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2011年7月 月次レポート(岩崎理恵 ロシア)

2011年7月月次報告


報告者:岩崎理恵
派遣先:ロシア国立人文大学

 7月7日から11日にかけて、サンクト・ペテルブルグに研究旅行に出かけた。ペテルブルグは昨年の7月と11月にそれぞれ訪れる機会があったが、その際見ることが出来なかった詩人アンナ・アフマートヴァの博物館や、ペテルブルグ市内のブロークゆかりの場所(カザン聖堂、イサーク聖堂、住居のあったペトログラード地区など)を巡りにまた出かけたいと思っていた。秋の学会等の機会を待つことも考えたのだが、去年は11月にはすでに雪と寒さで移動も思うにまかせず、気ままな散策をするなら夏しかないと身にしみて感じたこともあって、7月中に思い切って実行に移すことにした。

 4泊5日の限られたスケジュールではあったが、「ブロークの家博物館」の提供しているエクスカーション(コロムナ地区散策)に参加したり、マールイ・ドラマ劇場で女優エリザヴェータ・ボヤルスカヤ(映画「続・運命の皮肉」や「提督の戦艦」に出演)の参加する「三人姉妹」を鑑賞したりと、ペテルブルグならではの楽しみがあった。念願のアンナ・アフマートヴァ博物館訪問も果たし、何より同館の館員らの仕事ぶりに感銘を受けた。これまでさまざまな文学博物館を訪れてきたが、これほど熱心な学芸員らに会ったのは初めてと言ってよいほどで、「私たちの敬愛するアフマートヴァを、どうか多くの人達に知ってほしい」という情熱に満ちているのである。私より一足先にフランス人旅行客の一団が館内を回っていたが、彼らの質問に対しフランス語で滔々と語っていたのには舌を巻いた。ちょうど昨シーズン、パリ国立オペラで「アフマートヴァ」という新作オペラが封切りになったとドイツ在住の友人から聞いたが、フランス人の観光客もその影響かも知れない。

 こうした中でも、今回印象に残った「ペテルブルグ・アヴァンギャルド博物館」(通称マチューシンの家)について触れたい。
 実は旅行に先立ち、モスクワの国立トレチャコフ美術館の新館で、画家ワルワーラ・ブブノワの生誕125周年を記念する作品展を鑑賞した。報告者のそれまでのワルワーラ・ブブノワに対する理解は、ロシア革命後日本に渡り、以来実に36年間を戦後の日本で過ごし、ロシア語・ロシア文学の教師として後進の育成に多大な貢献をした人、というものであり、画家としての活動や作品そのものについてはほとんど知らずにいた。作品展では、1940~70年代にかけて作成された無彩色のリトグラフや鮮やかな油彩画、スケッチなど70点余りを見ることができたほか、夫ヴァリデマール・マトヴェイスと共にロシア未来派の芸術集団「青年同盟」に参加していたことなど、来日するまでの活動についても知った。またこの時期に読んだアレクサンドル・コーリン著「銀の時代の女性たち」でもブブノワとロシア・アヴァンギャルド詩人エレーナ・グローとの親交について触れられていたため、グローとその夫ミハイル・マチューシンのアトリエ兼自宅で、初期のペテルブルグ・アヴァンギャルドの活動拠点ともなった「マチューシンの家」見学も、今回の訪問スケジュールに急遽組み込むことにしたのである。

 「ペテルブルグ・アヴァンギャルド博物館」は街には珍しい木造の一軒家で、ガラス張りのテラスから広々とした中庭に出入りできるようになっていた。1階は1910~30年代にかけてのアヴァンギャルド運動の様子を物語る写真やポスター、パンフレットなど、2階のマチューシンとグローのアトリエには直筆の手紙や原稿、身の回りの品、絵画などが展示されていたが、心に残っているのはグローが自身のスケッチを元に木を削って作った素朴な人形である。
 アトリエのしつらえや窓からの眺めは昔の写真のそれとあまり変わっていない印象だったが、この家はナチスドイツ軍によるレニングラード封鎖の際、街のその他の木造建造物と同様、燃料として供出・解体されかけたらしい。が、当時の文学者らの嘆願により供出を免れ、さらに2度の火災に見舞われながらも復元され、2006年の開館に至った。ロシアの底力を改めて思い知らされるエピソードである。
 白血病のため、1913年に若干35歳の若さで亡くなったエレーナ・グローに対し、ブブノワはスフミ(グルジア)を経て1979年レニングラードに帰国を果たし、その4年後、祖国で96年の生涯を閉じた。親交のあった人たちの回想記などを読むと、80歳を超えても一心に創作を続けていたようで、早世した友人の分まで生き、描いたのではないかと思われるほどである。アヴァンギャルド博物館には、ブブノワとグローの交友に直接触れるようなものはなかったのだが、それぞれに個性的な女性芸術家たちの生涯と創作について、理解を深める手がかりとなった。

 モスクワに戻った7月の半ば以降は、9月中旬のブローク学会に向け準備を始めた。10月半ばの帰国を前に、これがロシアでの最後の学会報告になるはずだった。また来年度以降の所属先も探さねばならず、いろいろな意味でこれまでの成果を振り返り、2年間の研修の総括を行う時期に入っていた。

 7月は、モスクワでも連日30度を超える暑さが続いた。現在のアパートにはクーラーがついていなかったが、レンガ造りの家は冬暖かく夏涼しいと聞いた通り、6月までは余裕でしのぐことができた。が、さすがに真夏日が続くと家中に熱気がこもり、窓を開けるくらいでは対処しきれなくなってきた。驚いたのはこの時期、玄関の戸棚に作り付けになっていた鏡の接着部が熱気で緩み、鏡が床に落ちて粉々に割れてしまったことである。明け方のことで、とっさに何が起こったのか、なぜそうなったのかしばらく理解できなかった。
 国立図書館に行ってもクーラーなしの暑さは変わらないため、この時期は主に家で作業していた。節電の日本と同様、暑さを何とかやり過ごすしかなく、生活時間帯を変え、集中したい作業は日差しが強くなり気温が上がり始めるまでの朝5時から11時までの間に済ませるのが日課となった。これにより効率が上がり、この時期かなりの量の文献を読みこなすことができたことが、後にプラスに働いたと思っている。

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マチューシンの家

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