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2010年10月 月次レポート(平田 周・フランス)

短期派遣EUROPA月次レポート(10月)
                                                                 平田 周

 10月1日から報告者は、国際大学都市内(パリ14区)日本館からブラジル館へ引っ越しました。大学都市には、ル・コルビュジェ(1887‐1965)の手掛けた建物が二つあります。スイス館とブラジル館です。スイス館は、コルビュジェの最初の大規模な公共建築である「救世軍本部」(大学都市の隣のパリ13区)と同じ1933年に建てられました。コルビュジェの前期の代表作である「サヴォワ邸」(1931)が、細い円柱が並ぶピロティ(建物の一階部分に柱だけ残し、吹き放しにする建築様式)によって、空中に浮かぶ「白い箱」のような開放的な形態をとっていたのに対して、留学生が住む集合住宅であるスイス館は、ピロティがもっと大地に根を張るようなコンクリートの太い柱によって構成されています。もちろん個人の邸宅と集合住宅の違いはあるとしても、二つの建物の低層部にあるピロティは、それぞれの外観に非常に異なる印象を与えています。このようなスイス館に似て、ブラジル館の一階部分は、暗く重々しくさえ感じさせます。他方で、1959年に建てられたブラジル館は、戦後のコルビュジェの代表作マルセイユのユニテ(1952)の特徴の一つである「ブリーズ・ソレイユ」と呼ばれる日除け格子を持ち、むき出しのコンクリートにも原色が施されることで、ユニークな表情を持っています。
 このような建築を手がけてきたコルビュジェには建築家としての側面の他に、都市計画家urbanisteとしての側面があります。建築家と都市計画家の側面を含めたコルビュジェの活動の全体像を描き出すことはとても困難なことです。なぜなら、彼が自分の思想を表現した著作や実現されたかったものを含めた建築の設計、そして、具体的に建てられた建築とその社会的影響力や彼の建築思想の後の世代への継承とのあいだには必ずしも一致しないものがあるからです。言い換えれば、コルビュジェの固有性は、彼の著作や設計、建築のどれかから単純に導きだされるものではないように思われるのです。
  それでも、課題としているルフェーヴル研究との関わりで、コルビュジェが問題になるとしたら、都市計画urbanismeの問題においてです。以下では、今まで報告者の研究において未整理であった二人の関係についての概略を報告したいと思います。
  コルビュジェは、「都市計画家は建築家に他ならない」と述べています。しかし、この「建築家」が産業化時代の分業化の進展において生まれた専門的な職業という意味で理解されるならば、第二次世界大戦後のパリの復興における「都市計画」は、建築家だけに委ねられたものではないことは明白です。なぜならば、都市計画は、ティエリー・オブレが述べるように(Gouverner la ville, PUF, 2005)、戦後のフランス社会の住宅危機を始めとする社会問題を解決するための都市政策に組み込まれて、政府が取り組むべき課題となるからです。
  コルビュジェの都市計画は、進歩主義的なモデルによって特徴づけられています(Françoise Choay, L'urbanisme, utopies et réalités, 1965, Seuil)。それは、産業時代に適した都市を設計するためにテクノロジーを用いることで、旧来の建築や都市と決別するものです。例えば、鉄筋コンクリートとエレベーターがこれまでの水平的な町並みから垂直的な都市景観への移行を可能にします。そして、建物は、自動車やアイロンと同じように、設計され、工場で作られ、産業化された製品にされなければならないものとされます。こうした産業的な製造のためには、建物のプロト・タイプや規格normeの定義が必要とされ、それこそが近代の建築家の課題の一つとされます。このような建築と都市計画の思想は、1933年の第4回近代建築国際会議(Congrès internationaux d'architecture moderne : CIAM)において提出された「アテネ憲章」を通じて、公式に定式化されました。しかし、コルビュジェの都市計画の理念は、同時代的にはほとんど受け入れられず、それがフランスにおいて適用されるようになるのは、戦後においてです。
  パリを現在の姿にしたのは、よく引き合いに出されるように、第二帝政におけるナポレオン三世とオスマンのペアではなく、ジョルジュ・ポンピドゥー(1969年から1974年まで大統領)とアンドレ・マルローのペアだと言われます。コルビュジェが1924年に出版された『建築をめざして』のなかで、パリが持っている古く、衛生状態の悪い街路を放棄しなければならないと主張していますが、この主張は、1960年代のポンピドゥーの主張、「パリは自らを自動車に適用させなければならない。我々は時代遅れの美学を放棄しなければならない」と、似た響きをもっています。コルビュジェは街路に衛生をもたらすために、ポンピドゥーは個人が車を所有するようになった車社会のなかで、それに見合った都市の改造を主張します。
  こうした都市計画は空間を「枠づけ」し、そこに一定の機能(衛生や速度)を付与しようとします。ルフェーヴルが、1960年代から70年代の前半にかけて展開した都市論において、批判の対象とするのは、まさにこのような都市計画が行う「空間の枠づけ」とそのために動員される都市計画の科学性です。機能主義的な空間の枠づけに関していえば、ルフェーヴルは、その空間に生きるものの「住むhabiter」という行為を無視した、環境決定論的なものと見なします。そして、都市計画の科学性に関しては、ルフェーヴルは、都市計画が科学的に中立なのではなくて、諸々の社会的な利害関係において実行されるものだと考えます。第一の論点に関しては、〈空間の機能fonction〉に対する住むという行為がもつ〈空間の活用usage〉として定式化され、この対立は、ミシェル・ド・セルトーらに引き継がれていきます。また、第二の論点に関しては、都市計画の科学的中立性に対するイデオロギー批判として展開され、その批判は、地理学や都市社会学の領域において、それぞれの学問の領域の自律性と政治との関係についての考察を促すものとなっていきます。
  こうしたルフェーヴルの考察との関わりで、再びコルビュジェの都市計画について考えてみると、彼の都市計画は、単なる虚偽意識という意味でのイデオロギーとして片付けられてしまうものなのかどうかという疑問を持ちます。おそらくルフェーヴルも、そして、私自身もそうだとはとても思いません。コルビュジェの試みは、産業化の時代において建築や都市のあり方を考えるという前代未聞の問いに対して、一つの回答を与えようという巨大な試みです。その試みに十分に考えられていない部分があるとしても、コルビュジェを考えるというのは、都市が孕む建築という芸術や社会的な集団性、政治などの複雑な関係を考えることと密接に結びつくのだと思います。まさにこうした複雑な関係を、コルビュジェを含む都市計画家に対するルフェーヴルの批判がわれわれに気づかせてくれているように思われるのです。

        Hirata10-1.JPG       Hirata10-2.JPG
         ブラジル館                                   サヴォワ邸

 

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