Tokyo University of Foreign Studies
東京外国語大学【2001年度カンボジア文献講読ゼミ】
カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜
文責:会田敦子 松本由麻
協力:田村道子 福冨まゆ
齊藤有希 布施岳人
2001年7月19日 東京外国語大学にて
【David P. Chandler】
東南アジア(特にカンボジア)歴史研究者。アメリカとオーストラリアの二重国籍。1933年2月ニューヨーク生まれ。1958〜66年まで米外交官として働き、2年間カンボジアに滞在。72年から、オーストラリアのモナシュ大学で東南アジア史を教える。現在は、アメリカのコーネル大学の客員教授であり、また、シェムリアップに「Center for Khmer Studies:カンボジア研究センター」[1]を立ち上げ、自身がシニア・アドバイザーとなっている。家族は妻と3人の子供。
2001年7月19日木曜日、来日中のチャンドラー氏が、本学のカンボジア研究室を訪問された。チャンドラー氏に、「Cambodia and Me」というテーマで、ご自身のカンボジアに対する思いなどを語っていただいた。 もちろん英語だったため、この原稿にたどりつくまでに、英語のテープおこしをし、その後日本語に翻訳するという作業をみんなで分担して行った。
チャンドラー氏は、カンボジアの歴史の本を数多く出している歴史学者で、カンボジア研究の第一人者でもある。私たちは、本学にチャンドラー氏がいらっしゃるという話を聞いて、興奮した。ミーハー気分でサインをしてもらうべく、邦訳の出ている『ポル・ポト伝』を持ち寄った。『ポル・ポト伝』は、ポル・ポトの幼少時代からクメール・ルージュを組織するに至るまでの彼の歴史を関係者からのインタビューによってまとめたものだ。
―どのようにカンボジアに関わってきたのかを教えてください。
1958年以前は、アメリカの外務省に勤務していました。その関係で、1959年、ワシントンで約1年間カンボジア語を勉強し、1960年にカンボジアに渡りました。カンボジアでは、外交官として働き、カンボジア語を話したり翻訳等をしていました。よくカンボジア人の友達と、車でカンボジア中を見て回ったものです。そんな楽しかった2年間の滞在は終わり、次に南米に行きました。しかし、そこは退屈で、カンボジアほど面白くはありませんでした。その時に、「カンボジアはなんて素晴らしかったことか」と心底思いました。
その後、ワシントンに戻り、外務省の東南アジア・トレーニング・プログラムに携わり、東南アジアの歴史、文化、習慣について色々な大学の教授と話し合う機会を持ちました。そうしているうちに、自分に合った仕事はこれだと感じ、1966年に外務省を辞めました。
そして、大学院に入り、カンボジアを専門に研究しました。「カンボジアの虫」と呼ばれていたのです(笑)。1970年、カンボジアに調査に行く準備をしていたのですが、ヴェトナム戦争の影響がカンボジアにまで広がっていたので、結局断念しました。当時私は結婚していたし、2人の小さな子供もいましたから。けれど、カンボジアに行かない代わりに、タイに行って調査をしました。そして、東南アジア研究、カンボジア近現代史で博士号を取り、1979年から約20年間、オーストラリアのモナシュ大学にある、東南アジアプログラムという研究機関でさらに研究しました。
1990年、約30年ぶりにカンボジアを訪れました。調査を行い、資料も手に入れ、多くの人々にインタビューをしました。こうして、やっと『ポル・ポト伝』が出来たのです。
1999年にオーストラリアからアメリカに戻ると、カンボジアのシェムリアップに「Center for Khmer Studies:カンボジア研究センター」という民間団体を設立しました。そこは誰にでも開かれていますので、カンボジアを訪れたら是非立ち寄ってください。
―カンボジアに惚れ込んだ理由はなんですか。
カンボジア人が好きなのです。その一言に尽きます。他に特別な理由はありません。私はクメール・ルージュが一般のカンボジア人に行ったことを研究しましたが、もうクメール・ルージュについては研究したくないです。彼らもカンボジア人ですが、魅力的ではないのです。 カンボジア研究は、クメール・ルージュについてだけでなく、遺跡や農村開発などいろいろあります。
―では、一般的なカンボジア人の魅力とは、何ですか。
そうですね、私がカンボジアで働いていた時に、起こった事をお話します。ある日、私がアパートから出てくると、シクロ[2]が停まっていました。そのシクロの車夫が、私にカンボジア語で「あなたは昨夜、私のシクロにカメラを忘れていったんだよ。危ない。シクロには鍵がかけられないのだから」と話しかけてきました。その男の稼ぎは1ヵ月10ドル程度だったのです。彼は、カメラを自分の物にせず、返しに来てくれました。カンボジアを訪れたことのある人は、同じような体験をしていると思います。カンボジア人はとても温かくて、慎み深く、みんな親切です。しかし中には、悪いカンボジア人もいる。日本人やアメリカ人にだって、悪い人はいますからね。絶対とは言いきれないが、私はカンボジアに行く度に、良い経験をするのです。
―2001年2月に行われる選挙[3]について、どうお考えですか。
これまで実施されてきた地方の選挙は、内戦やクメール・ルージュによる支配のために、正当に選挙が行われたとは言えませんでした。だから今回の選挙は、単なる地方選挙ではなく、変革に関わる、国家レベルの選挙なのです。この選挙実施には、カンボジア支援を行う国々やNGOも関わっていて、選挙がより民主的に行われなければならないと主張しています。私も、カンボジア人が自分たち自身のために投票する選挙であるべきだと思います。これまで、カンボジアにおける選挙は、カンボジア国民のためのものではなかったからです。
―1993年、1998年の総選挙のように、政治的理由による脅迫や暴力がまた起こるのでしょうか。
まず、1990年代にカンボジアでどのようなことが行われたかを説明します。1992年にUNTAC(国連カンボジア暫定機構)によって、2回目は1998年に総選挙が実施されました。政党の一つには、サム・ランシーが率いるサム・ランシー党があります。この政党は、与党から離脱し、フン・セン率いる人民党に対抗する勢力となりました。人民党は、サム・ランシー党に圧力をかけ、サム・ランシー党は大打撃を受けました。このような政治的な暴力は、カンボジアの政治では絶えずあることなのです。だから、今回の選挙でサム・ランシー党が、かつてないほど大きな選挙運動を行おうとしたら、おそらく人民党が介入してくるでしょう。フン・センには軍の後ろ盾があるし、選挙監視員や人権団体は、ケガ人がでることを懸念しています。何が起こるか分からないが、選挙キャンペーン期間中の脅迫や暴力が、少し気がかりです。
―10年後のカンボジアは、どのようになっていると思いますか。
分からないです。私は超能力者ではないから予言はできないです(笑)。おそらく日本などの支援国の政策によって変わってくると思います。多くの統計では、カンボジアは、貧困、人口の増加、栄養不良、お金が教育に流れていない、経済も不安定、雇用状態も悪いと出ています。このような中で、カンボジアは今の状況から抜け出せないのではないか、という悲観的な見方もあります。しかし、何パーセントかのチャンスがあるのだから、楽観的にならなくてはいけないと思うのです。落ち込んでしまいそうになる統計が多くあるけれども、カンボジア人は諦めずに、投げ出さないで働いているのですから。
―『ポル・ポト伝』で、多くのカンボジア人にインタビューをしていますね。インタビューの際に、相手に心を開いてもらい、本音を聞き出すポイントは、何ですか。
難しいですね。相手が話したがっているかどうかによります。私は何度かインタビューをしたが、『ポル・ポト伝』でのインタビューが最も成功しました。例えば年老いた政治家は、ポル・ポト時代について話したがっていたから、インタビューしやすかったです。しかし、もし、話したくない人がいたら、無理に話させようとしてはいけません。彼らを自分に従わせることはできないから。このような時は、インタビューをしたい相手に、その人が重要人物であると思わせるのです。こちらに何か話をしたいと思わせるような、個人的な信頼関係が大切なのです。
また、もし、相手が嘘を言っていると気づいたらどうするか。そういう場合でも、責めたり、彼らを否定してはいけないのです。罵ったり、「それは真実ではない」と言ってはいけないのです。私たちは警察ではないのだから、そんなことはできないのです。おだてて、とにかく彼らに話をさせるのです。彼らが話すことを、ただメモすればいい。
―実際のインタビューは、どのような内容だったのですか。
人々の記憶は曖昧で忘れやすいです。だからインタビューでは、彼らの人生や彼ら自身について語ってもらい、それらを再構築することで、ポル・ポト時代がどんな時代だったのかを考察しました。ポル・ポト時代に何をしてきたのか、彼らの人生で重要なことは何か。もちろん、みんなが真実を話すわけではありませんが、その人が「本当だ」と言うのならば、それは本当なのです。それで良いのです。
私は以前、ある難民キャンプに行き、ポル・ポト時代はどのような様子だったかを尋ねたことがあります。彼ら自身の声は、事実よりも大きなものでした。彼らは誰がどうであったか、隣の村がどうであったかだったかということは覚えていないのですが、ただ彼らがどう感じていたかをよく記憶していました。あるカンボジア人は、ポル・ポトについて「ポル・ポトは良い教師であった。しかし、私の両親を殺した責任もある」と言っていました。
―今後の計画は、どのようなものでしょうか。
クメール・ルージュについては、もう研究しませんが、二つあります。一つ目は、カンボジア社会についての本を書くことです。二つ目は、19世紀の植民地時代のカンボジアの歴史を研究してみたいと思います。
文責:福冨まゆ
チャンドラー氏は、来日は今回が初めてで、我々カンボジア語専攻の学生は、何とか氏に日本を楽しんでいただこうと、浅草案内を決行した。
氏は、とても気さくな方で、我々にも「Please call me David.(どうぞ私をデイビッドと呼んで下さい)」とおっしゃった。我々は大変恐れ入りつつも、その日に限り「デイビッド」と呼ばせていただいた。
氏はアメリカ人で、当然英語のネイティブ・スピーカーであるが、カンボジア語も非常に流暢であった。我々は、普段カンボジア語漬けで、殆ど使わない英語は苦手、という言い訳のもと、氏との会話の大部分はカンボジア語で遂行してしまった。どこから見ても正真正銘の日本人とアメリカ人によるカンボジア語会話。傍から見れば、かなり奇妙な光景であっただろう。移動の電車の中や昼食をとった蕎麦屋で視線を感じたのも、あながち気のせいではあるまい。
浅草では、氏は、浅草寺で絵葉書を、仲見世で奥様のために扇子を購入された。一休みに、と入った甘味屋では「宇治金時」を美味しそうに召し上がり、浅草を満喫されているようだった。最後に、案内人でありつつもすっかり観光客気分になっていた我々は、チャンドラー氏を、半ば強引に(?)「浅草寺プリクラを撮りましょう」と誘った。そしてめでたく我々は、恐れ多くも、かのポル・ポト研究の第一人者とも言われる氏との「浅草寺プリクラ」を手に入れたのであった!
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