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諫早勇一 『ロシア人たちのベルリン』


ロシア革命直後たくさんの人がロシアを去って亡命したことはよく知られている(「亡命の第1の波」という)。彼らが腰を落ち着けた先はフランスやドイツ、アメリカ、カナダなどだったが、ロシア亡命文化の栄えた都市と言えば、何と言ってもパリとベルリンとプラハだろう。
ベルリンにおける亡命ロシア人の生活や仕事について、書店、出版社、芸術活動から、レストラン、キャバレー、カフェ、骨董屋にいたるまで、複雑に絡み合う糸をほぐしてきちんと整理し驚くほど明確な見取り図を提示してくれているのがこの本だ。

諫早勇一 『ロシア人たちのベルリン 革命と大量亡命の時代』(東洋書店、2014)

私自身ははるか昔、夫とアムステルダムでレンタカーを借りてヨーロッパをドライブ旅行したときに一度ベルリンに立ち寄ったことがあるだけだ。
当時はまだ東西ベルリンに分かれていたので、東ドイツ領内のアウトバーンを走って西ベルリンに入るときかなり緊張したことを覚えている。
たしか小雨の降るなかベルリン動物園でトラを見たのではなかったか。

それはさておき 『ロシア人たちのベルリン』は、実際にベルリンで生活していたロシア人亡命者だったナボコフのこともふんだんに盛りこみながら(何しろ諫早さんはナボコフの専門家なのだ)、主として1920年代前半に話を絞って亡命者たちの諸相を描いている。この本で繰り返し強調されているのは、当時ベルリンのロシア人たちは「ロシアに帰れるかもしれないと」いう望みを抱いて生きていて、だれが最後まで亡命者でいるか、だれが祖国に帰るかはっきりしていなかったし、通常思われているよりずっとソヴィエトの芸術家や作家たちと交流があった、つまり「2つの文化の共生」が実現していたということである。

面白かったことをいくつか拾っておこう。
西区の目抜き通りであるクーアフュルステンダムはロシア人の店が軒を連ね活況を呈していたため、「ネップ」と「ネフスキイ大通り」をかけて「ネップスキイ大通り」と呼ばれていたという(pp.51-52)。
1920年代のベルリンは「ロシア・ブーム」となり、ロシア料理店も多かったので「ベルリンじゅうがボルシチに溢れていた」とニコライ・ナボコフは言っていたそうだ(p.67)。
伝説のカフェ「プラーガー・ディーレ」の常連客だったベールイはロシア語で「プラーゲルディーリストヴォヴァチ」という動詞を作った。それは「紫煙とコニャックの中で哲学的な話をしたり論争したりする」という意味だったという(p.75)。


日本にも1920年代にダヴィド・ブルリュークやワルワーラ・ブブノワといった優れたロシアの芸術家が来たことを付け加えておこう。


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2014年6月16日 20:28に投稿されたエントリーのページです。

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