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東京外国語大学ラオス語専攻史 ストーリー/沿革

【ラオス語専攻ストーリー】

「ラオス」という国

 「ラオス」は正式名称を「ラオス人民民主共和国」と言い、タイと中国の間にある東南アジアの内陸国である(以下「ラオス」と称す)。そんなこと今さら書くな、と外語大先輩諸氏のお叱りを受けそうであるが、実際、我々がいわゆる世間でよく受ける質問の答えなのである。
 郵便局へ封筒に「ラオス行き」と書いて手紙を出しに行っても、
「ラオスまでお願いします」
「は、・・・い。・・・・。」(ペラペラと本をめくる)
「東南アジアの国です。」
「あ、はい!」
と、どの地域の国であるか言わなくてはいけない場合だってある。我々は卒業後、こういった場面に何度となく出会い、ラオス語専攻生であったことを意識し、ラオスを語ることが社会人になってかえって多くなったように思う。
 ラオスには「コレ」といった目に見える目玉商品や世界を揺れ動す大事件など、歴史上語り継がれるようなことがなかったからかもしれない。でもラオスへ行けば必ずと言っていいほど、日本人はラオスが好きになり、何度も訪れる国の一つに挙げられる。そこには何もない、悠々と流れる時間と自然の世界が広がっているからである。
 ラオスは多民族国家で、メコン川と山で囲まれている。それだけに昔ながらの固有の文化がまだまだ残っていて、地方へ行くといろいろな民族に出会えるのも大きな魅力の一つである。人々は「助け合い」を大切にする。出会う人々は皆、いたって穏やかで、その雰囲気が静かな魅惑的な国のイメージを作り出しているのであろう。

ラオス語について

 ラオス語はこのようなラオスの公用語であり、独自の文字を持つ言語である。「ラオス語」の他に「ラオ語」「ラーオ語」とも言う。入学後、他の専攻語と同様に、日本語にはない発音と見たこともない文字の洗礼を受ける。無気音や有気音の区別に困惑し、声調に苦労し、助詞がないことに驚き、毎回が未知なる言語との格闘だった。文字の綴り方も今までの日本語や英語と異なる観点が必要で、それだけでも驚きだった。けれども丸っこくてかわいらしくて、社会人になってもこの文字で名前を書いたりすると懐かしい大学生活が甦ってくる。
 ラオス語は同じ言語系統に属するタイ語と非常によく似ていると言われているが、基本的な単語が案外異なっていたりする。けれどもそんな言語学上の特徴もあってか、次に述べるような形でラオス語専攻は新設された。

ラオス語専攻誕生

 先輩諸氏にはラオス語専攻の存在をご存じない方がいらっしゃるかもしれない。それだけわが専攻語の歴史は新しいし、長い歴史をもつ専攻語から見れば発展途上であるかもしれないが、一つの専攻語として着実に確立し、卒業生も多岐にわたって活躍していることをここで申し上げたい。
 ラオス語専攻は、1年次はタイ語専攻生として学び、2年次進級時に希望者のみラオス語専攻生となる、やや特殊な形で1992年に出発した。当時はラオス語専任教官が不在で、一学年の学生数が2、3名。居場所もなくてときには寂しい想いをしたものであった。けれども個性豊かな非常勤講師のウドム先生、チャンタソン先生、ポーンケオ先生、星野龍夫先生、飯島明子先生、林行夫先生のご講義を常に13名で受講でき、学生側の意見をどんどん採り入れて進めてくださる、という贅沢な貴重な体験ができた。(平間)なかでもウドム先生の「激動の人生」のご講義はとても刺激的であった。残念ながら病に倒れ、かなり回復されたものの、歩くことがまだ大変だとうかがった。先生の一日もはやい全快を祈るばかりである。チャンタソン先生は学生をラオスに連れて行って下さったり、机の上では学べないラオスとの心通う真の交流の極意をいつも時間を延長して語って下さった。
 このように悪く言えば中途半端な形で出発した専攻語であったが、当時在籍していた学生は悪条件をバネにがんばり、まさにパイオニアであった。現在にまで続く、それぞれの静かな中にも粘りある熱い姿勢はこの頃から始まったのかもしれない。新入生歓迎のハローフェスティバルで初めてラオス語専攻生10名をラオス語で迎えたときの感激は今でも残っている。(石川)

ラオス語専攻の船出

 そんなラオス語専攻も1996年4月、鈴木(上田)玲子講師(当時)の着任によって一新する。専任教官が着任し、晴れて一学年10名という定員のもとに独立した。外語大一小さな専攻語であったが、教官もいない、定員もはっきりしない、という状態から抜け出たのである。正真正銘の船出である。
 第一期生は10名。ほとんどゼロからの出発だったが、自分たちで考えて切り開く楽しさがあった。玲子先生(我が専攻語では、教官をラオス式にお名前の方で呼ばせていただいている)は、着任後いきなり専攻語の講義だけでも週9コマ担当し、講義と専攻語としての確立に奔走されていた。言語がご専門の先生はとにかくラオス語を理論的に「言語」として考えさせる語りと、地道に努力すればラオス語もラオスも近くなる、という、優しい中にも厳しさが光る講義だった。
当時、日本語で書かれたラオス語の教材は日本のどこにもなく、先生手作りのプリントが教材で、それを使用した後、夜遅くまで先生の研究室に集まり、修正加筆したり入力したり、語彙集の手伝いをさせていただいた。(小松)研究室にはいつも誰か学生がいて、図書館の蔵書の整理やカード作りをしたことや初めて外語祭のときにラオス料理店を出店したことは懐かしい想い出である。図書館に殆ど皆無に等しかったラオス語蔵書が現在は約 1000冊所蔵と聞いて感慨深い。また、大学らしからぬ少人数体制の利点とでも言うべきか、現在にまで続き、一生を通じて信頼しあえる友人を持つことができた。大学の友人と卒業後も一緒に食事や旅行に行ったりするなど、入学当初は思いもつかなかった。「ラオス」が取り持ってくれた「縁」に感謝したい。(関口)


ラオス語専攻の発展

 ラオス語専攻誕生後のしばらくは、以前からの先生方に加えて新たに菊池陽子先生、新谷忠彦先生、小坂隆一先生、鈴木基義先生、園江満先生、安井清子先生、松本悟先生など、ラオス各分野の研究者が全国から外大に集結し、ラオスが総合的に学べるようになった。さらには1998年度からはラオス人教官ウティン・ブンニャウォン助教授が着任され教壇に加わった。ウティン先生はラオスでとても有名な作家兼知識人でいらしたことを後になって知るほど、物静かで謙虚なお人柄だった。同年、日本の大学としては初めてラオス国立大学と大学間交流協定を締結し、双方の学長が大学を訪問したり、新進気鋭のラオス人研究者が研究滞在したことにより、ラオスがぐっと身近になった。1999年度より双方の交換留学が実現、学生も1年次から4年次まで勢揃いし、やっと人並みの専攻語になった。けれども我々の卒業を待たないで、ウティン先生は病に倒れ、天国へ逝ってしまわれた。今でも先生の住んでいらっしゃった官舎の前を通ると胸がキュンとなる。短期間であったが、「これはいい」「これは悪い」という見方ではなく、「これはこのような考えからで出る結論」、「これはこのような場合にはとても信頼性がある」など、熱いラオスへの想いとものの考え方が伝わる講義を受けられた我々は、先生と出会えた、というその絆を持って「ガンバロウ」と思う。(塩見)

現在のラオス語専攻

 2000年度より菊池陽子講師(当時)が専任に着任され、歴史や文化をはじめとするラオス事情がより専門的、体系的に学べるようになった。辞書を引き引き意味を考えることが苦手で、ラオス事情で名誉挽回をねらっていた者にとっては朗報であった。陽子先生は成績の悪い者も笑顔で迎えてくれた。資料を丹念に読み、謙虚な中にも妥協を許さない学問に対する姿勢にあこがれ、おのずと先生の世界に引き込まれた学生は少なくない。
 さらに2001年度より念願のラオス人客員教官がラオス国立大学より出向という形で着任されることが決まり、ブアリー・パパーパン客員助教授がいらしたことは記憶に新しい。ブアリー先生は来日前、ラオス国立大学文学部ラオス語・文学専攻の教科主任で大学内でも有名なベテラン教官だったそうだが、その飾らないお人柄ゆえか、我々はよく先生のお宅へおじゃましてはラオス料理を作りながら教科書にはないラオスの耳より情報をご教示いただいた。(井出下)
 現在は2人目のアルン・スィーラタナクン客員助教授が続いている。アルン先生はラオス国立大学文学部副部長でラオス文化にとても造詣が深い。もと歌手で売れっ子スターだった先生は、自慢ののどを披露してくださる楽しい講義で、研究室には入れ替わり立ち替わり学生が出入りし、休日には先生と花見をするなど、ラオス人教官がいなかった頃には考えられない楽しさがある。
  2003年度には卒業論文が必修になったことにより、ゼミ制の色合いが濃く、ラオス語専攻生もそれぞれの関心によって各指導教官との結びつきが強くなっていったようである。以前のように「専攻語」としてのまとまりは希薄になったように見受けられるが、ラオスからの新聞記者の取材などがあると、学年を越えて集まるまとまりの良さは続いている。また、短期交換留学制度によってラオスからの留学生も在籍しており、なまの現在のラオス語が外大に来れば話せるようになった。(塩島)

卒業生のその後

 卒業後の進路は進学する者、就職する者、フリーターをする者、さまざまである。主な就職先は、総理府、東京税関、日本貿易進行機構(JETRO)、NHK報道局、読売新聞社、集英社、三井住友銀行、NTTコミュニケーションズ、NTTドコモ、新京成電鉄、本田技研工業、川崎重工、日本生活協同組合連合会などである。就職率もよく、ほぼ希望通りのところに就職している。
 各大学院への進学者も確実に増えてきており、進学先は一橋大学大学院、東京医科歯科大学大学院、大阪大学大学院、京都大学大学院、三重大学大学院、東京大学大学院等、外大だけではなく、外の大学院に進む者が多いのも特徴である。
 就職活動時、「ラオス語専攻」と言うと、一様に「ふ?ん・・・??」いう顔で見つめられ、就職後も「お?い、ラオス」と呼ばれている者も少なくない。こんなに専攻語の国に引っ張られる人生を送るのである。残念ながらラオス関係の就職はとても少ないが、初めてラオス語を勉強したときの新鮮な気持ちとがんばりを忘れず、これからの人生に役立てていきたいと思っている。(平成14年度卒業生)
 2001年末には外語会ラオス支部が発足した。他の海外支部に比べると10名前後という小さな集まりである。メンバー構成は、さまざまな専攻語出身者、しかも親子以上ほど離れた年齢幅のある集いとなっていて、まるで家族のような心なごむひとときであると言う。少人数であるがゆえに、留学中の現役学生も交えて、大先輩のご自宅でホームパーティー形式をとるなど、とても暖かい雰囲気の中で和が広がっているそうである。

ハックペーンカン

 現在でも、ラオス語専攻として、大学でラオスに関する学問が専門的かつ総合的に学べるのは、日本では本学だけ、世界でも北京外語大学など2、3ヶ所だけだそうである。短期間の間にこれだけの拡張と充実を呈する本学のラオス語専攻。「ラオス学」が総合的に学べる貴重な場としてのこれからのますますの発展を祈ってやまない。
 大学案内には、「ラオスに関する図書や辞書は国内外ともに少なく、ラオスへの直行便はありません。」とあって、ちょっと絶望的な気持ちになるのである。そして「厳しくも助け合い、自分たちで考えて学ぶ雰囲気が好きな方の入学を大歓迎いたします」と続いており、選んだのは自分だから文句は言えないと腹をくくってラオスの扉をたたく。しかし卒業する頃には、こういう専攻語だったから有意義な大学生活がおくれた、ラオス語専攻でよかった、と心から思うようになるのだ。(藤川)  
  ラオス語に「ハックペーンカン」という単語がある。日本語にこれに相当する適切な単語はなく、強いて言えば「信頼し慈しみ合う」という意味である。一年生ラオス語テキストの第2課「私たちの教室」という文章の最後の文にこの単語が出てくるのであるが、このラオス的で美しい単語によって単語の意味は一対一には対応しないということを学ぶと同時に、ラオスの魅惑的な世界に引き込まれていったような気がする。そしてそれは我々ラオス語専攻生のつながりを表す言葉となって現在にまで心の中に生き生きと伝わって響いてくる。

文責:石川雅啓(平9)小松孝之(平11)関口絵津子(平11)井出下 哲(平14)塩島栄美(平15
(一部「インドシナ語学科百年史」(メコン会)からの抜粋であることをおことわりしておく)


ラオス一口メモ
 面積:236800km2
 気候:熱帯モンスーン気候(雨季と乾季)
 人口:約620万人(2011年)
 政治体制:人民民主共和制
 公用語:ラオス語
 宗教:上座仏教・精霊信仰など

 

【ラオス語専攻沿革】

 「本学でラオス語が正規に教えられているのは全国で本学が唯一であり、世界でも旧植民地宗主国フランスなど数えるほどしかありません」(『大学案内』1998年)。このラオス語専攻は、1992(平成4)年、インドネシア・マレーシア語学科とインドネシア語学科が合併、東南アジア語学科となったときに、フィリピン語、カンボジア語とともに開設され、1996年より卒業生を出している。

 当初、ラオス語専攻を選んだ者も1年次はタイ語を履修、2年次からラオス語を履修するという形態をとっていた。1年次からラオス語を履修するように改められたのは、鈴木(旧姓上田)玲子が着任する1996年度からである。専任教官(注1)は鈴木玲子(1996〜)、ウティン・ブンニャウォン(1998年〜。「国立又は公立の大学における外国人教員の任用に関する特別措置法」による引用)(注2)。

 これまでの非常勤講師は、チャンタソン・インタヴォン(ラオス事情)、星野龍夫(文化史)、竹原茂(語学)、ポーンケオ・チャンタマリー(語学)、林行夫(東南アジア仏教)、飯島明子(文学)、菊池陽子(歴史)、鈴木基義(開発経済)、新谷忠彦(言語学)、小坂隆一(言語学)の各氏である(注3)。

 なお今年1998年度、日本の大学としては初めてラオス国立大学と大学間交流協定を締結。本学からすでに留学生を送っており、1999年度からは双方の交換留学が始まる。

※以上、「東京外国語大学史編纂委員会『東京外国語大学史 -独立百周年(建学百二十六年)記念-PP.1055-1056 (1999)」 より抜粋。

注1・・・2012(平成24)年度の専任教員は、鈴木玲子、菊池陽子、ブアポーン・マライカムである。
2・・・ウティン・ブンニャウォンの着任期間は、1998年〜1999年である。
3・・・2012(平成24)年度までの非常勤講師は、加えて、安井清子(フモン語と口承文学)、園江満(地理・農村社会)、松本悟(環境学)、新田栄治(考古学)、阿部健一(生態・風土)、横山智(地理学)、スックニラン・ケオラ(国際経済学)、矢野順子(語学)、チャンパパン・ブアウィエン(語学)、小田島理絵(文化社会人類学)、橋本彩(語学)、シテサイ・サヤボン(語学)、大田省一(建築学)である。

 

 

 

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