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2021年9月 アーカイブ

2021年9月17日

悪徳表について

「人がすべきでないこと」またむしろ「人がすべきこと」などは、
聖書の中に、あるいは、聖書そのものではなく、
キリスト教の先人によって書かれたものがある。

古いものは、そのまま現代に適用されるかは
判断を専門家に委ねた方がいいものもあろう。

古くは「十戒」
https://bit.ly/3hG1MoA

細かいことが規定されているわけではなく、
大雑把である。

特に現代人でも「気になりがちな」「姦淫」は
教会でも、教役者によって解釈がまちまちである。

また「レビ記」
https://bit.ly/3khjKj7

こちらは割と細かい。

特に、レビ18:22は、同性間性的接触を
戒めるものとして、同性愛者当事者の口からも
吐かれることがあるものである。

しかしそんな人は、レビ記の細かい規定を
全て守っているのであろうか?
特に食べ物の規定など、本当に守っているのであろうか。
タコ、イカ、エビ、カニ、ウナギ、豚など、ちゃんと避けてますか?

また、レビ18:22に関しては、以前にブログで
書いたことがある。
http://vakxsergiev.blog68.fc2.com/blog-entry-5334.html

この時には、「一般に言われているのとは違うincest taboo」
について書かれたものとしていたが、
どうやらそれは的を外していて、

「男の沽券」を毀損する行為をしてはいけないことが
レビ記18章には書かれていると言うことがわかった。

レビ18:7「父の裸を暴く」ことも、「父の妻の裸を暴く」ことも
同様に父の沽券を毀損するのである。

レビ18:14「父の兄弟の裸を暴く」ことのところでは、
沽券の話はどこかに行ってしまっている。

いずれにせよ、「父の裸を暴く」ことも、「父の兄弟の裸を暴く」
ことも、同性間の性的接触だからイケナイのではなくて、
男性の沽券を毀損するからイケナイのである。

そのままでは、現代に持ってくることはできないし、
日本語訳聖書では、のらりくらりと現代でも解釈可能なように
改竄されちゃってますね。

「七つの大罪」
https://bit.ly/39hvYC1
は、紀元後4世紀、エヴァグリオス・ポンティコス
によって書かれたのが最初だそう。

東西教会では、時々言及されますよね。
モスコーの現総主教は、「淫蕩」を「同性愛」に入れ替えて、
国民を抑圧する道具にしています。
これも細かくはないですね。

他方、新約聖書にあって、それなりに細かくて、
現代のキリスト教徒にとってより身近に思えてしまうのは、
「悪徳表」であろう。

「悪徳表」は、ユダヤ教や、ユダヤ人社会、キリスト教に
固有のものではなく、初代教会がその中にあったヘレニズム
世界に共通のものであったという考え方が有力です。

詳しくは、小原克博のブログを参照されたい。
http://www.kohara.ac/research/1999/08/post-4.html

よりコンパクトにまとめたものはFrancisMaxのNote記事を参照されたい。
https://note.com/francismax/n/n1525093fe861

また、英語が読める人は、英語版のWikipedia記事を参照されたい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Catalogue_of_Vices_and_Virtues

「悪徳表」に関する様々な見解については、英語の次の記事を参照されたい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Catalogue_of_Vices_and_Virtues

「悪徳 vice(s)」が列挙されたところで、それをどう使うか。

教会対信者としては、「これらのことはしなさんな」という戒めとも
読めよう。

でも、ここ何十年か見聞きすることが多いのは、

「あの人たちは、これらの(悪徳表にある)罪を冒している。
 彼らが罪人であると罵って、何が悪いのか。
 彼らは天国に行けないと言って、何が悪いのか。
 彼らはキリスト教徒として相応しくないと言って何が悪いのか。
 (私は彼らと違って良かった)
 神は讃むべきかな」

と言う、教会対自分ではなく、教会の威を借る自分が
他人を審く態度である。

閑話休題。

某所で「悪徳表って、お祈りで使わないよね」っていう話になって思ったのですが、
(もちろん使い方は違うんだけど)うちの教会では「罪の羅列」を使うなあ、
と思いました。

東西の旧来からの教派には、「告解」がある。

お東では、それは七つのmysteries (お西のsacramentsに相当)の1つで、
思い、行い、言動で冒してしまった知ると知らざる罪を
司祭の前で神に告げ、赦しを乞うものである。

その告解のmysteryの前には、司祭が読む祈りの言葉があり、
その中には、罪の列挙がある。

ちょっと探しただけでは、司祭が読む祈りそのものは出てこなかった
のですが、「私の罪を赦してください」という、
クロンシュタットの聖ヨハネの祈りが出てきました。
https://orthodoxlivonia.org/confession_prayer (英語です。)

これは、教会で司祭が読む祈りより、もっと細かいと思います。

A PRAYER OF ST JOHN OF KRONSTADT, AS AN EXAMPLE OF CONFESSION

クロンシュタットの聖ヨハネの祈り、告解の1つの例

I, a great sinner, confess to my Lord and God and Savior Jesus Christ all the evil I have committed, uttered or thought since Baptism to the present day.

大いなる罪人である私は、我が主、我が神、我が救世主であるイエス・キリストに、受洗から現在までに、行いにおいて、言葉において、思いにおいて冒した悪を告白します。

I have not kept the promises I gave in Baptism, and I have made myself worthless in the sight of God.

私は洗礼を受けた時にした約束を守りませんでした。そして私は私自身を、神の目の前に無価値なものとしてしまいました。

I have sinned before the Lord by lack of faith and by doubts in the Faith and in the Church; by lack of gratitude for all his great and never-ending goodness and long-suffering and his care for me, a sinner; by lack of love for God, and lack even of fear; by my refusal to keep God's command-ments and the rules of the Church.

私は主の前に、信仰の欠如と、信仰と教会への訝しみによって罪を冒し、主の終わりなき大いなる善と長き苦しみと、罪人なる私に対する慮りへの感謝の欠如によって罪を冒し、神への愛の欠如と、恐れ無きことにより罪を冒し、神の戒めと教会の決まり事を守ることを拒否することによって罪を冒しました。

I have not loved God or my neighbor; I have not tried to learn God's commandments and the Tradition of the Holy Fathers by reason of laziness and carelessness.

私は神も隣人をも愛さず、怠惰さと不注意により神の戒めと聖師父の伝統を学ぼうとしませんでした。

I have sinned in that I have not prayed morning and evening and in the course of the day; I have sinned in that I have been absent from Church services or have attended them without zeal, lazily and carelessly; I have talked during services, I have been inattentive, I have lacked concentration, I have walked out of Church during services and before the dismissal and final blessing.

私は朝に晩に、そして1日の流れの中で祈ることをせず罪を冒しました。私は教会を欠席することによって、あるいは情熱を持たずに出席することによって罪を冒しました。私は奉神礼の間におしゃべりをし、心を他所へやり、集中を欠き、奉神礼の間に、派遣と最後の祝福の前にお堂の外に出ることにより罪を冒しました。

I have sinned by judging men in priestly orders.

私は、教役者を審判することによって罪を冒しました。

I have sinned by disregarding Feasts, by not keeping fasts, by immoderate use of food and drink.

私は祭日を軽んじ、モノイミを守らず、過度に飲食物を摂ることにより罪を冒しました。

I have sinned by being egotistical, by disobedience, by being a law unto myself, by self-justification, and by looking for approval and praise.

私は、自己中心になり、不従順になり、自分が律法になり、自己正当化によって、また認められることと称賛されることを求めることによって罪を冒しました。

I have sinned by faithlessness, by little faith, doubting, despair, faint-heartedness, blasphemous thoughts, blasphemy, and by using the name of God in vain.

私は、信仰の欠如によって、信仰少なきによって、訝しみによって、弱き心によって、神を冒涜する想いによって、言葉によって、そして神の名をみだりに用いることによって罪を冒しました。

I have sinned in that I have been proud, thought highly of myself; I have been ambitious and vain, I have loved glory and praise, I have been jealous and I have been a braggart.

私は、誇ることによって、自分を誇りに思うことによって、徒に大志を抱くことによって、栄光と称賛を愛することによって、嫉妬によって、尊大さによって罪を冒しました。

I have sinned by judging others, by speaking evil, by anger, remembrance of wrongs, hatred, returning evil for evil, speaking falsely, reproach, flattery, cunning, deceit, hypocrisy, gossip, argumentation, stubbornness, refusing to give way to my neighbor, gloating, malice, spite, abuse, and mockery.

私は他人を審判することによって、悪口を言うことによって、怒ることによって、悪いことを覚えることによって、嫌悪によって、悪を以って悪に報いることによって、偽なることを口にすることによって、拒絶によって、おべっかによって、ズルによって、詐称によって、偽善によって、噂話をすることによって、議論することによって、頑固によって、隣人に譲ることを拒否することによって、満悦によって、恨みによって、 悪意によって、裏切り、虐待によって、嘲笑によって罪を冒しました。

I have sinned by needless laughter, remembrance of past sins, disrespectful behavior, and rudeness.

私は、不必要な笑いによって、過去の罪を想うことによって、非礼な行動によって、乱暴によって罪を冒しました。

I have sinned in that I have given in to my feelings and emotions, I have enjoyed impure thoughts, I have been impure, I have been unclean in thought and feeling and deed.

私は、私の思いと感情に負けることによって罪を冒しました。私は不潔な思いを楽しむことによって罪を冒しました。私は不潔であることによって罪を冒しました。私は重いと感情と行いにおいて不潔でした。

I have sinned in being impatient in sickness and sorrow, in my love of comfort, excessive attachment to parents, children, relatives and friends.

私は、病と悲しみを耐えぬことによって、快楽を愛することによって、両親と子供と親族と友人に対する過度な愛着によって罪を冒しました。

I have sinned by hardness of heart, weakness of will; I have not compelled myself to do good.

私は、心の固さによって、意志の弱さによって罪を冒しました。私は、自分が善き行いをするようにしませんでした。

I have sinned in being miserly, in loving money, in acquiring possessions I do not really need, in being deceitful, in excessive attachment to possessions.

私は、ケチによって、金銀を愛することによって、本当は不必要な所有物を得ることによって、不正直によって、所有物への過度な愛着によって罪を冒しました。

I have sinned in judging others, in inattentiveness to the prompting of conscience, in not confessing my sins because I have lacked zeal or because of false shame. I have sinned many times in confession itself by deprecating sins, by self justification, by concealment of sin.

私は、他人を審判することによって、良心の促しを無視することによって、熱意の欠如や誤った羞恥心によって罪を告解せぬことによって、罪を冒しました。私は、罪を非難することによって、自己正当化によって、罪を隠すことによって、告白自体で何度も罪を犯しました。

I have sinned against the holy and life-giving Mysteries of the Body and Blood of the Lord by approaching holy Communion without the appropriate preparation and prayer, without grieving at my sinfulness and without the fear of God.

私は、聖にして生命をもたらす主の尊体と尊血の機密に対して、適切な準備と祈り無しに聖体拝領に近づくことによって、自身の罪深さを悲しむことなく、神を恐れることなく、罪を冒しました。

I have sinned in word, deed, and thought, in knowledge and in ignorance, wittingly and unwittingly, and I cannot enumerate all my sins because of their great number. I truly repent of all these my sins and of the sins I have not mentioned by reason of forgetfulness. I ask to be forgiven because of God's great mercy.

私は、言葉において、行いにおいて、思いに置いて、知って、また知らずして、故意に、あるいは思いがけず、罪を冒しました。私は、その数の多きによって、私の罪を全て数え上げることができません。私はこれらすべての自分の罪と、忘却のために言及しなかった罪を衷心より悔い改めます。 神の大いなる憐れみによって赦されることを願います。

--

「図星、ブーメランじゃん!」って思った人います?

それは、告解すればいいんです。

これらの罪状書きの羅列は、人を審くために書かれているのではなく、
自分の罪を神の前に告解するために書かれているのです。

2021年9月23日

悪意のないマジョリティとは誰か

「悪意のないマジョリティとは誰か?」
『差別はたいてい悪意のない人がする』刊行記念イベント

というのが今日、2021年9月23日に開催されました。

出版されたのはこの本で:

差別はたいてい悪意のない人がする
https://www.amazon.co.jp/dp/4272331035/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_XPH25CJJY6SFW5MT7630

それは韓国語で出版されたこの本の翻訳書です:

선량한 차별주의자 - 김지혜 Kim Jihye/善良な差別主義者
https://www.amazon.co.jp/dp/B08YRPPBTS/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_Y38DAF1RX5D35P657VA3

私はまだ読んでないのですが(笑)
読みたいと思っています。

登壇したのは:

ハン・トンヒョン https://bit.ly/3EKlIRm
出口真紀子 https://bit.ly/2W8mje4
ケイン樹里安 https://bit.ly/3hXWNja
梁・永山聡子 https://bit.ly/3zAQKY7

2時間のトーク全体をまとめることにはなりませんが、
学べたポイントをいくつかシェアします。

・差別は心の問題ではない
・善人になればいいのではない
・差別は(社会的)構造の問題である
・(マジョリティーは)構造に乗るか乗らないかが問題
・気がついたら乗らない
・マジョリティー特権とは、目の前の自動ドアが自然とどんどん開いていくようなもの
・マイノリティーとは、気がつくと先に進めない扉が次から次へと出てくる
・マジョリティーは、ステレオタイプに当てはめて見られることが少ないが
・マイノリティーは、常にまずステレオタイプに当てはめて見られる
・マイクロアグレッションとは、カウンセリング心理学から出てきた概念
・韓国でも(教会の影響もあって)LGBTQ+の問題が一番大変

--

つい1週間半前にあった「牧師による、LGBTQ+差別発言問題」
での炎上について考えてしまいました。

全員が全員ではないかも知れないけれど、
キリスト教国ではない日本でキリスト教徒になりたいと
思う人は、「善人になりたい。いい人になりたい」と
思っている人も多いと思うんです。
少なくとも「悪人」になろうとは思っていない。

キリスト教的には、「自分の罪を神の前に懺悔する」という
方向性は多くの場合正しいのに対し、

「他人の罪を断罪する」と言うのは、自分にとっての
新たな罪を冒すことになると思うのです。

それでも、人は弱いので、それが中々辞められない。

という観点が1つ。

それから、歴史的に以前の教会では「虐げて当然」だと
されていたものが、大分改善したのが、
奴隷差別、人種差別、女性差別など。
(人種差別、女性差別は実は根強く残っていることも知っています)

他方、「聖書にも罪って書いてあるし、罪って言って何が悪い?」
って開き直られるのが、同性間性交渉とか、セックスワークとか。

(セックスワークは、肯定否定真っ二つに分かれているのでまたの機会に)

同性間性交渉(ずらして同性愛と言われてしまうこともある)は、
社会 at large では「差別してはいけないかな?」という
空気がどんどん広がっていますが、

教会では、「だって聖書にダメだって書いてあるじゃん」という
安易な読み方をする人もまだいて、今回の炎上者もその口だったのでしょう。

そういう側の人たちは、

・悪意はないだろうし、
・罪人に教えてあげるのはいいことだと思っているだろうし
・むしろ善だと思っているだろう

それで、同性愛者(その他のセクマイ)が、
社会的に、構造的にものすごく抑圧されていて
精神を病んでしまう人も多いし
自死を企図する人、遂行する人までいることには
思いが至らない。

むしろ、「そんなに辛いんだったら、行いを改めればいいじゃん」
ぐらいに思っていらっしゃる。

あのー、同性愛という性的指向は、国連のWHOの疾病基準からも
外されて、もはや、治療すべき疾病ではないし、
むしろそれまで、また今でも行われている
コンバージョン・セラピーは、害がゴマンとあって
成功はしない。ということもご存知ないのでしょう。

まあ、自ら気がついていただけないと
溝は永遠に埋まらないですね。

2021年9月24日

福音派で社会派

今日のトークライブ
https://youtu.be/T3zbJ1SGVQ8
面白かったです!

私はというと、
母方に、死んだ人も含めると
15人あるいはそれ以上牧師がいる家系で、

母教会は、プロテスタントの教会でした。

で、その母教会の属する大きな教団は、
福音派と社会派が対立していて、
福音派の一部の教会がそこから出て
新しい教派を創ったのだと理解しています。

それを踏まえると、
福音派・聖霊派で且つ、社会活動をする人たちという
プロテスタントの教派があるということを知ったのは
目から鱗でした。

多感なティーンの時代には、
「社会派っていうのは共産党だ!」
と、「共産党」があたかも罵り言葉であるかの
ように言われていました。

--

時は過ぎて、私は20代から20年ぐらい
教会になかなか足が向かない生活をしていました。

そんな中で、お東に出会って、改宗して
今に至っています。

お東で、リバイバルがあったとは聞きませんけど、
聖霊(=神・聖神° かみせいしん)は、聖歌の中で、
「在らざる所無きもの 満たざる所無きものや」
と歌われています。

お東は、中々社会運動には向かっていかないのですが、
プロテスタントなどの聖霊派とは違う意味で、
聖霊(=神・聖神° )を体感しようとする教派だと思っています。

司祭さんも色々な考え方を持つ人がいると思います。

あまり細かく書くと、アウティングに繋がるので
書けませんが、どうやら、「話題にはしないものの」
アライである司祭さんがいるようです。

ほんっとに話題にしていないんですけれど、
わかります。

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