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ガウディどころではない

またもや大きな余震(というにはあまりに大きな)があったばかりで、その前に見た「爆笑問題スペシャル:外大編」のことをすっかり忘れてしまったが、昨日観た映画のことは忘れないうちに書いておきたい。拙ブログでも紹介した『100000年後の安全』(マイケル・マドセン、監督 2009年、アップリンクで上映中)である。

これはフィンランドのオルキルオトに世界で初めて建設されることになった高レベル放射性廃棄物の永久地下処分場(オンカロ=隠された場所)に、監督が入り込んで撮ったドキュメンタリー映画である。100000年というのは、放射能の強さが3万分の1になる「安全性の目安」である(実は朝日新聞が2010年の11月後半に「廃棄物処分場」の特集を何回か掲載し、11月26日(金)の第4回最終回に100000年に関する記述がある)。このたびの福島の原発事故を経験した後では、映画中の細かい説明の一つ一つがひどくリアリティをもって迫ってくる。ただしこれは、放射性廃棄物を「ただ保存しておく」(日本と異なり再利用しようなどと考えずに)ために、地震が少ないなどさまざまな条件に照らして適した場所を選んだ場合でも、これだけの細心の注意とシュミレーション、ほかにも実にさまざまな検討が必要であることを示す映画である。言い方を変えれば、たった今、日本中のすべての原子力発電所を停止したとしても、ここで議論されているよりはるかに多くの廃棄物について、その処分の場所や手段をこのように相当、考えなければならないということである。原発事故の後(いや現在進行中であるが)に見るのは、何ともしのびない映画である。


しかしこの映画が決定的に成功しているのは、「有限だがとてつもなく遠い未来」という地点への想像力をもって現在をとらえるという視点においてである。ひとはおそらく自分の身の丈を超えた未来の時間を想像することをほとんどしない、あるいはできない。ガウディが自分の命の尽きた後300年はかかるであろうサグラダ・ファミリア(聖家族教会)を構想したと知るとき、人はそのスケールの大きさに感嘆する(少なくとも当方は感嘆した)。ところがそれが1000年になり、2000年になり(ただいま西暦2011年)、10000年、まして100000年になるとどうだろう。文化も言葉も生活様式もすっかり変わってしまった「人類」に、ここは危険だから掘り起こすなと、どうやって伝えるのか(過去とのシュミレーションで、ネアンデルタール人に現代生活を説明するより差が大きい、という話が出てくる)。なまじに警告を残せば好奇心を掻き立てて逆効果であろう。究極のところ、「ここのことを忘れるように、忘れずに伝えなければならない」という。もちろんそれは限りなく不可能に近い。

映画の原題は Into Eternityであるが、むしろ「永遠」のほうがまだ想像しやすい概念かもしれない。有限だがとてつもなく遠い未来の時間。わたしたちが今直面している「原子力」とは、そのような時間を携えた存在である。人間が自然を飼い馴らせると思うのが傲慢であるのと同様に、このような時間を飼い馴らせると思うことも、やはり致命的ではないか。すでに廃棄物だらけの日本列島を思うと、グレーゾーンどころかお先真っ暗の闇に沈んで見える。

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2011年4月 8日 00:30に投稿されたエントリーのページです。

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