活動報告

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センターの活動報告です

東京外国語大学国際日本研究センター 対照日本語部門主催 『外国語と日本語との対照言語学的研究』第22回研究会 「「は」「が」と判断 ― ドイツ語学と日本語学の接点 ―」(2017年9月23日)

『外国語と日本語教育との対照言語学的研究』第22回研究会

特別企画「「は」「が」と判断-ドイツ語学と日本語学の接点-」

2017年9月23日

発表「主語・述語の文法と主語・述語の論理-Anton Marty の言語論を通じて-」 藤縄康弘氏
講演「ドイツ語V2と日本語教育「は」との機能的構造的等価性:二重判断の言語化」 田中愼氏
講演「助詞の語性・ご列の意味・文としていの意味-「は」「が」をめぐって-」尾上圭介氏

趣旨説明

"thetic judgment"(単純判断)と "categorical judgment"(カテゴリー判断・二重判断)という概念は、BrentanoやMartyらドイツ語圏の哲学者によって19世紀後半から20世紀初頭にかけて提唱されたものだが、1972年の黒田重幸の論文において日本語の「は」と「が」の用法と関連して再び取り上げられるようになった。そこで、本研究会では、ドイツ語学と日本語学の研究者をお招きし、それぞれの立場からお話をいただくこととなった。(成田節)

藤縄康弘氏「主語・述語の文法と主語・述語の論理 -Anton Marty の言語論を通じて-」

 ドイツ語学を専門とする藤縄氏は、19世紀スイスの哲学者 Anton Marty がその言語論の中で提唱した2種類の判断、すなわち「カテゴリー判断」と「単純判断」という観点から、ドイツ語と日本語の文法について対照させつつ論じた。

 Marty の言語論では、「カテゴリー判断」は「この色は赤だ」のように論理的主語・述語が揃った判断である。一方、「単純判断」は論理的主語を欠く判断で、ドイツ語では存在文や非人称文がその典型例であるといえる。日本語については、これらの判断の別を「ハ主語」「ガ主語」によって示すというKuroda (1972) の論を検討し、「ハ」と「ガ」の使い分けが両種判断と必ずしも1対1対応するわけではない(ただし決して恣意的な関係というわけでもない)こと、量化表現に関する考察から日本語にこそMarty の見方がそのまま当てはまることを述べた。またドイツ語については、両種判断の反映として、命令文は基本的にカテゴリー判断を示すものの、単純判断を示すこともあり得るのに対し、希求文は単純判断のみ示すとした。

 さらに、ドイツ語と日本語の両言語を見据え、論理形式と文法形式の対応に2つのタイプがあると論じた。1つは2種類の判断に対し1つの文法形式が対応するもので、ドイツ語の平叙文(および疑問文)がこれに含まれる。もう1つは2種類の判断に対し2つの文法形式が対応するもので、日本語では平叙文(および疑問文)が、ドイツ語では命令文や希求文がこれに含まれる。その際、単純判断に特化した表現形式はあり得ても、カテゴリー判断に特化した表現形式はないという非対称性が認められた。

 藤縄氏の発表は、両言語の文法形式を考える上での論理的な構造を理解するという点で示唆に富むものであった。発表後の質疑応答も活発に行なわれた。(降幡正志)

田中愼氏「ドイツ語V2と日本語「は」における機能的・構造的等価性について:二重判断の言語化」

Kuroda(1972)は,Brentano,Martyらによって,19世紀後半から20世紀の前半に提案された二つの種類の判断(カテゴリー判断=二重判断,単純判断)を,日本語研究における文分類(判断文,現象文)の伝統からヒントを得つつ,言語学に再導入した。カテゴリー判断は,陳述(predication)のベース(太郎は)と陳述(試合に勝った)という二つの部分からなる。他方,単純判断(thetic judgment)は陳述を分析せずに一つのものとして提示する形式である(太郎が試合に勝った)。これは認識を同定し,判断を表出し,聞き手に働きかけるという言語の機能に基づいた汎言語的な概念である。

カテゴリー判断は,当該言語の無標な形式で表される。すなわちドイツ語では主語を有し,定動詞を文頭から2番目に配置するV2(定動詞第2位)文で,日本語では「は」を有し主観的判断を表す判断文で基本的には表される。他方,単純判断は一般に有標な形式で実現される。日本語では「は」を伴わない現象文が単純判断の基本的な表現形式であるが,ドイツ語ではV2文がその周辺的な用法として単純判断の表出に用いられる。カテゴリー判断が無標,単純判断が有標であることの一つの表れとしては,具体的な事象の観察(ヴェルナーはスキーが上手だねえ)であるカテゴリー判断が,知識の蓄積(ヴェルナーがスキーが上手なこと)となる単純判断に時間的に先行していることなどが挙げられる。

また,言語ごとの陳述の形の違いは,テクストへの文の「埋め込まれ度」と深く関係している。ドイツ語など,基本的には主語を明示する言語では文の境界は明瞭であり,それぞれの文を言わばブロックとしてテクストが構成される。一方,日本語など主語よりトピックが重要な言語では,文の輪郭は不明瞭になりがちであり,それらが粘土をつなげるようにトピックを軸にしてテクストが形成される。(成田節)

 尾上圭介先生(元東京大学)「主語述語関係の内実」

 (述定)文に主語述語関係が存在することは言語普遍的である。そのことの内実を考えた上で、主語述語関係について考えるべきことを3点取り上げた。 (1)日本語における「主語」は「ガ格(に立つ)項」と規定するしかない。その内実は、認識の側面で「事態認識の中核」、存在の面で「存在するもの」という2面の相即である(これは言語普遍的な主語の内実)。ただし、「水が飲みたい」「昔のことが思い出される」など(「B級主語」)は「事態中のモノ的中心」であると言える点で主語の内実を満たすが、多くの主語と異なり「事態認識の基盤」とは言い難い(述定に先立って承認されている主語ではない)。なお、「B級主語」を意味的特徴から主語ではないとする議論は当たらない。 (2)日本語の「Xハ」が主語と似ていながらも主語とは違う成分であることから「題目語」という概念が要請された。伝達上のある気分につけた名称であるから、その規定は困難だが、典型的な題目語の要件として2項目3点が提示できる。なお、ガ格項である「Xハ」はほぼ「二重判断」の主語と言ってよさそうだが、「Xガ」が全て「単純判断」の主語というわけではない。 (3)藤縄氏発表との関係で、命令文と主語との関係について数点を指摘した。(川村大)

 本日の研究会は、日本語と類型的に異なる言語を対照させることにより言語の普遍性と個別性を探るという対照日本語部門の研究会にふさわしい企画と議論であり、観客の多くの皆さんから高い評価が得られた。


藤縄康弘氏


田中愼氏


尾上圭介先生

ポスター (PDFファイル)