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60分でわかる『経済ジェノサイド』

今日はデモ友たちが調布の西武公民館の成人学級「教育フォーラムのどらか」で「『経済ジェノサイド』の著者を囲んで」と題する読書会(?)を企画してくれた。ビラ中の顔写真は、去年の某デモの帰りにみんなで撮った写真の抜粋である(ぶぶ、なつかしい!)。春二番の強風吹き荒れる中を、デモ友のみなさんばかりか、結構たくさんの市民の方々が来てくださった。ありがとうございます!!和室に机を並べてパソコンとプロジェクターをつないで、お茶を配って、和気あいあいの雰囲気である(早くから準備を手伝ってくださったデモ友のみなさま、多謝)。こちらも気合を入れて「60分でわかる『経済ジェノサイド』」を準備したのだが、小一時間話した後、明日のおひな祭りにちなんで桜餅その他のお菓子も配られ、後半は自由討論と相成った。これが実に充実していて、こちらもとても勉強になる。ともかくアベノミクスのあからさまな「経済ジェノサイド」のやり方にみな憤懣やるかたないのだ。黙って認めたりするわけにはいかないと、随所で確認し合った。しかしそれでも、保育園問題をめぐって杉並区、足立区などのおかあさんパワーには希望の光が見えるし、脱原発の論点には国際社会からの後押しもある。現状を嘆いている場合ではない。「ではまた来週」(はい、もちろん3.11直前のデモや集会ですね)ということで、しつこく声を挙げ続けるしかない。ガンバロー!

さる2月28日はワセダ若手の研究会で、中村征樹編『ポスト3.11の科学と政治』、コリン・ヘイ『政治はなぜ嫌われるのか』をテクストに。科学技術社会論(STS)と政治学の立場から、現代の「政治」の問題を考察するというテーマであった。前者のレジュメを担当したが、STSの人びとは科学技術による合理性がいかに不十分で、いかに社会的合理性と接合するかを試みているし、政治学者はひとびとの政治離れ、投票率の低下(これはいわゆる「新自由主義」の時代以降に顕著だという。うぬ、拙著も大いに共感する視点。要するに経済的な思考が政治をだめにする)を真剣に受け止め、成功しているかどうかはともかくとして、次の一手を探っている。いずれのテクストにも、今いかに「政治的に」はたらきかけていくかのヒントがいろいろ込められていて、示唆的であった。要は科学や技術による知識とその合理性が暴走するのを、現場の知によってどこまで食い止めて行けるのか、である。上記の書の一節からだが、それは「現場の意見も聞きましょう」というレベルのものではなく、現場知に科学的知識とおなじく一貫性があり、対等なものだという認識に基づく決定的な拮抗である。出席者がみんなでゲンバチ、ゲンバチだよなとやたらにつぶやいていた。(現場知、なのだがなんだか音がおもろい)

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2013年3月 2日 18:48に投稿されたエントリーのページです。

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