東京外国語大学タイ語専攻ホームページ

 

●●タイについて

ータイの歴史ー

 タイ族は13世紀の半ばにクメール帝国から独立して自分たちの国家であるスコータイ王朝を築きました。以来、アユタヤー王朝(1351-1767)、トンブリー王朝(1768-1782)を経て、現在のバンコク王朝と続いてきています。現在のプーミポン・アドゥンヤデート国王は第9代目にあたり、通 称「ラーマ9世」と呼ばれています。アユタヤー時代の前半には日本との交流もあって日本人町が栄えたこともありました。

 タイ王国が開国したのは1855年で、その時の国王がハリウッド映画「アンナと王様」で有名なラーマ4世です。この映画はタイ国王やタイの文化に対する偏見と誤解に満ちているということでタイ国内では上映が許されていません。日本の明治時代のような急速な文明開化が進められたのはラーマ5世時代で、チャクリ改革といって行政制度が根本的に変えられたり、近代的軍隊の創設や全国の交通 網の整備が図られました。現在のバンコクの旧市街部にはその当時の建物がまだ数多く残っていて、往事の活気をしのぶことができます。

 こうした近代化を進める中、かつては王族・貴族に独占されていた国家機構に革新的な考えをもつ平民出身の官僚が生まれるようになり、やがて外国留学経験者を中心とするクーデターへとつながっていきました。それが1932年立憲革命です。この革命によって国王は直接に政治に関わることが禁止されましたが、タイ王国の政治システム全体には明治維新のような大きな変動はありませんでした。憲法はその後91年までに12回も改変されていますが、国王は現在でも事態収拾の困難な場面 でしばしば最後の調停者としてその力を発揮しています。

 タイの社会は60年代から工業国への脱皮を開始しました。日本の企業も味の素など大手はその時代からすでにタイに企業進出を始めています。工業化は最初は繊維などの軽工業製品が中心でしたが、70年代になると重化学工業の比率が増え、製品を日本や諸外国に輸出する力を持ち始めました。日本のオーバープレゼンスが目だち、日貨排斥運動などの反日運動が荒れ狂ったのもこの頃です。戦時中の海軍将校小堀とチュラロンコーン大学日本語学科に学ぶアンスマリンの悲恋物語「クーカム」の映画はタイで空前の大ヒットになりましたが、それに続く「クーカムpart2」の舞台となったのもこの時の反日運動です。

 80年代半ばになると日本の円高の影響もあって、生産拠点の移動を図る日本企業の3次目の大進出が起こりました。この時は中小企業もこぞって現地合弁企業を立ちあげ、バンコクの日本人の数が一挙に増加しています。こうした経済的な変化はタイ社会にも大きな影響をもたらし、力をつけた新世代経済人による政党活動や労働者・農民の人権運動、都市中間層の登場が活発化しました。そのため、かつては政治の世界で主導権を握っていた軍部や警察の権力が相対的に低くなり、クーデターによって政権をたらい回しする力を失っていきました。そのことを象徴的に示したのが1992年の市民運動に対する軍の弾圧と惨事、それに続くスチンダー政権の崩壊と民主党党首チュワン政権の成立です。

 タイの経済発展はその後も順調に進み、やがて野放図に膨らみすぎた結果 、1998年にはタイでもバブル崩壊を経験することになりました。マスコミの寵児だったベンチャー系金融企業のオーナーが破産し、露天でサンドイッチを売っている光景が日本でも報じられたのを見た方もいると思います。日本ならさしずめすぐに自殺という手段に訴えるところでしょうが、タイに「マイペンライ、明日は明日の風が吹くさ」という楽天的な強さとチャレンジ精神、弱者に寛容な社会システムがある限り、日本よりも柔軟に変化に対応していけるでしょう。

 現在のタイ社会は一方では貧富の拡大、エイズや麻薬といった社会問題などの古い課題を抱えつつ、他方では所得の向上、都市文化のかつてない発展、環境破壊、受験戦争の激化、ポップカルチャーの興隆などかつての日本が歩んだのと同じ道を歩み始めています。そうした中で、とくに若者の意識や関心は日本をはじめとする世界の若者とほとんど変わりなくなりつつあるといえるでしょう。これからのタイは注目です。
                 (宇戸清治『指さすだけで分かるトラベルタイ語』日本文芸社、2002年、98-100頁より)


ー日本との関係略史ー

 日本では今でこそタイ料理や旅行、あるいは「アンナと王様」、「ビーチ」などのハリウッド映画を通 じてタイという国が広く一般に知られるようになったものの、ほんの少し前までは、日本にとってのタイはそれほどよく知られた国ではありませんでした。しかし、タイにおける日本というのは、日本におけるタイよりももっと身近な存在だったし、それは過去だけでなく現在もまたそうなのです。

 日本とタイとの関わりは古くは15世紀までさかのぼります。当時のタイはシャムと呼ばれていて、沖縄との間に貿易が行われ、織物や陶磁器などの中国製品などが輸出される一方で、タイからは蘇木、更紗などが輸入されていました。茶人に珍重された宋胡録(スンコロク)の陶磁器もこの頃に日本にもたらされました。スンコロクという名前は、現在の北部タイの町サワンカロークがなまったものです。

 江戸時代にあたる17世紀には、王都アユタヤーにキリスト教信仰の迫害から逃れた人々や貿易商人などからなる日本人町(バーン・イープン)ができ、タイ宮廷に重用されて傭兵となる者も出ました。1621年にはアユタヤーからタイの使節団が日本を訪れ、将軍徳川秀忠に会った記録が残っています。しかし、その後は宮廷内の内紛に巻き込まれたり、オランダとのライバル競争や日本の鎖国政策もあって、日本人町は急速に廃れていきました。現在のアユタヤーには、日本人町の跡地に日本の資金協力によって歴史博物館が建てられています。

 日本とタイの関係が復活したのは明治時代です。欧米諸国の植民地獲得が激しくなる中で、日本では移民を進める南進論や欧米に対抗するアジア主義が盛んになりました。最初の日本人移民がタイへ渡ったのは1883年(明治26年)のラーマ5世時代です。稲垣満次郎(タイ初代公使)や法律顧問の政尾藤吉、ラーチニー女学校の初代校長安井てつ(東京女子大創設者)などの日本人がタイで活躍したのもこの時代です。安井をふくめた3人の日本人教員は、日本とはまったく異なった風俗習慣の中で、朝から晩まで献身的に働きながらコツコツとタイ語の勉強を続け、3年目には数学や英語をタイ語で教えられるようになったそうです。1898年(明治38年)には日タイ修好通 称航海条約が結ばれました。その100年後の1998年には、100周年を記念して両国の間でさまざまなイベントが繰り広げられています。

 20世紀のはじめにはバンコクの日本人経営の映画館で日露戦争の映画や日本の文化を紹介する映画が盛んに上映されたこともあります。またこの頃、バンコクの目抜き通 りに日本人商店が数多く開かれました。雑貨、陶器、茶などを扱った店のほか写 真屋もありました。1919年にタイに在留していた日本人の総数は307人となっています。バンコクに初めて日本人学校が設立されたのは1926年(大正15年)です。

 タイは東南アジアの中では仏領インドシナと英領ビルマ、マレーシアの帝国主義の脅威のただ中にあって唯一、独立を守りました。しかし実際には、タイは太平洋戦争中、欧米からの解放者と名乗った日本の進駐によって、実質的には占領下にあったことを知る人は多くありません。映画「パール・ハーバー」の真珠湾攻撃が始まる数時間前に日本軍は南タイの海岸に奇襲作戦を開始しています。これに対しタイは「自由タイ運動」で日本に対抗し、日本と攻守同盟を結んでいたにも関わらず戦後は敗戦国の汚名を免れることができました。(詳しくは宇戸研究室ウェブサイトへ)

 戦後の日本人がふたたびタイに関心を持ち出したのは、70年代半ばの反日運動です。背景には日本車や電化製品などの日本商品がタイ中にあふれたり、日本人の買春行為が反感を買ったことがありました。80年代後半になると、円高による海外旅行ブームとタイ料理ブームおかげで一般 の日本人にもタイがぐっと身近な存在になりました。テレビや雑誌を通 じて観光地としての魅力が広く知られるようになると共にタイ料理店やタイ語学校が流行だし、タイを訪れる人々の目的も多様化の一途をたどっていきました。

 今ではタイへの留学や求職、タイ人との結婚はすっかり当たり前の光景になっています。タイでも日本のアイドル雑誌(タイ語)に人気が集中したり、子供たちが日本の漫画にはまったりと日本ブームはすっかり定着した感があります。スーパーには必ず日本の食材が並び、休日にはタイ人が家族で日本料理店に繰り出すというのも普通 の光景になりました。今やタイの若者たちはマックで待ち合わせ、セブン・イレブンでお菓子を買い、友達の家でテレビゲームに熱中するという、日本の若者となんら変わりない生活を送っているのです。
                (宇戸清治『指さすだけで分かるトラベルタイ語』日本文芸社、2002年、100-103頁より)