Cambodian Studies, Tokyo University of Foreign Studies

カンボジア文学史概説

岡田知子

現在は一部のフォントが配信できないため、註の一部は省略しています。また付録は添付されていません。読みにくい部分がありますが、いずれ改良するまでご容赦ください。

  1. はじめに
  2. 中世
  3. 近代
  4. 現代
  5. おわりに

1.はじめに

カンボジアでは1世紀ごろからインド文化の影響を受けた文明が栄え、南インド系の文字を使って、石に文書を残してきた(1)。そこには寺院などに寄進された奴隷や品物のリスト、戦争などの歴史的事件、あるいは宗教儀式に関する事柄が書かれている。カンボジアの文学はこうした文字の歴史とともに徐々に形成されていった。

本稿では、1.中世、2.近代、3.現代と時代区分し、それぞれの時代の主な文学作品とその特色を概観する。なお中世は古典文学といわれる作品の現れた15世紀かフランスの政治的支配下におかれる19世紀後半まで、近代は19世紀後半からフランスからの完全独立を果たす20世紀半ばまで、現代は20世紀半ばから現在までとする。

なお後述するように、1975年から1979年の間にほとんどの文学作品及び文学に関する資料は消失してしまったため、現在、文学史研究は非常に困難なものとなっていることをあらかじめ断っておきたい(2)。またカンボジア人による文学作品はカンボジア国内だけではなく、タイ、フランス、ドイツ、アメリカ合衆国などでも発表、出版されているがここではカンボジア国内で発表されたものに限定する。

人名は出来る限りクメール語音に近いカタカナ表記を心掛けたが(3)、一般に知られているものについてはそれにしたがった。なお、敬称は省略する。生没年が明らかな場合はそれを西暦で付記した、作品名は可能な限り邦訳し、発表年を付記した。また1995年現在、教育省より制定されている中高等学校のカリキュラムに指定されているものについては書名の後に*を付記した。また付録として本稿で取り上げた作品名及び作者名、翻訳者名については本稿の最後にクメール文字表記で載せた。

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2.中世

ジャヤヴァルマン2世(在位802-834)に始まり、ジャヤヴァルマン7世(在位1181-1218)の治世に最盛期を迎え、約400年続いたアンコール王朝は15世紀に幕を閉じた。アンコールにあった都は、その後、プノンペン、ロンヴェーク、ウドン等に移った。この間、シャムとベトナムによって国土は侵略、干渉され続け、また王位継承権争いなどで国内はさらに混乱に陥った。

中世では、それまでの石碑に変わってサトラーと呼ばれる貝多羅葉に記されたものが書物の主流となった。その中でも古典文学は、サトラー・ルバエンと呼ばれ、サトラー・コンピーといわれる経典などと区別される。

古典文学に大きな影響を及ぼしたのは、1世紀ごろから伝わっていたインドのヒンドゥー教文学と、13世紀に伝わった仏教文学である。前者はインドの叙事詩『ラーマーヤナ』をもとにした『リアムケー』*で、後者は『トッ・チアドク(10のジャータカ)』、『パンニャーサ・チアドク(50のジャータカ)』といわれる「ジャータカ」、つまり仏陀の前生物語である。

『リアムケー』は「リアム王子の栄誉」の意で、6世紀後半の碑文にすでにそれについての記述が見られる(4)。アンコール・ワットの回廊などにはこの物語をモチーフにした浮き彫りが多く見られ(5)、また古典舞踊、影絵芝居の主な題材ともなっている(6)。『リアムケー』(7)の構成は『ラーマーヤナ』(8)とは全く異なっている。現在残っているのは、全80巻のうち、17、18世紀に編纂された第1巻から第10巻と、18、19世紀に編纂された第75巻から第80巻であるが、作者は不明である(9)。前半部分はポムノール(後述)、後半部分は6音節の韻文から成っている。第1巻ではピスヴァマット(=ヴィシュヴァーミトラ)仙が準備した祭儀の途中に烏に化けた夜叉カーカナソーが邪魔に入り、リアム(=ラーマ)王子とレアク(=ラクシュマナ)王子に退治される、というところから始まっており、ラーマ王子がヴィシュヌ神の生まれ変わりとして人間界に降誕するまでの物語が語られるところから始まる『ラーマーヤナ』とは異なっている。第10巻ではリアム王子とリアプ(=ラーヴァナ)との戦闘の様子が描かれており、アンタチット(=インドラジット)を初めとして次々と10人の息子を戦いで失ったリアプが激怒し、外に援軍を求める、というところで終わっている。『ラーマーヤナ』では見られないエピソードもいくつかある。チュノク(=ジャナカ)王が海辺近くを耕していた時、箱に入った女の子が流れてきたというセダー(=シーター)の誕生物語、ピアリー(=ヴァーリン)とスクリプ(=スグリーヴァ)の確執は水牛トゥーピーとの戦いによるという物語などである。第75巻からはリアム王子によるセダーの追放物語である。侍女に化けたリアプの親戚アトライに騙されたセダーが、リアプの絵を描いたことから、リアム王子の叱責を受け、森でレアクによって殺されることになるが、レアクはセダーを逃がす。仙人のもとで暮らすことになったセダーはリアムレアクとチュパレアクという二人の息子をもうける。偶然、森で二人の息子に会ったリアム王子は事の真相を知り、自分が誤解していたことを認め、セダーに謝罪するが、セダーは許さない。最終的にはセダーはリアム王子を残して地下の竜の国へと去ってしまう。ここでは人間的な葛藤の物語となり、リアム王子は神としてではなく、喜怒哀楽のある感情豊かで心身ともに弱い面を持つ一人の人間として描かれている。パーリ語による難解な語彙も前半部分に比べて少ない。このようにインドの『ラーマーヤナ』と登場人物や舞台は同じであっても、内容はカンボジア独特のものであり、カンボジア固有の文学といえる(10)。またリアム王子を表現するのに仏陀を示す言葉が使われることもあり、ヒンドゥー教文学とはいえ、仏教の影響を受けていることが伺える(11)。

『トサ・チアドク』は、『トライバイドク(三蔵)』、つまり『南伝大蔵教』の中の「経蔵」に含まれる「ジャータカ」全547話のうちの最後の10話のことである(12)。特に最終話の「布施太子物語」*は、主人公のウェーサンドー太子が王位や財産を投げ出し、最後には最愛の妻子までも喜捨する話であり、現在でも人々に最も好まれている。『パンニャーサ・チアドク』(13)は、スリランカで仏教の研究をしたカンボジア、タイ、ラオス、ビルマの僧侶たちが帰国後、それぞれの自国語で15世紀から17世紀の間に創作したものと考えられている。というのは、インドやスリランカにはそれに相当するテキストがなく、また上記の4カ国の『50のジャータカ』を比較してみると、内容は類似しているが、それぞれの話のタイトル、順序はほとんど異なっているからである。因果応報、業といったことがテーマとなっているが、仏教思想とは相反するような愛欲や世俗的な話も見られる。古典文学の多くはこれらの『チアドク』から題材をとっている。

古典文学の多くは前世の釈迦か王子の勇敢な冒険物語である。この世の運命はすべて前世の業によるものであり、善行を行う者には良い報いが、悪行を行う者には悪い報いがあるというテーマに基づいている。物語は奇想天外な展開を繰り返し、「出会い」と「別れ」が重要なプロットとなっている。作者は不明の場合が多く、わかってもその経歴や書かれた日付は明らかではない。空を飛ぶことができる機械じかけの白鳥で飛行中に別れ別れになってしまった王族が最後には再会する話『ホン・ヨン(機械じかけの白鳥)』、前世の報いで盲目となった母とその姉妹たちを助けるべく活躍する青年の話『プティサエン』(14)、元漁師が船長と妻を交換したことから、最後には高位に就く話『ミア・ジューン(我が叔父)』*、夜叉の王に攻撃されている国の王女を助けた王子が、その王女と結婚し、その後も夜叉との攻防を繰り広げる『トゥプソンヴァー』、ほら貝王子が困難に出会いながらも自身の持つ不思議な力と神に助けられながら最後には王女を妻にして王位につく『クチョーン・サン(ほら貝)』(1729)などは、おそらく宮廷の高官、あるいは僧侶によって書かれたものとされている。法律家であったカオは、アン・チャン2世(在位1806-1834)の時代の詩人でもあった。王位を追われそうになった王が王妃と王子をさらわれ様々な困難に遭いながら、最後には家族と再会する話『クロン・ソペアムット』(1720)を書いた。アン・ドゥオン王の師であったノーンは、貧しい青年がインドラ神の助けにより王女を妻とし、王となる話『ポーコルコマー』(1804)など、仏教思想に基づく多くの作品を書いた。ヒンは王子チナヴォンが地上や海底をまたにかけてん冒険し、多くの妃を得る『チナヴォン』(1856)を書いた。これはカンボジア古典文学において、一人の作者によって書かれたものとしては最も長い。アンコール・ワット建立物語である『ルバウク・アンコール・ワット』*はポーンによって17世紀ごろ書かれた。即ち、天寿を全うしていない幼い王子が他界した父王の思惑によって天界に上る。神々の計らいによってその王子のために地上に王子の気に入った天界の建物を建てることになる。王子の気に入ったのは家畜小屋であり、それが今のアンコール・ワットである、という物語である。「ルバウク」という言葉が示すように寓話の一種であり、利己主義を諌める内容となっている。

中世の文学はアン・ドゥオン王(在位1841-1859)の時代に最盛期を迎えた。カンボジア文学史上における黄金時代といえる。当時、カンボジアはベトナム、タイから強力な圧迫を受け、半ば両国の属国状態となっており、政治的には非常に不安定な時期であった。しかしアン・ドゥオン王は、幼少時よりタイで学び文学に造詣が深く、即位後は宗教や文学の識者を宮廷に集めさまざまな書物を編纂させ、また自ら吟詠法を教授したと言われる。それだけではなく、王自身も『カーカイ』(1815)、『チバップ・スライ(婦女庭訓)』(1837)(15)などを著した。『カーカイ』は序文によると王が19歳の時にタイ語から翻訳したものである。「カーカイ」とは主人公である美貌の王妃の名前で、王以外に2人の男性を同時に愛してしまったために、最後には王の命令により筏で海に流されてしまうという話で、その名前は現在でも多情な女性の代名詞となっている。

これらの古典文学のスタイルの特徴は、サンスクリット、パーリ語からなる語彙が豊富であり、韻文で書かれていることである。詩の定型には、扶南時代から中世までに形成された13種が基本型とされており、それぞれ独特に押韻されている。扶南時代の4音節詩、真臘時代のバチヤワット、アンコール時代から伝わって、物語の導入部に歌われるカーケアテ、怒りを表現するポムノール、喜びを表現するプチョンリリア、別れを表現するプロムクット、笑いを表現するボントール・カークなどがある。また19世紀ごろから、6音節、7音節、8音節、9音節、10音節、11音節からなる定型詩も現れた。現在ではそれらをもとにしてさらに押韻方法に趣向を凝らしたものを含めると、全部で53種が確認される(16)。また伝統音楽と密接な関係にある独特の吟唱法がある。

しかしこれらの古典文学は所詮宮廷文学であり、庶民とは縁のないものであった。一般の人々に親しまれていたのは『リアムケー』や『布施太子物語』の他に、昔話、チバップといったいわゆる口承文学であった。チバップとは仏教的な教えに基づいた教訓集で、16世紀から19世紀の間に書かれたものがほとんどであるが、詳細な年月、また作者名は明らかではない。細かな項目に分けて悪妻について説明し、夫に仕える良妻であるようにと諭した「チバップ・スライ(婦女庭訓)」*(17)、賭事、酒色に溺れることなく真面目に仕事をするように諭した「チバップ・プロホ(男子庭訓)」*父母、恩師を敬うようにと諭した「チバップ・クロム」などがある。19世紀になるとこれらのチバップは寺子屋で教えられるようになった。

昔話(18)の中でよく知られているのは、夫の留守中に蛇と愛し合ってしまい、夫の手によって殺されてしまう女の話「ケンコン蛇」、知恵者であるうさぎが強者を打ちのめして弱者を助ける話「うさぎの裁判官」、日本の「一休さん」、「きっちょむさん」に相当する頓知物語「トゥネンチェイ」*(19)、「アーレーウ」などである。これらの頓知話は、どちらも幼い子供が知恵を働かせて権威者あるいは社会制度に対抗し必ず勝利を得るという内容で、庶民の自由への強い憧れが読み取れる(20)。

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3.近代

1863年、フランスとの保護条約を締結、1884年には協約に調印、1887年には仏領インドシナ連邦が成立、カンボジアはこれに編入され、完全にフランスの支配下に置かれた。中世から近代にいたる過渡期にはまだ韻文による作品が依然として主流であった。継母に実母を殺された少女が不思議な力に助けられながら最後には幸せを得る話『モラナミアダー(母亡き子)』*(1877)はウックによって書かれた。死んだ母の遺体を自分の衣服で覆い、自身は代わりにバナナの葉鞘を身にまとったことからそのように呼ばれるようになった少年が、生まれる前から両親の決めたいいなづけと出会い、前世からの因果応報で最後には王位を得ていいなづけと結婚する話『スロトープ・チェーク(バナナの葉鞘)』*(1889)はグンによって書かれた。トンによる『ソプサット』*(1899)は、前世でミソサザイであったソプサットが知恵を働かせ、約束通り前世で自分の妻であった王女と結婚する話である。イン(1859-1924)は、仏教理論に基づく格言集をいくつも著し、またアンコール・ワットの美しさとはかなさを歌った『アンコール・ワットの別離』*(1934)を8音節の韻文で書いた。

純粋カンボジア文学の初期代表作ともいえるものが『トム・ティアウ』である。カンボジアの一般大衆にも人気を得(21)、後の近代文学に大きな影響を及ぼした。口承で伝わってきたもので、作者については様々な説があるが、初めに整った形にしたのは宮廷歌人であったサントー・モックとされている。その後、プレイヴェンの僧侶、サオム(1852-1932)が1915年に7音節の韻文で表わし、ヌー・コン(1874-1947)が8音節の韻文で『ティアウ・アエク』(1942)と表題を改めたものがある。この物語は都がロンヴェークにあった16世紀の実話に基づくものとされている。布施太子物語をその美声で吟唱する若い僧侶トムと村娘ティアウの悲恋物語、いわばカンボジア版『ロミオとジュリエット』である。古典文学の典型である王子、王女、超自然的な力を持つ神、仙人といった登場人物はいっさい現われず、舞台は主に一農村であり、そこに暮らす村民が話の中心となっている。強調するように繰り返し登場人物の台詞に使われる「お菓子は秤より大きかったためしがない」(22)という言葉に象徴されるように、当時は目上の者が絶対的な権威を持ち、それに逆らうことは許されない封建的な社会を背景としている。僧侶として守るべき戒律を犯してまで、そして伝統習慣を覆してまで女性を愛する、母親は財産家に嫁ぐ事が娘の幸せであると信じ、そのためには手段を選ばない、官吏は私利私欲のためにその権力を乱用する、王はその絶対的権力によって思いのままに振る舞う、など『トム・ティアウ』の登場人物はそれぞれの特徴をもった人物を表現する比喩として使われるようになるほど、後の文学作品に大きな影響を及ぼした。

美声の吟遊詩人として知られるオック・オー(1865-1936)、通称クロム・ゴイは、コンダール州に生まれた。寺院で修行僧として長らく学び、還俗後村長である父の秘書を勤めた後、普通の農民として生きた。クロム・ゴイの作品は、韻文という形をとってはいたが、平易な語彙で農民にとって身近で具体的な話題を取り上げている。主なテーマは農村の生活、農民の苦しみ、外国からの圧力、カンボジアの独立や文化の危機などである。クロム・ゴイは当時のシソワット王(在位1904-1927)から宮廷楽団のメンバーとして出入りを許され、さらにその名声はタイの王宮にまで響くほどであった。主な作品に「チバップ・ルバウク・トゥマイ」*(1922)、「目覚め」(1931)などがある。

フランス統治のもとで印刷技術が導入されると、文字は次第に大衆のものとなっていった。また西洋文化の影響を受けた新しい知識層が現れ、その中から作家や読者が生まれていった。さらに植民地体制になったことで民族意識が高まっていった。1930年に仏教研究所が設立され、ここで仏教経典やその他の様々な文学書が研究、編集、出版された。『トライバイドク』全110巻は、1929年からクメール語の対訳をつけて編集され、ほぼ40年の歳月をかけて完結した。後のモハニカイ派の大僧正チュオン・ナート(1883-1969)を中心として『クメール語国語辞典』(1938)も、ここで編纂された。また最初のカンボジア語による雑誌『カンプチア・ソリヤー(カンボジアの太陽)』は仏教研究所から1926年に創刊され、カンボジアの伝統文化と宗教と文学を広く広めるために貢献した。またその後民間から創刊された雑誌『スロック・クマエ』や『リアトライ・トゥガイサウ(土曜日の晩)』には連載小説なども載るようになった。また反仏民族主義を全面に掲げた最初の新聞『ノコー・ワット(ナガラ・ワッタ)』がソン・ゴク・タンによって1937年に創刊された。

文学作品にも新たな傾向が見られるようになった。古典文学の多くは韻文で、また宮廷を舞台としていたのに対し、近代文学はすべて散文形式で書かれるようになり、様々な社会階層の人々を登場人物とし、その日常生活について描写したものである。近代文学のはじまりは、ルム・クン(1911-1959)による『ソパート』*(1938)であろう。これは未婚の母を亡くした少年ソパートが実父を探しにバッタンバンからプノンペンに上京し、様々な困難を乗り越えて実父と再会、その養女であるマンヤーンと結婚する話である(23)。プノンペン生まれのルム・クンは、幼少時、官吏である父親の仕事のためにプノンペンだけでなく地方を転々とした。教育学を学んだ後、教職に就き、バッタンバンでも2年間教師をし、このころから作家活動を始めた。異母兄弟の存在、父親の事故死後、母との二人暮らし、寺院での勉強、修行なと、これら作者の実体験すべてが『ソパート』のモチーフとなっている。カンボジア初の小説『ソパート』は二千部が半年で完売した、ということはいかに当時人々に受け入れられたかを物語っていよう。この作品は1955年から1975年の間、中学校のカリキュラムに導入されていた。ルム・クンは多才で、教職のかたわらクメール作家協会初代会長を務めた他、小説、戯曲、詩、フランス文学作品の翻訳など未発表のものも含め34余りの作品を書いた。さらに喜劇役者、映画製作者としても活動した。

セット(1881-1963)は、女性として初めて恋愛について語った小説『さだめられた二人、裏切りのない友』(1952)を著わした。これは当時新しく現れたブルジョア階級の人々を描いている。『プンピアの嘆き』(1942)は、7音節の韻文体で、ゴータマ・シッダールタが妻のプンピアに自分たちの前世物語について語るものである。ヌー・ハーイ(1916-1975)は『萎れた花』*(1947)で若い男女の純粋な愛とカンボジアの伝統習慣が引き起こす悲劇を描いた(24)。また『心の花輪』(1972)は、1946年ごろにすでに書かれており、1940年に起こったタイとの国境紛争を題材にしている。若いカンボジア人の男子学生が、故郷のバッタンバンでタイ人の娘と恋に落ち、カンボジア・タイ戦争を経て結婚するまでの物語であるが、祖国と恋人の間で揺れ動く青年の心情を描いている。

ニョック・タエム(1930-1974)は『パイリンのばら』*(1943)で、お互いに密かにひかれあう若い男女の心理的葛藤を細かく描いている。また創作活動だけでなく、カンボジア古典文学の研究にも貢献した。このころ中国文学の翻訳なども見られるようになった。ヌー・コン(既出)によるタイ語からの翻訳『三国志』が1948年から1971年まで『カンプチア・ソリヤー』に連載された。またパン・カットにより『ヒトパデーシャ』がサンスクリット語から直接翻訳され、1951年、『スライヘパタオ』全4巻として出版された。

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4.現代

1953年、フランスからの完全独立後、ジャーナリズムをはじめとして創作活動はますます活発となった。政府系の新聞『カンプチア』、週刊誌『ネアック・チアットニヨム(民族主義者)』、月刊誌『プセーン・プセーン(様々)』、また民主党系の新聞『プロチアティパタイ(民主主義)』や共産党系の『プロチアチョン(人民)』が創刊された。また党派によらない民間紙『ミアットプーム(祖国)』や『ムタピアップ(友好)』も創刊された。この2紙には中国文学の翻訳ものが多く掲載されるようになった。しかし総選挙でシハヌークの率いるサンクムが勝利をおさめるに従ってシハヌークの独裁的な政治が展開され、中立政策という外交面とは裏腹に国内では左翼弾圧政策もとられた。結局体制を批判した新聞は廃刊に追い込まれた(25)。

一方文学の世界では、ルム・クンらを中心として12人の作家たちにより1956年「クメール作家協会」が設立され、作家の創作活動を保護、奨励した。インドラ・デヴィ賞(26)という文学コンクールも催され、スオン・ソルンの都会における貧しい者の苦しみを克明に描いた『新しい太陽が古い大地に昇る』*(1961)やラック・ラリー(1940-?)の両親のいない少女が都会に出て未婚の母となり、自活していく姿を描いた『女性』(1963)などが受賞した。両作品とも貧困層の人々の生活とその苦しみを描いているが、結末ではシハヌーク賛歌に終わっている。

コン・ブン・チュアン(1939-)(27)は1955年から作家活動を始め、『地獄の宮殿』(1962)でサンクムの腐敗などを批判したため6ヶ月間投獄された。ウム・トックの『徴用労働者』*(1956)では、1940年の日本軍進駐時にカンボジア人が日本軍のための空港整備に労働力として徴用された苦しみを描いている。ポウ・ユレーンとオム・チュンの『泥棒社長』*(1956)は、戯曲形式になっており、正義を愛する労働者たちが協力しあって邪悪な雇い主に対抗する話である。

ケン・ヴァンサック(1925-)は、現在に至るまでの多くの年月をフランスで過ごし、リアリズム的な詩を創作、当時の文学また政治にも大きな影響を与えた。政治面では民主党急進派の指導的存在であった。1954年のジュネーブ協定後、1955年の総選挙のための運動で大きな役割を果たしたが、シハヌークの反感を買い逮捕された(28)。代表作は希望や理想を果たそうとしても果たせないそのやりきれない気持ちを歌った『乙女の心』(1954)、人間は生ある限り様々な意味で牢獄につながれており、そこから解放されるには愛と希望が必要であるとした『煩悩の牢獄』(1955)である。後のロン・ノル政権時代に首相となるホン・トン・ハック(1926-1975)は、パリで演劇を学び、帰国後、芸術大学の学長を務め、国立劇団の指導もした。都会の中流家庭内での保守的、進歩的な考え方の対立を描いた『親のいない巣』(1965)など、多くの戯曲を執筆し、またシェークスピアの『真夏の夜の夢』(1968)やジャック・アンリ・ベルナルダン・ド・サン・ピエールの『ポールとヴィルジニー』といった外国の作品を翻訳した。このロマン主義の見本ともいえる悲恋物語『ポールとヴィルジニー』は後の小説に多大な影響を与えた。ソイ・ヒエン(1929-)(29)は自らの少女時代、1945年のアメリカ軍の爆撃に強い衝撃を受けたことから、『少女ナクリーの運命』(1952)をはじめとして戦争の悲劇を題材とした作品をいくつも書いている。ソット・ポーリン(1943-)(30)はフランス文学を学び、実存主義のサルトルを敬愛した。代表作には、階級の違いから若い男女の純粋な恋愛が悲劇へと進む『意味なき人生』(1967)、また当時、内容が猥褻であるとして政府から発売禁止となった『慈悲なき姿態』(1967)がある。リアン・ハプ・アーン(1934-?)は、仏教研究所所長を務め、多くの古典文学研究論を発表した。一方、独立に伴い、フランス語からの借用語を減らし、本来のクメール語で新たに造語する計画「クメール語化運動」が1960年代半ばごろから教育省の指導で始まった。またこのころにケン・ヴァンサックを中心とする教師たちがフランス語の「literature(文学)」に相当する「アクソーサル」という言葉を造語した。

ベトナム戦争が終結の時期を迎えつつあった1970年、右派のロン・ノルがクーデターを起こした。このクーデターの重要な原動力となっていたのは、外国、つまりカンボジアに大きな影響力を持ちうるベトナムや中国からの内政干渉に強く反発するナショナリズムであった(25)。このような状況下にあって、カンボジアの歴史上において実際に起こったナショナリズム・レジスタンス運動を題材にし、反ベトナム、反王党、反植民地主義をうたい、クーデターの正当性を主張する作品が多く現われた。しかし政府がかわり、共和制になったが、依然として実状は変わらず、社会不安は深刻化していった。特に1971年10月以降、議会内の批判派が強力となったためそれを封じるべく、議会を制憲議会化し、軍事独裁制を確立した(31)。国民に対しても出版、集会、通信などの言論における権利を一部制限する方針を打ち出した。ドゥアク・オムとダク・キアムは『獣の村』*(1971)で、1925年、フランス植民地時代にコンポン・チナン州で実際に起こった、重税に苦しむカンボジア人がフランス人官吏を殺害した事件を題材にして書いている。ソー・チョムラウンは『アチャー・スヴァー』(1971)と『ポーティ・コンバオ』(1971)で19世紀のレジスタンス運動で活躍した実在の人物について書いた。ブン・チャン・モル(1916-1975)はフランス植民地時代から当時の共和国時代までの政治的観点から描いた彼自身の自伝ともいえる『クメールの性格』(1972)を発表した。コン・サンピアは1942年のナショナリズム運動に参加した僧侶らの物語『アチャー・ハエム・チエウ』(1972)を書いた。マウ・アユット(32)(1944-)はプノンペンの混乱状態をありのままに描写した『ひび割れた大地』(1973)を発表した。ウット・サルンは、プノンペン郊外で活動するクメール・ルージュに1972年に9ヶ月間潜入した記録『クメールの魂を偲ぶ』(1973)を発表し、クメール・ルージュの行動を克明に追っていて興味深い。詩では、クン・スロン(1945-1978)は急進的な考え方の詩『第一の洞察』(1970)を発表した。コイ・サルンはボードレールの『悪の華』に影響を受け、処女作である『黒い華』(1970)を著わし、都市で贅沢に生きる人々に疑問を投げかけた。このころはインドラ・デヴィ賞に代わって詩人クロム・ゴイの名をとったコンクールが催され、ペン・ヴァントンの『乙女の心の嵐』(1972)、などが受賞した。また政府はケン・ヴァンサックを中心としてクメール・モン研究所を設立し、民族文化の基礎を作り、人々に民族の誇りを持たせようとした。ヴァンディ・カオン(33)(1942-)は『ボバリー夫人』(1974)を翻訳した他、フランス文学を中心にゾラ、モーパッサン、バルザックなどを紹介した。その他の西洋の翻訳ものとしてはサン・テグジュペリの『夜間飛行』(1971)、サルトルの『壁』(1972)、ジョージ・オーウェルの『動物農場』(1972)、カミュの『異邦人』(1973)、モーリス・ウェストの『ベトナム大使』(1973)などがある。またリー・ティアムテーンは1962年に中国に赴いたおりに周達観の『真臘風土記』の版本を目にし、帰国後翻訳し、『チウタクヴァンの記録−真臘の人々の習慣、風俗について』(34)(1973)として出版した。

1975年4月以降のポル・ポトを中心とした新政権下では多くの人材、また文学資料が失われた。1976年民主カンボジア政府が発表した社会主義国家建設のための4ヵ年計画文書は、それまでの文化、社会、経済、価値体系とすべて否定するものであり、「文化、読み書き、芸術、技術、科学、大衆教育、宣伝と情報」に関する記述は最も短い(35)。また1978年、プノンペンで開催されたカンボジア共産党創立18周年記念集会でポル・ポトは「文化・教育面における建設」について「古い反動的、隷属的文化、腐敗堕落した文化の一掃をすすめ、わが国の社会に害毒を流さないようにした」(36)と演説している。この当時、文化の表現として許されていたのは、革命的詩歌だけであった(37)。こうして、長い歴史の中で培われてきたカンボジアの文学はそれを支える人々とともに大きな打撃を受けたのであった。

1979年1月、ベトナムに支援されたカンボジア人民共和国が成立した。小説、新聞などは党の宣伝活動の道具として使われた。文学作品は全て政府の広報機関である「文化出版所」「青少年出版所」から出版され、前書きでは必ず「ポル・ポト、イエン・サリ、キュー・サンパンらによる3年8ヶ月20日間に及ぶ民族大虐殺」について触れてある。作品のテーマは、残酷な行為を繰り返してきたポル・ポトらを批判し、人民の敵であるアメリカ帝国主義やタイ植民地主義と戦い、同志であるベトナムとともにマルクス・レーニン主義を貫いてゆくというものである。どの作品も「同志」「革命」「敵」「指導者」「戦士」といった言葉が頻繁に使われている。作家の多くがポル・ポト時代に殺され、あるいは生き残っても海外に脱出してしまった中で、国に留まった数少ない作家たちは不本意ながら政府の指導のもと、創作活動を続けた。小説では、コン・ブン・チュウン(既出)の1人の少女の目を通して描く悲惨なポル・ポト時代『葉は枝から離れて』(1987)、ティー・チーフオット(1952-1987)の仏領インドシナ時代にカンボジアで共産党活動をしたラオス人青年の話『月を失った空』(1988)、ノン・チャン(1950-1994)のタイ資本主義と戦う若い革命海軍兵士の物語『人生の歌』(1988)などがある。

パル・ヴァンナリレアク(38)(1954-)は、高慢でわがままな少女が過酷なポル・ポト時代を経験して成長していく話『闇は去った』(1988)、ポル・ポト時代に離ればなれになってしまった婚約者と8年ぶりに再会した女性が、海外に脱出しようとするその婚約者との葛藤を描いた『希望の新しい地平線』(1988)を発表した。この2作品は1988年に開催された1月7日10周年記念芸術祭の小説部門の1位、2位を獲得した。『闇は去った』では、物語の前半部分はロン・ノル時代を舞台とし、裕福な家庭に育った一少女の言動に焦点を当てており、1975年以前のスタイルを踏襲している。こうした政府の厳しい統制の中でヴァンディ・カオン(39)(既出)の『魔物の島』(1987)は、異彩を放っている。太平洋に浮かぶ島「幸福の国」は自然が豊かで一見平和に見えたが、首都「憂いの都」では王が横暴に暮らしていた。ある時、男性ばかりを狙った連続無差別殺人事件が起こり、当惑した王は、副王の忠告に従い海外に脱出、副王が権力を握ったのも束の間、黒衣の女性軍隊に都は制圧されてしまう、という物語である。この作品は一種の大人向けメルヘンというスタイルで書かれており、この当時の作品に共通している社会主義的なテーマや語彙は一切見られず、シハヌークとサンクム時代のみを取り上げて痛烈に批判している。しかし前書きに述べているように作者はあくまでも「現実は思考から生まれ、思考から現実が生まれる」とし、その現実とは「それまで個人が受けてきた教育によって育まれた五感によって把握するものなのである」としており、歴史上事実の特定はしていない。戯曲では、当時の文化大臣であったチェン・ポン(1930-)と情報省副大臣であったペイ・トムクロヴルによる、カンボジア人民の民族独立闘争の歴史をアンコール王朝の頃から綴った『カンボジアの歩み』(1986)がある(40)。詩ではチュオン・メーンのポル・ポト時代の悲惨さを描いた『ポル・ポト、イエン・サリ時代のクメールの大地を見よ』*(1980)、マウ・アユット(既出)の同じくポル・ポト時代の苦しみを表わした『サーディアウの音』(1989)、ヨック・クン(1934-)の人々の協力と友情の重要性を強調した『雌雄の鶴』がある。また帝国主義やブルジョアジーとの戦いをテーマとしたベトナム、ラオス、ロシアの革命小説が翻訳された。その他、エクトル・マロの『家なき子』(1988)、ジュール・ベルヌの『80日間世界一周』(1990)、『アリババと40人の盗賊』(1990)などがある。また、カンボジア人男性と結婚したフランス人女性が、二人の娘とともにポル・ポト時代を生きぬいたドキュメンタリー小説『地平線から遠く--クメール・ルージュと過ごした5年間』(1987)も翻訳、発表された。

作家が自由に作品を書くことを許されなかったこの時代、密かに小説を書いている作家たちもいた。マウ・ソムナーン(41)(1959-)は、この間「うさぎ」というペン・ネームで50以上の作品を書き、すべて手書きで人々の間に広まった。主な作品に『愛の模索』、『鉄の嘴を持つ鳥』などがある。どの作品も政治に触れることなく、恋愛を中心とした人間の感情を描いている。『愛の模索』では、一人の女性が多くの男性から愛され、翻弄される物語であるが、社会主義的な語彙はいっさい使われていない。麻薬売買のグループと刑事との抗争、ホテルでの売春、フランス留学、日本への捜索、アラブ人とカンボジア人との混血児など、当時のカンボジアの社会状況では考えられないような事柄がモチーフとなっている。

小説の内容に大きな変化が見られるのは1989年にベトナム軍がカンボジアから撤退してからである。フー・ソカイの『金の爪牙--人生の罠』(1991)では、1970年から1975年までのロン・ノル政権時代を舞台としており、その当時の金権崇拝主義、警察や軍隊の腐敗、売春などを題材としている。主人公となる貧しいが善良な家族は悲劇の結末を迎える。娘は誘拐された後、人身売買され売春を強要され、最後には復讐として殺人を犯した後自殺する。息子は売春宿から妹を救ったために、クメール・ルージュ呼ばわりされ、刑務所に入れられることになる。警察や軍隊内での公的な会話では「同志」や「敵」といった言葉がそのまま使われている。サーイ・クンの『作家の恋人』(1992)では、裕福な家庭に生まれた女性がある青年小説家の作品を批判する手紙を出したことから、文通が始まり恋愛感情へと発展するが、誤解から悲劇という形で終わる。この作品ではコンポート州の美しい景観やカンボジアの伝統的な行事の様子が描かれている。こうして徐々にではあるが創作活動の自由が取り戻されてきた。

1993年総選挙後、シハヌークを国家元首とする立憲君主制のカンボジア王国が成立した。それとともに文学の世界でも新しい動きがみられた。1993年4月、ユー・ボー(1942-)を中心としてクメール作家協会が復活した。1995年12月には同協会主催のシハヌーク国王賞という文学コンクールが催される。シハヌーク時代からの小説家、コン・ブン・チュアン(42)(既出)は、14世紀の史実に基づく長編冒険物語『プニアヤートの剣の轟き』(1995)、現代を舞台にしたファンタジー『サティヤーの墓標』(1995)などを次々と発表している。長らく休刊を余儀なくされていた『カンプチア・ソリヤー』が1994年仏教研究所より再刊された。また新聞も1993年に創刊され、現在最も読者数の多い日刊紙『リアスマイ・カンプチア』をはじめ、主要な政党、あるいは政治団体をそれぞれ支持する日刊、週刊紙などが20紙を越えている。1994年に創刊された大衆向け総合雑誌『プロチアプライ(人気)』では、国内外で話題になっているニュースの他に、芸能情報や恋愛小説を多く載せており、若い女性に広く読まれている。同雑誌に載せられている恋愛小説はほとんどが短編で、アメリカ、フランス、台湾などの翻訳ものも多い。

現在、一般庶民が容易に目にすることのできる、一般に流布している文学作品は数少ない雑誌と新聞に掲載される小説、詩である。詩について言えば、現代社会を風刺、あるいは批判するようなものが多い。小説は、以前のように倫理性が高く、読者を教化するようなものではなく、現在の社会をそのまま反映した内容である。貧困、金権崇拝主義、婚前交渉、拳銃による犯罪、汚職、売春、ストリート・チルドレンなどの社会問題を題材とし、それらの問題がひと事ではなく非常に身近な問題であり、その奥にはどのような原因があるのかを鋭く追及し、解決策のないやれきれない現代社会を描き出している。

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5.おわりに

カンボジアの文学は、古代、中世においてはヒンドゥー教、仏教の影響を受け、近代以降は政治と社会の動きに大きく左右されてきた。古典文学においてよく見られる「魔物の娘と英雄との結婚」(43)というテーマが近代文学においても、利己的な財産家という新しい形の魔物の娘と、貧乏ではあるが正義感の強い聡明な青年という英雄との結婚という形で引き継がれてきた。ごく最近になって現代の社会問題がテーマとして取り上げられるようになった。近代以降現代に至るまで、作家は常に政府の指導、規制のもとに創作活動をせねばならず、内容的には変化、想像に乏しい状況だった歴史から見て、これは非常に新しい傾向であると言えるであろう。しかしまだまだ厳しい経済社会状況から、創作活動を生活の手段とすることはほとんど不可能であり、現在においても文学の発展を困難なものとしている。カンボジアにおける文学の発展はこれからである。

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1なお、現在、年代が明らかにされているもののうち、最古のものはタケオ州のアンコール・ボレイで発見された碑文でシャカ暦533(西暦611)年と記されている。

2本稿を執筆するにあたって以下の研究を主として参考にした。
Khing Hoc Dy, Contribution a l'histoire de la litterature khmere, vol.1:l'epoque classique XV-XIXsiecle, Editions L'Harmattan, Paris, 1990.
Khing Hoc Dy, Ecrivains et expressions litteraires du Cambodge au XXeme siecle : Contribution a l'histoire de la litterature khmere, vol.2, Editions L'Harmattan, Paris, 1993.
坂本恭章「カンボジア文学に関するノート」(未発表)
Leang Hap Qan(略)
Li Team Teng(略)
Li Theam Teng(略)

3クメール語の発音についてはプノンペン大学文学部教授チェイ・チャープ氏に御指導頂いた。

4岩本祐訳『ラーマーヤナ1』、平凡社東洋文庫376、東京、1980年、p.296。

5その他、バンテアイ・スライ(10世紀半ば)、バープオン(11世紀初頭)にも見られる。

6Hang Thun Hak, Ramaker ou Ramayana Khmer, Imprimerie Sangkum Reastr Niyum, Phnom Penh, 1969, p.64.

7ここでは1959年仏教研究所発行のものを参照。

8ここでは岩本祐訳『ラーマーヤナ』による。

9Leang Hap Qan(略)

10Khing Hoc Dyによる『リアムケー』研究Un Episode du Ramayana Khmer--Rama endormi par les malefices de Vaiy Rabn, L'Harmattan, Paris, 1995.がごく最近出版された。

11この問題については
Martini, F. "Note sur l'empreinte du bouddhism dans la version cambodgienne du Ramayana" Journal Asiatique, 1952, p.67-70.
Pou, Saveros. "Les traits Bouddhique du Ramakerti" Bulletin de l'Ecole Francais d'Extreme-Orient, LXII, 1975, p.355-368.
がある。

12次の10話である。(略)

13ニョック・タエムの概要の紹介は坂本恭章「カンボジア古典文学紹介(1)(2)」『カンボジア研究』東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所「カンボジア事典編纂のための基礎的研究」共同研究プロジェクト報告No.1 1994, No.2 1995を参照されたい。

14元来、『50のジャータカ』の第39話「ロトサエン」に基づくものである。ヒロインの名である『ニアン・コンライ』で呼ばれることも多い。

15坂本恭章「アン・ドゥオン」の稿(新潮世界文学辞典,1990)によると、良い女性8種、悪い女性40種、夫を滅ぼす女性8種など6項目108種の女性のパターンが挙げられている。

16基本型13種を含む53種は以下の通りである。(略)

17既出のアン・ドゥオン王のものとは別である。

18仏教研究所のカンボジア伝統研究グループが1959年から編集した全9巻からなる昔話集がある。第1巻から第4巻までは一般的な昔話、第5巻から第6巻までは歴史や風土に関する昔話、第7巻は動物、植物に関する昔話、第8巻はネアク・ターと呼ばれる精霊に関する昔話、第9巻は風俗習慣に関する昔話、という構成になっている。

19「トゥネンチェイ」は主人公である子どもの名前であるが、元来ジャータカの話の登場人物の名前である「トンチェイ」がカンボジア語風になったものである。民間語源により「トゥメニュ・チェイ(勝利の歯)と呼ばれることもある。

20Bitard, Pierre. "Essai sur la satire sociale dans la litterature du Cambodge." Bulletin de la Societe des Etudes Indochinoise. Nouvelle Serie-Tome XXVI, No.2, 1951, pp.215.

21ドラポルト『アンコール踏査行』(三宅一郎訳、平凡社東洋文庫162、1970)p.64にも1873年にドラポルトがアンコール遺跡群を調査した際に、村長宅での祝宴で吟唱詩人によって『トム・ティアウ』物語が歌われたことが記されている。

22(略)

231995年11月に東京外国語大学カンボジア語学科で上演された。

24本作品についての研究には、ニュオン・カン「カンボジア文学研究(2)萎れた花」『カンボジア研究』東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所「カンボジア事典編纂のための基礎的研究」共同研究プロジェクト報告 No.2 1995,p.20-33。

25高橋保、『カンボジア現代政治の分析』国際問題新書33、日本国際問題研究所、1972年、p.40。

26ジャヤヴァルマン7世の第2王妃の名で、12世紀から13世紀にかけてカンボジアの文化発展に貢献したと言われている。

27現在、カンボジア文化賞出版部部長。

28チャンドラー、デービッド・P、『ポル・ポト伝』山田寛訳、めこん社、1994年、p.86。

29現在、フランス在住。

30現在、アメリカ、ロサンジェルス在住。

31高橋保、前掲書p.154。

32現在、カンボジア国営テレビ会長。

33現在、フランス在住。

34李添丁。和田久徳役『真臘風土記』平凡社東洋文庫507、1989年、p.155の解説によると未完となっているが、完結している。

35チャンドラー、前掲書p.196。

36民主カンプチア外務省編『「黒書」全訳ベトナムを告発する』日本カンボジア友好協会監訳、社会思想社、1979年、p.176。

37Khing Hoc Dy 氏の私信によると、当時、政府の宣伝広報用として『革命の旗』、『カンプチア』という雑誌が発行されていた。

38現在、テレビドラマ用シナリオ作家。

39当時、党中央委員会のメンバーとして、また社会科学研究所の所長として活躍していたが、1989年フランスに政治亡命した。

401983年1月7日第4回戦勝記念日に総勢250名で公演された。

41現在、テレビドラマ用シナリオ作家。

42クメール作家協会とは別に独自に「カンボジア作家協会」を1994年に設立、会長を務める。

>43岩本祐、前掲書、p.343。

『カンボジア研究』3号(1996年、坂本恭章・峰岸真琴編、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)掲載。

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作成日:1999年3月28日。改訂日:2003年2月21日。
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