Tokyo University of Foreign Studies
東京外国語大学【2001年度カンボジア文献講読ゼミ】
カンボジア缶〜開けてびっくり!?12のインタビュー〜
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1953年フランスからの完全独立から、現在までのカンボジアをまとめたカンボジアの現代史です。カンボジアの現代史の流れが分かると、もっと個々のインタビューの深みがわかると思います。 |
1863年以来フランスの植民地だったカンボジアは、国王シハヌークの外交努力によって、1953年完全独立を果たします。当時カンボジアは、隣国ベトナムに広がる戦渦に巻き込まれないために、また国際的な東西対立の波に飲まれるのを避けるために、中立政策をとることによって国内の平和を保とうとしました。1955年、インドネシア・バンドンで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)において、シハヌークは非同盟・中立外交政策を表明し、また1956年に、アメリカ合衆国の主導のもと作られた反共産主義の集団保障組織である東南アジア条約機構への加盟も拒否することで、その意志を明確にしました。
他方国内では、1955年、シハヌークは国王の座を父ノロドム・スラマリットにゆずると、右派左派を問わず諸政党を吸収してサンクム・リアハ・ニヨム(人民社会主義共同体、サンクム)を組織、自らその総裁に就任すると、同年の選挙では82%もの得票率で全議席を獲得しました。そうして「独立の父」としての国民の圧倒的な支持を背景に、自ら国政の指揮をとり始めます。シハヌークは仏教の公平の理念に基づいて民主化された王制を維持し、一方政府の主導による計画経済政策をとることで、国家の発展をおしすすめました。
こうした政策により、カンボジアには比較的安定した平和な時代が訪れました。しかしながら、60年代後半に入ると、経済状況の悪化に加え、ベトナム戦争のあおりを受けて米軍からの爆撃にさらされるなど、国内の不安要素が拡大。こうした中でのシハヌークの独裁的な国家運営に対する不満を、シハヌークは強圧的な手段で押さえつけようとしました。
シハヌークの求心力が弱まる中、その外遊中の1970年3月17日、当時の首相ロン・ノルと副首相シソワット・シリマタックによる無血クーデターが起こります。シハヌークは国会の投票によって国家元首の座を追われ、同年10月9日には王制の廃止と共和制への移行が承認されました。
右派のロン・ノルが政権を握ったためにカンボジアはアメリカ合衆国の動向に大きく影響を受けざるを得なくなり、ベトナムの戦火にも否応なしに巻き込まれることとなりました。
一方北京に亡命したシハヌークは、「カンプチア民族統一戦線」を結成、ポル・ポト、キュー・サンパン、イエン・サリらの率いる共産主義勢力クメール・ルージュ(赤いクメール)と手を結び政権の奪回を画策します。こうしてカンボジア人勢力同士の対立も激化し、カンボジア社会は混乱し疲弊しました。
クメール・ルージュを中心とした民族統一戦線は1975年4月17、プノンペンへの入城を果たし、ロン・ノル政権は崩壊、政権を握ったクメール・ルージュは共産主義国家民主カンプチアを打ち立て、内戦は一応の終結を迎えます。しかしポル・ポトらは、毛沢東と文化大革命の思想を奉ずるままに、排外的な民族主義と、急進的な共産主義、農本主義に裏打ちされた政策を進めました。
プノンペンを制圧した直後、クメール・ルージュは全プノンペン市民に対し24時間以内に市街へ退去するように命じました。老人、子供、あるいは病人や怪我人があっても無理やり市街へ追い立てられ、プノンペンの全市民は目的も行き先も分からないまま、着の身着のままで地方の農村部へと歩いて行かされました。その後一週間以内に、カンボジアの各都市においても、同様に住民の強制退去が行われ、無人の街となりました。猛暑、食料不足、激しい疲労により何千人もの人々がこの行軍で倒れ、また親兄弟とはぐれてしまう者も少なくありませんでした。
そして人々は農村に集められ、農作業や水路建設など、1日10時間以上にもおよぶ苛酷な強制労働に従事させられることになりました。厳しい監視の下、年齢・性別ごとに分断されての集団生活が強いられ、あらゆる私有財産は否定されて通貨も廃止されました。
僧侶、知識人、教師、医者などは全て「革命に参加しなかった敵」として殺され、地方へ移住させられた都市住民は「新人民」とされて、とりわけ苛酷な条件下での生活を強いられました。
さらに、無計画な水路の掘削などにより食料は不足します。医療に関しても、医学的知識をほとんど持たない子供らがでたらめな医術をほどこす程度で、飢餓、過労、病などにより命を落とす者は後を絶ちませんでした。
クメール・ルージュの推し進めた文化政策も、カンボジアの社会に大きな影響をもたらしました。仏教を含むあらゆる宗教が否定され、寺社は破壊されました。共産主義思想、クメール・ルージュの政治思想を教え込む以外の教育は許されませんでした。カンボジア語の語彙のうち、クメール・ルージュの規範にそぐわない単語は使用を禁止され、言語の統制が行われました。
さらに、政権への不満をわずかでも漏らした者、スパイ行為を疑われた者は容赦なく殺され、農村では一般人同士の相互監視によって不満分子を抑えつけました。クメール・ルージュの上層部の人間でも、疑いを抱かれた者は、プノンペンの政治犯収容所S21(現トゥールスレン虐殺博物館)などに収容されて苛烈な取調べと拷問にかけられ、ほとんどが「自白」(その供述の多くが拷問に耐えかねての虚偽の自白)させられた後粛清されました。
民主カンプチアの政策が原因で、当時の人口およそ800万人のうち、少なくとも100万人以上が死に追いやられたと見られています。
民主カンプチアと衝突を繰り返していたベトナム軍は、1978年12月25日、かつてはポル・ポトの配下だったヘン・サムリンの率いる「カンプチア民族救国統一戦線」とともに、カンボジアに対して大規模な攻勢を仕掛けました。翌年1月6日にプノンペンを陥落。クメール・ルージュにより王宮に幽閉されていたシハヌークはプノンペン陥落の直前に北京に逃亡し、一方クメール・ルージュは、ポル・ポト、イエン・サリら幹部を含めタイとの国境地帯に逃れます。
プノンペンを制圧したベトナム軍は、ベトナムの傀儡の社会主義国家、カンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)を成立させました。シハヌーク、ポル・ポト、それにかつてのロン・ノル政権で首相を務めたソン・サンの各派は、1982年に「民主カンプチア連合政府三派」を組織して、ベトナムとヘン・サムリン政権に抵抗を試みます。
ベトナム軍の侵攻は、結果的にはカンボジアをクメール・ルージュの支配から解放することになりましたが、他方ベトナムのカンボジアに対する侵略であることは否めませんでした。そのためヘン・サムリン政権は、ソ連、東欧などの一部の国家を除いて国際的に認められず、民主カンプチアの握っていた国連の議席は、ベトナム軍のカンボジア駐留に反対する諸国の後押しを受け、連合政府三派が受け継ぎました。こうして、国際的に主権を承認されているのは連合政府三派、カンボジアを実効支配するのは国際社会からほぼ孤立状態にあるヘン・サムリン政権というように、カンボジアは二重政権状態に陥ることになります。これがいわゆる「カンボジア問題」、二勢力同士の対立によって内戦はさらに続きました。
東西冷戦の緩和が進んだ80年代末、ソ連の自由化、東欧諸国の社会主義体制の崩壊などの流れを受けて、カンボジアでも紛争の政治的な解決へ向けて動き出しました。当時のヘン・サムリン政権の首相フン・センとシハヌークとの会談、三派連合各派とヘン・サムリン政権、関係諸国を交えての国際会議などが重ねて行われました。国際状勢の変化から、政治的妥協を求める声も、カンボジアに影響力を持つ各国の間で高まっていきました。
そして1991年10月23日、19ヶ国により調印された「パリ和平協定」において、「国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)」の設置、武装解除と内戦の終結、難民の帰還、制憲議会選挙の実施などが定められました。ようやくカンボジアの平和と復興への第一歩が踏み出されます。
1991年から1993年にかけて、四派の代表から構成される新政権発足までの暫定的統治機関「カンボジア最高国民評議会」と、1992年より活動を開始したUNTACによって、カンボジアの新たな国家体制が誕生しました。UNTACは制憲議会選挙の実施とそれまでに必要な平和維持、行政機構の整備、難民支援のために、広範かつ大規模な活動を行い、1993年5月に行われた選挙では90%近い投票率が得られました。
その結果、シハヌークの息子ラナリット率いるFUNCINPEC党(「独立・中立・平和・協力のカンボジアのための国民統一戦線」の略称)と、旧ヘン・サムリン政権の母体である人民党からなる連立政権が発足。ラナリットが第一首相、人民党のフン・センが第二首相を務める「二人首相制」という形で、政権が運営されることになりました。同年9月23日には、民主国家に必要な要素を盛り込んだ新憲法が公布され、翌24日に、シハヌーク国王を国家元首とする「カンボジア王国」が、およそ23年ぶりの統一政権として誕生しました。
新政権発足直後は比較的安定していたものの、その後の政治情勢は次第に不安定となり、97年にはプノンペンでFUNCINPEC党と人民党の軍隊が衝突しました。
98年7月の総選挙では各地で選挙の妨害が行われてその成功が危ぶまれましたが、選挙そのものは穏便に行われ、93%という高い投票率の結果、人民党が第一党となりフン・センが首相の座につきました。
現在のカンボジアには、様々な課題が山積しています。社会と人々の心に残された、長期に渡る内戦の傷を癒すのは容易ではありません。また急激な海外文化の流入によって、社会に大きなひずみも生まれました。インフラの未整備、法制度の確立、経済、教育、環境など、解決すべき問題は数多く残されています。さらに、98年のポル・ポトの死亡と、イエン・サリ、キュー・サンパンら幹部の投降とによってほぼ壊滅したクメール・ルージュの罪をいかに裁くかも、大きな課題となっています。
しかし一方で、90年代以降各国政府からの援助、国内外のNGOの活動なども非常に活発なものとなっています。そうした協力を得ながら、カンボジア復興に向けての努力は、着実に行われているのです。
(文責:布施岳人)
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