書を持って、海に出よう――今福龍太先生著『身体としての書物』刊行に寄せて 淺野卓夫(サウダージ・ブックス)

演劇人・寺山修司の有名な言葉に、「書を捨てよ、町に出よう」というのがある。学校教科書が説く常識的な世界観、親たちの頭でっかちなものの考え方に背をそむけ、むき出しの裸になって都市の雑踏と闇に飛び込んでゆけ、というアジテーションだった。70年代、路上での「肉体の復権」と祝祭を通じた五感の開放が、反抗する若者によって謳われた。「都市」は、肉体で読まれる書物、挑発的な学びの場だった。
寺山が世を去ってから、四半世紀がたつ。都市は肉体の復権の現場どころか、紋切り型のイメージと情報言語で埋め尽くされた、退屈な教科書かカタログ本のような空間になってしまった。町でぼくらは、情報の行間を身体ではなく頭脳を使って急ぎ足で歩かされている。まわりを見渡せば、刹那的な欲望を刺激する広告ばかり。そして人は、肉体的なコミュニケーションを避けて、ひたすらケータイの画面のなかに閉じこもっている。外部の世界へ飛び出してゆく意志を、極端に失いつつある。
ぼくらの知は、いつの時代にも増して困難な状況にある。教養主義の高みから本を読みなさいと唱えても、本なんて知らないよと路上で騒ぐだけでも、世界とは何かを教える真実の「知恵」に触れることはもうできない。どうすればいいのだろう? 直接の答えではないが、第三の道の入り口なら、今福龍太先生の『身体としての書物』のなかにある。そう、「身体」と「書物」、五感と頭脳、遊び心とまじめな探究心を新たなやりかたでつなぐ学びの作法を身につけないかぎり、ぼくらが現在の袋小路からぬけだすことは難しいだろう。その作法がいったいどんなものかを知りたければ、大学ゼミナールから生まれたこの本を手にとって、思い切ってワイルドな知の森に分け入ってほしい。
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『身体としての書物』の読者に、編集上のエピソードをひとつ。
本書に収録された書物の写真(書影)は、それぞれ異なる表情を見せている。図版資料として四角四面にスキャニングされた書影は一点もない。そのかわり、著者が奄美や沖縄で撮影した二重露光による写真作品をのぞいて、ほとんどの書影は、ぼくが湘南の海山のあいだ、自然の場のなかで撮ったものである。本書に登場する書物のもつ「野性」の表情こそ、テクストに添えたかったからだ。たとえば、ボルヘス『砂の本』のスペイン語初版本は、タイトルにふさわしいベージュの表紙と同じ質感の砂浜を求め、三浦半島の久留和海岸で撮影。グリッサン『全―世界論』の仏語原著は、海岸裏手の峯山にある涸れ川で。すると、ガリマール社のおなじみのシンプルな表紙に、笹の影による不思議な縞模様が重なった。
冬の日、相模湾を望む海山を歩きながら、光と風、太陽の温もり、土や草の匂いを感じながら、本にふさわしい場所をさがしてロケハンをするのは楽しかった。汗をかき、自然界のエレメントによって豊かに五感が刺戟されると、想像力もぐっと膨らむ。アウトドアグッズにかわりに、本書で取り上げられたボルヘス、ジャベス、ベンヤミン、グリッサンといった20世紀の文学者・思想家の著作のぎっしりつまったリュックを背負って砂浜を歩いていると、打ち寄せては引いてゆく波は本のページに似ている、という閃きが突然心に兆した。そう、海は書物だ。それならば、潮風にめくられる永遠のページとしての波には、いったいどんな想いと知恵が書き込まれては消えてゆくのだろうか……。
「書物のなかの永遠」というテーマは、本書のなかでも哲学的に探求されている。奄美大島・国直の浜での落日の光景と島のカトリック教会の祈祷書が見事に重なりあった、著者による鮮烈な二重露光写真を表紙カバーにあしらったこの本は、永遠なるものをめぐるそんな書物論的閃きを、やさしく支持してくれるだろう。書を持って、海に出よう。波のページと本のページが呼び交す声に、じっと耳をすませよう。すると、みずみずしい未知の世界の扉が、きっときみの心の中でも開かれるはずだ。
*淺野卓夫さんは、三浦半島・秋谷で本のサロン「サウダージ・ブックス」を運営し、翻訳・編集・執筆の仕事をされています。本書のあとがきにもあるように、本書の元となる原稿作成(講義の聞き書き)をはじめ、編集・校正でご協力いただきました。(編集部)
サウダージ・ブックス http://sea.ap.teacup.com/saudadebooks/
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