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ラオス語専攻 留学体験記 *2003年度よりラオス国立大学へ留学

ラオス留学物語2003−2004

 帰国して1ヶ月が経つ。日本人、日本語だけの世界に戻り、ラオス語に触れる機会は一気になくなった。しかしラオス語が口をついて出てくることは今もあり、目を閉じれば1年間住んだヴィエンチャンの町並みが鮮やかに見えてくる。少し歩けば、メコン川にたどり着きそうな気がしてしまう。留学を終え、これほどまでにラオスを恋しがるとは、不安いっぱいで出発した日の自分には想像もつかなかった。
 
 祖国と何もかもが違う環境。驚きだらけだった。ホームステイ先の浴室にシャワーはなく、手桶ですくって水浴びした。夏でも温水を浴びていた私には、最初は苦行だった。
 いつ来るかわからないバスのおかげで、思うように行動できない。家は街の中心部から離れており、街灯がないため、日が沈むと真っ暗になる。日本にいたときは23時まで動いていた私は、行動が制限されたような気がして窮屈だった。
 驚きもあったが、唖然とすることも多々。到着翌日、家族と出かけた市場の前で、さっそく交通事故を目撃した。交通事故は、ラオスでは日常茶飯事。バイクには絶対乗らないと誓ったが、行動がしやすいということで、結局、家族や友人に乗せてもらうこととなった。
 もう一つ唖然としたのは、手続きの遅さである。学校での学生登録にしても、ビザ更新にしても、1日や2日では終わらず、3回以上は足を運ぶことになる。
 大学の授業にはなかなか慣れなかった。2年間日本で学んできた語学力をもってしても、歯が立たなかった。先生が話すスピードにはついていけず、専門用語が入る講義は全く理解できなかった。ノートをとるだけで精一杯だった。
 決められた教科を学科ごとに受けるので、クラスメートとは毎日顔を合わせた。ラオス語−文学専攻3年のクラスには、中国、ベトナム、カンボジアからの留学生もいて、ラオス語を共通語に、いろんな国の人と話すことは楽しかった。憂鬱だったのは授業で、そこで自信をなくして、何のために留学しているのかわからなくなった。
 生活には比較的早く慣れたが、日本のようにモノが揃ってない不便さに嫌気が差し、国境を越えることばかり考えていた。タイのノンカイに出れば、日本で見かけるファーストフード店やコンビニがあり、妙に落ち着いた。
留学期間のおそらく半分以上は、そんな悶々とした日々を送っていた。

 そうはいっても、住めば都とはよく言ったもので、月日を重ねるうちに変化が出てきた。いい意味での変化である。
 人々が交わす何気ない会話を、少しずつ理解できるようになってきた。12人の家族と生活し、毎日、自然にラオス語が耳に入っていたおかげである。耳が慣れると、話すこともできる。会話がスムーズになり、自信がついてきた。教科書にはなかった終助詞の入った話し言葉が言えたり、冗談を言い合ったりできるようになると、言葉の裏の隠された、ラオス語独特の意味もわかるようになり、ラオス語を話すことが楽しくなった。これは、留学前一番に掲げていた目標だっただけに、まずそれを達成できたことで、留学の意味を見出すことができた。
 ラオス語の上達は、思わぬ副産物をもたらした。私の性格を少しだけ変化させた。ラオス人は、知らない人同士でも遠慮せずに会話を持つ。以前は見知らぬ人に道を尋ねることさえ躊躇していた私が、バスに乗り合わせた人に話しかけられても、積極的に会話するようになったのだ。ラオス人から見れば、私のラオス語は未熟だ。しかし、わからないと言われても、持っているだけの力を精一杯使って、伝えようと積極的になった。ラオス語を話すことが楽しかった。
 郊外にある大学の寮ではなく市街地に住んでいたし、ホームステイだったことから、伝統行事は身近で体験することができた。10月のオークパンサーとそれに合わせたボートレース、11月のタートルアン祭、4月のピーマイ。そして滞在先でも大きな行事がおこなわれた。11月、2番目のお姉さんの結婚式、12月、今年結婚する一番上のお姉さんの婚約者が、結婚前に両親のために徳を積むための出家式、そして帰国前、私のためにバーシー式が執り行われた。中でも印象深いのがお姉さんの結婚式だ。滞在先の結婚式とあって、準備の様子から見ることができた。冗談を飛ばしあいながらも、結婚式の準備は時間までに完了し、ラオス人の手作業の力に感心した。帰国前のバーシー式は、この留学の卒業式のようだった。
 ラオスでの日々は、充実したものとなっていった。しかし、ラオスに限らず外国にも足を伸ばした。外国と陸続きの国にいるこの機会を生かし、タイ以外にもベトナム、マレーシア、シンガポール、中国を旅した。ラオスと違った雰囲気を知り、いい刺激になった。
 ラオスから外国へ行ったといえば、一時帰国もした。ラオスの生活に慣れていないときで、それ以上ストレスを溜め込むべきではないと判断した。航空券代がもったいないと思うこともあったが、この一時帰国がリフレッシュとなり、留学を最後までやり遂げる原動力となった。
 国内旅行は、ルアンパバーン、シェンクアン、ヴィエンチャン県を歩いた。ルアンパバーンとシェンクアンは、地元人に案内してもらい、ヴィエンチャン県は、何度も行ったことのあるラオス人と出かけたので、ガイドブックにはないところまで旅することができた。ルアンパバーンでは、船ではなく、バイクで郊外のタムティンを目指したこと、シェンクアンの田舎では、友人の親戚宅でバーシー式をしてもらったこと、ヴィエンチャン県の動物園では象に乗ったことがそれぞれ印象深い。
 ヴィエンチャン市内にいても、ラオス人の友人と歩けば、通りすがりの旅行者では知ることのない穴場に連れて行ってくれた。そのようにしておいしいものに出会い、美しい風景を見つけ、2日もあれば見所をまわりきれてしまうヴィエンチャンを満喫した。そして何より、言葉も考え方も違う友人と共有した時間は大切な思い出だ。

 7月、後期末試験が終わった。1年のみの留学で帰国する私は、ラオス人より一足先に結果が出た。前後期合わせて10教科選択し、履修したうち、8教科合格だった。最後まで、どの教科も理解には程遠かった私には、思った以上の出来だった。合格ではあったが、成績にAは一つもなかった。だが、1年間留学した成果が出たと感じ、素直に嬉しくなった。
 ラオスを発つ日、日本を出発するとき、がらがらだったスーツケースは、重量オーバーになるほどの思い出、経験、充実感でいっぱいになった。家族や友人に見送られて出国審査に入る際、別れの切なさよりも、また来るからね、という気持ちで手を振った。実はこの日、早朝から熱を出した。前夜の寝冷えが原因だが、ラオスの家族には「帰りたくないから熱を出したんでしょう」とからかわれた。帰りたくない気持ちは多々あった。しかし何も惜しむことはない。ラオスに留学してよかったと心から思えるし、今は帰国しなければならないにしても、これからもラオスとはつながっていくと確信しているからだ。
 ラオス留学は成功だった。だが、この成功は決して一人で勝ち得たものではなく、多くの人に支えられて手にすることができたものだ。私を支えてくれた、両国の家族、友人、先生、全ての人に感謝する。

 


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