Tokyo University of Foreign Studies
東京外国語大学【2001年度カンボジア文献講読ゼミ】
カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜
聞き手:田村道子 会田敦子
文責:会田敦子
2001年6月16日 三鷹駅喫茶店にて
【五味喜久子】
1935年生まれ。津田スクールオヴビジネスを1958年に卒業。その1週間後に、戦後初のカンボジア留学生として来日していたユン・リー・セン氏と結婚。翌年、1959年にカンボジアへ渡り、一男三女を出産。1974年、カンボジア国内の情勢が不安定なため、一時日本に帰国。1975年ポル・ポト政権が成立し、カンボジアへ戻れなくなる。一足先にカンボジアに帰国していたご主人は消息不明に。ポル・ポト政権崩壊後の1980年、ジャーナリストの本多勝一氏とカンボジアへ。日本に帰国後、日本電熱計器株式会社貿易課に15年勤務し、退職。現在に至る。
6月16日10:30、三鷹駅の喫茶店で五味さんへのインタビューを開始!さっそくテープに録音という私たちに、「まずはケーキを食べてから」と五味さんは微笑んでくださった。これからどんなお話が聞けるのだろうと胸が高鳴った。
―ご主人と知り合ったきっかけは何ですか。
偶然、学校の友達がカンボジア人学生と知り合い、友人何人かと一緒に会ってみようかということで、ほんとに興味本位で。当時は、カンボジアがどこにあるのかも知りませんでした。はじめは、お友達として付き合っていたのですが、会う機会が多くなるにつれて徐々に愛が芽生えたって感じかな(笑)。今思うと、始めは主人の方が私に関心を寄せてくれていたのかなと思うの。
―ご主人はどんな方でしたか。
同じアジア人だから、考え方とか根本的には似てるんですよ。彼のいつも家族、友人を思いやるきめ細やかさに惹かれました。会うときは何時も、これから投函する手紙を何通も持っていました。返事も頻繁に来ていたようです。それと、食事のマナーがとても上品で、箸だけでなく、ナイフやフォークもとても優雅に使いこなしていたの。
―お二人のご結婚に対してご家族の反応はどうでしたか。
私の両親は初め反対でした。彼のことはいい人だと、素敵な人だとは思っていたようで、もし日本人であったならば、本当に「のし」つけてあげたいほどだって(笑)。けれど、ベトナム戦争と合わせてカンボジアでも何か起こるのではないか、もしそのとき私が結婚してカンボジアに行ってしまっていたら、遠く離れた日本にいる自分たちは助けてあげられないという心配があったと思います。本当はね、学生結婚したいと考えたりもしました。あと1年で卒業だったので、学校をやめる覚悟があれば別として、とにかく1年婚約期間としてよく考えてみなさいと言われました。で、卒業して1週間後に結婚しちゃった(笑)。
―カンボジア人男性と結婚することになって、新聞にも載り、どんなお気持ちでしたか。
偶然、結婚した相手がカンボジア人だっただけで、別に彼が外国人とかそういうのは全然気にしていませんでした。結婚式は明治記念館で厳かに行ったの。カンボジアの大使が仲人兼親代わりになってくださってね。日本人がカンボジア人と結婚するのが初だったから、朝日新聞か何かで記事になったの。
―ご結婚して1年後にカンボジアへ渡りますが、言葉の壁はありましたか。
主人ものんきな人で、日本にいる間、カンボジア語を勉強しろとは少しも言わなかったですね。だから、私はカンボジアに行って、初めはカンボジア語で「こんにちは」さえも言えなかった(笑)。主人と結婚生活に入って1年も経っているのに、何にも話せなかった。主人も、そんなことは別に向こうに行けば必然的に覚えるから必要になったときに覚えたほうが、効果があると思ったんじゃないですかね。「ありのままでいい」って言われたから、カンボジア語ではなく、日本語で「こんにちは」と言ったのよ(笑)。
―見知らぬ外国への不安などはなかったのですか。
カンボジアに渡るとき、実はもうお腹に赤ちゃんがいたの。産んでから行こうかなとも考えました。でも、お医者さんに聞いたら、今だったらまだ出産の時期ではないから、母子共にカンボジアに渡っても安全だと言われたの。で、結局、主人と一緒に行ったほうがよいということになってついて行きました。私ももう、向こうの土になるつもりで(笑)。日本に帰ってくるとは夢にも思いませんでした。赤ちゃんのこと以外には、何の心配もありませんでした。主人が一緒に行ってくれれば大丈夫だと信じていました。
―カンボジアでの生活についてお話していただけますか。例えば苦労話など。
当初、私たちはクラチエ州のチュロン市という地方にいました。色々大変だったと思いますが、若かったし、無我夢中だったから、今はそういった苦労などはあまり覚えていないです。
強いて言うなら、子守の話ですね。カンボジアの人たちは子守をつけ、その子に買い物も頼むの。主人にキュウリ、トマトだとかをカンボジア語で書いてもらって、それに日本語訳をつけといて、子守にあれこれ買ってくるように、私がカンボジア語で頼むの。でも上手く発音出来なくて通じないの。で、絵を描いて説明するけれど、別の物を買ってくることがよくありました。だから、最初は子守だけでなく、お手伝いさんも使いたくなかったから、昼食と夕食は料理屋さんに料理を注文して、届けてもらっていました。
子供も5、6か月までは自分で世話をしていたの。カンボジアでは、出産すると直ぐに、乳母や子守に赤ちゃんを世話させる人が多いの。だから自分でみるなんてことは、考えられないって言うの。でも、私は自分の子供は自分でみたかった。とは言うものの、少し大きくなると、子供が家にいたがらなくなって、私だけでは見きれなくなったので、やっぱりこれは子守をつけなきゃいけないってことで、子供全員につけましたよ。4人の子供たちそれぞれに(笑)。
でね、実は長女 の子守は、長女が大きくなって手がかからなくなってからは、料理人の手伝いをしていました。長女はこの子守を慕っていたので、学校から帰れば直ぐに料理場に行き、おやつを食べたり、手伝いをしたりと…。娘が料理に興味を持ったのは、この頃からかもしれないわ。
―カンボジアの食べ物はいかがでしたか。
家のすぐ近くを流れるメコン川には、それこそ石を投げれば魚が飛び跳ねる程の色々な種類の魚がいました。それにとても新鮮だったの。私は魚が全然好きでなくて、日本でも食べる魚の種類が決まっているぐらいなのに、カンボジアの魚はなんでも食べられるの。体が必要としていたのかな?物価も安いし、食べ物も豊富で、本当に天国に近い国かと思いましたよ。大使館の方とか、カンボジアにいらした商社マンの奥様方も、カンボジアってなんて住み良い所でしょう、日本へ帰りたくないなんて、冗談じゃなく、本気で言っておられたのよ。生活が楽だったのもあるし、カンボジア人の人間的な、おとなしい性格が好きになってしまうのでしょうね。
―お子さんたちにはどのような教育をなさっていたのですか。
たいてい、カンボジアの人たちは、子供をフランス系の学校に通わせるのね。主人の仕事の関係で、最初、私たちは地方に住んでいたの。で、私たちの子供も成長して、学校に入る年頃になった時、私は今まで通り、地方で主人と住んでいたかったの。でも、首都のプノンペンに引っ越して、子供たちをフランス系の学校に入学させたほうがいいとほとんどの人が言った。主人のお友達も、家族も、「どうしてプノンペンに住まないの?」って、私に尋ねたわ。カンボジアの人たちは、子供の教育にはそれがいいと思うみたいだけど、私はそうは思わなかった。主人はカンボジア人で、私は日本人、子供はフランス系の学校に通うなんて中途半端だと思うの。子供たちは、純粋なカンボジア人ではないわけでしょ?それなのにフランス系の学校に通ったら、本当のカンボジア的な教育を受けさせてあげられないことになるわけよね。これから本人がカンボジアで生きていくのなら、カンボジア人との付き合いがなければマイナスかなと思ったの。それに、子供がまだ小さいときは、両親と一緒に生活するのがやはり一番大切なのではないかと思いました。だから、地方でいいと、田舎の学校でいいって言いました。
カンボジアで一番生活が安定するのは、政府の仕事に就くことよね。例えば、もしフランスに留学していたとしても、カンボジアで、ある程度の学歴がないと就けないのよね。実際に政府の仕事をしていても、海外の大学をでてきた人の中には、カンボジア語の読み書きができない人がいるの。必要性がなかったらだと思うけれど。でもそれでは、真のカンボジア人ではないと感じたの。きちっとカンボジア語を覚えられなかったら、ハンディになると思いました。主人も同じ意見だということで…。私は日本人かもしれないけれど、子供たちにはカンボジア語をきちんと話せて、カンボジアのいいことも悪いことも知っていてほしかった。
カンボジア人の中には、1953年の独立から1970年まで続いたシハヌーク時代のことを、「古き良き時代」と呼ぶ人がいる。カンボジアは、1970年のロン・ノルクーデター以後、王政から共和制になり、共産主義勢力が地下活動を始めるなど、国内に緊張が走る。当時、この政治的混乱は、一般の人々の生活にどのような影響を与えたのだろうか。
―ロン・ノル政権時代の生活は何か変化がありましたか。
ロケット弾がたくさん飛んできましたね。計画性がないのか、狙いが狂っているのか分からないのだけど、市場や学校、民家、またはお寺に落ちたりして、予想ができないの。ロケット弾は、共産党勢力が飛ばしていたのね。雨季には自分たちの居場所が判明すると、移動手段がなくて逃げられないために、あまり飛んでこなかったけれども、乾季だったら逃げ道があるので非常に多かったです。ロケット弾というのは、ぴゅうっと飛んで来て、一番先に触ったもの、それが葉っぱであろうと、触ったところで破裂するの。だから、二階に寝室と子供部屋があったけれど、怖いからということで、寝るところを下に移しました。抱き枕のようなものをベッドの上にいくつか重ねて、屋根にロケット弾が当たって破裂しても無事でいられるようにして、みんなで寝ました。薬や、ちょっとした食べ物を置いといて、いつでも逃げられるようにしていました。そんな状態がしばらく続きましたね。最終的には子供たちも、もう学校に行かせなくてもいいかなと考えました。それよりも、もし何かあったときに、みんな一緒にいられた方がいいかなと。
当時は、地方から続々と難民がプノンペンに流れてきて物価は高騰しました。ラジオでは鶏やガチョウを飼うことを奨励していました。何か起こった時に自給自足を強いられる可能性があるからだと。私の家でも、鶏とガチョウを飼いました。今まで飼育経験のない私たちは色々なことを知りました。ガチョウが犬と同様に留守番役をするとかね。ガチョウは誰彼かまわず人がくると、ガアーガアー鳴きわめき、家の人に知らせてくれたりするの。でもね、慌てると孵ったばかりの自分の雛を踏み殺してしまうの。それを見て、もうガチョウは嫌い、飼いたくないと言った子供たちのことを思い出しますね。
あとは、今まで仕事で帰りの遅かった主人が外出禁止令のために、家にいる時間が多くなりましたね。そんなとき主人は、子供たちの爪を切ってやったり、一緒にカルタみたいなものや、なぞなぞをして遊んだり。そうなる前も、帰ってきたら寝顔を見てから必ず寝るとか、子供たちに100%の愛情を注いでいましたけれど、今考えたらあの時期が子供たちとの深いコミュニケーションの時間だったのかもしれません。
―日本に一時帰国することになったのは、どのような経緯だったのですか。
カンボジア国内がどんどん不安定になっていくこの時期に、主人が仕事で日本に行くことになったので、家族でしばらく日本にいた方が良いという事になったんです。自分たちだけで逃げるつもりはなかったのですが、周りにも勧められました。長くても2、3か月くらいだろうと、それこそ旅行気分で。本当にすぐ帰るつもりでしたから、こんな風に引き上げてくるのだったら、少しくらいは財産を処分して、持ってきていたかもしれません。でも、あの当時は全く予想していませんでした。で、主人も時間が取れたので、タイ、マレーシア、台湾に寄りました。台湾は、たまたまお正月にあたったので、ほんの少し滞在してその後に日本へ。
私はね、日本に来たらお土産ばかり買っていました。頼まれたものがいっぱいあったから。主人は仕事が終わって、一足先にカンボジアに戻って様子を見ていました。長女は、日本で遊ばせておくのも可哀想という事で、聴講生として私立の学校にお世話になっていました。下の子たちは、日本語もろくに分からないので、小学校に預かってもらえるよう、お願いしました。子供が帰ってくると、私が「あいうえお」から日本語を教えました。
―ポル・ポト政権成立後、カンボジア国内と連絡が取れなくなったそうですね。
その頃はどういう状態なのかわかりませんでした。カンボジアで親しくしていた日本の新聞記者の人達からいろいろな事を教えてもらっていたの。たまたま主人が日本人のジャーナリストと関わりがあって、みなさん心配してくださって。だけど私は、きっと主人だけは無事だと思っていたの。主人は若いし、体も弱い人じゃないし。本当に、死ということは絶対に考えなかった。そしてベトナム軍がカンボジアに入って、ポル・ポト政権が崩壊した。主人はすごく手紙を書くのが好きでまめな人だったから、きっと手紙を送ってくるのではないかと思ったの。毎日ポストに手紙が届いていないか調べましたね。ともかく元気であるってことだけでも、どこにいるって、それだけでもいいから手紙が来ないかと、主人からでなくても噂であろうと何らかの情報が入るだろうと、信じていました。主人が生きているという証がほしかった。
でも周囲の人たちの話を聞いていて、もうだめかなという気持ちも無くはなかった。実際にカンボジアへ行ってきた新聞記者の方から、ひどかったと聞いたりしました。人間の髪の毛で雀の巣ができているとか、川辺に子供の靴が置いてあったとか。自分の子供の運動靴なんか洗いながら、カンボジアの子供たちがどんな死に方をしたのだろうと思うと、他人事じゃありませんでした。それでも主人は何らかのかたちで生きてるかなって思っていました。強制結婚させられて、素敵な奥さんがいるかもしれないとも考えた。でもそれが彼の生きる手段だったのなら仕方ないし、それはそれでいい。子供がいたとしても仕方ないって思った。
―1980年に本多勝一氏とカンボジアへ行った際のお話を聞かせてください。
想像以上でしたね。もう、ここまで徹底的に破壊されてしまったのかと思いました。話は聞いていたんですけどね。今まであった車だとかエアコンだとかそういう電気製品は全部中国に送って、代わりに武器をもらっていたんですよね。お米も作れ作れといって、あれだけ人口が減少しているから、普段通りお米を作っていれば十分お腹いっぱい食べられたと思うんだけど、全部中国に送っていたから自分たちは食べられなかったのね。
あんなに物がきれいさっぱりとお掃除されたみたいにないなんてね。民家の台所に入るとね、水がめが1つとへんちょこりんなアルミのお皿があるだけなの。それぐらいしかなかったの。でも、ここで、こんな状態で、なんとか生活している人たちがいると思うと、生命力ってすごいなと感じました。地方に行ったとき、これだけ物がない状況であるにもかかわらず、みんなが生活しているという、命の尊さをつくづく感じました。人間の強さというか…。
カンボジア人って非常にお人好しというか、人に対して物を施すのが好き。お坊さんに対しても、目上の人に対しても敬意を払って接する。私たちがいろいろな村を訪れたときも、自分たちの生活で精一杯のはずなのに、ありったけのごちそうをしてくれるの。これが最大限のもてなしだとわかるような料理。本当に気の毒だった。中身がどうのというのではなくて、心ですよね。そういう、相手に対するやさしい心は失われていないと感じて、すごく嬉しかったです。
―カンボジアに滞在中に何かご主人の情報は得られましたか。
私が本多さんとカンボジアに行くときに、主人が生きていて、飛行場で働いているという噂を聞きました。もしかしたら、生きてはいるけれど、記憶喪失とかになって連絡できないのかもしれないと思ったの。だから飛行場ではキョロキョロしてしまいました。で、今度実際に町や村に入り、こんなに何もかも破壊され、プノンペンの人たちは地方で生活するとしても、病気になったら免疫がないし、休みなく働かされていたのなら、これはもうだめなんだって思った。あきらめの心境になりました。子供との会話の中でもね、ポル・ポト政権の実情が判明するまでは、お父さん何してるかなと話したりしていたのに、ポル・ポト政権崩壊後は父親の話はひとつもでなくなりました。私も主人のことを話したくなかった。「お父さんもうだめなのね」って言葉にしたくなかったの。それまでは頻繁に父親の話を子供たちもしてきたのにね。
―カンボジアから日本に戻り、再出発というところで、何を優先してお考えになりましたか。
子供たちのことですね。初めて責任を感じました。親としてどうしようって(笑)。今まで実家におんぶに抱っこでしたから。子供たちはまだ小さかったし、私が教えていたものの、日本語が上手でないために、学校にもついていけないと思いました。学校を卒業してすぐ結婚したために、私自身、社会経験というものがありませんでしたし…。
とりあえず実家に居候させてもらいました。母が最低限の生活は保障してくれました。大事な子供たちなのだから、金銭的なことは心配しないで子供に全力を注ぎなさいと母に言われました。そして実家に5年間居候したの。だから寂しいっていうのはなかった。実母がいて、弟夫婦とその子供が2人、私たち5人の、10人家族。とてもにぎやかでした(笑)。子供たちの学費や養育費は母や兄弟の世話になりました。だから、母は、自分の子供に、喜久子の子供たち4人を合わせて、自分は9人も子供を育てたって言っています(笑)。
来日当初は、子供たちに日本のことをいっぱい学んでほしいと思って、私の出来ることは限られているけれども、遊園地であろうと、温泉であろうと、チャンスがある度にどこへでも連れて行きました。日本に長く滞在するつもりでなかったので、少しでも早く日本の生活に慣れ、日本語が話せるようになればと、出来るだけカンボジア語は話さないようにしました。カンボジア語を忘れさせたいのではなくて、日本語も覚えてほしかったんです。だから、長女が一番カンボジア語を覚えていると思いますけど、子供は覚えるのも早いけれども、忘れるのも早いものですね。長女は別として、ほかの子供は母国語を思い出すのに大変苦労したようです。
―15年勤務なされた日本電熱機器株式会社とは、どのようにして出会ったのですか。
カンボジア人の方に紹介していただいたの。その方は軍人で、たまたまパイリンというタイ国境の山地に駐屯していて、ロン・ノル政権崩壊と同時にタイ国境に避難して、それで命が助かったわけね。ポル・ポトは、知識人や軍人を真っ先に殺したでしょ。だから普通だったら、一番先に大変な思いをするはずの自分が、軍人でありながらも助かったと思ったみたいなの。全然軍人でもない主人たちみたいな人が犠牲になって…とね。それで、その方は私たちに、ずいぶんいろんなかたちで援助してくれて、この会社も紹介してくださったの。カンボジア人の家族を何世帯か雇っている会社でね、社長が本当に心豊かで、寛大で、ご自分も第二次世界大戦のときに苦労したらしいの。カンボジア難民のニュースを見て、カンボジア難民を雇ってくださって、私にもぜひお手伝いしてほしいと言ってくださったの。貿易課に席を置き、工場で働くカンボジア人や、その家族の世話をしてあげるようにとの社長命令だったの。
―現在はどんなことをなさっているのですか。
私、三鷹に住み始めてから17年も経つのだけど、三鷹のこと何にも知らないの。だから、まずは三鷹を知りたい、地元の人とお友達になりたいと思っていたの。たまたま、市報に、フォークダンス募集の記事があって、定年退職の日からフォークダンスを始めました。もう5年になります。沢山の友達ができました。コーラスも、始めてから5年になります。
―今もカンボジア語を使っていらっしゃいますか。
全然使ってない。使う必要がないですし。昔は実際に「カンボジア人とお付き合い」があったんだけれど、今はカンボジア人だからというように意識しての付き合いではなくて、カンボジア人には会っても、日本人的な付き合い方。昔は何かお手伝いしてあげたいっていう気持ちがあったのだけど、今はもう人間対人間の付き合い?そういう感じです。
―今後カンボジアに行きたいとお思いですか。
息子がね、カンボジアで生活したいと思っているのね。永住したいって。そうなれば、必然的に私も行くだろうと思う。それに、主人の供養を向こうではしていないので、みんなで行って供養したいなと思います。一応日本でそれなりに供養させてもらっているのだけれども、主人はカンボジア人ですし、やっぱり亡くなったカンボジアの地で供養したいって気持ちがあります。本多さんとカンボジアへ訪れて以来、まだ一度もカンボジアへ行ってはいませんが、私は今もカンボジアと切れていないと思っています。主人との思い出がつまったカンボジアとのつながりは一生続くと思います。
ロン・ノル時代に人々がどんな生活をしていたのかなど、カンボジアについて勉強しているものの、知らないことがたくさんあった。当時、カンボジアというあまり知られていない異国に、ご主人を信じて渡るというのは、とても勇気のいることだろう。ご主人がカンボジア人で、ご自分が日本人であるために、子供に中途半端になってほしくない、カンボジアの全てを知ってほしいという五味さんのお気持ちが、印象に残った。
長女の千恵さんはカンボジア料理の本をお書きになり、息子さんも、カンボジアのために何かをしたいと、現在カンボジアにいらっしゃるという。幼い頃に、日本に戻り、日本語を教わり、日本で生活するようになっても、やはりカンボジア人の血が流れていることを大事にし、カンボジアと関わっていこうとしている。その人の原点が人生に大きな影響を与えるということを強く感じた。
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