生きていたんだって感じる。
 沢田君はね、日本人記者が大嫌いでね。日本人嫌いっていうより人間嫌いじゃないのかなあ。自分しか信頼できない。誰も頼るものがない。うっかり信頼しちゃったら、自分が殺されちゃうんだから。
 彼は米海兵隊員から怖れられるぐらい激しい写真を撮った。死ぬか生きるかじゃなくて,死ぬんですよ。それでも生き延びてきた。彼は米海兵隊のシンボルだったんですよ。沢田がくれば大丈夫だって。沢田君は、鋭い、鋭いって言うか…目の前のその瞬間って言うかな、それが自然に写るんでしょうね。海兵隊が撃ってる、敵が向こうから撃ってくる、沢田君はそこで敵の写真を撮らないでね、すーっと立って、敵に背中を向けて、味方を撮影するんですよ。海兵隊が必死に撃ってる、そのシーンを撮るわけだね。海兵隊もびっくり。敵もびっくり。彼は優しい人間です。だけど、戦場になるとすごい。
 そういう人なのに、くたびれて農村に行きたいって。僕がヴェトナムで農村をずいぶん歩いたっていうのを知ってるから、「小倉さん、僕も農村に連れていって下さいよ」と言った。「疲れた」って。農村の平和な生活も撮りたいんですって言って。
 その時は「どうぞ。だけど、沢田君の撮るのはやっぱ戦争じゃないの。極限、これを撮ることじゃないの」って言って。結局、そのまま別れちゃったけどね。

―小倉先生自身は、そういった戦場カメラマンとしての経験はおありなんでしょうか?

小倉   そりゃ、撮ってますよ。現場行ってますからね。サイゴンにいてただ外通に頼るってことはありませんからね。現場行って、書いて来て、情報取って、写真撮って、それはやっぱり当然のことです。

―では危険な目にもあわれているんですか?

小倉   当然、当然。危ないかどうか分からないうちに、危ない目にあってたんだよね。北ヴェトナム兵2000人に囲まれてもう落ちる寸前、もう駄目だっていう時にも、ビール飲んで、グーグー寝てたからね。海兵隊の連中に、「お前はしょうがない奴だなぁ」って言われたけど。
 いやあ、ねえ。話せば恥ずかしい話ばっかり(笑)。人間がいかに戦争の中で壊れないで生きるか。戦争って、みんな人間壊れちゃうんですよ。僕らが乗る飛行機っていうのはみんな弾薬積んで、まるで棺桶でしょ。弾薬が積んだその隅っこに乗ってくんだから、嫌ですよ。どかーんと来たら、やられちゃうんだから。怖くて怖くて。
 それからスナイパー、狙撃兵も怖い。僕は従軍しているときに、よくねぇ、黒人兵にかわいがられたんですよ。ヴェトナム戦争の黒人兵はね、戦闘の危機感を持ってるんですよ。朝鮮戦争で前線を経験しているんです。僕は日本人で、背が小さいから、水路を渡るときなどみんな僕のカメラ持ってくれたりしてね。「小倉、俺の後ろにしっかり付いて来いよ」ってね。
 黒人兵はね、耳がすごくいいんです。弾に当たらないためにはものすごく耳を澄ませてないといけない。それは黒人兵に習って、だんだん分かるようになったんです。それでね、白人は士官学校を出ていてもね、戦争を知らない。それで、白人将校は必ず無線電話を使ってる。そうすると先頭の2人がまずスナイパーに殺されるんです。僕は最初それが分からないから、隊列の前から3人目にいたの。そしたらね、「小倉、危ない。こっち来い。」ってね。それで黒人兵の後ろ、20メートルぐらい離れて、衛生兵と一緒に歩いたんですよね。助かりました。
小倉氏が79年から81年にかけて行ったS21キャンプでの取材調査の成果を詳細にまとめた著作が『インドシナの元年−カンプチアS21キャンプからー』[10]である。その取材の経緯を細かく伺ってみた。

―『インドシナの元年』という本で、先生は詳しくS21キャンプの事を書いていらっしゃいます。その中で、当時S21の管理人であったウン・ペックさんという方と親交を結んで色々な資料を見せてもらった、とあったのですが、一体どの様にお知り合いになったんでしょうか?

小倉   1979年の4月末にS21に入った。その時ね、あそこで最後に殺された14人が、埋まっててね。土盛りがしてあって。ちょうど雨季の始まりでね、むっとする死臭で、あそこ着いた途端にもう卒倒しそうだったんですよ。生々しい血の跡から何から残って、こびりついてね。電気椅子もあったりしてね、そのままそっくり残ってる。頭蓋骨はごろごろしてるしね。
 それで、ウン・ペックが、「ここはクメール・ルージュ時代に政治犯収容所で、その調書を今我々が整理してるとこだ」と言って、書類を見せてくれました。その時、他にも日本の新聞記者はいたんだよね。だけど、僕はそれを見て、衝撃を受けて、それでウン・ペックに「他の書類はどこにあるの」って訊いたんですよ。そうしたら「上だ」って。でも立ち入り禁止だった。そのとき僕はもうヴェトナム戻んなくちゃならなかったから、「分かった、今度必ず来るぞ。そのとき頼む」と言って。

 それから虐殺の現場行ったりなんかして、墓場の、発掘された跡とかも見ました。怖かったね。写真見ると分かるけどね、穴と穴との間がこんな狭いところなんですよね。そこにもう骨がおいてあるもんだからね、そーっと歩くとね、ポキポキ音がする。足元で骨が折れる音がするんです。その真っ黒い目のところを見ていると、声が聞こえる気がするんですよ。怨みでしょうね。「おい、お前は何者だ」ってね。「俺は日本人だよ。お前何者だ。あんたの名前何て言うんだい」。もちろん答えは無いけどもね、やっぱり、どの眼もね、怨みを晴らしてくれよと言っている。これはなんかの形でね、怨みを晴らさなくちゃ。そういう体制にした時代、それを告発しなくちゃならないってことです。
 取材していくと分かるんですがね、クメール・ルージュで直接政治犯を殺したのは、少年兵なんですよ。クメール・ルージュは教育によって子供を少年兵に仕立てて、スパイにしたりしたでしょ。僕は戦争中の皇国教育を受けてたからね。だから、天皇陛下万歳だの、死ぬ事覚悟でやってたわけですから。僕はチビなのに小隊長で、サーベル下げて「突撃ー」なんてやったなあ(笑)。けれど、昭和小国民としての教育を受けていても、やっぱりアメリカと戦って死ななくちゃならないのは嫌だった。でもやらざるを得ない。
 要するに人間ていうのはね、為政者が教育をやればね、そっちへ行っちゃうってことですよね。クメール・ルージュによく似てるんですよ。だからね、恐ろしいというか、あれは他人事じゃないんですよ。

それで、80年に、またウン・ペックに会いにS21に行った。彼はワーッと喜んでね。「あー、外国人で、こんな事関心持ってくれるのはありがたい」って言って。自由に見せてくれました。本当は入れない。ウン・ペックの裁量。彼はもう亡くなりましたけどね。僕はカンボジア語分かりませんから、信頼のおける外務省の通訳とウン・ペックに頼んだ通訳に、全部読んでもらって、筆写した。
クメール・ルージュってのはね、中央がコントロールしてる様で、実際は西部とか北部とか東部とか分かれていて、全部力関係が違うんですよ。調書を読んでいくと、クメール・ルージュがどういう風にやって虐殺(eliminate)していたかという構図が良く分かりますよ。極めて論理的に、しっかりと殺してるってことです。衝動的には殺してない。逆にいえば、ポル・ポトは極端な民族主義者であるだろうけれども、狂気の沙汰で殺してるんじゃないと。

―ウン・ペックさんとはどのようにコミュニケーションをとったのですか?

小倉   彼は英語。それは、非常に上手く話しましたね。だからウン・ペックが、あそこにいなければ…取材出来なかったろうなあ。
 それから、3回目位に行った時に、チャンドラー[11]が来たの。それからベン・キエルナン[12]も奥さんと一緒にいたね。
続いて、78年にヴェトナムへ渡った際、カンボジア国境のタイニン省へクメール・ルージュの支配を逃れてきたカンボジア難民達に対し取材を行ったときのお話を伺う。
小倉   78年の5月に、カンボジア東部、ボピェっていうところですが、クーデターを起こして、失敗してやられた部隊がヴェトナムに逃げてきた。78年の9月に僕はヴェトナムにいたから、クーデターが起こったっていうのは、聞いてまして。その時の話と調べた調書と、内容が一致してましたね。
 僕は、ヴェトナムのタイニン省、あそこへ逃げてきた人達を取材したんだけど、もうすごかった。彼らほとんどが少年兵ですよ。彼らが捕虜になって、サイゴンから東のスアンロックのヴェトナム陸軍の師団司令部まで連れて行かれた。捕虜としての扱いじゃないんですよ、柵も何もなくてね。
 その時は何で政府軍同士が戦ってるんだろうって不思議だった(笑)。東部軍管区の反乱を知らなかったから。

―カンボジアの中央で内乱が起こっていたわけですね。

小倉   そうそう。それで逃げてきた人たちが、「政府軍が来た」って証言するわけですよ。だけど、敵も政府軍、負けて逃げてきたほうも政府軍。何やってんだろうなってね(笑)。分からなかった。

―ヴェトナムに来たの難民というのは、どのような状態にあったんですか?

小倉   子供がいないんです。お爺ちゃんお婆ちゃんと、それと、女。とんでもない社会だよ。子供の姿が見えないの。これは恐ろしい社会ですよ。

―難民達は疲れきって歩いてきた状態だと思うのですが、小倉先生がそういった難民の方たちにインタビューをする時というのは、どのようにインタビューを切り出したりするんでしょうか?

小倉   難民はね、逃げてくると、倒れますよ。足の裏は腫れて、血だらけ。サンダルなんか吹っ飛んじゃってるから。「ああ、逃げる一心ていうのは凄まじいもんだな」と思うとインタビューできませんよ。インタビューできるのはね、逃げてきて一週間ぐらいたった人たち。
 難民キャンプでは、合作社、出身地ごとに集まって、干し魚と岩塩を分配するんですよ。そのときはね、並ぶんですよ。えらいなあと思ったんだけどね。あんなに飢えてる状態でありながら、じーっとしてね、みんなお互いに、分け合う。これはね、本当に涙出てきたね。
 はじめにプノンペンに入ったときにも、飢えた人たちが沢山いた。だけどその時にね、ワット・プノムに行って、中年の女性3人に話を聞いた。もうぼろぼろの服着てね。何も持ってない。その女性に、インタビューをしたんですよ。おそらく何も食べてないんでしょうね。旦那さんもどこか行っちゃって、分かりません。
 だけどそんな状況の中、色々な話聞きました。あの静かな、タマリンドの香りのする、昔の時代の事もね。
 その時ね、あっ、と思ったの。「ああこの女性何も食べてないな」と思ってね。それで、何か御礼しなくちゃいけないと思ったの。僕は何も持ってなかったんですよ。ただ煙草持ってたの。僕は煙草吸わないんだけども、お礼するときに何か便利かなと思って。それでね、「煙草はお吸いにならないでしょうけども、これ、何かに換えて、使ってください」と。
 そう言ったらば、断った。「私は、乞食じゃない」と。参ったなあと思いましたね。これはクメールの心ですよ。「ああ、クメール・ルージュの時代の中でも、こういう人たちはちゃんといるんだ」って思ったね。まあそれから、別れたっきり、どこかで生きてるのか、死んでしまったのか分かりませんけどね。これは、ものすごく印象ありますね。いやあ…(涙をぬぐう)。

―ではその時色々な人にインタビューにしたと思いますが、お礼などはなさらなかったのですか?

小倉   出来ませんよ。出来ません。まあ、いわゆるジャーナリストがお礼するっていうのは、いけないけども。お礼することによってね、情報をちょっと捻じ曲げて欲しいとかね、そういうことってあるかも知れないけども。それはいけませんよね。
ヴェトナム、カンボジア間の領土意識の話。両国民の間にある歴史認識の相違の根深さを、実体験をもとに語っていただく。
小倉   メコンデルタにはクメール人が大勢いるわけですよね。そりゃそうですよ。クメールの領土を分捕ったんですから。それは歴史上はっきりしてるわけですよ。要するに北にいたヴェトナム人がどんどん南へ行って、メコンデルタをみんな分捕った。

―クメール・クロムなどもそうした経緯の名残ですよね。

小倉   クメール・クロムってのは、いわゆる下クメールって言う、メコンデルタに住んでるカンボジア人だよね。だけどね、ヴェトナム共産党はそういった研究を許さなかったんですよ。1990年に、初めて解禁になったんです。これはヴェトナムとカンボジアの関係を閉ざす原因の一つです。
 今でもカンボジアではね、大臣や政府のトップクラスの人間は、ヴェトナムのホ・チミン市、あそこをホ・チミンとも言わないし、サイゴンとも呼ばないです。あれは「プレイ・ノコール(森の都)」だと、あれは俺達の都なんだって言いますよ。公式の席じゃそんな事言わないけどね。
また、小倉氏は現在のカンボジア首相フン・センと親密な関係であるという。そうした立場から、カンボジアの近現代政治史をどのように捉えているのかお話を聞いた。
小倉   フン・センが29才の時からずーっとつき合ってるけれど、彼がヴェトナムの言いなりになっているのはウソ。僕がフン・センに初めて会った時、彼は、ヘン・サムリン政権の最初の外務大臣でしょ。あのときフン・センに言ったのはね、「BBC聞け」って。ヴェトナムの情報だけじゃなくてね。ポケットマネーでソニーの短波ラジオ買って持ってったの。あのとき6万円ぐらいで、高かったんですよ。それでフン・センにね、英語勉強して、ヴェトナムの言いなりになるなって。そしたら、彼、感謝してね。
 ハノイでグェン・コ・タック外務大臣と会った。カンボジアは思うようになるなんて平然と言ったからね、おかしい、そんなことないですよって言ってグェン・コ・タックと言い合いしたんだけども。グェン・コ・タックはヴェトナムの外務大臣で威張ってるけど、カンボジアにはカンボジアの気持ちがあるの。ヴェトナムの助けを借りて新政権ができたけども、カンボジアは立派に出来るんですよ。そこに、ヴェトナムも含めて、援助に群がる悪いやつがいる。
 だから、まあ、フン・センがどうなるか分かんないけども、現代史を見ると、僕はむしろね、シハヌークの方が悪いなあという気がしてます。今川さん[13]は、シハヌークを擁護するけども。
小倉氏は今現在大学の教授という立場であり、研究者と同時に教育者でもある。小倉氏がカンボジア、ヴェトナムについて学ぼうという学生に対し求めるもの、小倉氏自身が教育者として学生達に伝えていきたい事とは何か。氏自身の戦場での体験を踏まえながら語っていただいた。

―先生は、昔はジャーナリストとしてカンボジアやヴェトナムを訪れ、今は研究をしながら学生に教えていらっしゃいますが、ゼミ等で学生に伝えていきたいこと、教えていきたい事というのはどんな事でしょうか?

小倉   僕のゼミに入る条件としてね、他人の悲しみが分かるようにな、してくれと。これはゼミの内容とは違うかもしれないけど、悲しみが分からない人がね、何の卒論書けるかって、それが分かんなきゃゼミは成立しないよって言ってね。
 それで、もし関心があるなら現場に行ってもらいますね。毎年ヴェトナムとカンボジアへスタディーツアーに行ってるんです。今年も8月に行きますけどね。今までは乾期に行ってたんだけど、今年は雨期に連れて行きたいなあと思って。やっぱり若い人たちが現場に行って、そこで何が起こったのか、現場で考えていただければありがたい。やっぱり、言葉じゃなくて、現場を見てもらいたいですよね。
 言葉でクメールって言ったって分かりませんよ。ポル・ポトの残虐さを聞いて、そこで、「残虐ってどういうこと?日本人だって残虐なことやってたんじゃないの」って。一体残虐っていう意味は何なんだろうか。国家って、民族って何なんだろうかって考えて欲しい。特に文化ですね。文化ってやっぱり、言葉じゃなくて、においとか暑さとか、そういったことなんです。

 学生達が一番ショックなのはね、クメール・ルージュじゃないですよ。「Give me one dollar」、あれね。すごいでしょ。あれに彼らは戸惑うんですよ。1ドルって何なんだって。
 1ドルの重みなんて日本では分からないですよ。1ドルが120円だって換算しちゃいけないって言うんです。現場で見てくださいって。その1ドルでもって、4人家族がたくさんご飯を食べて、生きられるわけですよ。そういう世界があるってことなんですよね。
 その「Give me one dollar」という言葉、学生たちがね、その時1ドルをどう考えるか。10人いたら10通りあって、それでいいじゃないですか。できるだけ大学に入った時期に体験させたいんですよ。
 あともう一つ、学生にはね、アンコール行って、国宝に触りなさいって言う。東京の国立博物館行ったって、ガラスのケースに入ってて、触れられないじゃない。アンコール行ったら触れられんだから。それでね、あのー、額とおっぱいとお腹ね、触んなさいと。

―(笑)。

小倉   娘はそろそろ子供生まれるっていう頃にちゃんと触りましたよ。安産祈願。かみさんも学生と一緒に行ってるしね。触ったこと、すばらしいじゃないですか。何百年もの昔と変わりません。それは人間の祈りとか知恵。これをじーっと伝えていく事って、大切なんじゃないですか。刹那的なものじゃなくて、自分にとってのアンコールじゃなくて、アンコール・ワットがあって自分があるんですよ。それはやっぱり若い人たちは賢いから、よくわかりますよ。だから孫にもカンボジアを見せたいね。同じ年頃のカンボジアの子供たちが「One dollar」って手を出してるの見せたい。息子も孫連れてカンボジア行こうって言ってるから。
貴重な体験談を数多く交えての小倉氏の話は尽きることがなかったが、閉店時間を迎えて残念なことに打ち切りとなった。私たちがカンボジアに興味、関心を持って時間を共有してくれた事への喜びの言葉、そして、20年、30年後にカンボジア研究のリーダーになって欲しい、若いころにはやりたいことや思ったことは何でもやって欲しい、という励ましの言葉を最後に戴いて、インタビューは終了となった。

◆ ◇ ◆ ◇


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