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2009年6月 月次レポート(足立享祐 イギリス)

月次レポート(2009年6月分)

                                                                  ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)派遣者
                                                                          足立享祐(2009年3月22日~9月21日)

 派遣期間も折り返しを過ぎつつある。5月から6月にかけては、"South Asian Experiences of the World Wars: New Evidence and New Approaches (5月26日)", および"Tellings, Not Texts: Singing, story-telling and performance ( 6月8日~10日)"と題したワークショップが開催され、これらに参加した。またSOASでの調査と平行して、英国図書館(British Library)所蔵の東インド会社文書とヨーロッパにおけるマラーティー語研究に関連する文献の調査・収集を進めている。

 『マハーラーシュトラ州地誌 言語・文学篇(1971)』によれば、最も初期のマラーティー語の例は、マイソールで発見された983年の碑文とされ(p.9)、その文学様式は、13世紀末のジュニヤーネーシュワルらによるバクティ運動の中で大きく発展を遂げた。

 1674年にシヴァージーによりマラータ王国が建国され、勢力を広げる頃には、マラーティー語はヨーロッパにおいても次第に認知されるようになる。ヨーロッパに流入したインド諸語の語彙の歴史的用法を集成した『ホブソン=ジョブソン』の"Mahratta"の項にもあげられている、1698年刊の『東インド・ペルシア 新見聞録 A new account of East-India and Persia, in eight letters』{BL所蔵番号 567.i.20.他}では、東インド会社職員と共にシヴァージーへ謁見を求めた際、約定書がマラーティー語"Moratty language"に翻訳されたことが記されている(p.78)。

 グリアソン(George Abraham Grierson)の『インド言語調査』が指摘するように、18世紀に入ると、ヨーロッパの文献において、マラーティー語がその言語名称と共に具体的な実体を持って語られ始める(vol.7, pp.15-17)。
その中には、ライプツィヒで刊行された『Thesauri Epistolici Lacroziani』 {BL 所蔵番号 636.k.21.他}に収録されたTheophilo Sigfrido Bayeroの1731年の記述(vol.iii, pp.64-65)、あるいは、同地で1748年に刊行された『Orientalisch- und Occidentalischer Sprachmeister』{BL所蔵番号 621.b.21.他}の記述がある。特に後者については"Marathicum Alphabetum"としてモーディー文字が収録されている(pp.94-98)。

 ここで注意すべきなのは、ナーグリー(デーヴァナーガリー)文字表記のマラーティー語が、"Balabande"として別個の扱いがなされている点である(pp. 123-125)。実際に、19世紀初頭のボンベイ管区においても、デーヴァナーガリー文字は、バールボード文字と呼ばれるのが一般的であり、モーディー文字と併用されている。マラーティー語を表記する文字が、現在標準とされている、デーヴァナーガリーへと収斂していく過程については、ヒンディー語の問題と同様に、十分な検討が必要であろう。

 これらのマラーティー語への認識は、1778年のローマのカトリック教会布教聖省(Congregatio de Propaganda Fide)から出された、『グラマティカ・マラスッタ Gramatica Marastta a mais vulgar que se practica nos reinos do Nizamaxà e Idalxà: offerecida aos muitos reverendos padres missionarios dos dittos reinos』{BL所蔵番号 T 39826 (c)}で一つの形を見ることになる。本書はローマ・ラテン文字で表記されているものの、ヨーロッパで出版された体系的な「マラーティー語」文法書の最も初期の例となっている。

 残念ながら、イギリス以外で出版された資料、特にラテン語文献については、記述言語に対する報告者の知識が不十分なことに加え、成立過程に関する資料上の制約から、未だ不明な部分が残されている。これについては今後の課題としておきたい。

2009年6月30日

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