Tokyo University of Foreign Studies
東京外国語大学【2001年度カンボジア文献講読ゼミ】
カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜
聞き手:茅根明子 福冨まゆ
文責:茅根明子
2001年5月15日 福富さんの自宅にて
【福富友子】
1962年生まれ。日本獣医畜産大学を卒業後就職する。1989年初めてのカンボジア旅行後、カンボジア語を習い始め、1994年1月からカンボジアの首都プノンペンで生活をはじめる。ジャーナリズムの手伝い・通訳の仕事を続けながら、1997年12月にはシェムリアップに移る。2001年5月に「カンボジア伝統影絵復興会」を発足する。カンボジアの影絵芝居の保存・復興に携わっている。
2001年5月15日、インタビュー当日は日差しが強く、まるで真夏のような天気だった。私達は、福富さんのご自宅近くのバス停留所で下車し、電話をかけて途中まで迎えにきていただいた。福富さんは、涼しげな半そで姿で、にこやかに迎え入れて下さった。ご自宅では、福富さんのご両親までわざわざ挨拶に出てきて下さり、ますます緊張してしまった。通していただいた和室の部屋には、いくつか影絵の人形が飾ってあり、特に障子に差し込む陽の光に当たった影絵人形がとても美しかった。
―日本獣医畜産大学を卒業されていると伺いましたが、獣医という道には進まずに、カンボジアに関わるようになったのはなぜですか?
小さい頃から獣医になりたいという夢があったんです。そして単純に動物が好きという思いで、日本獣医畜産大学に入りました。大学を卒業した後は、動物関係の仕事に就きました。でも、喘息だったので実験動物の飼育の仕事などが体に合わず、1年半くらいでやめてしまいました。それから、畜産関係の専門雑誌を出版している会社に勤めました。その時に初めてカンボジアに旅行したんです。でも別にカンボジアの畜産のことが知りたいとか、全くそういうこととは関係なかったんです。その当時ふと昔の自分を振り返ることがあって、それがまず旅行に出ようとしたきっかけであり、最初のカンボジアとの出会いでしたね。
―カンボジア旅行に行くそのきっかけとは、具体的にどのようなものでしたか?
私の父は、ベトナム戦争[1]の頃に戦争の反対運動をやっていました。当時私は幼稚園や小学校低学年の年頃でしたが、そういう運動やデモによく連れて行かれたんです。戦争の写真とかもよく目にしていて、すごく恐くて、夜もドキドキして眠れないことがありました。でも、中学、高校、大学時代には、クラブ活動をしたり、友達と遊んだり、学生生活をすごく楽しんでいました。だから、幼い頃は身近に感じられた市民運動のようなものからは興味が薄れ、結局何の縁もなく過ぎてしまったんです。ところが、それからだいぶ経った1989年の昭和天皇が死んだ時、たくさんの儀式が行われましたよね。それについて、疑問を持たずに天皇は敬うべきと考えるほうが普通に思われていましたが、私はそこで疑問を持ってしまったんです。実際、天皇制反対の運動なども盛んになっていました。そういう運動を見ているうちに、昔連れて行かれていた市民運動のことなどを少しずつ思い出していました。
そんな時、『朝日ジャーナル』という雑誌をぱらぱら見ていたら、"ベトナム・カンボジアツアー"という記事がパッと目に飛び込んできて、ベトナム戦争当時の思い出がはっきりよみがえってきたんです。写真を見て恐がっていた幼い頃のことを。「子どもの頃、ベトナムからあれ程いろいろなショックを受けたのに、その後ずっと忘れていた。これは見に行かなきゃ!」という思いに駆り立てられたんです。そんなにちゃんと考えた訳じゃないんですが、なんか胸がこうザワザワするような気持ちになって…。それで、その"ベトナム・カンボジアツアー"に参加しました。だから、その時はベトナムに行きたくて、カンボジアはついでという感じでした。アンコールワットが何かも知らなかったし、ポル・ポト時代に何があったかも当然知らなかった。カンボジアには、ほんのついでのつもりで行きました。
―「ついでのつもりのカンボジア」で、何かカンボジアと関わるようなきっかけがあったのですか?
ツアーは、タイ・ベトナム・カンボジアの3ヶ国を訪れるもので、2週間くらいの旅でした。「ベトナムを見たい」と思って参加したけれど、具体的に何をどう見ていいかもわからず、実際ベトナムで何を見てきたかはあまり覚えていないんですよね。カンボジアには陸路で行きました。プノンペンでは通訳の人が2人付いてくれて、そのうち1人が外務省のカンボジア人女性で英語-カンボジア語の通訳でした。でも、ツアーの参加者はみな英語がほとんど分からず、せっかくその通訳の女性が話してくれても、なかなか英語を理解できない。通訳も困ってしまいますよね。その中でもまだ私の方が、どうにか英語を使えるという位だったのね。だから女同士ですし、お互い一生懸命いろんな話をしていたら、彼女が身の上話をしてくれました。どういう話かというと、「ポル・ポト時代の前に、結婚を約束したカンボジア人男性がいたけれど、内戦の混乱ではぐれてしまい、消息が分からなくなってしまった。そのまま内戦は終わり、仕方なく他の兵隊と結婚した。でも、最近になって元の彼が、タイ国境からアメリカに逃れていたとわかり、さらに、まだ君のことを愛している、という手紙ももらってしまった。でも今の主人と別れる訳にもいかないから、すごく悲しいんだ、辛いんだ」という話でした。それをかみくだいた英語でゆっくりゆっくり話してくれて、「そんなことがあったんだ!」と、とても衝撃を受けました。でも、ポル・ポトや内戦の事は以前新聞でチラッと見たくらいで興味を持っていなかったので、後悔もしました。だから、もっともっと彼女と話がしてみたいと思った訳です。でも、そのためにこれから英語を始めてもたかが知れていると考え、どうせやるなら変わったことをやりたいな,と思ったんです。それで「カンボジア語をやろう!そうすれば彼女と直接話が出来るぞ」と考えました。だから、カンボジア語をやる気になったのは、「カンボジアはのんびりしているからいい」「みんな親切だからいい」といったカンボジアに観光で来て感じる普通の感想からではないんです。ただただ「彼女ともっと話がしたい」という想いからでした。だから、カンボジアとの全ての始まりは、この旅と彼女への想いでした。
―日タイ経済協力協会 にお勤めになったと伺っていましたので、もともとタイに興味があってそれからカンボジアに関心が広がったのかな、と勝手に想像していましたが、そうではなくて、最初のきっかけそのものが、カンボジアにあったんですね。それでは、どうして最初にカンボジアではなく、タイと関係するお仕事にお就きになったんですか?
カンボジアから日本に帰って、東京外国語大学アジア・アフリカ研究所の峰岸真琴先生にカンボジア語を教わるようになりました。直接最初に教わったのは3ヶ月くらいでした。そのうちにだんだん、どうせやるならカンボジアにどっぷり漬かっちゃおうかな,と思うようになったんです。カンボジア語を習い始めて、「いつか通訳になりたい」という気持ちにもなりました。結構深く考えないで突撃してしまうタイプなので。それで、しばらくして畜産関係の出版会社を辞めました。でも、カンボジア関係の就職先は多くないので、同じ東南アジアでカンボジアの隣国であるタイならば、仕事も方向的に近づくんではないかと考えて、日タイ経済協力協会[2]で働くことになりました。
それから、何度かカンボジアに旅行をするうちに、日本にいてもカンボジア語を使う機会はないし、「やっぱりカンボジアに住んでみたい」と思うようになってきました。「通訳になりたい」という気持ちもまだありましたし、「2・3年向こうに住めば気が済むかもしれない」「何か変わったことをしてみたい」という気持ちもあったかもしれません。でも、さすがに1人で住むのは怖かったんですね。どこでも良いから、寮や宿舎があって、ガードマンがいて、誰か一緒に住んでいる人がいるところだったらいいかな、と。そこで、ある日本の会社が丁度カンボジアに新しく事務所を置くというので、現地雇いとしてついにカンボジアに飛んでしまいました。ところが、たった1ヶ月でその仕事を辞めなければならなくなりました。当時はまだカンボジアの政情は不安定で、何か事故でも起きたら責任が取れない,と会社側では考えたようです。でも私も1ヶ月足らずで日本に帰るわけにはいかないですし、意地でプノンペン市内に一人暮らしを始めたんです。
―その後プノンペンで一人暮らしをしながら、通訳やコーディネーターのお仕事を始められたんですよね。その中でカンボジア影絵芝居との出会いはどのようなものでしたか?
初めは、伝統芸能などカンボジアの文化についてほとんど知りませんでした。でも、徐々にカンボジアの古典舞踊などに興味を持つようになったとき、スバエク・トム(カンボジア大型影絵芝居 )日本公演のための通訳の仕事を丁度紹介されたんです。興味のあることに関する仕事なら自分のためになると考えて、その仕事を引き受けました。それで、1996年に日本公演の主催者に同行して、スバエク・トム[3]発祥の地であるシェムリアップのチアン一座[4]を訪れました。それが、カンボジア影絵芝居との最初の出会いでした。でも、初めてチアン一座が演じる影絵芝居を見た印象は、「長いー、だるいー、眠いー」という感じだったんです。というのも、シェムリアップは1960年代後半から内戦状態に陥り、祭りや影絵が行えるような状態ではなく、チアン一座の人たちも演技をする機会が失われていました。さらに内戦の混乱で影絵人形も無くなってしまい、ほとんど廃れた状態だったんです。だから仕方なかったのですが、正直、「これを日本に呼ぶのかな?」と思いました。それに、その時はまだ影絵芝居の知識も全然なかったので、語りもうまく聞き取れず、さっぱりその魅力が分かりませんでした。
次にプノンペンの文化芸術省芸能局所属の劇団が演技するスバエク・トムを見たんです。それは観光用にテンポも速く、20分くらいに短縮されていたので、前のよりはちょっと分かったし、面白いと思えました。それで、「これは面白いですね」と同行者に言ったら、「こんなの全然だめだよ、オリジナルの良さが分かっていない」と言われてしまったんです。では、本物とは、良い影絵芝居とはどんなものなんだろうとスバエク・トム自体に興味を持ち始めたんです。
日本公演の準備は、結局オリジナルの良さを持つシェムリアップのチアン一座と、観光客用にダイジェスト版を作る能力のあるプノンペンの芸能局所属劇団の混成グループを作ることになりました。1997年の10月から行われる公演の約1ヶ月前には、その混成グループの合同練習がプノンペンで行われました。通訳として影絵芝居の語りが聞き取れるようになるためにも、日本公演用の字幕を作るためにも、私は一緒になって毎日練習に参加していました。そうして、毎日毎日みんなの演技を見ているうちに、だんだんプノンペンとシェムリアップとの良さの違いが分かってきたんです。特にシェムリアップのゆったりとした動きの美しさ、影絵人形と一体になる感じが見えてきたんです。チアン一座のじいちゃんには、最初、「おまえもシェムリアップの良さは分からないだろう」と見られていたんですけど、「これはいいね、いいね」と話しているうちに、チアンじいちゃんとも打ち解けてきて、すごく楽しかった。来日してからも、公演中ずっと一緒だったので、ますます仲良くなれて。それで、「私も影絵がやりたい!!」といったら、「いいよ」と言ってくれて、ついにシェムリアップのチアンじいちゃん家に転がり込むことになってしまいました。だから、チアンじいちゃんたちの人柄や、笑ったり、怒ったり、喜怒哀楽が激しくて、でも逆にそういうところに魅力を感じたり、チアンじいちゃんの影絵芝居を尊び愛する態度、遣い方、語り口調といった個人的な人柄にも魅力を感じました。さらにシェムリアップの影絵の動き、絵としての美しさにも惹かれ、自分もそんな影絵芝居のある生活に入ってしまいたいと思いました。これが影絵芝居に深く関わり始めるきっかけでしたね。
―影絵芝居を実際習い始めてからとその前とでは、何か影絵芝居に対する印象は変わりましたか?
最初のうちは、ただ練習しているだけでも楽しいという感じでした。でも、影絵と一体になるというのは一見簡単そうだけど、やはりやってみると難しい。影絵人形を両手で持っているだけで「重たい…」となって、気持ちが入るどころではなくて。それからしばらくして、普段の練習は蛍光灯の明かりでやるところを、野外で本格的な、ココナツの殻と松灯をスクリーンの後ろでぼうぼう燃やした明かりで影絵芝居をやることがあったんですね。それで、その時なぜだか覚えていないのですが、私は演技をしていなくて、チアンじいちゃんの近くに座っていたんです。
ちょうどぽっかり満月の夜で…。炎でスクリーンに影絵が映し出され、人もたくさん集まり、子供は周りを走りまわっていて、知らない間に屋台の店が並び、そんな中で、みんなとてもよい雰囲気で影絵芝居を演じていました。それを見ていてふっと感じたんです。「演技だけを影絵芝居というのではないんだ。影絵芝居をしている場所、それを見ている人、それにその周り全体の雰囲気すべてをひっくるめて影絵芝居っていうんだな」と…。そして、「あー私はこの満月を見るためにこの30年以上を生きてきたのかもしれないな」と思っちゃったんですよね。その時かな、影絵芝居の印象が変わった時は。
―影絵芝居も含めて、今まで様々な形でカンボジアと関わってきて、よかったと思える瞬間はどんな時ですか?
取材などを通していろいろな人に出会えたことかな。みんながみんな、仲良くなれるわけではないですし、仕事自体が単に楽しいというわけにもいかない。やはり仕事の中ではいろいろな心配事が絶えないですからね。でも、そうした仕事を通じての出会い、新しい発見がやはりとても楽しいです。人と仲良くなって、なんかちょっとでも通じ合えた時とか。私は結構巻き込まれやすい方なので、仕事で出会った後も、そのままずっと付き合いが続き、また遊びにくるね、という仲になってしまう。「あーしまった、また一人知り合いが増えてしまった。また遊びに行かなきゃ」なんて言うのは悪い言い方ですけど、またそれが楽しい面でもあるんですよ。日本から取材に来た人たちはその一度きりで終わりかもしれないけれど、私はまだそのまま付き合えるって言う楽しみがあります。
―そうした出会いの中で、カンボジア人のどんなところを好きだと感じますか?
人をとても受け入れてくれるところでしょうか。日本で、突然勝手に外国人が自分の家の庭に入ってきて、「Hello!Can I speak with you?(こんにちは!一緒におしゃべりしてもいい?)」なんて話し掛けてきたら、「えっ?」となって絶対会話は成立しないと思うんですね。でも、カンボジアならそれがさらっと受け入れられてしまう。突然やって来た人とでも、一緒に軒に座って、「今何しているの?」「田植え終わったよ」などいきなり話ができてしまうんです。それにね、たとえ貧乏で、カエルの炒めものとかソーセージ1本しか出せないような家でも、それらをお客にだして「一緒にご飯を食べよう」ともてなしてくれる。「これも食べなー」と言って、お菓子まで出てきてしまうこともある。そういうところが、親切だな、すごいな、と思いますね。
だからでしょうか、私は勧められたものは何でも食べることにしているんです。何でも食べなきゃいけないという訳ではないので、これは私のやり方ですけど。とりあえず、出されたものは一度は必ず全部食べてみます。あまり美味しいとは言えないものも時にはありますが、何でも一緒になって「美味しい美味しい」と食べているうちに、本当に美味しい気がしてくるんです。プノンペンにいた頃は、そんなにカンボジア料理は好きではなかったんですが、シェムリアップに来て、田舎の料理をたくさん食べているうちに好きになっちゃいました。だから、カンボジアで仲良くなった人がどこかに連れて行ってくれて、ご飯を出された時にね、その訪問先の人に「外国人が食べられるようなものなんて無いわよ」と言われても、「大丈夫、この子は何でも食べられるんだから」と言ってくれるんです。そうすると、相手は驚きながらもいろいろ出してくれる。それはもちろん、「これは危ないかな」と思う食べ物もあります。例えば出されたお水が、「これはさっきまで魚を冷やしていたのでは…?!」みたいなね。でも、「日々これ人体実験」というか…。せいぜいお腹をこわすくらいなので、とりあえずは何でも試すことにしています。そうすることで、なんだか最初の一歩が相手に受け入れられたように感じるんです。
―カンボジアの人達と同じように生活を送る中で、自分は外国人だと意識してしまうことはありませんか?
影絵芝居を始める前の、まだプノンペンで暮らしている時ですが、1997年7月5日にプノンペンで武力衝突[5]がありました。私は、その日の夕方にバンコクに行く予定だったんですが、仕事の都合で、偶然にも朝の便でプノンペンを発っていたんです。そして、バンコクのホテルに着きTVをつけて、初めてカンボジアの状況を知ったんです。私の乗った飛行機が最後の便で、その後プノンペンで戦闘が始まり、ポチェントン空港は閉鎖されてしまったことを。「これはみな心配していて大変だ」と思って、慌てて日本の家族には無事であることの連絡をしました。
そういうわけで、危険を感じてプノンペンから避難した訳では全くなかったんです。それが、その後2週間くらいしてプノンペンに戻った時のことです。外国人だからと高く売りつけないお気に入りのお店に買い物に行くと、飲料水6本でいつも1800リエル[6]で売ってくれるのに、その時は2500リエルと言われたんです。私は思わず「高すぎるじゃない?!」と聞き返すと、店員の兄ちゃんは「おまえは居なかったから知らないんだろう!物の値段は上がって、2500リエルで儲けは少ないんだ」と、喰ってかかってきたんです。この武力衝突のおかげでカンボジアの通貨リエルは下がり、確かに物価は上がってしまっていたようで、兄ちゃんの剣幕に負けて黙ってお金を払いました。でも、「もしかしたらカンボジアから逃げた奴と嫌われたのかな」と落ち込みました。さらに、住んでいるアパートのカンボジア人に「一人だけ逃げちゃってさ」ととどめの一言を刺されました。「それは違う!」と思いましたが、やはりカンボジア人にはそう見えてしまったようです。毎朝、カンボジア人と同じ値段でフランスパンを買い、夜は屋台のおかずを食べ、同じアパートに住んで、同じ生活を送っていても、いざとなると違う行動が取れる、簡単に外に出られるという身分を見せつけてしまったんですね。2週間の不在が、カンボジア人と外国人という境界線を改めて作ってしまった、と感じました。
―そういう境界線を感じて悲しくなったりしませんか?
今は、カンボジア人と同じようには出来ないって割り切っていますね。30年以上日本で、日本の生活をしてきたんだから、それを今更まるっきりは変えられない。逆に、全てをカンボジア人に合わせることができたら、必ずしもカンボジア人と仲良くなれるかといえば、そうではないですし。どんなに「私、貧乏よ」と言ってみても相手から見ればそんなことはなくて、「本当に貧乏ならカンボジアに来るお金なんてないでしょ」と言われてしまう。だから、日本人として、外国人としての立場のままで、仲良くなれればいいんじゃないかな。中途半端に合わせるよりも、外国人であるという立場を利用して出来ることをやるほうが、もっと相手に受け入れられると思うのです。
―「外国人としてできることをする」というのが、福富さんの場合は影絵芝居の復興に携わることなのですか?
そうですね。でも、復興させようと思って影絵芝居に関わった訳ではないのです。出来ることなら自分もただの一弟子でいたいんですけど…。でも、外国人である私がただそのまま影絵芝居をやっているだけでは、影絵芝居自体がつぶれてしまう。内戦で影絵芝居の担い手は減ってしまい、影絵人形自体も揃わず、カンボジアの中でもスバエク・トムの活動は知られていないですから。そんな状況の中で自分が影絵芝居をやりたいと思って、影絵芝居が続いていくようにするには、自分に何が出来るかと考えると、やはり「私だからこそできること」があると思うんですよね。
―今後、どのような活動をなさっていきたいですか?
今度「カンボジア伝統影絵復興会」というのを発足させて、日本でももっと影絵芝居のことを知ってもらいたいと思っています。それと同時に、そこでお金を集めてカンボジアの影絵芝居グループが地方公演をもっとたくさん行い、カンボジアの中でも有名になれるような活動に役立てていきたい。また、今も内戦の影響で、シェムリアップには伝統的な影絵人形を作ることの出来る職人はほとんどいません。その数少ない影絵職人の中で、ナップ・パウさんという人は、最も美しい絵をかける方です。しかし、75歳と高齢で後継者もいないので、この方の作る美しい人形が次の世代にきちんと受け継がれていくように、しっかりとした資料作りを手伝っていきたいと思います。派手なことでなくていいので、そういうことを日本とカンボジアを行き来しながら、長く続けていきたいですね。
―これからカンボジアに関わっていきたい人たちや私達のような学生に何かアドバイスがありましたらお願いします。
まずは、どういう風にカンボジアと関わりたいのか、と自分で考えてみないと。ただそこにカンボジアという場所だけがあるわけじゃなくて、そこに居る人と付き合う、ということが大事なんではないかと思います。例えば、カンボジアを旅行すると、カンボジアの人は皆優しいとか、カンボジアの女性は日本人女性の無くしたよさがあるとか、よく十把一からげにしていうけれど、そんな風にまとめて言えることなんてないと思います。悪い人もいれば、善い人もいる。様々な人がいるのだから、カンボジア人の誰とも平等に、仲良く付き合えるという訳でもないし、何でもかんでもカンボジア人と一緒という訳にもいかない。時にはケンカをしてもいいと思います。だけど、そこはやはり人の国であり、その国のやり方や習慣があるので、自分のやり方の押し付けにならぬようにしたいですね。そういうことに気を留めつつ、自分だからできることを、自分なりのやり方でやっていく。そんな風にカンボジアと関わっていけたらいいのではないでしょうか。
今回インタビューで、福富友子さんには本当にたくさんのお話をしていただいた。私たちのような学生を相手に、気取らず優しく接し、福富さんから話し掛けて下さり、緊張している私たちも和んでインタビューすることが出来た。特に手作りのお菓子の味は忘れられない。そして、カンボジア影絵芝居の将来を私たちも見続けていきたい。
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【カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜】