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2010/10/29 平成22年度附属図書館講演会 <読書への誘い>第5回



講師 増谷 英樹先生(本学名誉教授・獨協大学特任教授) 略歴

 1942年1月東京生まれ。東京大学大学院人文科学研究科(西洋史)を経て1973年より2年間ハイデルベルク大学留学。東京都立大・助手ののち1976年より2004年まで本学に勤務。この間ウィーン大学客員教授も勤める。現在、本学名誉教授、獨協大学特任教授。
 オーストリア・ドイツ近現代史、ユダヤ史を専門として、『歴史のなかのウィーン』(1993、日本エディタースクール出版)など著書多数。最近の編著に『移民・難民・外国人労働者と多文化共生 日本とドイツ / 歴史と現状』(2009、有志舎)がある。

講演要旨 <私の研究・留学・図書館>

 今日は表記のように「私の研究・留学・図書館」というテーマでお話しします.それが結果として「読書への誘い」という講演の枠にあてはまってくれれば幸いです.

 僕が大学院に進んで研究らしいことを始めたのは,一昔どころか半世紀も前のことで,いまや歴史研究の対象にさえなっている1968年を頂点とした学生運動の華やかかりし時代です.当時大学では政治や運動などに関する議論が毎日のように繰返され,我々の読書もマルクス/エンゲルス,レーニン,毛沢東,ウェーバーなどで,いわば論争に負けないようにと読書をしていて,歴史研究に直接役立つ読書ではありませんでした.それでも若いときには論争し古典的なものを読むことは重要で,後に再読することによって身に付いてくるものです.僕の場合にも後で研究にも役立ってきました.

 研究の方ですが,当時の勉強方法は,現在のやり方とはかなり異なるものであったことは確かです.当時はコピー機もなければ,マイクロ・フィルムなども出たてで,研究の道具立てもまさに手工業的で,歴史研究への道も徒弟・職人修行のような観がありました.どの分野においても,大抵は親方的な大先生がいて,その周囲に職人的な先生が具体的な技術を教えるといったいわば学閥みたいものが存在していたのですが,僕はそうした大先生などは恐れ多くて近寄れなかったので,むしろ「先輩」といった感じの若手の大学院生や研究者に接近していくしかありませんでした.特に親身に厳しい指導を受けたのは,一昨年に惜しまれて亡くなった西川正雄さんでした.西川さんは当時アメリカでドイツ人の亡命歴史学者ハルガルテンに薫陶を受け帰国したばかりでした.西川さんには調べることの厳密さと徹底さを教えられました.ゼミでは学生が「調べても分りませんでした」と言おうものなら,「何を調べて判らなかったのですか」と追求され,徹底的な調査が要求されました.現在の学生はネットで調べれば何でも出てくると思っているかも知れませんが,西川さんはそれ以上の調査を要求していました.その際図書館の利用を強調されました.現在でも図書館は今のネット以上の役割をはたしていたし,現在もそうであることは確実です.皆さんもっと図書館を活用しましょう.

 さて,そうこうしている間に,東大の西洋史の若手教員の柴田三千雄さんがフランスから帰国し,『バブーフの陰謀』という本を書きます.バブーフはフランス革命の時代に徹底的な平等主義思想から武装蜂起を起こし処刑された人物ですが,柴田さんの本は,そのバブーフの陰謀をパリの文書館の警察資料を掘り起して分析するといった画期的な研究であり,簡単に言えば,それまでの土地制度研究や政治史研究中心の研究に対して,運動や個人の思想を対象とした社会史研究のはしりでした.それは当時の若手研究者には大きな刺激を与え,僕も,あわよくばそうした史料を使った研究をしたいと考えました.当時ドイツ史では現代史とくにナチ時代の歴史研究が盛んであったのですが,僕はそれと逆行する形で19世紀に遡り,ドイツの1848年革命研究をめざすようになっていきました.修士論文は革命以前の市民運動をテーマにしていましたが,1973年に,幸いにしてドイツ政府の奨学生としてハイデルベルク大学に留学したときには1848年革命は僕の主要なテーマになっていました.

 なぜハイデルベルク大学を選択したのか,一つは当時同大学には19世紀ドイツ史の専門家Werner Conzeが居たからであるし,ハイデルベルクは,1848年革命時にドイツ国民議会が開催されたフランクフルトに近いということもありました.4ヶ月の南ドイツのゲーテでの語学研修は楽しい場でした.語学研修の後ハイデルベルクに移り大学での研究生活に入ると,むしろ苦悩の連続であった思いがあります.最初は,外国からの留学生も多かった大学院のコロキウムでの発表などは,テーマやドイツ語のなまりやスピードの問題もあったのですが,半分も判らなかったのです.しかたがないので,大学の図書館や大学院生の共同研究室に与えられた机で本を読むという日が続きました.

 ハイデルベルク大学は,現在のドイツ領における最古の大学で,1386年にプファルツの選帝候ルプレヒト1世が教皇の許可を受けた神学大学として創設されました.その図書館も同様に旧く充実したものでした.映画の『バラの名前』(ウンベルト・エコー原作,ショーン・コネリー主役)に見られるように,中世のヨーロッパにおいて図書館は,教会・修道院ないしそれと結ぶ権力者の「知の独占」の道具であり,支配の論理の源泉でもあったのですが,同時に人間の知を引き継ぐ役割を果たしていました.その最後の役割は現代まで引き継がれているといってよいでしょう.ハイデルベルク大学の図書館も例外ではなく,宗教改革から30年戦争の時代にはその貴重な蔵書をめぐってカトリックとプロテスタントの間で争いも起こります.その後大学はドイツにおける人文主義や自由主義の中心となり,ヘーゲルからマックス・ウェーバーなど著名な教授を生み出していった.図書館の蔵書も拡大し,歴史分野においてはドイツの1・2を競う程です.特に,僕の研究分野である1848年革命研究に関しては,革命時にハイデルベルク大学の教授陣が大量に革命に参加しフランクフルトの国民議会の議員に選出されたこともあって,史料的著作を含めてほぼ総てを網羅しています.皆さんがこれから留学を志す際には,テーマによって何処の大学を選択するかを決めることになりますが,その基準の一つにどのような図書館を持っているかを考えてみることが必要となります.

 さて,図書館とならんで歴史研究にどうしても必要なのは文書館ないし史料館です.ドイツには国立の文書館があり,地方にもそれぞれ独自の文書館もあります.僕のテーマである1848年革命に関しては,革命当時ドイツ国民議会が開催され革命の中心地であったフランクフルトには革命の資料を集めた特別な国立文書館があって,僕は図書館での研究書読みがある程度進んでくるとそこに通い始めました.最初に文書館に行ったときには,まず文書館の司書に面会させられ,何をどういう視角で研究するのか,見たい史料は何かと,大学院の入試口頭試問みたいなことをやられました.文書館の司書は大学の教授の資格とは別の資格を持っているのですが,大学の教授とは対抗意識を持っていて,史料館の史料研究や管理に関しては誇りをもっています.何とか返答して,見たい史料を出してもらうと,今はもうそういうことはないと思いますが,当時はその史料を使った者はそのファイルに名前をサインしておく必要があったのです.そのサインをみると1848年革命の古典的著作を書いたValentinであるとかQuarck,Blumとかいった錚々たる人の名前がならんでいました.感激して僕もその後に自分の名前を書き込んでおいたのですが,後でちょっと面映い気分になりました.

 僕のテーマである1848年革命に関してですが,パリの2月革命に始まり,ベルリン,ウィーンの3月革命に飛び火し,ドイツではフランクフルトの国民議会による憲法討議を生み出したが,6月のパリで武力による労働者蜂起の鎮圧により反革命がしだいに勝利し,ドイツでも秋にはプロイセンの軍隊による国民議会の解散という過程が前提とされ,1848年の革命は全体としてフランス革命という市民革命と1917年のロシア革命の中間に位置するものとされていた.特にドイツの革命は結局統一という民族的課題も憲法制定という市民革命的課題も果たすことができずに「失敗した革命」とみなされ,革命の失敗後ドイツの統一はプロイセンにより「上から」実現されていったと理解されていた.それ故,革命研究はなぜそれが失敗に終わったのかを解明することが重要な課題となっていた.ドイツの市民階級のひ弱さが指摘され,国民議会が議論に明け暮れていたことが問題にされたりしていました.

 そうした中で,僕はむしろ市民層や国民議会が民衆による底辺の力をなぜ味方にしえなかったのかが疑問であった.そして,革命運動の中でそうした民衆や労働者,零落した職人・徒弟,未熟練の下層民,プロレタリアートと呼ばれていた人々の運動を分析してみようと思ったのです.それはなかなか難しい作業でした.それでもベルリンやいくつかの都市の労働者新聞などが図書館や文書館にあったし一部は復刻されたりしたのでそれらを手に入れて読むのが僕の仕事でした.Conze教授が「完全版はもうないよ」と言われた印刷工の機関誌 “Guttenberg”の完全版を,マインツの印刷文書館で掘り出したときの興奮は忘れられない思い出です.

 そうした史料を抱えて帰国した後,一橋大学の良知力さんの大学院ゼミを中心にした1848年革命の研究会が立ち上げられ,僕もその一員にくわえてもらいました.良知力さんはウィーン滞在中に病を得て僕と同じ頃に帰って来ていました.研究会は『[共同研究]1848年革命』を上梓し,『思想』の1848年革命特集に加わったりしました.良知さんは『向こう岸からの世界史』を著し,日本ばかりではなくヨーロッパ(とくにドイツ)での革命研究を批判し,歴史研究そのもののあり方を問い直すような視点を提起したのです.この研究会で僕は大きな刺激を受けたのですが,その後僕は1981年に交換教授でウィーンに行く機会を得て,そこでその良知力さんがやり残してきたウィーンの1848年革命の研究を引き継ぐチャンスを得ました.良知力さんは自分の持っていた蔵書と史料リストのコピーを持たせてくれました.「僕のやれなかったことをやってこいよ」と言われた気がしました.このウィーンへの留学の最中,交換教授の仕事以外のかなりの時間僕は大学の図書館と国立図書館,文書館で生活していた気がします.古本屋歩きも重要かつ楽しみな仕事でした.

 ウィーン大学も旧い大学で図書館も面白いものでした.神聖ローマ帝国内ではプラハ大学に続く二番目の大学で,大公によって創られたが,教会の支配が強くとくにイエズス会の支配が長く続いていた.マリア=テレジアなどの絶対主義の時代に世俗化が進められ,大学は国家の教育機関として官僚や医者を育てるようになっていった.教育に対する教会の影響力を徹底的に排除したヨーゼフ2世の寛容令によってプロテスタントやユダヤも進学を許され,ドイツ語が教育言語とされるようになる.1848年のウィーン革命においては学生とユダヤが大活躍しますが,その背景にはこの寛容令があるのです.

 当時は大学図書館のカタログは何と大きな革張りの本になっていて,著者名,書名などは手書きで書かれていました.ドイツ語の手書きは慣れないとなかなか読めず,重い本を持って何度も係のところに聞きにいかねばなりませんでした.もっとも読めないのは僕だけではなく,若い大学生も読めずに苦労していました.閲覧室も重厚でなかなかなものでした.当時のオーストリアの大学生は進学率もまだ低くかなりのエリート層であったこともあり,皆よく勉強していました.

 国立図書館の方も歴史と伝統を持っています.それは元々宮廷の図書館として出発します.14世紀に大公アルブレヒト3世によって宝物の一部として貴重な図書が集められたのです.それは支配の権威を示すものとして次第に増やされ,神聖ローマ帝国の支配下では並ぶもののないほどになっていきます.18世紀にはそうした図書館用に建物が建てられます.ウィーンの宮廷の一部にヨーゼフ広場という場所があり,中央にはヨーゼフ2世がカエサルの格好をして馬に乗っている銅像がみられますが,その銅像に後ろの建物がその建物で,2階にはプルンクザールと称する展示部屋があり,時々面白い展示をやっています.この夏には「ユダヤ,キリスト教徒,ムスリム―旧い書物の中の知的な会話」というとても面白い展示をやっていました.この宮廷図書館は第一次世界大戦後の1920年に国立図書館と改名され,オーストリアの総ての図書が集められます.ナチの支配下では「アーリア化」されたユダヤの貴重で高価な本もここに入れられました.それらは後に返還問題の対象ともなります.戦後図書館は次第に拡大され,英雄広場の前の新宮殿の中の地下深くまで広げられていき,設備も近代化されていきました.

 そうした歴史を持つ国立図書館は,1848年革命に関してもかなりの資史料を集めていました.その一部は,ナチの支配下の混乱や,第二次世界大戦後のソ連軍による押収によって散逸してしまいました.ソ連軍が押収した資史料はモスクワにあるといわれています.だが幸いなことには,図書館には革命時に出された膨大な数のビラが残されていたのです.ヨーゼフ広場にある旧い貴重な本を集めたアルベルティーナー閲覧室でそのビラを読みあさることが,その後の僕の仕事になりました.良知力さんも薄々気付いていたようですが,そこまで手がまわらない内に病に倒れてしまったのです.ビラは日付のあるものは日付によって,ないものはタイトルのアルファベット順に整理されていたのですが,それらを毎日のように読み進めていったのですが,わけのわからない内容や,チェコ語やハンガリー語のもありました.面白そうなものはチェックしてコピーやマイクロ・フィルム化の申請を出します.あれもこれもほしくなるので,かなりの数を注文していたので,やがて副館長に呼び出され「お前は何故こんなにコピーやマイクロの注文を出すのか」と詰問されてしまいました.学問的な仕事本だと答え,ようやく作業をすすめることができました.

 ビラ類はその性格上革命の中では,民衆の生身の声に近いものを伝えているように思えました.ビラを実際に書いている者は,字が書ける者で知識人や学生あたりが中心になると思われるのですが,特に学生たちは国民軍の中でも地域に密着しないアカデミー軍を組織し,失業対策の公共事業に雇われた労働者や民衆,女性(当時公共事業に従事する労働者の半数が女性でした)の組織役をまかされていたので,彼らの要求や言葉を直に聞いていたのです.彼らはそれらをビラに直接表現していたのです.

 そうしたビラを読んでいく中でしだいに気づいてきたのは,市民層と民衆は革命の中でそれぞれ異なる要求と方向性をもって運動し,異なる革命,異なる近代を求めていたのだということ,そしてそれぞれの革命は彼らが別れて住んでいた地域によって,当時のウィーンでは壁の外と内によってはっきりと分れていたということです.それらは,ときには共同戦線を張ることもあれば,真っ向から対立することもありました.それぞれの革命の中でもその職業や宗教,性別によっても要求は異なってきます.そうした中で1848年の革命はこれまでとはまったく違った様相を呈して現れてきました.それは多様で複眼的で,さまざまにゆがみ,膨らみながら流れていく流れのようです.それらがひとつとなってウィーンの革命を形成しているのです.その中の何を取り出し,何を強調して語るかは,それを分析するものの視点と力量に委ねられのかもしれません.詳しくは『ビラの中の革命』(東大出版会)を読んでいただければお分りいただけるとおもいます.そこには僕の研究と留学と図書館の絡み合いが表現されているとおもいます.


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