Tokyo University of Foreign Studies
東京外国語大学【2001年度カンボジア文献講読ゼミ】

カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜


私のカンボジア視線

〜今川幸雄氏へのインタビュー〜

聞き手:平嶋沙織・中良和美
文責:中良和美
2001年5月21日 四谷駅前の喫茶店にて

【今川幸雄】
1932年東京都生まれ。1955年早稲田大学政治経済学部卒業。 1956年外務省入省。入省後、8年間研修員・三等書記官としてカンボジア在勤。 その後、フランス、ラオス、ベトナム、アルジェリア等在勤を経て、在マルセイユ総領事、フランス公使、在タイ公使を歴任。 1991年在カンボジア最高国民評議会(SNC)担当大使、1992年駐カンボジア大使。 1996年退官。 現在、関東学園大学法学部教授、上智大学アジア文化研究所客員教授。 日本カンボジア協会会長。日本クメール学会会長。

クリームソーダとともに・・・

 5月21日、上智大学での氏の授業終了後3時、我々は,上智大学図書館前で氏を待った。氏の著書の数々やプロフィールを読んでいて緊張気味の我々を迎えてくれたのは、とても落ち着いた物腰の氏の姿であった。氏の後について、我々は四谷駅前の喫茶店に入った。まだ緊張の糸が解けず、声の出ない我々は、「今日は、私はまな板の上の鯉ですので、どうぞいろいろ質問してください」という氏の言葉に助けられ、インタビューを開始した。氏は、クリームソーダに浮かぶアイスを食べながら我々の質問を待ってくれた。


◆ ◇ ◆ ◇

南瓜?かぼちゃ?カンボジア−氏、カンボジアに魅せられる−

 氏の著書を読むと、カンボジアへの深い思いを感じる。そこで、氏のカンボジアとの出会いと、他国への勤務を経てもやはりカンボジアをこよなく愛する氏にとってのカンボジアの魅力、を尋ねた。
 外務省研修所での一年間の研修を終了する前に指導官に「どこへ行きたいか」と聞かれた氏は、1957年当時の欧米崇拝の風潮で、欧米希望の多い中、「アジアに行きたいです」と答えたという。「当時ですね、欧米崇拝の風潮があって、欧米に行きたいってのが多いのですよ。でも私は、その欧米崇拝ってのがどうもね。ひねくれてたってのもあったんですがね」当時の大使館は定員が決まっており、その枠の中で研修生(各国大使館での研修)を受け入れていた。アジアの中でも東南アジアを希望した氏に、指導官は受け入れ枠のある国名を3つあげた。ベトナム、カンボジア、ビルマである。氏は、それを聞いて即座に「カンボジアに行きたいです」と答えたという。「第一に響きがよかったんだな。私はかぼちゃは嫌いだけど、カンボジアってかぼちゃに響きが似ててユーモアがある気がしてね」こう話す氏に我々はとてもひかれた。
 第二の理由は、氏がまだ学生であったとき、シハヌークが日本に対する賠償放棄の声明を出した、と新聞で読んだ為だという。当時の日本はベトナム、ビルマ、インドネシアなどから戦後賠償を求められ大変な頃であり、この賠償放棄をしたカンボジアを、良い国だと考えていたのだ。第三は、文化的なものである。「将来自分が行く上で,文化的に何もないところでは悲しいと思っていたんですよ。聞くところによるとカンボジアにはアンコール・ワット、アンコール・トムといった遺跡がある。これならいいなと思いましてね。瞬時にカンボジアに行こうって決めたんですよ」。
 その後すぐにカンボジアへ行くことになった氏だが、カンボジアでの一週間を経たとき、氏にとって衝撃的な事件が起こった。シハヌークとの出会いである。当時の吉岡範武大使に「カンボジアを学ぶ為に来た今川です」と紹介された氏に、シハヌークは大きく手を広げ、「日本の外交官が私の国へ来て勉強してくれるのはすばらしい。しっかりやってくれ」といって抱きしめるようにして、両頬にキスをしたのだ。「その頃まだ23歳くらいでしょう、学生気分も抜けないぐらいの自分に、一国の最高責任者であり、元国王(当時父親であるスラマリットに王位を譲っていた)にそんな風に言われたもんだからねえ。純粋な気持ちで頑張らなくてはと思いましたね」。この事件は、氏の自らを"シハヌーキスト"と称しめる土台ともいえるものであろう。
 また、氏は語る。「私はねえ、研修で3年、そのあと三等書記官で5年、合計8年、そのうち日本に帰ったのは一回。大使としては4年2ヶ月。結局カンボジアは12年と2ヶ月いたんだ。その間いろいろあったけど、やっぱり人間って不思議なものでね、長くいれば自分もだんだんその国の人になってしまうしね、 "シハヌーキスト"っていうこともあって、カンボジアが一番好きなんですよ」。

カンボジア語を学ぼうと・・・

 「初めはねえ、カンボジア語をやろうっていっても教えるインスティテュートがなかったからねえ」。当時の教育制度では小学校は3年生までカンボジア語だが、4年生以降フランス語になってしまうのだ。そこで、氏は当時の芸術学校の学長の家に下宿し、学生、諸先生にカンボジア語を教わったのだ。「トイレがないような家でまいったんだけれどもねえ」。氏は懐かしそうにそうつぶやいた。
 「でも、自分の同期が他の国で大学に行ったりしてるの聞いて劣等感を感じちゃってねえ。当時ようやくできた法科大学に入ったんだ。まあ、当時は法科と師範、あと医科大学くらいしか大学がなかったんだ。それで、法科ならいいかなって思ったし、そこで友達を作れば将来の付き合いもいいだろうなっていって入学したんですよ。」しかし、カンボジア語を勉強しようと入った法科大学の授業は、フランス語のみで教えられ、当時の大学キャンパス内ではカンボジア語を使用するのも厳禁であった。「やはり多少失望しましたよ。でもフランス語は私の第二外国語でしたしね、習いたてのカンボジア語よりは楽だったし。フランス法律、カンボジア経済・政治を学ぶのは面白かったですよ。何より友達ができたのが良かったですね」という。法科大学卒業後は、3年間、家庭教師にカンボジア語を習ったのだという。
 「でも、あとの話にはなるんですがね」と氏は語る。法科大学2期生である氏の同級生は16人、そのうち外国人が氏を含め3人、13人がカンボジア人である。この13人のうち、現在生きているのは、フランスで結婚した女性1人のみである。クメール・ルージュにより、氏の同級生はほとんどが殺されてしまったのである。「だからクメール・ルージュへの恨みは大きいんですよ」姿勢を正して氏はきっぱりといった。

ああ、美しきかな、カンボジア

 氏の著書である、『現代カンボジア風土記』(連合出版.1997)には、大使館研修の為カンボジアに初めて降り立った際の町の美しさとその感動について書かれている。氏は、「こういう事をいうと、フランス植民時期の名残でしょうという人がいるが、そうではないんだ」と主張する。「カンボジアがきれいになったのは、独立達成した1954年以来、シハヌーク政権のもとで行われたものですよ」東洋のプチパリとも称された当時のカンボジアには、芝生や花がたくさん植えられており、街は整然とし、朝早くから市民が自ら掃除をしていた。今のプノンペンとは全く様相が違っていたのだ。「またねえ、当時、私がいた1957年から1965年、治安もものすごく良かったね。夜中一人で歩いてても平気、どこの外国人も脅されるなんてことはなかったね。家の鍵もかけないで、お金もおきっぱなしで出掛けてましたけど、一文たりとも盗まれたことなんてなかったですよ。人柄も良かったのかもしれないねえ。カンボジアが悪くなったのは、ロン・ノルクーデター以降でしょうねえ」と氏は呟くように話した。

国民の中のシハヌーク―そしてその素顔―

 氏は、以前「シハヌーク国王の国民に与える精神的影響力は大きい」(「カンボジアの平和と安全の為に」SEKAI.1997)と述べている。氏自らシハヌーキストと言わしめる要素は、この中にも見られるようである。「若い人、20代くらいか、クメール・ルージュのことも知らなくて、ヘン・サムリン政権以降しか知らない人にはねえ、シハヌークさんの存在はどんどん薄くなってはきているけどねえ。世代で、親から子へ、そして孫へって語り継がれることはあるね。まあ、とにかく私の知っているシハヌークさんは愛国主義者で金に汚くないよ。金についてあっけらかんとしている江戸っ子的な人だよ」。江戸前気質の国王というのもなかなか乙なものである。そんな話を聞いているとき、我々はある記事を思い出した。シハヌークが日本語で「昴」を歌うのが得意というものである(『国際協力プラザ』.1996.6)。氏は何度かこのシハヌークの「昴」を聞いたというが、シハヌークは歌うことがとても好きらしく、「彼は,マイクを持ったら離さないタイプの人」であるらしい。我々は氏が教えたのではと考え、氏に尋ねてみたが、答えはノーであった。「私じゃないですよ。だってね、1990年シハヌークさんがカンボジア和平の過程で東京に来たときですよ。日本料理屋でね、外務省が接待をしたんだな。そのとき自分で『昴』を歌ったんですよ。皆驚いたね。おそらく中国人が教えたんじゃないかな」。
 また、氏は、シハヌークについてのあるエピソードを話してくれた。「和平前ねえ、シハヌークさんがカンボジアとタイとの国境のセレイピアップという小さな村に、レジスタンスポケット
[1]と称して住んでいたことがあったんだな。自分はその頃タイにいたんだけど、四駆で何時間もかけて会いにいったんだ。そこでは、一個小隊位の軍と、お手伝いと、モニクさん(シハヌークの妻)だけでひっそりと暮らしていたんだよ。自分が行くとねえ、よく来てくれた、ちょうど良かったと言われてね」。その前日にフランスからのお土産にチーズとフォアグラをもらったといって、それを全て振舞ってくれたのだというのだ。「これは殿下のものですって申し上げたんだけどね、全部私たちに食べさせちゃうんだ。私にはそんなこと出来ないよ。性格も王様なんだろうね」。そう語る氏の姿を見ながら、我々はシハヌークの姿を思い浮かべた。

王位継承には混乱が…

 シハヌーキストである氏は、「やはりシハヌークさんには長生きして欲しいね」と語る。これには、政治的な側面もある。国民への精神的影響力が大きいシハヌークであるが、影響力が大きい分その死後の混乱も予想されるのだ。「まあ、間違いないね。王族の伝統などとは別に、政治的な判断が、王位継承のときに入ってくるからね」。氏はこの理由を三つ挙げた。第一は、王位継承にあたり、政治的紛争が生じるであろうことである。日本とは異なり、アンドゥオン王か、その子ノロドム家とシソワット家の子孫全員に王位継承権がある。また、新国王というのは、王冠評議会で選ばれる。以前は、首相、国会議長、国会副議長二人、最高裁判長、大僧正二人(タマユット・マハーニカイ両派[2]より)、今はこれに上院議長、上院副議長が入るという。すべて、人民党と、フンシンペック(FUNCINPEC)党の二党に分かれている。首相の分だけ今は、人民党のほうが新国王選出の際、発言力が強いというわけである。現在、シハヌークの下で均衡を保っているが、新国王ではこの両党の立場も考慮しなくてはならない[3]のである。第二に、「シハヌークさんみたいに、ひとりでフランスに乗り込んで、独立を勝ち取るという、いわば国父的な存在で、誰からも自然と頭を下げられるような人は次に誰が国王になっても望めませんよ」というものだ。「シハヌークさんの息子のラナリットなんかも、小さい頃から知っているし、新婚旅行で日本に来た時、関西の観光に連れて行ったりしたけどね。王様となるとねえ、彼は政治的野心が強くなってしまったからねえ・・・」。そして最後に、「カンボジアは八割が農民で、仏教が深く農村に根付いているわけでしょう。仏教界で尊敬されない人間は、農村での安定基盤もないって事なんだ。シハヌークさんはね、二派に分かれた仏教界、タマユットにしても、マハーニカイにしても両方からの尊敬を受けていますからね。それが、次の国王に望めるかっていうのは難しいでしょうね」という。
 王位継承の際は、さまざまな問題を呼びそうである。

カンボジアこれから

 次にコーヒーを注文した氏に、我々はカンボジアのこれからについて質問を投げかけた。これから、カンボジアにとって何が一体必要なものなのであろうかと。「自立への歩みでしょうね」。自立には、建設などの直接的な援助よりも、グッドガバナンス[4]が重要だと氏は強く主張する。「人材の育成、教育だね。あと法支配の徹底、貧困対策だ。貧困対策っていうのは極度の貧困を改善すること。カンボジアは農業国でしょ。やっぱり、農業分野に力を注ぐべきですよ。農業生産を上げて、農民の生活レベルを上げる事から経済の発展を目指すことが大切ですよ。建設ばっかりじゃなくてね、将来的にカンボジアが自立に向かうような援助を外国がしていかなければならないんだよ」。身振りを交えながら氏は、このように語ってくれた。

汝、カンボジアを…

 最後に、カンボジアについて学んでいる学生、又これから関わろうとしている人たちへのアドバイスを頂戴しようと氏に尋ねた。「カンボジアとカンボジアの人を愛し、尊敬することですね」。更に、我々が是非ともと言い氏の著書に書いて頂いたメッセージを紹介したい。

 「カンボジアとカンボジア国民を愛し、日本とカンボジアとの関係緊密化に努めてください。」

 「カンボジア人の心を理解し日本・カンボジア両国民の相互協力に努めてください。」

 まさに、カンボジアを愛する氏の言葉である。


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