イズミルへ

サイト・ファイク

八木下春南訳


 酒、恋人、家、家族、友人、娯楽、世間のこと、いっときの考えさえも・・・すべて、すべてが膜に針を刺し込まれた、煙草を押し付けられた赤、緑、黄、橙の風船のようになってしまう日があるものだ。どれもが色を、浮く力を、喜びを瞬時に失う。そんな日が私達にないとは言わせない。風船にまったく針を刺し込まれることのない人々もいる。彼らを羨ましく思う日もあれば、軽蔑する日もある。

 それこそ、全部の風船に針を刺し込まれた風船売りの目をして私は通りをうろつく。昨日は私のことが好きな恋人に、晩はどうでもいいことで私を怒らせた友人に、少し前は我が家にうんざりし、夕方に勇気、楽天主義、情熱だったものを、朝方にはありとあらゆるとりとめのない考え、感情、戯言、狂気の発作へと、多分じわじわと変えていった酒に、そして家の玄関を出るやいなや自分自身に嫌気がさしながら、私は通りをうろつく。

 なんとも寒い五月の日だった。八百屋のサクランボは、私達のもとにあと数ヵ月は訪れない春を迎えた国から、どうやら私達を冷やかしに来たらしかった。一キロあたりの値段が貧乏な家族の一週間分の生活費に相当したイチゴのなんとおぞましかったことか!・・・キュウリ、レタスといった儲かる葉っぱも法外な値段だった。五月にも、友人にも、果物にも、キリスト教会にある仲見世のバラにもユリにも、もううんざりだ!どこで休もう?また居酒屋で?・・・

 死んだ者のことを嘆き悲しめない人間の不穏な心持ちだ。幸せな奴らは頭にくる。けれど、私は生きることが好きだ。狂おしいほどに!そんなことは日頃私には取るに足りないことなのだ。憎悪、中傷、嘘、私の食いぶちを狙っている奴ら、恋人に私の悪口を言いに行く奴ら、みんなみんなを好きな日が、時がある。私のすべての悪意は24時間たつと古池のように静かに収まる。しかし、今日は果物や花に対してでさえ悪意を抱いている。カーネーション売りの男が笑っている。かたやスィミット売りも笑っている。私以外はみんな幸せだ。神よ、世界に災いあれ!

 体の中にはさっきの酔いが残っている。眠りたいのだが、時間になっても眠れない。ああ、眠れたらいいのに!もう一度人生をみつけよう。歩きながら眠ってもいるし、ひっきりなしに起こされてもいる。あるゲシュタポは私を眠らせたり起こしたりして、答えられない質問をしてくる。この拷問が止みますように。拷問は終わらない。人間のあの自然な状態が戻って来ないのだ。それは楽しい海、それは風船、それは帆船、それは陽射しの中の砂浜・・・

 心の中へこんな風にだれもが入り込む時、自分にとってはハムレット劇だが、私達は虚構にかなり近づく。その時、二対の美しい言葉を嘘であったとしても信じてしまいかねない。つまり、この状態は人間にあまり分別のある時ではない。愚かさや狂気の瞬間だとも言えない。この瞬間は剃刀の上に立つ時なのだ。ある種シラトの橋を渡るようなものだ。

 この状態になった者はだれも、自分がだめになってしまう。シャワーを浴びる者もいれば、通りをぼんやりと歩き回る者もいる。ある者は売春宿へ行く。またある者は居酒屋へ駆け込む。彼らはその状態を脱しようとする。一番いいのは脱しないことだ。もっと言えば、自分で思いついた方法で切り抜けようとしても上手く行かない。そうなるとこの性質の悪い習慣がありうる。睡眠薬中毒で不眠症の人間。彼を放っておかなければならない。その時に身をまかせ支配させるがいい。ほんの数本の白髪とわずかな皺を代償に得るとなおいい。なぜなら、どうであれその状態は一過的なものだからだ。

 過ぎていかないなら?・・・酒も阿片も効き目はない。 過ぎ去ったなら・・・途端に花が匂い出したと、サクランボが赤くなったと、イチゴは人間のためにあると思い、モスクは貧乏人に、馬鹿とおしゃべりのサンドウィッチと(ほらほらあの)溶かしバターをかけた新鮮で脂ののったビフテキは金持ちに、それぞれ割り振られたものだと、思えば思うほど上手い解決策が頭から手のひら、指にまで達するかのようである。全然そうではなく、考えに恵まれないとしても人間の力を血管で感じるはずだ。どんな手立ても人間の手の中に、四肢にすでにある。ちょうどこの時にふさわしく、数日前読んだ本でバルザックはこう言っている。

 "思想に少しもゆらぎがないのなら、思想家は自分達が無思想な人間より優れていると考えないほうがいい。"  

 こんな日々の中にいた。私を生へと呼び寄せるものが何一つなかった。私はこんな時酒を飲まない。私の習慣は歩くことである。どの場所もすぐに嫌になって気の向く所へ歩いて行く。動物よ、人間よ、庭よ、無人の海岸を私は見つける。再び私は生まれ変わる。今日もそんな日だった。二人の人間と二匹のウサギ、一匹は造り物でもう一匹は本物の二匹の子羊が、人間の希望が潰えていないことを私に囁く。彼らの嘆きの、悲劇の大きさは、私の嫌悪感、この人間が受けた思いよりもどんなに気高かったことか。気高さは人々からとっくに離れていった。しかし、そのおかしな言葉は商人の家にも、肉屋にも、周旋屋のばばあにも、料理屋の主人のしかめ面にも、大きなアパートにも、年増の娼婦にも当てはまらなかったが、偉大な人々にはぴったりきた。気高さは、我々の希望や悲しみにだけ舞い降りてきた。それを教養のある顔に、本に、物に、動作に探し求めるだけ無駄だ。

 花と果物を怒らせれば魚屋も怒る。彼ら自身は漁師ではないものの、魚を売る小売商は好きだ。生計を釣り竿で立てる漁師達よりはもちろん数が少ない。特にあの、大理石の水槽がある魚屋群の前で活きの良い半キロの生エビとわずか数匹のヤドカリ、数個のレモン、2ダースの帆立貝を売るぼうぼう髭の、晩に何杯かひっかけるために働いているような貧しいギリシア人の売り手達が気に入った・・・彼らの籠やエビ、ヤドカリ、帆立貝は、決してイチゴとバラがしたことを私にしなかった。どういう訳だかまったく私を笑い者にしてこなかったのだ。海底色になって震え、籠の編目に毛より細い足でつかまろうとする、このまだ力強い海のような生き物のめぐり合わせを私は悲しむ。ああ悲しいとも。しかし、私には思えた。この生き物達は、生活のために働いているのにも関わらず二杯のラクのために働いているかのような様子の、詩的な着想を与えてくれる髭が、私達と同じくらい好きだから捕まっているのだと・・・

***

 ウサギ達が籠の中にいた。荷担ぎの子ども2人と婦人が1人、髭の長い男が2人、10〜12才頃のお下げ髪の少女1人と私がいて、籠の中の、耳を背中にくっつけて私達を驚きと恐怖で見つめるウサギを見ていた。それらはウサギというよりもむしろネズミのようだった。小さな少女は籠のそばにいた女に尋ねた。   

 ― おばさん、これはネズミなの? ―   

 ― これがネズミなもんですか、お嬢ちゃん。よく見て、ウサギよ!― と女が言った。  

 少女は笑って、顔をウサギ達の方へ近づけた。ピンク色の舌と虫歯の間から甲高い喜びと親愛の声を出した。   

 ― ディディディディディディディディ・・・ ―  私は言った。   

 ― おばさん、ウサギは売っているの? ―   

 ― 売ってますよ。8匹いたのが2匹残ったんです・・・私のつれあい達はイズミルへ行きました。私も行くんで・・・籠も売りましょう。旅費を稼ぐんです。 ― 最後の言葉を言ったことを彼女は後悔して、顔が真っ赤になった。  1人の婦人が言った。   

 ― だけど、この子達はたくさん子どもを作るわよ。壁に穴を空けているもの! 

 ― 女は返事をせず、うなだれた。  

 ウサギ売りの女はナナカマド色のコートを着ていた。顔は水色からピンクに変わっていく様々な色に満ちていた。頬にかけては薄ピンクになっていて、目の下に向かって青みがかっていく。しかし、ミルクのような白さの効果で、顔にきれいな、年寄りの表情を与えていたので、人は否応なしに自身の祖母を、かつての清潔さ、寛容さ、内面の純粋さとともに年老いた立派な女達を思い出しているのだった。今や女達は年を取らなくなっていて、それどころか醜くなってきている。男達もそうなのだ!「かつて、女達はまさにこうして年を取ったものだが」と私は思った。  

 女は私達をはばかって、常にウサギにかまうふりをしていた。ウサギの鼻に、たくさん洗濯物を洗ってきたらしい太い人差し指を当てて笑っていた。  荷担ぎの子どもが言った。   

 ― 僕らんとこのエラズィズにはウサギがいっぱいいるよ。こいつらはネズミに似てるけど、僕らんとこのウサギはロバくらいあるんだ。 ―   

 ― ハイヨー、どうどう! ― もう1人の荷担ぎの子が言った。 女は彼らの方を親しげに見て、  

 ― この子達はまだ赤ちゃんでこれから大きくなるの。 ― と言った。

  ウサギは私達を、私達はウサギを見ている。イズミルまでの旅券費のために売られているウサギ達は鼻を地平線に向けて籠の針金の間から出している。おや、ちょっと、なんて世の中だ!イズミルまでの旅券費!その顔が私達の祖母を彷彿とさせるナナカマド色のコートの希望に満ちた女!

 頭のできものに穴が空いている。黄色い膿汁が私の頭から垂れてくるのが分かる。私はウサギが好きだ。地上に一人でもあなたがいれば私は生きる勇気がわく。あなたと一緒にイズミルへ行きたい。ウサギを売りましょう。私達は強くなったんだ!  

 ― 孫に届けるはずだったんだけど、旅券費がないの。考えても何もならなかったわ。なんて世の中だろうね!イズミル行きの甲板乗船券のために育てたようなものだったわ・・・ ―  

 ― あなたにいいお客さんがつきますように、おばあさん。 ―

 今また別の道に出たところだ。人々は嘘がつけないだけだった。私は運が悪かったのか?そうじゃない!私は絶望していた。おばあさんは私より何百万倍もずっと不運だったが、希望を持っていた。万歳おばあさん、生きる喜び、イズミルへの甲板乗船旅行、希望・・・!

 人気のない路面電車の道に出た。7人の子どもを見た。彼らは電車の線路について何かしていて、笑い合っていた。私は彼らのそばに近付いて行き、思った。「多分、ギザギザのクルシ硬貨を一枚線路の上に置くつもりなんだろう。電車がその上を通る。そうしてクルシ硬貨のこの新しい形を笑い飛ばすために集まったらしいな。さあて、私もそのクルシを見るとしよう。」また何を見ようっていうんだ?ウサギ達の目は驚きと恐怖で満ちていたが、それでもなお喜びも含んでいた。時々、可愛らしいあごで緑の草を引き裂き、老女の指をかじろうとしていた。するとそこには、図体の大きい子どもの手の中に目に生気がなく半ばうつろな ―私にはクルシ硬貨ぐらい小さく思えたが― 1匹の赤ん坊ネズミがいた。一方の足を石で潰されてしまっていたが元気一杯だった。それを子ども達は線路の上に置いていた。電車が来てみんなが避難した。私は走って行ってネズミを助けなければならなかった。電車はうなりをあげながら坂を上ってきて、まさに私の目の前にあった。人目にもだんだん大きくなって見えてきた。子ども達と一緒にネズミの死刑執行に仕方なく立ち会うはめになった。電車が通り過ぎて、子ども達は駆けて行った。ネズミを電車は轢いていなかった。ネズミはおそらく死に物狂いで線路の内側に滑り込んで助かったらしかった。図体の大きい子どもの手の中でまだ警戒し続けていた。

 そのでっかい少年が言った。  

 ― ああ、びっくりした!・・・滑りやがったなネズミめ! 

 ― 再び子ども達は線路の上にネズミを置いた。他の電車がウーウーうなりながらやって来た・・・。私は歩いて行った。多分死刑はまた実行に移せなかったようだ。  

 ネズミは不潔な動物だ、と思った。人間にとってとても有害だ・・・。病気だって移す。だが、どういう訳かこのネズミが好きだったし、どういう訳かこのネズミがかわいそうだった。「かわいそうな坊や」と私は思った。図体の大きい子ども達を「卑劣な奴らめ!」と罵りながらネズミの方へ歩み寄って行った。女からもらった希望を線路に置き去りにしてしまった。私達はネズミを処刑していた。

 日暮れ時、人ごみで一番混み合う時間にドールーヨルで子羊に出くわした。一匹の子羊が地面にしゃがみこんで、咀嚼を繰り返していた。その上、毛の間に紙を一枚引っ付けていた。煙草の箱を破いた紙にこんな風に書いてあった。   

 "本物15リラ、偽物7,5リラ。 "  本物の子羊の隣に、ちっちゃなもう一つの造り物の子羊があった。それは4本足が板の上に立った状態のまま、無愛想なガラス玉の目でうつろに凝視しており、生きている子羊の方は何も知らずに咀嚼を続けていた。私は男の方を見た。村のホジャに、かつ人気のないボスフォラス海峡の船乗り場の切符係にそっくりな男は、非常にふてぶてしく見せようとし、またそれにかなり成功している様子だった。一言も話さずに大きな商店のはずれにしゃがみ込み、親指をあごに当て、二本の指に煙草を挟んで、子羊を見る人に何も言わないで座っていた。彼はつぎはぎのオーバーを着ていた。このオーバーの襟は同じ生地の丈夫な新しいものに変えられていた。通り過ぎる人々は子羊と男をかわるがわる見ていた。男は親指をあごにのせ、子羊たちを見る人をじろじろねめつけながら煙草を吸っていた。  

 てっぺんがとても薄くなった髪の毛の間から斑点のある日焼けした皮膚を覗かせていた。髪の色は陽射しで褪せていた。日焼けした顔に、雨降り続きの村人の顔面蒼白と、深い皺とがあった。尋ねてくる人達に、黙って子羊にくっつけた煙草の箱のカバーを示していた。   

"本物15リラ、偽物7,5リラ。"

 この男が突然好きになった。ということは世の中に私の仲間がいたのか?私達はもっと人生を生きられた。私達は誹謗者達や卑劣な奴らや、嘘つき達やお互いのパンをひったくる奴らのために、いたずらに人間や生きることを侮れなかった。ウサギを売るおばあさんがいた。死んだ息子の本物の子羊と偽物の子羊を、今晩死ぬ程飲むために売る男が通りにいた。昨日オーバーの襟を新しくしたこの男、彼もまた良き妻を残してイズミルまでふらりと出て行くはずだったのか?私は彼に近付いて行き、破れたオーバーの真新しく付けられた襟を見た。男は顔を持ち上げて笑った。私は言った。   

 ― おやじさん、あんたもイズミルへ行くのかい? ―