年の瀬、押し迫ってまいりましたねー。ウチのゼミ生諸氏は各種論考 -沖縄論考(入稿してゲラ待ち状態、印刷のMさんが「力作ですねー」とおっしゃってくださいました!)、卒論(ラストスパート)、ゼミ論(章立て、出してないのは誰かなー。もう書いてるのかなー?)― に全力投球の日々と思われる。実は当方も9月中旬ぐらいからずーっと原稿に苦闘している;某社の野心的な「最強の」教科書プロジェクトである。いや、論文を書くのは仕事だし好きなのだが、教科書(何人かの共同執筆ではあるのだが)を書くのは実に難しい;幅広い目配りと適切で体系的な「啓蒙」、ああ当方のなんとも不得意なところよ... もちろん日々の授業ではある程度それらを盛り込むのだが、それでも元ネタをどのように、その日そのときの「ライブ」として聞き手にお届けするかが勝負である。かつてK大に勤めていたころ、「講義はロックコンサートだ」というドゥルーズの言葉を引用して一文をものしたことがあったが、同じく当時から教壇で語っていた「講義担当者はサービス産業従事者である」という命題とともに、今も基本的にはそうだと思っている。いや実際にどこまで実現できているのかは別問題であるが、いずれにせよそんなわけで、一冊の書物としての教科書は何とも難しいのである。書物の夢は、長くさまざまに読まれて生き延びつつ、いつかどこかの誰かに書き手の思ったとおりに言葉が伝わる(アドルノが言ってたよーな)ことだろう。しかるに当方の動機だと、教科書は元ネタを知識として提示しつつも学ぶ人の心と頭にがーんと響いて定着させるために、オリジナル・バージョンから都度都度、更新され上書きされる、ちょうど電子本がはっちゃけたような(?)あり方を求めることになるのだ。ああ、iの夢... (つまんねーオチ)。フランツ・リストじゃなくてごめんよー。
そういえば先週のインカレの準優勝チームは、「大学生がさまざまな体験をして、それを電子本に載せる」という企画を出していた。なかなか迫真のよい企画だったが、当方は「本ってなんだろうということを、もう一歩突き詰めて考えてみようね」とコメントしたのだった。一冊の本には聞き手に届けたい一貫したメッセージが必要だよという言葉も添えたはずだ。あれっ?つまるところ、当方自身も同じ地点で悩んでいるってわけか?!オウ、なんて迂闊なワタシ!