« 公共を考える契機:やっと観た映画 | メイン | あなたに負う(IOU) »

手の美しい動き:読むということ(続き)

「病膏盲に入る」かもしれないが、先のNY公共図書館のことがなんだか消化しきれず、ワイズマン監督あたりをあれこれ探っていたら、なんだ、あるじゃないか!『G代思想』2018年12月の特集「図書館の未来」に寄せられた論考、鈴木一誌「多からなる一」(pp.69-77)である。著者はワイズマン監督がこれまで、ナレーションなし、字幕テロップなし、現場音以外の音楽もなし、特定の人物や出来事も追わないという「不在」の手法で、高校、盲・聾学校、警察、裁判所、病院、福祉事務所、百貨店、競馬場、動物園、精肉工場、修道院、共同住宅を、「生きられつつある場所として」描いてきたことを紹介した後、最近は境界のあいまいな広域を主題にするようになっているとして、
「学校や警察、病院にしても、閉じているのではなく、かならず社会への開口部をもっている。建物や限定された地理的な場所といったフレームを布置することで、内部の価値観が浮かび上がり、内と外との出入りもまた見えてくる」と論じる。
ナルホド。
まーこれでワイズマンの関心が何となくわかったとして、ここに書きたいのは、上記論考でも取り上げられている映画のワンシーンである。そこでは一人の手話通訳者が、異なるトーンで読み上げられた文章(これがまた、ジェファーソンによる独立宣言の草稿の冒頭だったりするのだが)を、手話で「訳し」分けていく。同じ文章がかなり違った風に「訳され」ていく。手話を「読む」人にとっては、通訳者の手や身体の動き、表情、醸し出す雰囲気だけが唯一の言葉であり、文字である。手話通訳者の身体は「翻訳」である以上に、もう一つの言葉を生み出しているといえるだろう。それでもう一つ思い出す別のシーンもある。白い紙に刻まれた突起を、指と手で読む手法を、スタッフが初めての来場者に示すシーンである。これがまた美しい。「読む」とは本来これと同じように、一文字一文字と順に追ってゆき、言葉や意味が立ち現れるものなのだと、当たり前のことを思い出させてくれる。ワイズマンが盲・聾学校の映画を撮ったことがあるとわかれば、さもありなんであるが、これらの「手」仕事は、とても印象的である。

そういえば、以前にも書いたかもしれないが、一時帰国中のアーキビストの卵(カナダ留学中)が大学に寄ってくれて、かつて彼女が話してくれたことをあらためて話した。古文書などから印刷技術で本ができるようになり、今や電子本の時代である。しかし保存の技術的可能時間は、どんどん短くなっているという。彼女曰く、電子本については「最も先進的なイギリスの技術をもってしても十年が限度」とか。ぎょええええ それはいくらなんでも短すぎるやん! やはり紙の書物は守らなければならない。うぬ。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
https://www.tufs.ac.jp/blog/mt6/mt-tb.cgi/22407

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2019年6月20日 10:46に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「公共を考える契機:やっと観た映画」です。

次の投稿は「あなたに負う(IOU)」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。