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2010年9月 月次レポート(平田 周・フランス)

短期派遣EUROPA 月次レポート(9月)
                                                                                                     平田 周

  報告者は9月10日に修士論文を提出し、同月30日に口頭試問を受けました。パリ第八大学の修士論文の口頭試問は、主査と副査の2名で構成されます。主査は、指導教官であるアラン・ブロッサ教授が行い、副査は、ジャン=ルイ・デオット教授に引き受けて頂きました。試問はおよそ2時間にわたって行われました。冒頭の20分の発表では、論文の結論部で書いたレジュメの単純な反復を避けるため、これまで私が行ってきたヴィリリオ研究から試問の対象である修士論文へと至った経緯と今後の博士課程の研究の方向性とを合わせて呈示しました。
  « Aspects de la problématique de l'espace chez Henri Lefebvre : la vie quotidienne, la ville, l'État『アンリルフェーヴルにおける空間の問題系の諸側面――日常生活、都市、国家』 »と題した今回の修士論文では、ルフェーヴルの空間の概念を、「日常生活」、「都市」、「国家」という彼の思想の三つの主題を総合するものとして考察しました。これら三つの主題についてのルフェーヴルの思想の意義をより正確に測るために、本論文ではルフェーヴルのテクストだけでなく、これら主題に関わる社会史的・思想史的コンテクストも扱いました。
  以下では試問の内容を簡単に報告させて頂きたいと思います。
  デオット教授は「装置appareil」という概念によって芸術と技術の関係を問い直す著作(Qu'est-ce qu'un appareil ?--Benjamin, Lyotard, Rancière, Harmattan, 2007)を書かれています。この著作のなかで、デオット教授は、「装置appareil」という概念を、ミッシェル・フーコーが『監獄の誕生』で権力と知の関係を明らかにするために用いた「装置dispositif」と区別します。この二つの概念は、日本語では同じ訳語があてられ定着しています。しかし、デオット教授は「装置dispositif」の語には 「意のままにする mettre à disposition」や「任意の誰かに影響力を与えるdonner du pouvoir sur」のような人と人の力関係に関わる意味しか持っていないと指摘します。それに対して、「装置appareil」にはその動詞形であるappareillerが「人工器具をつける」や「調和させる」、「組み合わせる」という意味があるので、デオット教授はこの用語を「美的なもの」を生み出すための調整の原理としての美学及びこの美学と、絵画の技法からメディアのような機械技術を含んだ広義の技術との関係を考察するための概念として用いています。おそらくこういった問題関心から、デオット教授はルフェーヴルの思想における技術の問いの所在について質問してくれました。この点に関して、私は、第二次世界大戦後フランスにおけるハイデガー受容に一役買い、自ら技術の哲学を発展させたコスタス・アクセロスとルフェーヴルとの関係、また、ヴィリリオとルフェーヴルについて言及し、この論文で展開しなかった技術の主題には取り組む余地があると応答しました。デオット教授は私の応答に付け加える形で、ルフェーヴルがパリ第十(ナンテ―ル)大学で教えていたのとほぼ同じ時期に教鞭をとっていたジルベール・シモンドンの技術論を一つの参照軸とするようにというコメントをしてくれました。
 続いてブロッサ教授は論文に関わる三つの質問を提起しました。第一に、哲学と社会学の関係について、第二に、今日におけるマルクス主義の定義について、第三に、「社会的なものle social」と「解放émancipation」の結びつきが強かった1960年代から1970年代のフランスにおいて、いかに政治と都市の関係や、政治と空間とのつながりを考えられるのかというものでした。
  第一の質問に関しては、まずルフェーヴルが哲学の教育形成を受けた点を指摘しました。次に、ルフェーヴルも参照しているメルローポンティの「哲学者と社会学」と題された論文に主に依拠しながら、観念を扱う哲学と事実を扱う社会学として一般的になされる対比に対して、事実を扱う学問においてもつねに解釈が要求される以上、社会学にも哲学が要請されるという点を主張しました。第二の質問に対しては、近代化の過程とともに、その過程の批判理論としてマルクス主義が世界に広まった歴史(とりわけ日本の文脈に触れながら)を喚起した上で、そのような批判の力をアクチュアリティのなかで伝達・継承することtransmissionが今日のマルクス主義思想の定義に関わるものであると述べました。第三の質問に関しては、正直に言えばその場ではすぐに応えられませんでした。後から反省すれば、都市や空間が社会的なものを形作っているという論文の趣旨にしたがって問いに応じることは可能でした。
 審議後、学位の授与がその場で行われました。二人の教授は論文に高い評価を与えてくれました。しかし、反省点がないわけではありません。試問の中で、ブロッサ教授は内容の点では十分であるが、フランス語の表現力が不十分であることを指摘しました。この点とともに、5、6時間におよぶ博士の口頭試問を考慮すると、フランス語の研鑽を積むこともまた今後の継続的な課題であるといえます。二人の教授が試問のなかで与えてくれた多くの貴重な示唆や課題は、博士論文の執筆作業のなかで生かしていきたいと思います。
 今回の修士論文の提出によって、本派遣プログラムを利用して私が計画していた二つの目的のうちの一つを果たすことができました。フランスの博士課程に入学する前に、フランスでの大学教育を経験するため、昨年の9月の留学からパリ第八大学の修士課程で学んできましたが、これからはフランスの大学制度内での修士課程から博士課程への進学でもあるということを自覚して、フランスでも通用する研究を進めて行きたいと思います。そして、引き続き本派遣プログラムの支援を受けながら、私の第二の目的である博士論文執筆の作業を着実に進めていきたいと思います。
 今月の22日から25日までパリ第十大学で行われていた第6回マルクス国際会議Congrès Marx International VIのいくつかの発表に参加しました。この会議は1995年9月に同大学で開催されて以来、3年毎に開催されている国際コロックです。6回目にあたる今年は、総括的な主題として「危機、反乱、ユートピア」が掲げられていました。この会議の内容および会議に参加した思想家たちについては、別の機会に報告したいと思います。

 

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