「マヤコフスキー生地巡礼(後篇)」
睡眠不足もあり、意識を失いつつも、バグダティ村に到着。バグダティは、まさに「村」という規模でした。マルシュルートカを降りたときから、おそらく生まれてこのかたアジア人など見たこともないであろう人々の純朴な視線が突き刺さります。なんの悪意もない、純粋な興味の視線だと思うので、あまり気にせず、マヤコフスキーの実家を目指すことにしました。
村の広場。マルシュルートカは奥に見える教会の正面で停車します。
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村の中心にある2つの広場を抜けると、そこには牛が人の数より多い農村が広がっています。
その広場を抜けてかなり行ってから、道に迷ったことに気づきました。右を見ても左を見ても牛か牛の糞かしかなかったので、この時点から、自力で道を見つけることは諦め、手当り次第に村人に道を聞くという荒行に出ることにしました。クタイシでロシア語があまり通じないのは経験していたので、バグダティでは初めからグルジア語で話しかけることにしました。しかし発する言葉といえば「こんにちは!マヤコフスキー博物館はどこですか?」とそれだけで、相手の言っていることなど9割5分わかりませんが、とりあえず当って砕けていきます。ところが村の人はみんな親切で、手振り身振りでなんとか道を教えてくれようとしてくれました。たどり着くまでに6,7人ほどに訊ねてみましたが、みんな丁寧に丁寧に教えてくれるので、本当に嬉しかったです。危なっかしい吊り橋を渡り、ぬかるんだ坂道を行き、2時間ほど迷ったあげく、とうとう博物館を発見するに至りました。このときの感動たるや、もう言葉には言い表せないほど。
バグダティ村の「マヤコフスキーの家博物館」です。
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マヤコフスキーが生まれた家がほぼ当時のまま保存されており、隣にマヤコフスキー博物館もあります(博物館を見せてくれたおじさんの話によれば、博物館の現在の建物ができたのは1983年ころに遡るとのことで、かなり古い歴史があり、それだけ「社会主義プロパガンダが露骨なのは引き算して見てくれ」とのこと)。「日本人がいきなり現れた」とのことで突如呼び出しを受けたのであろうこのおじさんが、ロシア語で館内を案内してくれました。
博物館の中の展示内容は非常に充実しており、マヤコフスキーの各年代の写真・マヤコフスキー自身の絵・詩片が書かれた街頭プラカードなどなどが一つの大きな展示室に所狭しと並べられています。興味深いのは「グルジアとマヤコフスキー」と題された章で、ここではマヤコフスキーの死に対するクタイシ市からの反応、グルジア人の友人などの紹介がされていました。
そうした展示品のなかでも最も興味深い写真はこちら。マヤコフスキー本人、彼の恋人リーリャ・ブリーク、映画監督エイゼンシュテイン、詩人パステルナークと新潟生まれのジャーナリストである内藤民治がマヤコフスキーの実家を訪れた際の歴史的な一枚です。
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マヤコフスキー博物館の内部
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マヤコフスキーの実家内部
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こうして一時間ほど博物館を堪能し、マヤコフスキー生地巡礼は終わりました。帰り道で、農家のおじさんに呼び止められてお昼ご飯をごちそうになる傍ら自家製ワインをしこたま呑まされたりしたのは、また別の話です(一般のバグダティ村のひとが、言ってしまえば単にグルジアで生まれただけであるロシア人マヤコフスキーに対してかなり屈折した思いを抱えているのだということがわかり、とても考えさせられました)。かなり酔ってしまいましたが、再びマルシュルートカに乗りクタイシ市に戻り、市内を観光したのち深夜に出発する電車を待ってトビリシへ帰りました。
疲労困憊の旅ではありましたが、わたしにとって現時点でベストの詩人であるマヤコフスキーの実家を訪問できたことは、3年間強の大学生活を振り返ってみて「ここが大学生活のハイライトである」と断言しても決して過言でないであろう、大変に充実した旅でした。
「超個人的」なレポートに付き合っていただき、ありがとうございました。ペテルブルグでの生活も残すところあと1ヶ月強。最後のこの期間を有効に使いきって帰国したいと思います。
最後に、バグダティの広場に聳えるマヤコフスキーの像です。
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