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2011年1月 月次レポート(藤井欣子 オーストリア)

月次レポート 2011年1月 
藤井欣子 
派遣先:オーストリア、グラーツ大学

 1月に入り、グラーツも寒さがいよいよ厳しくなってきました。連日のように雪が降っては少しずつ積もっていきます。私は、1月のはじめに今まで2ヶ月住んでいた学生寮を引き払ってゲストハウスに入居しました。新しい住居は同居人と一つのアパートをシェアするような形なのですが、幸い同居人に恵まれたおかげで大変快適に過ごしています。今までどおり大学へは徒歩で行けますし、文書館への距離も少し近くなりました。
 現在の研究状況ですが、先月から引き続き文書館に通って"Statthalterei"という知事の文書ファイルの解読に取り組んでいます。最初はKurrentschrift(ドイツ文字の筆記体)に馴染みがないために、美しく清書された規約や知事宛の文書しか読めなかったのですが、少しずつ慣れてきてKurrentで書かれた走り書きの知事からの返答や命令などが読めるようになりました。そうして、役所内部でのやりとりが記載されている重要な走り書き部分に「関連書類」について言及されていることに気づき、今月に入ってそれらをようやく新しい史料として請求することができました。それらはStatthaltereiPraesidiumという別の分類でファイルされているものでした。
  その中で現在もっとも興味深く読んでいるのは、Bezirkshauptmann(郡役人)から知事に宛てての報告書です。彼らは数ヶ月ごとに行われていた農民協会の移動集会に毎回出席し、帝国の政策に対して批判的な内容の演説などがあった場合には警告したりしていました。また、どのような顔ぶれがゲストとして出席していたか、どのような式次第でいかなるスピーチがあったかなど、集会の内容について細かに記しています。たとえば、1886年2月14日に下シュタイアーマルクのマーレンベルク(Mahrenberg / RadljeobDravi)で行われた移動集会には、当時ウィーンで活躍していた帝国議会議員で扇動政治家のゲオルク・シェーネラーが出席していました。彼は、農民の経済的窮状を救うための法律を求めたり、トリエステへの木材輸送に関して優遇されるポーランド人を非難したりといった内容で1時間以上にわたって演説を行ったと報告されています。この集会にはおよそ300人が出席し、最後は皇帝陛下への万歳三唱で締めくくられたということです。
 このような報告書を読んでいますと、こういった報告書が読まれていたStatthalterei(知事府)の機構が実際はどのような仕組みだったのか調べる必要があると痛感します。同じ農民協会についての史料がさまざまな部署にわかれて保管されているようであれば、それも探したいと考えています。2月はもう少し視野を広くもって、前々から課題としていた新聞などの二次的な史料による裏付けとともに、こういった帝国内の行政システムについてもっと掘り下げていきたいと思います。

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