Tokyo University of Foreign Studies
東京外国語大学【2001年度カンボジア文献講読ゼミ】
カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜
聞き手:門田拓野 浜野哲成 田村道子
文責:浜野哲成
2001年10月8日 カトリック吉祥寺教会にて
【後藤文雄】
1929年、新潟県長岡市に生まれる。1950年、カトリックの神言神学院に入学。それ以前は代用教員をしていた。1960年、カトリック司祭となる。1981年、カンボジア難民の子供を始めて引き取る。以後1994年まで14人の難民を育てる。
カトリックの神父であり、カンボジアの難民を里子として育てた方がいる。そんな話を聞き我々はとても興味を覚えた。お話を伺いに行った我々に対し、親切に、そして熱心に後藤さんは答えてくださった。
―94年まで、カンボジア難民の里子を育ていてらしたお話を伺いたいのですが。
| 後藤 | ちょうど1980年[1]、カンボジアから日本に難民が来始めたでしょ。僕が初めて里子を引き取ったのは1981年ですから、今でカンボジアと付き合ってちょうど20年くらい。彼らも国の情勢のために成長する段階で色々な痛い目にあってね。非常に苦しんできたし、みんなトラウマ(心の傷)持ってますよ。
最初の子供達2人は大和の定住センター[2]で日本語3ヶ月だけ習って、2人のうち1人は2ヶ月間入院しちゃって、1ヶ月しか習ってないからほとんど話せなかったの。で、小学校3年と5年に入れてもらって。だけど、1年経ったらだいたいもう日常生活に不便がなくなった。僕と子供達の意見の対立もあったし、喧嘩もあったんですよ。でも、それがあったからより分かり合えて良かったね。 |
―具体的には、どのような事があったのですか。
| 後藤 | 面白かったことは、14才で小学校3年に入れられた子が、次の年に4年に行くはずなのにある日ストライキを起こして、「5年にしてくれ」って言い出したわけ。「5年にはできない」って言ったら、「じゃあ学校行かない」と登校拒否に。飛び級の制度は日本に無いでしょ。でも担任の先生、教育委員会や学校側と相談して5年でもいいってことになったのよ。それで3年から5年になったわけです。そのことを校長先生から学校の子供達までみんな知っているわけです。
ところが、それをたまたま神奈川県にいた、あるカンボジア人の家族が聞いて学校に飛び級を頼みに行ったわけです。そしたら、飛び級の問い合わせがその学校から教育委員会を通して文部省にいっちゃったんですよ。それで、文部省は武蔵野市の教育委員会に問い合わせてきたんですよ。武蔵野市の教育委員会は知っているのに、校長のところにまわしてきたんです。で、校長は担任の先生に聞いてきたわけですよ。担任の先生は僕のところに来てね、僕のところに問い合わせが来るかもしれないと。公文書である学籍簿を改ざんし、公文書偽造という犯罪が成立した事になるんですよ。 その時、その先生をえらいなと思いましたよ。教育委員会や校長はどうしても逃げるでしょ。責任を負うのは担任である自分だけだと思い、「このことでもし突き詰められたら認めます。私が改ざんしたんだから」と言ったんです。でも上から何に言ってこなかったし、何も起こらなかった。 |
―里子さんたちのしつけはどういう風になさっていたのですか。
| 後藤 | あんた方知っているかな、カンボジア語で非常に悪い言葉、チョイ・マエってあるわけね。何か失敗したとか、トランプのババが来たとか、そういうときに使うものだと思って、それで僕もチョイ・マエって言ってた。でも、あんまりみんなが笑うもんで、おかしいなって思って。留学生に聞いたんですよ。すると、チョイ・マエの本当の意味はお母さんを強姦するって意味なんだって。だから「とんでもない」って意味あいなんですよ。聞いてビックリしちゃったわけね。それでね、宣言したの。「いいか、チョイ・マエって言ったら一発いくぞ」って。ほうきの柄で尻を叩くんですよ。そうしたら、一週間で言わなくなっちゃった。
しつけに関しては、食べ方でもなんでもここは日本なんだから日本の習慣に従ってくださいと。ただし、君達がカンボジア人として、カンボジア人の間で、カンボジア人のやり方をするのは、それは認めると。僕個人としてはカンボジア人のアイデンティティっていうのを失わせたくなかった。 |
―しつけは難しいですし、特にそれが異文化間だとどちらの価値観を尊重するかという問題もありますしね。他には、何か苦労はありましたか。
| 後藤 | 子供の嘘が分かっちゃった時ね。僕も子供の頃嘘ついた経験があったから。 |
―そうですね。経験が無いとただ怒るだけで、その後のフォローが何にも無くて、叱られ た方はすごい怖い思いだけが残りますから。
| 後藤 | ある日、子供達の部屋に入ったら、ゲームの説明書があったんですよ。僕はそんなにお小遣いあげてなかったんです、月千円か二千円かな。誰が買ったか聞いたら、一人が「僕がお小遣いを貯めて、三千円で買いました」って。で、僕は「でもこれくらい高価な物買うときは僕に相談せいよ」って言って。それで、その説明書もって近所のデパートをまわったら、あったんですよ。値段を訊いたら、五千円だったんです。「ははあ、嘘言ったな」って。
どこからお金が出たのかという問題があるでしょ、だって生活費の中からくすねたかもしれないんですよ。当番で自炊してましたからね。ただ、僕は出納帳渡しただけで、ちゃんとチェックしてなかったんです。それで子供の担任の先生に、そのことを話したら、その先生は、「それはあなたも悪いですし、子供をとことん突きつめないで下さい。何故ならば、あなたの家にはお母さんがいない。あなたが叱っても、たいていの家庭では子供はお母さんに逃げるし、お母さんが助け舟も出しますが、あなたのうちにはそれがない。今回は、このままにしていたらどうですか」って言われたの。 |
―子供の事や、その環境まで考えてくださっていて、良い先生ですね。
| 後藤 | 良い先生、沢山いたんですよ。校長先生に特別に許可もらって、放課後うちの子供達に日本語教えてくれた小学校の担任の先生もいます。それから、中学校の時の先生は、朝日新聞の天声人語を使って、分からないことや漢字を教えて下さって。 |
―当時にしても難民の子供は珍しかったと思うのですが、そのことでいじめなどはあった のですか。
| 後藤 | ある時うちの子が泣いて帰ってきたんですね。それで、聞いてみたら、「お前みたいな卑怯な外国人は国へ帰れ」って言われたと。僕は、その時の担任の先生に言ったんです。これはただのいじめじゃなくて、民族や人種に関わる問題です。しかも難民として、追い詰められた気持ちで日本に来て暮らしているのに「国に帰れ」なんてそんなひどいことはないと。そうしたら、その先生が言った本人を呼んで、「バカヤロー!!」ってバーンって殴っちゃったわけですよ(笑)。そしてその子のうちに電話をかけて、お宅の子供をこういう理由で殴りましたからよろしくって(笑)。先生の方から先手を打っちゃうわけ。いや〜、良い先生いっぱいいましたよ。
ただやっぱりいじめっていうのは、いじめられた本人達にしてみればとっても苦しいですね。自殺しようと思った子もいたんですよ。いじめがあんまり苦しくて、僕にも言えなくて、自殺しようと思ったことがあったと、後で言ってましたけどね。 それは、私達日本人が、外国人に付き合っていくときにね、どうしても白人ばかりに顔を向ける。そして、アジアの人たちに対して非常に見下すという、悪い習慣が子供達にも出るんでしょうね。 |
―むしろ肌の色が近いから、区別がなさそうな感じがするんですけどね。
| 後藤 | 多分、国を捨てた卑怯者なんていうのは、親が言ったんじゃないのかな。親にしてみれば、難民が入って来て学校の勉強が足引っ張られてたまるかって。
でも、その中学校はすごく荒れてたんですけどね。うちの子供が学校のボスに一発ボーンとやってから、学校一のボスが彼に挨拶するようになったんですよ。その時までね、そのボスが廊下を歩くと、先生すら避けたそうですよ。だから、結果として先生方から誉められましたよ。お宅の子供達いい子供ですねって。ハッハッハッハ(笑)。 |
―男の子と、女の子を育てるのでは、また別の難しさがあったと思うのですが、女の子の育て方に関してはどうしてらしたのですか。
| 後藤 | 最初に引き取った娘が来たとき、あの…僕、気がつかなかったんですけど洗濯物に女物の下着がぶら下がるわけでしょ。うちの男の子達もみんな年頃だしさ。初めて見るブラジャーだのパンティーだのにムチムチするのかなあ、なんて。そしたらその子がタオルで洗濯物を囲んだんですよ。「おっ、分かってるじゃないの」って、でも一週間たったらタオル外れちゃって、「お前なんでタオルはずしたの?」…「だって乾かないんだもん!」って(笑)。
ある時、その女の子のパンツが下に落ちちゃったんです。僕は知らん顔してたんですよ。でも3日経ってもそのまんま。ついに「お前一体いつまでここ置くんだ!」って言ったら、この子がバーンッ!ってパンツを取ってね。それから一週間、一切口きかない。あん時アタマきちゃってね、負けてなるものかと思って、一種の戦争でしょ。それから一週間たったら、ちょうどその子が食事当番だったの。そのとき「お父さん、今日何が食べたい?」って聞いてきたの。「勝ったー!!!」って思ってうれしくなって一緒に買い物に行ってさ、「お前、なんかちょっと欲しい物あったら欲しい物買ってこいよ」なんてね。「男の子に言うんじゃねえゾ」なんて、グァッハッハッハッハッハ!(大爆笑)。 でも男の子にはそれが分かるわけ。男の子がね、僕に「お父さん、えこひいきしないでよ」…当っったり前だろう、「お前だって男だ、俺だって男だ、男は男を好きじゃないだろ、女の子の方がいいよ」ってさ、喧嘩になっちゃってね(笑)。いやあ、今思ってみても、楽しかったねえ。 |
―他の女の子達はどうだったのですか。
| 後藤 | 女の子は全部で4人育てたんですよ。そのうち2人は双子で、親も一緒に引き取たんです、そのファミリーをね。
で、その双子は中学校卒業した時にすでに18歳かな。そのうちの1人は親が決めた結婚をして。相手は留学生として来てそのまま帰れなくなって、日本で事業起こしたカンボジア人だったんですけど。それが、彼はバツイチだったんですよ。しかもカンボジアに子供がいるし、仕送りの問題とか。「それは結婚する前に分かってたのか」って聞いたら、「分かってなかった」とかね(笑)。 |
―カンボジアの人は、だいたい仏教徒[3]ですよね。カトリックと仏教の宗教や価値観の違いで、もめたりなんてことはありましたか。
| 後藤 | 無いです。その双子家族に一部屋をあげたんですね。そしたら、たんすの後ろに阿弥陀様の絵が貼って、これは僕に気を遣っているなと思ったんです。
それで僕は、「こんなところに隠さなくてもいいよ」と。僕も親父がお寺の坊主だったからね。気持ちがわかるんですよ。実は僕、30cm位の阿弥陀如来の像を一つ持っていたんです。だから、仏教徒で、信心深い人だったらば丁度いいやと思って仏像をあげたんです。それからは、阿弥陀如来の立像の前にろうそくを立てて、線香を立ててましたけどね。 |
―それでは里子の方には、カトリックの教えを説いたりはなさってないのですか。
| 後藤 | 一切ない。それは彼らが、自分で決めることだから。十四人の中で、一人だけ、洗礼を受けた子がいるんです。それは、本人の希望でやりました。こういう風な関係ですとね、片方は養ってもらっているという、なんかこう…負い目があるでしょ。それにつけこんで「やい、お前、クリスチャンになれ」なんて。こんな卑怯なこと、できますか。…僕は、しません。 |
―里子さんの独立に関しては、どうなさったのですか。
| 後藤 | 高校卒業した子達はみな独立させました。僕は高校を卒業したら出て行けと。それ以上一切面倒見ない。ですから僕のところにきていた子で、大学は5人入って3人が卒業して、2人は中退。みんな定時制で、昼間働いて夜大学に通ったわけね。他の一人は、中学校から定時制。中学校、高校、それから写真専門学校に行ったんですけどもね。全部、定時制。自分で働いて学校に行ったんです。ほかの連中は僕が高校まで授業料出してあげたんですけどね。 |
―94年までに里子さんたちは皆独立したのですよね。では、現在はどのようにカンボジアと関わっておられるのですか。
| 後藤 | 94年から学校を建て始めました。 |
―各地の学校を建てる際に、後藤さんの個人的なお金などを用いていると聞いたのですが、 ぶしつけな質問ですが、そのお金はどうなさっているのですか。
| 後藤 | (笑)金持ちかってこと?大体日本円にして、1教室50万円ですから。6教室300万円でしょ。で、職員室とか便所をくっつけて、一切合財で400万円あればできるわけです。しかも皆、水道、電気、ガスが無いところに作るから、配管工事はいらないし、安いんですよ。屋根と壁、黒板と机があればいい。だから、一年間の僕自身の収入の中から、その分だけまわす。 |
―確かに、1教室50万円ぐらいだったら、学生でも頑張れば建設可能ですね。
| 後藤 | できるね、アルバイトすれば。でもみんな、自分がかわいいし、自分の生活があるし。僕は、今から金ためて何かするつもりもないし。この間から元ポル・ポト派の村に行っているんですけど、そこに学校を一つ作ったんですよ。
何故なら、政府は一切目もくれない。行政区画の外にいるんですよ。それで、「僕にできることで何かしてもらいたいことありますか」って聞いたの。そしたら、「先生一人送ってくれ」と。驚きでしょ。理由を聞いたら、自分達は何も教育受けてないからと、だってポル・ポトはそういう人達利用したわけですからね。家の周りに種蒔いて食べ物作るとか、仕事が本当にほとんど無いんですよ。それなのに、「先生送ってくれ」と言って、感動したわけです。やっぱりあの元ポル・ポト派だった人達ですらも、いかに教育が大事であるかに気がついたかと。 |
―ものを知ってないと仕事はできませんからね。
| 後藤 | けど、すぐ返事できなかったのは、先生送るのにしたって僕が先生になるわけじゃないんだから、州の役人と相談しなきゃいけないしね。だからまず相談しに行って、確かこの9月から行くことになったはずですけどね。その代わりに予算が無いから、給料は僕が払うことになって。僕は行ってくれる先生に、交通費含めて、あと行政区画外に行く危険手当を出して、1年間保証すると。今学校作りは7つ目かな。 |
―学校を建てる際、やはり苦労とかはありますか。
| 後藤 | 僕は、別に肩に力入ってるわけじゃないしね。失敗するかもしれない。例えば学校作りだって一番最初は多分騙されるだろうとか、失敗するだろうとかね。でもやっぱり無責任なのは皆さんからお金を集めて、向こうの誰かにボンと渡してね、これは一番良くないね。 |
―そうですね。使い方がどうなっているか分からないですからね。
| 後藤 | まあ、騙されたり、盗まれたり。木材を盗まれたこともあったんですけど、何か作るのに欲しかったんじゃないかな。でも、盗まれたことを知った一人のおじさんが怒って、バイクに乗ってあちこち回って、ついに盗んだ犯人を見つけて取り戻してきたこともありました。 |
―それはすごいですね。それだけ村の人達の思いも強いということですね。
| 後藤 | でも、それもちょっとかわいそうって言えばかわいそうなんだよ。盗んだのも悪いんだけども、やむを得ず盗んだんじゃないかなと思うと。といって目をつぶっておくわけにもいかんしさ。
だから、うちの子は学校を建てるのに、建築材料持ち込むと、寝袋もっていってその建築材料の間で寝たり(笑)。 それから、今度竣工式する学校は、学校作るまでの間に2回村民集会を開いたんですよ。そして村の人たちと学校が本当に欲しいのか、それから、もし本当に作って欲しいんだったら、労力は、全部奉仕にして下さいと。結局おんぶに抱っこはいかんと。そうしたら、村長さんがみんなの前で、お手伝いの約束をして。それでとりあえず3教室作ったんです。非常に上手くいってね、村の人たちもすごく積極的だったし、それでそのすぐ後に職員室と3教室また作ってね。 |
―学校はどのような資材で作っているのですか。
| 後藤 | 少し長持ちするように、鉄筋で。それから、屋根瓦も普通のものより少し厚めに焼いてもらっているんです。少しぐらい高くても、瓦はカンボジア産を使おうと。
あと、その同じ村で今もう一つ頭を痛めているのは、橋を作ってくれって言われていること。最初に行ったときに、橋のハの字も出なかったのに、3教室作ったら突然橋の話が出てきたわけね。 |
―橋というと、それは村の人達にとってどのような意味があるのですか。
| 後藤 | 生命線なんですよ。30年前に作った木造の橋がぐらぐらしている。それが倒れたら、その村の向こう側に実は畑や田んぼがあるんですが、13の村がその橋を渡って生活してるわけ。もしその橋が流されたら、船しかないでしょ。収穫物を運ぶこともできないしね。完全におしまいなんですけど、僕の仕事には手におえない。州政府は、できないって今まできちゃったからね。あれ見るとさあ、学校やめて最初橋にすればよかったかなぁとね。
ただ、もう一つ援助の問題で僕自身分からなくなってしまうのは、橋はどう見たって本当の話だけれども、色々頼まれるでしょ。本当の話か本当でないのか、あるいは、日本人金持ちだから、金搾り取っとけーとか。日本も、戦後アメリカから援助してもらった時にそういうことがあったわけですよ。それを思うと、そんなに責められないんだけれども、僕達も持ってるものに限度があるから、どこから優先順位をつけていったらいいのかってね。 |
―そうですね、村に必要なものといってもすぐにはわかりませんから。
| 後藤 | まあ、村の人達のよく話を聞くことですね。橋は、2,3年もつかどうかも分かりませんけど。本当に必要だなと思うんです。学校以前の問題があったんだなあと。あれが落ちたらどうなるのかなってね。次の隣の橋まで10キロぐらいあるかな。ですから、遠回りなんか、とんでもないことになるでしょ。そう考えるとね、やっぱり、政府がしてくれなかったら俺がしようかなーとかね。700万、800万円はするでしょう、ちょっとおっつかないんだよな。 |
―他の活動として何をやっているのですか。
| 後藤 | 今ね、バンテアイミンチェイ州[4]の村で、村の校長先生から手紙をもらって1人の女の子を紹介されたの。この子が小学校出たらすぐに売られていくって、すごく頭もいいし、勉強もよくできる素直な子だから、何とか助けてくれないかと。でも売られないですむようにっていうことは、この子の家族の生活の面倒見てくれってことでしょ。子供達が売られていくのは家族のためでしょう。
だからね僕は、この子に高校に行きたいかと聞いたわけね。そしたら、行きたいと言うわけさ。でもプノンペン行かないと高校なんて無いんですよね。それでね、実は僕達プノンペンに宿泊の場所一つ持っているんです。 |
―そこはどういう所なんですか。
| 後藤 | 僕たちシェルターって呼んでいるんでけど。そのシェルターは元々はプノンペンの少女売春街の中から逃げ出した子供をそこにまず隠して、そこから安全な場所に出すという意味で作ったんですよ。
その子はそこに泊まってでも高校行きたいってね。じゃあ、一生懸命勉強して、大学に行かないかってね。そしたら、行きたいって言うわけさ。僕はもし、大学まで入れるんだったら支援すると。ただし、大学出たら必ずこの村に帰ってきて、先生をしてくれよと言った訳です。 そうすれば、村の人達にとってものすごい励みでしょう。村から大学を卒業した人が出てきたとかさ。刺激にもなるし。勉強だって程度が上がるだろうしね。そんなのを僕も夢見てるわけです。 うん、まあ、そうだな、ロマンチストの年寄りが道楽でやってんのかなこれは。ハッハッハッハ(笑)。 |
―カンボジアに惹かれるところはどこですか。
| 後藤 | まあ、かれこれ20年経ちましたけど、20年経っても飽きがこないし、惚れたんですよ。僕はよくバンテアイミンチェイ州に行くんですけど、行くとホント、ド田舎でしょ。村に入ってると、懐かしいというのかな。僕ら生まれたのは昭和の一桁ですけどね。その頃の田舎とそっくりで、だから好きだって言うのは、一種の郷愁かもしれないね。 |
―これからはどういう活動をなさる予定ですか。
| 後藤 | 僕は今、現地で、NGOを育てたいんですね。決して、日本人が何かやるんじゃなくて。現地の、心有る人たちをNGOとして育てて行きたいわけ。僕が関わっているNGOで常勤しているのは、私の息子と、もう二人ですね。あとは、必要なときがあれば来てくれると。
あと、NGOで車持たないのは僕らだけじゃないかな。それで僕は、とりあえず一年間、学校を作らない。学校を作る代わりに四輪駆動車を買おうと。それをやって、その次に橋にするか、橋はもう手を出さないか。手を出さなければ、学校かなと。 学校だと、日本人はみんな納得するんですよ。でも学校だって橋だって、本当は州政府なり地方自治体がやるべきなんですよ。で、実際には学校と橋とどっちが大事かって、これは橋の方が大事だって。つまり、生命線ですからね。 |
―そうですね、十年後よりも、まず二年後の方が大事な場合もありますからね。
| 後藤 | そう。それを考えたときにね、僕は「橋だ!」って思ったんですけども。日本へその問題持ってきますとね、説得力が無いんですよ。 |
―日本だと、橋の価値が分かり難いかもしれませんね。
| 後藤 | そう。でも行って見ると本当に分かる。橋ですよ。橋が、あの橋が(無いと)…。あの13の村の人達は生きていけない。
それからもう一つは、イスラムの村。カンボジアの中は仏教が強いですからね。イスラムは後回しにされるという村の人達の苦情を聞いたんですね。それで、僕はイスラムだろうがなんだろうが関係ない、その村の人達と二回話し合いをして、学校を作る約束をしたんです。でも、もう一つの日本のNGOグループも同じ約束をしていて。我々はまだ、他にやるべき所もいっぱいあるから、そちらのNGOにお任せしたんです。そしたら、この間行ったときに何もしてなくて。だから、何故してないのか、調べて、もしそのNGOが何かの理由で、手を引いたんだったら、我々が考えてもいいと。 |
―こうやって続けていくわけですね。
| 後藤 | 僕は、右往左往しながらね、試行錯誤。たまたま、出会ったお寺のお坊さんに泣きつかれて造っちゃったとかね(笑)。そういうやり方ですよ。だから、道楽だねえ(笑)。しかし僕はこんないい道楽は無いなあ、と思ってるね。
ただ、まあ僕だって、一年分の年収全部つぎ込みますけど、足りない。足りないんですけどね、またいろいろな人が手伝ってくれるんですね。 |
―後藤さんのお父様は仏教の僧侶なんですよね。それで、何故神父さんになろうとお考えになったのですか?
| 後藤 | それはねえ、戦争が終わる二週間前に爆撃で母と、弟二人と妹と同居のおばを亡くしたんです。とても苦しくて辛かった日々を過ごしたんですけれども、その後東京に出たんです。そこで、いわゆる戦災孤児といわれた子供たちを初めて見たとき、僕、すごいショックを受けたわけ。それまでは「どうして僕だけこんな目に会うのか」って思ってた。そしてあの子供たち見たときに「えっ!何でこの子供達だけ、こんなに悲しい思いをするんだ」って。
で、俺は生き残ったんだから、その人達のために生きると。やっぱり難民だけじゃないですね。本当に苦しい立場にいる人達のために、働かなくちゃいかんと。そのころカトリック教会に行き始めてて、その教会の神父に「ああ、そりゃあ神父になれば一生涯できるぞ」、なんてね。「ああ、そりゃいいや」ってわけで、入っちゃった。 だから、今だってアフガンの子供達、難民を見るのが辛くてね。駆り立てられるんですよ。その原点って何だというと、やっぱりあの戦争体験なんじゃないかな。同じようなことを、どこかの国でね、また、やらかす!また、始める!ってね。我慢できない。 |
―その体験が後藤さんの活動の源になっているわけですね。
| 後藤 | 今じゃほら、トラウマって言葉はよく聞くけど、昔はトラウマって言葉、知らなかった。そして、PTSD(Post-traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス傷害)ね。僕にそれがあるってこと、気がつかなかったんですけどね。
毎年、終戦記念日の二週間前なんですよ。毎年八月の一日になると僕はもう、辛くて、苦しくて、仕事が出来なかったわけ。今は八月一日になると実家に帰る。お墓参りをして。目をつぶって五十六年前を思うわけさ。…それが多分、一つのエネルギーになるのかな。 だから、出発点っていうのは、いつも1945年に戻るんですよ。世界中のあちこちに生まれてきている沢山の難民と呼ばれる人達、今だって、パキスタンとイランに400万いるでしょ。この人達は生きていけるはずなのに。だから本当に平和というものは、つくれるのだろうか。あるいは、悲観的なものなんだろうかってね。 |
―人の不幸と幸福が表裏一体になってることもありますし、難しいところですね。
| 後藤 | そんな欲を出して、世界中とまでいかなくともね。カンボジアだけでもいい。カンボジアだってまだまだ、多分アジアで、一番貧しい国の一つでしょう。でも別に大金持ちの国になれとは言わない。ただ、本当に素晴らしい、クメールの微笑をたたえた人々がこう、貧しくってもね。本当に人間が愛し合っていけるならばいいなって。僕はむしろ、富んでる方が危ないって思うもの。不思議なことにね。田舎に行くと、貧しい人達のほうがお互いに助け合うよね。 |
―カンボジア語を学ぶ学生達に何かメッセージをお願いします。
| 後藤 | カンボジアとどういう関わりをするのか。経済に関わるのか、とかさ。まあ誰の将来もわからないんだけれども。でもね、僕はあなた方にお願いしたい。確かにカンボジア語なんてさ、他人は何でそんなもの勉強するんだ、なんて言うかもしれないけどもね、やって欲しい。そして、やはり言葉を勉強するときに、その国の人たちを尊敬すること。これが一番大事だと思うね。
僕はカンボジアに行っても、どんな田舎のおばさんとでも出会ったらうれしいし、あいさつする。そしていつも尊敬の気持ちだけはね、僕自身持ちつづけたいんですよ。 |
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