イタリア語劇「抜け目のない未亡人」
イタリア文化会館での上演
                                      イタリア語研究室 山本真司
前書き
 このたび、駐日イタリア大使館文化部 (イタリア文化会館) より招聘があり、イタリア語劇「抜け目のない未亡人」を、新しくできた同文化会館のホールで上演することとなった。上演予定は、1月28日。これは、本学の語劇の歴史にとっても、意義深いことであると思われるので、以下、現在に至るまでの経緯を、それについての簡単な分析とあわせて、御報告申し上げることとする。

 これまでの歴史
 イタリア語専攻の語劇は、さかのぼれば、校章にその印を残す他の諸専攻語の場合と同じくらい古い歴史を持っているのだが、残念ながら、一度、90年代、西ヶ原キャンパスの時代に途絶えてしまっている。
 したがって、現在のイタリア語劇は、府中キャンパスへの移転後に再開されたものである。筆者も「イタリア語劇復活」の呼びかけ人の一人であった。昔の語劇を断絶の経緯まで知っている身としては、再開当初は、いつまたつぶれてしまうかと案じていたが、それも今年で数回を数えるまでになり、学生の課外活動としてすっかり定着したと言っても良いであろう。
 学生諸君の多くは、語劇の出演は1回きりあるいはせいぜい2回程度で、彼らにとっては、語劇はその年限りの出来事である。しかし、長い目で見れば ? 特に、指導・支援する教員の側から見れば − 語劇は年々継続していく取り組みであり、その間に工夫・ノウハウの蓄積・継承をどのように行っていくかが当然問題となる。一度途絶えてしまったイタリア語劇の場合は、その点で、不利な条件を抱えながらの再出発となった。
 事実、再開後最初の劇「ロミオとジュリエット」 は、学生諸君は自分なりにがんばったのだろうとは思うが、演技が下手なのはもちろん、発音・文法も間違いが多く、問題の多い出来であった。その後、毎年、努力・工夫を重ねるにつれ、それなりにながら少しずつ演技・イタリア語のレベルも向上してきていると思う。
 昨年度の劇「ピノッキオ」は、NHK イタリア語講座講師で本学非常勤講師の押場靖先生 (映像芸術論専門、本学の卒業生で、在学中は二度にわたってイタリア語劇で御活躍なさっている) の御指導をもいただき、近年上演のものの中ではとても良い出来であった。また、同時期に、ちょうど語劇と同じテーマ (ピノッキオ) で、テレビのイタリア語講座が進行していたこともあり、NHK が番組で本学のイタリア語劇を取り上げるという話が持ち上がったが、残念ながら諸般の事情で実現には至らなかった。

 経緯
 さる10月末より11月初旬にかけて、イタリア政府主催「国際イタリア語週間」が行なわれ、わが国でも、国際会議・講演会など一連の催しが行なわれた。この「国際イタリア語週間」には、本学も数年前より一部の教員と学生が積極的に参加し続けており、時には、本学が会場を提供したこともある。
 この「国際イタリア語週間」の一環として行なわれる「イタリア語教師と学生たちの集い」への参加の要請があり、それに応えて、本学は、イタリア語専攻2年生たちが、見事なコスチューム (学生の手作り!) に身を包んで、外語祭で上演予定の劇のプレゼンを行なった。これが、関係者にとても好評で、イタリア文化会館 (以下「文化会館」とする) の語学教育担当者から、劇そのもののほうを文化会館で上演しないか、とのお誘いがあった。文化会館側のスタッフの中には、これを、今年日本各地をまわったイタリア人による狂言の劇団の公演と対比して、文化交流上の意義を説く人もあった。
 本学イタリア語専攻にとっても、大変名誉なことであるから前向きに検討したいところではあるが、何しろ突然の申し出でもあり、劇そのものもまだまだ未完成のレベルであったので、その日は即答を避け、外語祭での上演結果を見たうえで改めて回答を申し上げることとした。
 その後、文化会館からは、文化担当官 prof. Fossati, イタリア語教師 prof.ssa Suzuki Maria Alfonsa の両氏が来校されて劇のスタッフと会談、励ましのお言葉をいただいた。学生諸君も、外語祭での上演でそれなりの「成功」をおさめ、また、発音・演技指導で積極的に関わってくださった、Federico Mozzicato 客員助教授、Alda Nannni非常勤講師などイタリア人の先生方の暖かい励ましもあり、自信をつけたようである。その結果、文化会館からの要請をお受けし、役者その他スタッフの一部を入れ替えた上で、1月の上演を目指して活動を継続することとなった。

 現状
 思うに、外語大の語劇は、ほとんどの場合、指導するほうも指導を受けるほうも、演劇の専門家を目指しているわけではない。あくまでも、言語・文化教育の一助としての劇である。そういう意味では、まったくの素人劇である。当然、その点は、文化会館側も承知してくださった上での今回の招聘である。それは、お声をかけてくださったのが、「催し物」の係の方ではなく、「語学教育担当者」であることにも現れている。
 とは言え、そのような制約内で最善を尽くす、特に、少なくとも (できるだけ上手な発音を目指すとか文法などの間違いを避けるなど) 外語大の売りである言語に関する部分に関してはできるだけ高いレベルを目指すべきなのは当然である。キャンパスを離れてより広く一般の人々にお見せするということになれば、なおさらであろう。
 そういう意味で今年のイタリア語劇が公の場での上演に値するようなレベルに達しているかどうかといえば、外語祭での上演の時点では、残念ながら、満足できるレベルに達しているとはとても言い難い状態であった。発音ははっきり言って下手 (イタリア語の音韻体系がなまじっか日本語に近いものだから、個々の音の発音もイントネーションも非常に日本流の発音になってしまっていて、ところどころ、何を言っているかわからないほどである) であるし、演技も自己流 (イタリア人がどういう場面でどういう身振り手振りをするか知っておくくらいは、語学の一部として、悪くは無いと思うのだが)というありさま。
 そのため、教師も学生も、このままではいけない、文化会館からの要請を引き受けるには、上演までにできるだけ努力して少しでもレベルアップすることが必須条件だ、との意見で一致した。現在、来月の上演を目指して特訓中である。

 支援体制に関する問題
 今回での文化会館での上演に関して、また、語劇一般に関して、あれば望ましいと思われる支援について、いくつかあげてみたいと思う。GP の活動の一環として、あるいはできればより恒常的な形で実現されれば、劇の質の向上、ひいては本学の言語教育の向上のために貢献大ならんと信じる次第である。
 運送費・交通費:学外での上演の時には必要な出費である。これによって、たとえば、舞台装置などどの程度のものが使用可能か、なども変わってくる。ゆえに劇の質の向上のためにも、学生の自己負担だけにまかせず、学校からの補助があるのが望ましい。
 学外の指導員・指導教員への謝礼:現在、イタリア語では、劇の指導は、多くの場合、客員イタリア人教員のほか、非常勤の先生方がいわば「持ち出し」の形で行ってくださっているのが現状である。そのような先生方の御負担を考え、せめて学外者の方々だけにでも何らかの謝礼を出せないか。課外活動であるから、授業の報酬と同じような取り扱いはできないであろうが、できれば、この目的のために何らかの安定した形で予算が確保されているのが理想だと思う。もし、恒常的な予算配分が不可能ならば、先生方の指導を一種の「ワークショップ」とみなして、講演会の謝礼などに準じた扱いをするという方法もあるのではないか。
 また、これと関連事項として、課外活動の学生指導に携わってくださっている方々 (語劇に限らずサークル活動などでも) に、学校からせめて感謝状ぐらいは差し上げるようには出来ないであろうか。
 学外協力者への報酬:上記の項目と紛らわしいが、別の種類の問題である。例えば、学外の劇場で上演する場合、責任の所在上、照明など舞台操作の装置や高価な機械を学生に扱わせるわけにはいかない場合 (語劇が学外に進出することが多くなれば、同じような問題は比較的普通に起こるものと思われる) がある。そうすると、別に装置の操作者を依頼する必要がある。ちなみに、今回のイタリア文化会館での上演の場合、プロの操作者を2人雇う必要があり、一人当たり日給2万6千円の支払いとなるそうである。学生にとってはかなり高額の出費となりかねないので、学校からの補助があれば大いに助かる。
 大道具・衣装の費用 (できれば時代考証などのための調査費も):大道具・衣装については、「勝負の要は演技、衣装などはシンプルで結構」という考え方と、「演技力の不足を補うためにも、衣装はインパクトのあるものを」という考えとがあり、場合によってどちらも有効であり得ると思う。手の込んだものを作る場合には、外語祭実行委員会から配給される支援だけでは足りないので、学生自身の負担が大きいのが現状である。また、手間隙かけて作ったものが上演後はゴミと化すのみ、というのではもったいないので、特に出来のいいものは (審査のために語劇衣装コンクールなどを行うというのもありだと思う)、買い上げ・再利用などの措置を考えてはどうか (たびたび話しに上る、大学博物館などにも、展示してはどうか)。
 広報上の支援:宣伝費などの補助、また、掲示板・サーバーなどの施設の利用に便宜をはかるなど。
 教育指導上の公認:最後に、指導教員の立場から。現在では、語劇のような課外教育活動は学生が勝手にやるがままにただほうっておけば良い、というわけにはいかなくなっている。ましてや、それが GP に指定されたとなれば尚更である。
 語劇の指導は非常に手間のかかる仕事である。しかし、この仕事は、いかに語劇がGPに指定されようが、学校側が旗を振ろうが、現状のままでは、結局、教員が自己の自由裁量でやっている活動、という位置づけに過ぎない (事実、語劇指導を行なっても教員には何の支援も報酬もなく、その活動のために公的に便宜が図られることもないし、逆に、語劇に一切かかわらなくても、その人の教員としての公的評価に何の変化もない)。
 このような現状は、GP としての語劇の重要性をアピールするのにも、また、教員の積極的な関与を促すにも、決して良い効果をもたらさないと思う。要するに、やる気がなければ、あるいは、やる時間がなければ、やらなくても一向に構わないと言っているに等しいわけだから。逆に、やっている人は、努力して時間を見つけている人ではなく、物好きか暇人とでも言われかねない雰囲気さえある。
 このような雰囲気を打開するためにも、語劇の指導を、きちんと学内制度的に公認し位置づけるべきである。語劇の指導に携わる人を「語劇担当教員」として公認しその学内各種委員会委員などのそれとと同じようにみなす、指導に当たっている時間を、会議に出席している時間や授業を行っている時間と同じようにみなす、昇任人事審査の時に提出する書類にこれらの活動を (学内諸委員会などと並んで) 明記し評価する、など (半分冗談で申し上げれば、これらを勤務査定・給与査定上きちんと考慮にいれていただければ、なおありがたい)。これらは、中学・高校などなら、当然、普通に行われていることである。

 まとめ
 語劇が GP に指定されたことで、本学の生き残り戦略の一環に位置づけられたことは、単なる偶然を超えて、とても意義のあることであると思う。実のところ、語劇指導の問題は、授業の学習指導の問題と根は同じではないか。語劇で足りないところは、発音にせよ文化理解にせよ、要するに、日常の学習で指導が行き届いていないところだからである。これは、本学の語学教育の方針そのものについて反省する良い機会であろう。
 目覚しい活躍をしている企画・団体に対して支援・援助を惜しまないということは、確かに大切であるし、支援を受ける側にとっては大変有難いことである。しかし、その目覚しい活躍も、地道な努力の蓄積あってのことである。そのような目立たない、日常的な努力をどう支えていくかという問題、また、そもそも外語大は語学教育をどのように考えるのかという根本的な問題に常に立ち返って考える姿勢が、生き残りをかけた戦いを迫られている今だからこそ、重要なのではないであろうか。