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2009年7月 アーカイブ

2009年7月 6日

全文性

とある用務先のとある部屋の
入り口に、「学年!氏名!用件!」
と書かれています。

全文性

これを見て、「あ、全文性が
発揮されてる!」と思いました。

全文性(holophrasis, holophrase)には、
僕の知っている範囲で、
2つの意味があります。

1.幼児の言語獲得の研究において、
 1単語からなる1語文が、
 その単語そのものの意味だけでなく、
 より年長の者なら複数の語からなる
 文で表わすような意味を担っていると
 考えられることを指してそう呼びます。

 例えば、「パパ!」という1語文は、
 「あ、パパが見えた」の他に、
 「あ、パパが帰ってきた」
 「パパ、大好き」など
 いろいろな意味を持っている
 可能性があるとのことです。

2.複統合的(輯合的とも polysynthetic)な
 言語において、他の言語なら複数の語でしか
 表現できないような事柄が、複数の形態素からなる
 1語で表現できることを指して、そう呼びます。

 例:
 qayapicuaraliyukapigtellrunricaaqsugnarqaanga(中央ユピック語)
 (カヤーピッチュアガリーユカーピヒトゥシホンゲッチャークスグナハカーガ)
 「彼は私に本物の小さいカヤックをとても作ってくれたくはなかったようだが実際は作ってくれたようだ」

--

「学年!氏名!用件!」の例は、
1の方に近いんでしょうけどね。

2009年7月11日

引用しないこと

引用しないこと、出典を示さないことは、
学術論文では、厳に慎まねばなりません。

でも、その周縁にある、学会の予稿集、
雑誌記事、一般書籍では、
そこまで厳しく律せられていません。

我が恩師、故千野栄一先生は、
数々の言語学の啓蒙書を書かれました。

要所要所に、貴重な書誌情報を書かれたり
していましたが、どうしても突き止められない
項目が少しく残っています。

それに含まれるのが、異化と自動化という用語です。

原語のチェコ語では、それぞれ、
異化はaktualizace(アクトゥアリザツェ)、
自動化はautomatizace(アウトマティザツェ)
となっています。

異化とは、言語に関していうと、
単語を新たな組み合わせで使ったり、
新たな意味で使ったりすることによって、
聞き手(読み手)に、ある種のショックを
起こさせることによって、
強く意識させるということです。

古くは、コピーライター糸井重里が
西武百貨店の広告で使った「おいしい生活」。

当時は、まだ、「美味しい」が、口に入れるもの
以外に使われることは稀で、それゆえ
異化の効果をもたらし、大ヒットしました。

しかし、20年以上経った今では、
(というかもうかなり以前から)
「美味しい」を、口に入れるもの以外に
使うことは増えていて、「おいしい生活」も
もう新鮮さも、異化の効果もありません。
これが、自動化です。

--

そこでなのですが、この異化と自動化という
用語は、プラハ学派あたりで使われていたというのは
わかっているのですが、誰がどんな論文・著書で
書いたのかを突き止められずにいます。

千野先生ご存命中なら、教えてもらえたことでしょう。
今でも、千野先生直近の方々にお尋ねすれば
わかるかも知れません。

あるいは、チェコの言語学者に尋ねればわかるかも
知れません。

他の様々な事柄に関しては、正確、不正確を問わず
情報を与えてくれるインターネットも、
この事柄に関しては、役に立ちません。

日本語で、「異化、自動化」と調べても、
全然関係ないことがヒットするか、
あるいは、関係ある記事でも、千野先生を
引用しているものがヒットするぐらいです。

チェコ語、aktualizace、automatizaceで
検索しても、何もわかりません。

また、それらを英語化した、actualization、
automatizationも、ダメです。

どなたか、ご存知の方がいらっしゃったら、
こっそりとお教えいただけませんでしょうか?<笑>

--

ところで、引用しないこと、出典を示さないことは、
学術論文では、厳に慎まねばならないけれども、
学会の予稿集、雑誌記事、一般書籍では、
そこまで厳しく律せられていないと冒頭に書きました。

とある、○○語学「界」においてなのですが、
学術論文よりも、予稿集、雑誌記事などの
書き物の多い方がいらっしゃって、
やはり、誌面の都合上、引用がとっても少ないのです。

研究者は、それでも、自力である程度
他のつてを辿って、調べることもできますが、
研究者でない、市井の人々
(例えば、その言語の話者)のなかには、
それらの記事に書かれている様々な概念が、
その書き手の発案によるものだと思っている
場合が少なくないと聞き及んでいます。

ちょっと危ないことだなと、危惧しております。

追記:その後の展開を以下にご覧ください:
/blog/ts/p/tanana/2009/07/post_30.html

2009年7月16日

リアル考

M先生の授業で、
アラスカ南西部の中央ユピック・エスキモー人の
自称Yup'ikとは、本当の(-pik)人(yuk)だと
習いました。

--

名詞で表わされるような概念に、
概念的加工を加えるのには、
いくつかの形態論的、統語論的手法を
使うことができます。

以下に見るのは、さまざまな、
統語論的手法、形態論的手法を用いて
「小さい」ことを表わすこと。
(その内、形態的手法を用いて
表わされるものを指小形 diminutive
と呼びます。)

まず、統語論的に、形容詞など、
名詞の前後におかれる修飾語を使う場合。

little boy(小さい男の子)

合成(compounding)は、統語論と形態論の
両方にまたがる手法です。

小市民

接尾辞で指小形を作る言語は多いです。

booklet (小冊子 book 本 + -let 小さい)
vodka (ウォッカ[ロシア語] voda 水 + -ka 小さい)
まやーぐゎー (小猫[沖縄口] まやー [猫]+ -ぐゎー [っこ])

スワヒリ語では、名詞クラスを標示する接頭辞を取り替えて
作ります。

mtoto(child m-クラス)
kitoto (infant ki-クラス)

フランス語のpetit(e)(小さい)から作られた、
フランス口語のtiは、接頭的な指小辞です。

アラビア語では、語幹内の母音を交替させることで
指小形を作ります。

kalb(un) 犬
kulayb(un) 小犬

その他、重複(reduplication)なんていう手法も使われます。

sasatra (疲れた[マダガスカル語])
sasatsasatra (ちょっと疲れた[同])

--

翻って、「本当の」という「名詞的概念を加工する概念」は
それほど多様な手法では表現されないかもしれません。

日本語では、「本当の」という、名詞プラス格助詞で
名詞を連体修飾するというのが一番一般的でしょう。

本当の事
本ちゃんの演奏

あと、古くは、「ま-」という接頭辞がありました。

ま人間
まこと (ま- + 事 → 誠)

上述の中央ユピック・エスキモー語では、
接尾辞 -pikを使います。

Yup'ik (yuk 人 + -pik 本当の)
qayapik (qayaq カヤック + -pik 本当の)

最近日本語で流行なのは、「リアル」を
合成することです。

リアルママ (バーやスナックのママでなく本当のお母さん)
リアル女 (男を蔑んでオンナと呼ぶのではなく本当の女性)

これには、ちょっと違った意味も出て来ていて、

リアルミクシィ (ネット上のミクシィで交流するだけでなく
        実世界でミクシィ友と会うこと、またその友)

そこから、そのように「会う」ことを「リアルする」と
言うようになっています。

なぜアサバスカ語か?

僕が、北大の院に進学したのは、
1988年4月。

入学当初は、専攻するフィールドの言語は
決まっていませんでした。

指導教官M教授は、
なんとなく、ご自分のフィールドに近い
アラスカの先住民語を僕にやらせたかったらしく、
その中でも、トリンギット語(Tlingit)が
いいんじゃないかとお考えのようでした。

その、1988年の夏、
アラスカ大学フェアバンクス校の
アラスカ先住民語研究所で、
http://www.uaf.edu/anlc/
カナダ・アラスカ・北部先住民語夏期講座
(Canadian-Alaskan Institute for Northern Native Languages)
が開かれました。

これは、主に、先住民コミュニティーにおいて、
アサバスカ語+αの二言語教育に携わっている、
先住民の先生方のための夏期講座であり、
僕のような、部外者のためのものでは
ありませんでした。

でも、先住民と知り合ういい機会ではあったので、
研究所のE. Irene Reedさん(後にアラスカの母と
呼ぶようになる)に連絡を取り、参加することに
しました。

初めてのアラスカ行きは、安いチケットを
選んだ結果、札幌・東京・LA・シアトル・
ジュノー・フェアバンクスと飛び、
21時間の長旅となってしまいました。

(その後数年間は、まだ日本から欧州への
北極経由便があったので、東京から
アンカレッジは、6時間程度で
行けました。その後、北極経由便は
無くなり、今では、ソウルか、シアトルを
経由する必要があるようです。)

着いてみると、植生が明らかに
米国本土や、日本とは異なり、
荒涼とした感じでした。

また、白夜のせいで、
遅くなっても明るいままでした。

さて、夏期講座ですが、
M教授の勧めもあり、
Tlingit Literacyという、
トリンギット語を話せるけれども、
正書法で書くことに慣れていない人達に
書き方を教える授業を取ることに
していました。

(トリンギット語は、アサバスカ諸語、
イーヤック語とともに、ナ・デネ語族に
含まれ、アサバスカ語とは遠い親縁関係に
あります。)

しかし、夏期講座が始まってみたら、
その授業は、僕の他、もう1人しか
エントリーしておらず、
キャンセルになってしまいました。

Literacyは、他に、アサバスカ語族の
Carrier語と、Gwich'in語のものが
開講されていました。

僕は、そのCarrier Literacyと、
Comparative Athabaskanと、
Language Planning and Policyを
受講することにしました。

後者2つは、ほとんど講義だったので、
聴いていればよかったのですが、
Carrier Literacyは、教室での教え方の
実技などもあり、まったく喋れない僕は
足手まといになっていました。

それでも、楽しい3週間はあっという間に
過ぎて、僕は、アラスカを後にしました。

さて、専門のフィールドの言語ですが、
指導教官陣は、アサバスカの村々が
一筋縄では行かないことをご存知だったのか、
トリンギットを選べばいいと思って
いらっしゃったようです。

でも、僕は、そんなことも深く考えず、
Carrier Literacyの授業を受けたことと、
かのEdward Sapirでさえ
son-of-the-bitchiest-languages of the world
と言った、複雑極まりない難解な
言語であるというチャレンジと、
まだ東京にいたときに、
アパッチ語の専門家から授業を受けて
興味を持ったことなどから、
アサバスカ語をやることに
決めてしまいました。

でも、アサバスカ語のうち、どの言語を
やるかは、次の夏まで決まりませんでした。

次の夏は、7月から翌年4月まで
アラスカに滞在しました。

アラスカ先住民語研究所の
Michael E. Krauss所長からは、
当時、アラスカで調査が必要なのは、
Upper Kuskokwim、Tanana、Tanacross,
Upper Tanana、Hanの5言語だと
言われました。

その中から、いろいろ考えた挙げ句、
Upper Tanana(上[かみ]タナナ語)を
選びました。

それから、約10年、毎年夏は
現地に赴きました。

なぜ、行けなくなったかは、
また稿を改めて書きます。

なぜアサバスカ語を辞めたか?

日本の言語学「界」においては、
学生、院生の内に、専攻の
フィールド言語を決めて、
それをずうっと変えないのが
いいとする考え方が
主流派を占めています。

その中にあって、なぜ
アサバスカ語をフィールドの言語と
することを辞めたか。

これには、複雑に絡んだ理由が
あります。

いろいろな状況が、
僕の精神的なあり方に
マイナスに働くことばかりで、
最後の何年かは、現地近くの
「宿営地」に3ヶ月にいても、
車で約1時間離れた
村まで行くのは、1、2回位にまで
減ってしまいました。

いろいろなマイナス要因を
全て書くことはできませんが、
少し書きます。

1つは、現地人による、
過度な期待でした。

ある村人(とは言っても、
実際は、隣村の、隣接言語を
話す人)に、こう言われました。

「村人は、みんな、外の人が
毎年、避暑地に来るみたいにして
来て、ちょっと調査だけして
帰って行くのを快く思っていません。
村の娘と結婚して、村に住んで、
村の人になったら、許します。」

これには、日本での仕事や地位を
投げ打って、喜んで従う人も
いるでしょう。

でも、僕にはできませんでした。

2つ目は、あるアサバスカ語研究者、
自称「アサバスカ語学の権威」からの
執拗な妨害。

この人は、精神的な疾患を持っているかた
ではあったのですが。

僕が最初にアラスカに行った、
1988年の夏から、「お前のcredentialsは
何だ?」「それが無いのなら、
荷物をまとめて直ぐに日本に帰れ」
と、拳を見せながら言われました。

それに関しては、アラスカ先住民語研究所の
方の仲裁があり、翌朝謝ってきたのですが、
本人は、その後もずうっと僕がいることが
鬱陶しかったみたいです。

アラスカ先住民語研究所には、
http://www.uaf.edu/anlc/

「アーカイブ」というのがあります。

アーカイブというと、
厳重に保管されていて、
めんどくさい手続きを経ないと
利用できない感がありますが、
ここの「アーカイブ」は、
保管されている物は、出版されたものだけでなく、
フィールドノートのコピーなど
貴重な物がたくさんあり、
宝の山なのですが、
管理体制は、厳重とは言いがたいものです。
だれでも、簡単に入って、
資料を手にとることが
できるようになっています。

僕の資料も、毎年のフィールドノートの
コピーや、修士論文の、最終バージョンまでの
何段階かの途中のバージョンなど
貴重なものが納められておりました。

しかし、聞くところによると、
僕の資料の多くは、先の研究者が
借り出して、捨ててしまったとのこと。

そいつだけのために、
フィールドの言語を捨てることは
無いと言う人もいるかも知れません。

でも、これ以上続けても、
精神衛生上よくありませんし、
現に、3ヶ月の現地滞在中、
1、2回しか村に行けないような
精神状態では、もうこれ以上
続けられる状態ではなかったのです。

それで、断腸の思いでしたが、
1997年夏を最後に、

アラスカに行くことを継続することは
断念しました。

なぜ日本手話か?

もうアラスカに行けないと思い始めていたとき、
でも、資金があるわけではないし、
なにか、東京でできることを始めようと
思いました。

それが、1996年2月に、パソナで始めた
日本手話です。

欧米では、手話言語は、音声言語と同様に
言語学的研究の対象となると
認識されつつありますが、
日本の言語学「界」はまだまだです。
そんなこともあって、「先端」の
ことをやりたいという気持ちもありました。

手話は、以前もちょっとやったことが
ありました。

1982年には、カリフォルニアの高校の
ナイトクラスで、アメリカ手話を習いました。
とは言っても、声付きだったので、
手指英語、英語対応手話と言った方が
良かったかも知れません。

1回、ろうの方がいらっしゃったのですが、
声無しだったので、ほとんど何も
わかりませんでした。

1992年には、札幌市厚別区の
手話講習会に1年間通いました。
これも、手指日本語、日本語対応手話でした。

そして、1996年2月。
初めての日本手話でした。
もう、最初っから、文法が日本語と
違うのが、毎回の授業でわかり
とっても面白かったです。

その後、池袋コミュニティー・カレッジや
セゾン手話ネットワークMARU手話講習会や、
ベルパークにも通いました。

最近、ちょっと日本手話から離れていますが、
またどっぷりと浸かってみたい思いがあります。

なぜマダガスカル手話か?

じゃあ、次に、なぜマダガスカル手話か?

なんか、日本手話じゃ、第一人者に
なれない感に苛まれていました。<笑>

マダガスカルに興味を持ったのは、

まず、マダガスカル手話を研究している
手話言語学者がいない。
(ノルウェーのろう者が語彙調査した
 ことはあります。)

それから、もしマダガスカル手話が
音声マダガスカル語の影響を受けていれば
VOS語順があるかも知れない。

(Sは主語、Oは目的語、Vは動詞。
 以前、手話言語の基本語順には、SOVと
 SVOしか無いと言った手話言語学者がいました。
 その後、説は修正したみたいですが。)

それから、2003年に、東京外国語大学
アジア・アフリカ言語文化研究所で、
http://www.aa.tufs.ac.jp/index.html
マダガスカル語の夏期集中講座が
ありました。

週に5日、朝から夕まで、
5週間という、ハードな
ものでした。

今でも、毎年3言語の講習が
なされています。

以上のような条件が重なり、
(音声)マダガスカル語の
基礎を学ぶ機会があったので、
2004年8月から、現地に入り、
マダガスカル手話
(Tenin'ny Tanana Malagasy, TTM)の
調査を始めました。

2009年7月19日

とあるインディーズ歌手の音声観察

酒井耕兵くんの
http://www.coredgrafix.com/kohei/
3曲入りCDを聴いているのですが、
音声学的に感じとったこといくつか。

・語末あるいは、音脚(foot)末の狭母音/u/
そしてときどき/i/を落とすことは、
Mr. Children辺りから流行り始めたと
僕は思っているのですが、
酒井くんも、同位置の/u/を
良く落として歌ってます。

それは大したニュースではないのですが。

・母音間の/b/や、たまに/w/の異音として、
有声唇歯摩擦音[v]がしょっちゅう出ています。
これまでは、母音間の/b/の異音として、
有声両唇摩擦音[β]を出すというのが常道でしたが、
日本人も、日本語の中で、唇歯摩擦音を
出すようになってきているんですね。
と妙な感慨。

・あと、「こぶし」的なノリで、
子音、母音を、「咽頭化」している箇所が
あります。面白い!

--

<追記>

「咽頭化」だと思ったものは、
咽頭化だけでなく、phonationの
creaky voice化も加わっているかも
知れません。

2009年7月26日

異化・自動化、その後

千野栄一先生が紹介した、「異化(アクトゥアリザツェ」と
「自動化(アウトマティザツェ)」について、
複数の方から、いろいろなご指摘がありました。

シュクロフスキーの用語であろうという説を
複数の方からいただきました。

また、今授業に来てくださっている学生Hさんから
 「アウトマチザツェ」と「アクトゥマチザツェ」は
  プラーグ学派のボフスラフ・ハブラーネック
 『標準チェコ語と言語文化』1992、52-54頁による
  術語だそうです。『言語学フォーエバー』のゴキブリ
  ラーメンのとこに書いてありました。
とのメールをいただきました。

1992年というのは、1932年の誤りです。

この「元祖ゴキブリラーメン考」は、雑誌
『伝統と現代』の1977.5 No.45が初出で、
その後、千野先生の『言語学のたのしみ』に
再録されています。それがまた、『言語学フォーエバー』
に再々録されています。

千野先生は、ちゃんと出典を書いていらっしゃったのに、
書いていないなどと、私は中傷めいたことを
書いてしまいました。大変申し訳ありません。

ということで、チェコでは、1932年のハブラーネックに
辿り着きました。

一方で、(私は知らなかったのですが、)実は
広く知られていたシュクロフスキー。
シュクロフスキーその人に関する書籍ではありませんが、
山中桂一『ヤコブソンの言語科学1 詩とことば』の中に
シュクロフスキーの自動化 avtomatizm、異化 ostranenie
という用語として紹介されています。

シュクロフスキーの論文は、
1917年頃に発足した、オポヤズという研究会の
同人誌『詩的言語理論論集』の一輯あるいは二輯に
おそらく収められ、その後『詩学』という表題の
もとに1919年に公刊されたとのこと。

どの雑誌あるいは、どの書籍のなんという論文に
提出された概念かはちょっとわかりませんが、
おそらくは、1917年と1919年の間のことであり、
ハブラーネックの1932年よりは十数年先んじて
います。

シュクロフスキーと、ハブラーネックの間に
どんな関係があったのか。
ヤコブソンが、その橋渡しをしたのか否か。
また、シュクロフスキーと、ハブラーネックの
それぞれの説の間に、決定的な相違などは
あるのか、無いのかなどは、私の手には
あまることです。

でも、なんらかの関係がありそうです。

2009年7月16日

Why did I quit going to Alaska? - Nobukatsu Minoura

In the "circle" of Japanese linguists,
it is customary to choose a language
of your field while in your undergraduate
or graduate years and retain it all the way
through your academic life.

While that is still the case,
why did I quit going to my
Athabaskan field in Alaska?

There are several intricately
intertwined reasons for it.

Many of the circumstances
surrounding me had worked
nagatively for my mental
well being.

In my "last" years, although
I was in the nearby town
for three months, I could go
to the village, which is in about
1-hour distance from the town,
only once or twice.

I cannot list up all the
"nagative" factors, but
I will write down a few.

First, overwhelming
"anticipation" from the
villagers.

A villager (actually she is
from a nearby village and
a speaker of a separate
nearby language) told me thus:

"All the villagers say this:
we don't like strangers coming
to our villages just like for their
summer vacation and do a little
bit of research and go back home.
You should get married to a local
girl and live in the village and become
a villager and then it will be all okay."

There should be linguists willing to
obey such an offer, casting away their
job and status in Japan.

But I could not do it.

Secondly, an Athabaskanist,
a self-designated "Dean of
Athabaskan Linguistics"
continually interfered with
my works.

This person was mentally ill.

When I first visited Alaska in 1988,
he asked me, "What are your
credentials?" and said, "If you don't
have them pack right away and go
back to Japan" showing his fist in
my face.

About this incidence, another researcher at the
Alaska Native Language Center mediated
between us and he came back to me the
next morning and apologized.
But it seemed like he was not comfortable
with my being in Alaska during all the
following years.

Alaska Native Language Center
http://www.uaf.edu/anlc/
has an "archive."

When you hear "archive,"
you may imagine a strictly
guarded one, from which
you can pull out a material
after cumbersome paperwork.
This "archive," however, has a lot
of valuable materials, i.e. not only
published materials but also
xerox copies of fieldworks and other
things and it is really a treasure bin.

But it is not maintained and guarded
appropriately. Anybody can enter it
and take out anything they want.
(This may have changed by now. This may not.)

I had left xerox copies of my fieldnotes of
every summer and the final version and
several preceding versions of my master's
thesis, which had been red-penned by
Dr. Michael E. Krauss.

But what I have heard is that all or most
of "my" materials have been removed
from the "archive" by the "Dean of
Athabaskan Linguistics" and have been
gotten rid of by him.

Many people would probably say,
"It's not worth it to leave the
field of Athabaskan linguistics
only for 'him'."

But it is not good for my mental
well being to continue it this way.

In my last years, I could go to the
village only once or twice while
I stayed in the nearby town.
I already could not continue it
any longer.

It was a hard decision,
but I went to the field for the
last time in the summer of 1997
and decided to move on to a new
field.

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