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2013年11月 アーカイブ

2013年11月 4日

熱い夕べ

1日、シンポジウム「すべての言葉は翻訳である」をおこなった。

8人のパネリストがそれぞれ自分の訳した(つまり自分が入れ込んでいる)作品の内容や文体について、原作者について、翻訳について、手際よくしかも情熱的に語ってくれた。
盛りだくさんだったので、パネリストの方々には「話し足りない」感が残ったことと思うが、文学として質の高いロシア語作品がこんなに紹介されているという実態の多彩さこそ今回提示したかったことなのだ。

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会場には思ったよりたくさんの方が来てくださった。
ありがとうございました!

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現在ブレイク中のウラジーミル・ソローキンについて。
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時空間を超えた出会いを描いたミハイル・シーシキン『手紙』のある表現に込められた意味について。
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アルセーニー・タルコフスキーの詩について。
ナターリヤ・イワノワさんのロシア語による朗読が素晴らしかった。
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リュドミラ・ウリツカヤ『通訳ダニエル・シュタイン』の主人公がたどった奇跡のような生涯と、翻訳者の「創造的」役割について。
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ドイツ文学者、松永美穂さんからは、ドイツ文学とロシア文学を比較したうえでの鋭いコメントをいただいた。戦後ドイツにおける「加害者としての気づき」、それに匹敵するようなテーマがロシア文学にはあるのか、と。
あるとしたらそれは、自分や親たちの生きた時代とは何だったのか、「ソ連」とはいったい何だったのかという問いではないだろうか。その問いに真正面から挑んでいるリュドミラ・ウリツカヤ、パロディ的手法で乗り越えようとしているように見えるヴィクトル・ペレーヴィン。
ロシア語作家が自分たちの過去にどう向き合いどう言語化していくのか、その時どのような方法を用いるのか、未来をどう想像するのか、これからもずっと見守っていきたい。


2013年11月 5日

翻訳不可能性

9月にモスクワで国際研究会議を開いたが、そこにロシア(タンボフ)出身のドイツ在住詩人でアヴァンギャルド詩の研究者でもあるセルゲイ・ビリュコーフ氏が参加してくれた。そのときいただいたのがこの本(2003年ロシア人文大学より出版)。
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通常の詩の規範から外れたロシア語の詩(遊戯詩や超意味詩など)を集めて分類しその意義について論じた詩集・詩論である。ビリュコーフ自身の作品も含まれている。
"РОКУ УКОР" というタイトルそのものからしてパリンドローム(回文。前から読んでも後ろから読んでも同じ文)になっている。
意味だけ取るなら「運命への批判」となる。訳しても回文にならないかとあれこれ考えたが、意味はまあ無視して「運命の命運」くらいしか思い浮かばない。

それはさておき中味はまず「アクロスチフ(各行の最初の文字を上から読むと言葉や語句になっている詩)」が収められている。例えば、ビリュコーフの作品。

Аве распетое А
Йтом нелной дугоЙ
Глоссой золотом драГ
Истиной воль путИ

行の最初にも最後にも大文字の АЙГИ (アイギ)が読み込まれている。これは、彼の敬愛する詩人ゲンナジー・アイギのこと。しかし意味不明の語もあり翻訳不可能。

次に「パリンドローム」。ガヴリラ・デルジャーヴィン(1743-1816)もパリンドローム詩を作っていたとは驚き!

Я разуму уму заря,
Я иду с мечем судия

たしかに見事に回文になっている。

他に「タフトグラマ(各行が同じ文字で始まる詩)」。
「ヴィジュアル詩」。これは、詩行が三角形や星形などになっているもの、デザイン化されたもの、文字と絵のコラボ、手書きのものなどさまざまだ。
そして「ザーウミ詩(超意味詩)」。20世紀初頭に未来派詩人たちが試みたザーウミを現代に受け継いでいるのがビリュコーフである。

彼は11月3日(日)日本ロシア文学会と上智大学との共催でおこなわれたシンポジウム「世界のロシア・アヴァンギャルド研究の断面」にもパネリストとして参加した。
シンポジウムの最後に彼は「国際アヴァンギャルド・アカデミー」の会長として、日本支部を発足させ、冨山大学の武田昭文さん、上智大学の村田真一さんと井上幸義さんを「アカデミー会員」に「認定」した。どこまでも真面目な顔でパフォーマンスしているのが面白かった。

2013年11月 9日

「もっと海を」

11月8日、本学総合文化研究所で山口裕之教授(ドイツ文学)のコーディネートと司会による夕べ 「もっと海を: ヨーロッパで多言語世界の文学を考える」がおこなわれた。
イルマ・ラクーザさんと多和田葉子さんの対談と朗読を満喫する。


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イルマ・ラクーザは、スロヴェニア出身の詩人にして翻訳家。ロシア語、ハンガリー語、フランス語などからドイツ語への翻訳を手がけてきたというポリグロットである。チューリヒ在住。「もっと海を」は彼女の本のタイトルでもある。
ラクーザさんも多和田さんも、境界を越えて言葉を扱う人、言葉と言葉のはざまを探る人であり、その「はざま」が「海」と名づけられている。

面白かったのは多和田さんによる日本語とドイツ語の混じった詩の朗読。これは、黙読するだけでなく声にして初めて真価がわかるという類の作品だ。
ロシアの詩人マリーナ・ツヴェターエワの詩をラクーザさんがロシア語原文と自ら訳したドイツ語訳で読み、それから前田和泉さんが自ら訳した日本語訳で読むという3言語による詩の共演=饗宴も楽しかった。
ラクーザさんの『もっと海を』の一部を山口ゼミの学生たちが訳したものも朗読で披露される。

それにしても、ドイツ語通訳もご自身でなさりながら対談も朗読もし、かつ会場からの質疑応答も日本語・ドイツ語の両言語を自在に操りながら難なくこなしていた多和田さんの才能と言語感覚の素晴らしさには本当に感嘆した。


2013年11月19日

剽窃と世界文学

ふだんは教室で、人の文章をコピペするなどしてレポートを書いてはいけない、それは剽窃だ、としつこいほど言っている。もちろんレポートや論文で他人の文を引用したり他人の考えを援用したりするときはそれとわかるよう工夫したうえで注をつけなければいけない。
しかし、文学作品における「剽窃」問題を考えると事態はかなり複雑だ。先行する作品を作家や詩人がいろいろな方法で自作に取り入れるのはむしろ当たり前だからである。

フランスの現役作家マリー・ダリュセック 『警察調書 剽窃と世界文学』 高頭麻子訳(藤原書店、2013)は、文学における剽窃とは何なのかを徹底的に考えた著作である

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『めす豚ものがたり』で若くして一躍有名になったダリュセックは、2度にわたり、謂われなく剽窃者呼ばわりされたという。そこで過去の「剽窃問題」を詳細に調べあげ、その典型的なパターンをあげ、剽窃の疑いをかけられた作家がいかに苛まれたかということを1冊の本にしたのである。驚いたことに、古今東西、剽窃の罪を着せられた作家や詩人は無数にいることがわかった。

ソ連時代には、ある作家を陥れようとしたらその人が剽窃をしたという密告をすればよかった。マヤコフスキー、マンデリシュターム、ブルガーコフがこうした密告の餌食となった。
ダリュセックは、現代フランスにいる自分は剽窃の疑いをかけられたからといっても生活が変わるわけではないが、ソ連の全体主義時代に粛清の標的とされ剽窃者と呼ばれた人たちは(その家族も含め)文字どおり生命の危険にさらされることになったと報告している。

しかし作家や詩人が、先行するテクストから無意識のうちに影響を受けたり、意識的にそれを仄めかしたり目配せしたりするのはもちろん、同じような状況において同じような出来事や反応が起きること(つまり影響関係のないテクスト同士が似るということ)もまた大いにあり得る。世界文学におけるさまざまなテクストが意識的・無意識的あるいは関係・無関係のうちに、互いにつながりあっていること(間テクスト性)を無視して、何らかの考えやプロットや状況がだれかの完全なオリジナルであると主張することなどできるだろうか?

ダリュセックの言葉を引用しておこう。
「本と本の間の根茎(リゾーム)は、ジャンルや時代の別を越えて生育し再交差し合う」

オリジナリティと間テクスト性、剽窃の(自称)被害者と嫉妬、政治的手段としての剽窃...等いろいろなことを考えさせられる本だった。

2013年11月20日

「超個人的ガイド to ロシア 」 連載開始!

派遣留学でペテルブルグに滞在している沼野ゼミ3年の工藤順(なお)くんがホットな文化情報をいろいろ送ってくれるので、随時このブログで紹介していくことにした。
これからロシアに留学するという人、ロシア文化に興味がある人、ペテルブルグが好きな人にはきっと面白くて役に立つ情報が満載だと思う。どうぞご贔屓に!

まずはペテルブルグ演劇案内。工藤くんが実際に自分で行った劇場について、自分の肌で感じた印象について、芝居の内容とともにお伝えする。第1回目は「定番」の劇場から。


「超個人的ガイド to ロシア(文責:工藤なお)」 (1)

★「ペテルブルグ演劇案内①」
定番篇①「アレクサンドリンスキー劇場」Александринский театр
演目:『検察官』(9/26)、『分身』(11/7)

堀江新二他著『ペテルブルグ舞台芸術の魅力』(東洋書店、2008)で事前に予習した限り、ペテルブルグ演劇といったらこの人!というビッグネームは主に2人、ワレリー・フォーキンとレフ・ドーヂンだと言えるでしょう。それは確かに事実のようで、フォーキン率いるアレクサンドリンスキー劇場、ドーヂン率いるマールイ・ドラマ劇場はペテルブルグで最も有名かつ実力のある劇場であると言って間違いないと思います。その内の前者、フォーキンの演出になるゴーゴリとドストエフスキーです。

フォーキンの演出は、後にマルイシツキー小劇場(小劇場篇参照)についても述べることですが、身体の制御の仕方・音楽の用い方が際立っています。(が、マルイシツキーとは別の次元ではあります。)
『検察官』(ゴーゴリ原作)の演出は、メイエルホリドの演出案を元にフォーキンが演出しなおしたもの、と書けばアヴァンギャルド界隈の人は思わず腰を浮かしてしまうことでしょう。実質演出家が2人存在することになり、この劇の功績が正確にはどちらに属するのかは分からないものの、2人の才能がぶつかった結果の産物と捉えるのが正解だと思います。

まず最初に、「遅れてやってきた観客」の態で主人公フレスタコフが登場し、劇が始まります。彼は客席の合間をぬって舞台上にたどり着くと、舞台中央にある椅子(ステージの方を向いて設置されている)に腰をかけます。この時点で『検察官』という物語がモチーフとする「(我々を見張る)眼」という構造が、何とも軽々と舞台上に設定されてしまうのです。観客はその枠を脳裏に置きながら舞台を観ることになるでしょう。
随所に挟まれるダンス的な集団行動、客席で演奏され始める奇っ怪な音楽、それはマルイシツキー小劇場の「自由芸術家工房」劇団が有する若く激しい身体性とは方向性からして異なる、奇妙で不器用な、しかし思わず笑ってしまうような身体性です(その後ろにはもちろん正確な肉体的鍛錬が存在します)。ふと思ってみたのですが、それは「ゴーゴリそのもの」ではなかったでしょうか。ゴーゴリは超一級のコメディ作家であり、この劇は最初の主人公の登場から劇の終りまで笑いでもって観客を捉えて離さない恐ろしい劇でした。

『分身(二重人格)』(ドストエフスキー原作)も路線としてはシリアス劇というよりはコメディに近いです。『検察官』と同様、贅沢な大道具の用い方に目を見張ります。大道具は、「分身」のテーマに沿って、全面に鏡が貼られています。
演出は、『検察官』よりも先鋭的なメタ構造によります。舞台の最初と最後に観客席からあるアクションが起こることで、観客側にそれを印象づけることでしょう。
劇は、「役人」の役を演じる男女数名による集団行動的なダンス(あるいはダンス的な集団行動)から始まりますが、実際に物語の始まりを告げるのは主人公ゴリャトキンが客席から立ち上がり、「金を払って見に来ているのだからしっかりやれ!」といった旨の文句をステージに投げつける時です。ここで「劇場」という枠が明らかに策定されると同時に主人公ゴリャトキンの性格も一挙に把握されます。そしてクライマックスには二階席で一般人の格好をした俳優(おそらく)が立ち上がって、最初と同じように「納得できないな!」というような申し立てをステージに向かって行い、終劇となります。

この時点で観客としては、単純に拍手を送ることにためらいを感じてしまわざるを得ないでしょう。『分身』というテーマ設定だけでも相当におもしろいのに、フォーキンはさらに「劇」とは何か、「観客とステージ」の関係はどうあるべきか、といったメタ次元での問題設定をも孕ませてしまうのです(この点ではロシア・アヴァンギャルドの演劇、例えばそれこそメイエルホリドの演劇との接点を見いだすことも出来るでしょう)。
それは2時間弱の芝居に対しては過剰な要求かもしれませんが、何一つ不十分な印象は残しません。それは考えてみればすごいことです。そしてなにより、こうした演出が、歴史あるアレクサンドリンスキーの建物の中で行われている事実が、単純におもしろい。

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アレクサンドリンスキーは、ネフスキー通り沿いすぐなので治安的にも安心。建物はオペラハウス並みの豪華さです。ペテルブルグに来て演劇をみるなら、一番にここに来てまず間違いないでしょう。開演1時間前に国際学生証をカッサに提示すれば、残っているチケットを半額で買えるそうです(試したことはありません)。

2013年11月26日

革命とダダイズムが共存した街チューリヒ

「チューリヒで最も名高い革命的な場所といえば、たぶんシュピーゲルガッセ1番地だろう。レーニンとクルプスカヤがスイス滞在の最後の数か月をここのツム・ヤコブスブルンネンというアパートで過ごしたからだ」

と、ミハイル・シーシキン は著書 『ロシアのスイス 歴史的文化的ガイドブック』(モスクワ:ワグリウス社、2006)の中で述べている。分厚くて非常に読み応えのある本だ。
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この中でシーシキンは、ジュネーヴ、チューリヒ、ベルン、バーゼル、ルツェルン、ローザンヌなどスイス各地にロシア文学やロシア史の痕跡を見出し紹介している。だから「ガイドブック」とは銘打っているものの、もちろんただの案内書ではない。ロシア文化史に名を残す人でスイスに何らかの関わりを持ったロシア人たちのスイスでの足跡を追っているのだから興味深い。

先日、日本学術振興会の「頭脳循環を加速する若手研究者戦略的海外派遣プログラム」による本学の研究事業の一環として、チューリヒで研究集会をおこなった。会場はチューリヒ大学。
上記ロシア出身でチューリヒ郊外在住のロシア語・ドイツ語作家シーシキンさん、日本出身でベルリン在住の日本語・ドイツ語作家多和田葉子さん、日本出身でミュンヘン在住の日本語詩人四元康祐さんをお呼びするという豪華で「越境的」な顔ぶれのシンポジウム・対談・朗読会も同時に開催。極めて刺激的な数日間を過ごしてきた。

9月にモスクワで開催した研究集会の第2弾ということになるが、今回は「文化的横断行為としての翻訳」がテーマだったので、私もロシア文学の新しい日本語翻訳について、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、トゥルゲーネフ『初恋』、ゴーゴリ『外套』の3作品の新訳を取り上げてトランスレーション・スタディーズの「はしくれ」のような報告を英語でしてきた。


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街を歩くともうすっかりクリスマスの装い。チューリヒ中央駅の構内には、見上げるほど大きなクリスマスツリーがスワロフスキーのクリスタルできらびやかに飾りつけられていた。
ツリーのまわりには、キャンドル、装飾品、人形、小物、チーズ、パンなど目移りするような可愛らしいグッズがたくさん売られていて楽しい。


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ちなみに、レーニン夫妻の住んでいたすぐ近くシュピーゲルガッセ1番地には、チューリヒ・ダダの拠点となったキャバレー・ヴォルテールがあった。「ダダ」の名付け親トリスタン・ツァラ、ジョイス、ヘッセ、プッチーニ、アインシュタインら世界中の作家や芸術家、文化人らがたむろしていたのは、1911年創業のカフェ・オデオン。ここにはレーニンも足繁く通っていたという。
1917年革命の勃発を知ったレーニンはまさにここチューリヒからドイツ経由でペテルブルグへと馳せ参じた。

革命とダダイズムが共存した街!
1910年代のチューリヒはそういう街だったのである。

カフェ・オデオンは今も健在だ。
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2013年11月27日

『妖婆 死棺の呪い』

アレクサンドル・プトゥシコ監督の映画 『妖婆 死棺の呪い』が来月新たにDVDとして発売されることになり、その解説を書かせていただいた。
日本語タイトルはおどろおどろしいが、じつはゴーゴリの中編 『ヴィイ』 を原作として1967年にモスフィルムで制作された文芸映画である。

ヴィイというのは「地面まで伸びた長い瞼」を持つ魔物。スラヴの民間信仰をもとにゴーゴリが生み出したもので、モデルになった聖者カシヤーンは「邪悪な目」をしておりその目で睨まれた者は死ぬと言われる。

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    cMosfilm Cinema Concern 1967
    発売元:株式会社アイ・ヴィー・シー
    価格:3,800円(税抜)


怖いけれどどこか滑稽。可笑しいけれどかなり恐ろしい。
カーニバル的な「笑い」とフォークロア的な「恐怖」の二律背反がまさにゴーゴリの世界そのものである。
魔女を演じる女優ナターリヤ・ヴァルレイのぞっとするほどの美しさも見ものだ。

威嚇するような眼差しで見つめる聖像画のキリスト、ホマーの姿が見えずに探しまわる魔女、長い瞼をあげてホマーを見つけようとするヴィイ、内心の声に逆らってヴィイを見てしまうホマー。『妖婆 死棺の呪い』は視線が交錯する場であり、キリスト教と土着の信仰、笑いと恐怖が入り交じった多義的な映像空間である。

なお他にもソヴィエト時代に制作された映画 『鏡』 『僕の村は戦場だった』 『アンドレイ・ルブリョフ』 『炎628』 『チャイコフスキー』 『ゼロ・シティ』 などがアイ・ヴィー・シーより同時にリリースされる予定。

2013年11月30日

神戸市外国語大学との大学院合同セミナー

来る12月14日(土) 13:30-17:30 本学事務管理棟2階 中会議室において、第4回「大学院合同セミナー」をおこなう。
2010年より始まった神戸市外国語大学との合同研究報告会である。神戸と東京で交互に会場を提供しあい、教員と院生がそれぞれ報告して交流を深めようというもの。

2010年に神戸で始められ、そのときのテーマは「翻訳」だったようだ。
2011年には本学で、テーマは「啓蒙」。
2012年には神戸で、テーマは「言語の音声」。
これまで本学の教員としては、和田忠彦、村尾誠一、新井政美、益子幸江の各氏が参加した。

4回目の今回は東京外国語大学を会場とし「現代文学の潮流」と題して以下のスケジュールで行われることになった。

13:30-14:00 
  趣旨説明・参加者紹介
14:00-15:20  
  神戸市外国語大学大学院生 西條万里那「カルロス・フエンテスと映画」
  東京外国語大学大学院生 笹山啓「ヴィクトル・ペレーヴィン読解の諸相―ロシア・ポストモダニズムの申し子、あるいは?―」
15:50-17:30  
  神戸市外国語大学准教授 成田瑞穂「ラテンアメリカ文学における絵画―フエンテス『われらの大地』―」
  東京外国語大学教授 沼野恭子「タチヤーナ・トルスタヤの作品世界―メタファーと言葉の突然変異―」

ラテンアメリカ現代文学やロシア現代文学に興味のある方、大学院生、大学院進学希望の方はよかったら聴きに来てください。

  
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上の内容とは何の関係もない、先日訪れたチューリヒ大学。
内外のいろいろな大学と学術的・人的交流をするのは楽しい!

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