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他集団あるいは遠い事象を均質だと思う思考停止

人は、自分が属している社会的な集団は
共通点はあっても個人個人が違いがあって、
均質では無いことを知っています。

他方、自分が属していない他集団に関しては、
なんとな〜く、「あそこの人は◯◯だよね」
と、その集団全体が均質であるかのように
即断しがちです。

それを痛感した事象が、最近ありました。

この春のTOKYO RAINBOW PRIDEの公式ソングに、
m-floの「No Question ~ TOKYO RAINBOW PRIDE REMIX ~」が
選ばれたとのこと。

http://gladxx.jp/video/2019/5765.html

そこで、脳内で「あれれ、変だな」という思いが
むくりと頭をもたげました。

m-floのVERBALさんって、確か以前、
Power for LivingのCMに出てたし、
冊子にも載っていたよね、と。

パワー・フォー・リビング - Wikipedia http://bit.ly/2GoR2Yg

教えて!goo https://oshiete.goo.ne.jp/qa/2646836.html

るいねっと http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=143719

どれもそれほど確かなソースとはいいがたいけれども、
Power for Livingというのは、アーサー・S・デモス財団によって
おもに福音派原理主義のキリスト教を広めるために
配布されている冊子で、

なんとなく、財団も、冊子に載っている人も、
「みんな」中絶や同性愛に反対し、インテリジェント・デザイン理論を
盲信しているのだとばかり思い込んでいました。

そこには、我が事ながら「他集団を均質に認識する」というメカニズムが
働いていたんですね。

その帰結として、VERBALさんは、所詮ホモフォーブ
(ホモフォビアを内面化した人)だよねと
即断して、遠い場所に置いて、そのままにしていました。

それだから、今回のRAINBOW PRIDEに関わってくださるというのには
びっくりしました。

VERBALさんは、キリスト教にのめり込み、神学校にまで
行った人ですが、現代史上のPower for Livingと、
現在・近未来のRAINBOW PRIDEとの間の時系列と
VERBALさんの関係には、以下のシナリオがありえるでしょう。
(他にもあるかも知れませんが。)

1. Power for Livingに関わっていた時期には、同性愛は
キリスト教的に罪であると思い断罪していたが、
音楽業界その他で、SOGI当事者と接触する経験などを通じて
だんだんとアライになってきた。

2. Power for Livingには、溢れんばかりのプロテスタント・
キリスト教信仰から関わったが、個々の事象としての
同性間の恋愛その他に関しては、当時から自分としては断罪しておらず、
さらには時間を経て、現在に至るまでに、SOGI当事者と
接触する経験などを通して、キリスト教信仰とは矛盾することなく
アライになってきた。

そのどっちかかな?と考えています。
(もちろん、全然当たっていない可能性もありますが。)

VERBALさん、つい最近まで、homophobeだなどと
見くびっててご免なさい。

閑話休題。

ウチの教派のとある集会で、
「パウロは同性愛はいけないと書いているでしょう」
という発言があったとのこと。

それは、西方のある部分の人たちは、
盲信且つ普及することをしていると思いますが、
でも、ウチの教派で、その読み方は無いでしょうと、
僕は思います。

ウチでは、聖書の66巻のウチ、もっとも大事なのは
福音書の4巻です。

「聖書は同性愛を禁じている」と主張する人は、
他教派の場合は知りませんけれども、
ウチの教派では、福音書で全く触れられていないことを
首尾一貫して説明できないといけません。

そーんなに大罪なんだとしたら、
(7つの大罪の1つに同性愛を挙げている総主教もいますが、)
なんで、イエスは何も言わなかったんですか?
わかりやすい説明をお願いします。

また、パウロ(その他)の書いた書簡に関しても、
(また旧約に関しても)
(近現代に成立した同性愛という概念は、
 古代には無いのだから、言及のしようがないという議論は
 置いておいて、)
書かれているとしても、当時の悪徳表
(悪いとその場所、その時点で思われていることのリスト)
をそのまま取り込んでしまったものかも知れないという議論があります。

例えば、現在、日本での悪徳表をリストアップしようと
「罪」を羅列していったら、そこには「大麻の吸引」が
入るでしょう。

他方、西欧、北米の多くの場所では、時代の流れによって、
その「罪」の「羅列」に、最早「大麻の吸引」は
入らないでしょう。

男性が男性に情欲を燃やすことや、男性間で性的接触をすることも、
その悪徳表が書かれた場所と時点によっては、
それに入るだろうし、ちょっとでも場所や時が違えば
入らなかったものなのかも知れません。

ウチの教派的には、「聖書に一箇所でも書かれていたらダメ!」
ということはありえなくて、神の愛、キリストによる贖罪を
包括的に理解した上で、聖霊に満たされ、且つ理性的な
判断が求められると思われます。

(「聖書に一箇所でも書かれていたらダメ!」という人は、
 是非、レビ記等の食に関する律法やその他の律法を
 明日から過不足無く守ることから始めてみてください。
 それが「バカバカしい」という人には、
 「聖書に一箇所でも書かれていたらダメ!」と、
 他人に押し付ける権利はありません。)

と、かなり話がそれてしまいましたが、
言いたいのは、「神の愛を読み解くこと」を蔑ろにして、
「聖書に書いてあるからダメ」と言う人は、

まさに、聖書を、自分にとって身近なものとして
読んでいるというよりは、遠い場所の遠い時代の
遠い書物として、均質性を盲信して読んでいるのでは
ないでしょうか。

それは、まさに、自分が属さない集団の人々の
均質性を即断してしまうのに、ある面で似ていると
思うのです。

もうちょっと身近な書物として、
読むことをしましょうよ!

--

あと、文脈から切り離して、言葉に一人歩きさせることは、
憲法二十四条を「同性婚を斥けるもの」として読む読み方にも
行われていますよね。終戦後数年間という憲法が書かれた
時代の状況を読み解くことをせずに、「この文字面からは
こうしか読めない」と決めつけています。

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2019年4月18日 22:35に投稿されたエントリーのページです。

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