

現在各方面でご活躍の東京外国語大学大学院修了者の方に、大学院時代を振り返っていただきました。
2005年3月 博士課程修了。博士(文学)。
現在、中国・北京林業大学外国語学院 専任教師。
現在私が所属している北京林業大学は中国の重点大学で教育部(日本の文部省に当たる)の「211」プロジェクトに入っています。現在、学生数13,000人、教員1,200人という総合大学へと発展しつつあります。大学で日本語を専攻とする学部一年から四年までの100名の学生を対象に教えております。主な担当科目は日本文学、日本概況、中日翻訳教程、基礎日本語教程などです。
研究も着実に進んでおります。発表した論文や編著した辞典や教科書も国内外で幸いなことに好評を得るに至りました。中日文化交流の促進にも力を入れております。今日の仕事は東京外国語大学大学院の修士課程、日本言語文化コース及び博士課程地域文化専攻で習得したものをベースにしております。特に日本語の知識を着実に学んだこと、日本の古典作品を着実に読み解いて来たこと、及び指導教授に厳しく叩かれて日々研究に没頭して切磋琢磨していたことに拠ったと存じます。修士論文は「『源氏物語』における明石君の人物造型」、博士論文は「源氏物語探求—物語のトポロジーとヒロインたちの栄華」を完成しました。
大学院で勉学した当時を思い出すと、感慨無量です。私が勉強したのは日本言語文化コースで、外国からの留学生が多かったです。日本のほか、中国、韓国、インド、ルーマニア、フランス及びアメリカなどの七・八カ国の国籍を持つ学生が一堂に集まり、日本文学文化についていろいろと議論したことはとても珍しい光景であり、外語大ならではの特色でしょう。自国の文学の知見を生かした上での議論なので、お互いに刺激しあって新しいアイディアがいろいろと芽生えました。とてもオープンな学術的雰囲気のもとで、大学院終了の時点では、みんな十分に鍛えられ、日本の最高レベルの学会で研究発表したり、論文を書いたりして、一人当たり4本以上の論文を書きました。日本人研究者にとっても審査の厳しい学会で私たちは次々と研究発表したりしました。快挙でした。
東京外国語大学の大学院の教育精神は私たちを育んでくださいました。母校の先生の方々に改めて御礼を申し上げます。長い間、大変お世話になりましてどうもありがとうございました。
1993年4月博士前期課程入学
1996年3月 同上 修了
1996年4月博士後期課程入学
1997年3月 同上 中途退学
現在、島根大学外国語教育センター助教授
僕が外大の大学院を離れてから少なからず歳月が過ぎた。今の学生さんたちはどのような思いで大学院に入って来るのだろう。繕っても仕方がないので素直に書くけれど,僕にとっての大学院はモラトリアムの延長だったと言っていいと思う。のっけからネガティブな話になって広報担当の人には申し訳ないけれど,同級生たちがさっそうと社会に出て行く中(少なくとも僕にはそう思えた),何の答えも出すことができずにいた。
結局のところ,僕は物事を理解するのに人より時間がかかるらしい。これは僕が専攻したドイツ語の分野でも同じで,あの頃の僕は相当にぱっとしなかっただろうなあ,と思う。けれど当時のZ先生のゼミでは,そんな学生も決して見下すことなく,もちろんおだてることもなく,研究の輪に加えてくれて,そして間違いなくそのお陰で,少しずつ,少しずつ,僕は先に進むことができた。
大学院に進むといろいろな人たちと出会う。自分の周囲の景色が変化していく。学会というものに参加してみたりもする。学部ではふつう経験しないことだ。さらに僕は一年間ドイツに留学することもできた(ドイツ語ができずに苦労した)。修士論文というものも書いてみた(寝不足との戦いだった)。実際のところ毎日大変だったけれど,とにかく精一杯一生懸命やったので,今となっては不思議なくらい後悔のない時期でもある。
世の中には十分に時間をかけないとできないことだってある。語学だってそうだ。直線的な時間の流れから外れた,大学院的な生き方を選ぶ人があってもいいと思う。そういう人ばかりでも少し困ったことになるけれど。
「ダスビダーニャ!」朝の成田空港でアエロフロートの貨物便に乗り込むロシア人クーリエを見送る。大阪の国立国際美術館を出たのは前日午後6時、美術品専用車に併走する警備車に乗って早朝成田の倉庫入り。さすがに眠い。75点のフランス近代絵画作品を計7回に分けて、運び、返却していく。こうして先日、ようやく最後の便が日本を出た。
朝日新聞社事業本部(入社当時は文化企画局)に入社して5年、メセナ活動、記者研修を経て04年より展覧会の企画・運営に携わる文化事業部で仕事をしている。先月まで担当していたのが待望の初「ロシアもの」、モスクワのプーシキン美術館からフランス近代絵画の名コレクションを紹介する「プーシキン美術館展」(東京都美術館、大阪・国立国際美術館)だった。
展覧会づくりにまつわる仕事は多岐にわたる。出展作品、借用料の交渉に始まり、会場探し、広報計画の作成、予算づくり、輸送計画、展示プラン作成、保険の手配、カタログおよび関連グッズの制作、クーリエ来日時のアテンド、作品点検、開会式の準備等々、通常最低数年の準備が必要だ。特に展覧会開幕直前は多忙を極めるが、お客様の喜ぶ顔を見ることができること、また幅広い分野の人と関わることができることは、大きな魅力だ。
大学院でロシア文学を学んだことが今の仕事に100%役立っているとは言い難い。自分には社会で働くほうが向いていると思っていた私にとって博士課程に進むという目標は、ほとんどなかった。ただ、大学4年間はあまりにも短い。言語を学び、基礎知識を得、ようやく学問の入り口に入ろうとさしかかった際に、就職というのは、非常に勿体ない、そしてもう少し本が読み、集中して論文を書いてみたい、そんな想いからごく自然に2年間の修士課程を選択した。
学生生活や現在の社会人との生活と比べても、大学院での生活はかなり孤独だった。集団から離れ、自分の中で、文学というもの、自分の中にある能力・才能というものに向き合わざるを得ない時間、それは今思うとかけがえのない時間だった。
5年前の入社当時、こんなことがあった。冒頭に挙げた「プーシキン美術館展」の交渉のため、モスクワから来日した80歳代の女性館長が社を訪れた。「ロシア語を話す」というだけで、偶然同席することになり話している際、ふと修士での専攻の話が出た。「アンナ・アフマートワの詩を学びました」と言うと、彼女は非常に驚いた様子で私の顔を見た。「アフマートワ?あなたが?」交渉の際の厳しい表情が一瞬和らぎ、微笑みがのぞいた。この件が交渉に何らかの影響を及ぼしたかはさだかではないが、その後契約は成立し、昨年彼女は再び開会式に出席するため日本に来日した。2年間の勉強はけして無駄ではなかった。今でもそう信じている。