トップ  »  新着情報  »  2011年6月 月次レポート(岩崎理恵 ロシア)

2011年6月 月次レポート(岩崎理恵 ロシア)

                            2011年6月 月次報告 
                          
                                                                                                    報告者:岩崎理恵
                                                                                        派遣先:ロシア国立人文大学

 6月は大学も夏休みに入り、学会や論文締め切りなどの予定もなかったのだが、公募書類書きなど細々とした用事に追われ、慌ただしく過ぎてしまった。また、気温が急に上がるこの時期、街路樹のポプラが大量に綿毛を飛ばし、アレルギーに悩まされる人も多いのだが、報告者も例外ではなく、総じて停滞気味の一ヶ月であった。

 そうした中、昨年7月に参加したペテルブルグのロシア文学研究所主催サマースクールの論文集の校正を済ませた。学会の報告を元に論文集を編纂し、一年後の学会時に配布することは慣習的に行なわれているようだが、遅くとも4月あたりには校正依頼が来るだろうという心づもりでいたのに一向に連絡がなく、「まさか出した原稿をそのまま印刷してしまうのか」などと不安になるほどだったのだが、ほっとしたのもつかの間、「翌日までに修正を戻してほしい」という無茶な要望で、少々呆れてしまった。
 参加者は学会の2カ月後、9月には原稿を提出しているわけだが、編者とのやり取りから推して、その原稿が印刷所に回ったのは発行のほんの1ヵ月前のことらしい。つまり10カ月の間、原稿はただ眠っていたということになる。サマースクールを組織する大学教授が学期中は多忙なこと、予算のやりくりや印刷所の都合などの諸事情により、発行に時間がかかってしまうのはある程度覚悟しているが、このようなスローペースでは、集まるはずの業績も溜まらない。学会報告や論文執筆はロシアで行なったうえで、スケジュール管理がきっちりしている日本の雑誌に投稿するのが妥当なやり方だったと反省させられた。

 先月に引き続き、劇場にも足を運んだ。2011年は作家ミハイル・ブルガーコフの生誕120周年記念の年ということもあり、各劇場のレパートリーにブルガーコフ作品が多いように思われる。中でも代表作である小説「巨匠とマルガリータ」は、2005年に公開されたテレビシリーズ(ウラジーミル・ボルトコ監督)など映像化もされているが、マルガリータの飛行シーンや悪魔の一味の黒魔術公演、悪魔の大舞踏会のシーンなど、CGを駆使して逐一「忠実に」再現しているテレビ版より、想像力豊かな監督による舞台演出の方が、この作品の魅力を雄弁に伝えてくれると感じる。改めてそれを実感させてくれたのは、10年以上前に見た時の感激が未だに忘れられないユーゴ・ザーパド劇場の「巨匠とマルガリータ」と、1977年にこの作品を初めて舞台化したタガンカ劇場演出のものである。

 小説では、1930年代のモスクワと「巨匠」の小説の中の紀元前1世紀のエルサレムでの出来事の描写が交錯する上、巨匠とマルガリータの出会いのエピソードは前者の回想の中で語られるなど、時空間が複雑に変化するため、すべてを「今、ここ」という観点から、観客から一目瞭然の平面的な舞台の上で見せなければならない演劇という手段での再現は容易でないように思われる。が、タガンカ劇場の「巨匠とマルガリータ」は、舞台左右の壁に塔のように設けられたセット、キリストの磔刑の場面で使われる後方の壁と打ち込まれた楔、中央に下がっている巨大な振り子時計(魔法のクリームを塗ったマルガリータが、悪魔の舞踏会へと夜のモスクワの街を飛んでいく場面は、この振り子時計を「漕ぐ」という動きで表現されている)などの装置を駆使して観客の視点を移動させながら、この壮大な物語を劇として語り直していく。モスクワに到着した悪魔ヴォランド一味は「ヴァリエテ劇場」で黒魔術のショーを行うが、その観客を演じる俳優が突然客席から立ちあがってセリフを述べ始めたり、偽札をばらまくサプライズもある。カーテンコールでは、舞台の中央で燃える火を前に、作家の写真を掲げた俳優らが並び、ブルガーコフという偉大な作家を観客と共に讃えようという演出が感動的だった。

 一方、ユーゴ・ザーパド劇場の手法はとにかく俳優の力量で見せるというものである。冒頭で文芸雑誌の編集長ベルリオーズが悪魔ヴォランドの予言通り路面電車に轢かれる場面や、それを目撃した詩人イワン・べズドームヌィが悪魔一味を追ってモスクワの街を走り回る様子は、すべて俳優のマイムで表わされる。「ヴァリエテ劇場」の総理部長ヴァレヌーハ、経理部長リムスキーといった、あらすじから言えばさほど重要ではない役も、俳優の個性で十分に見せ場を作っている。何と言ってもヴォランド役を演じたオレグ・レウーシンの存在感が圧巻であった。

 上記の演劇作品に加え、生誕120周年をきっかけに17年ぶりに日の目を見たユーリー・カラ監督の映画「巨匠とマルガリータ」も鑑賞した。この作品は1994年に製作されたものの、監督とプロデューサーと意見の相違で一般公開を待たずにお蔵入りしてしまったという曰くを持つ。ただ、おそらく2006年のモスクワ国際映画祭で上映されたバージョンかと思うが、報告者は文学ゼミで一部分だけ鑑賞した記憶がある。
 今回完成版を観た感想は、前半のち密さに対し、後半部分は描写が荒くなったという印象が拭えなかった。ヴォランドの手下、コローヴィエフと猫のベゲモートが外貨ショップ「トルグーシン」でひと悶着起こすシーンなども省略されていた。また、2006年当時公開の版では見た記憶があるが、完成版からは消えていたシーンもあったように思う。が、小説を忠実になぞりすぎたテレビ版の過ちは繰り返すことなく、程よい着地点を見つけることには成功していた。そもそも、読者の想像力をかき立てる優れた小説を、皆を満足させる形で映像化するなどということは不可能である。にもかかわらず、この作品は未だに舞台化され続けており、6月末にはチェーホフ記念モスクワ芸術座でもこの作品のプレミア前公演が行なわれたようだ。これから夏の間、劇場はオフシーズンに入ってしまうが、秋のシーズン明けにはまた新たなブルガーコフ作品を観ることが出来るのではないかと楽しみにしている。

 

このページの先頭へ