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2012年6月 アーカイブ

2012年6月 2日

現代ロシア映画における宗教

2011年度「指導教員が勧める優秀卒業論文」として、私のゼミから御園生みのりさんの卒論『現代ロシア映画における宗教』が東京外国語大学のHPに掲載されている。
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http://www.tufs.ac.jp/insidetufs/kyoumu/doc/yusyu23_10.pdf

ソ連崩壊後のロシア社会に「宗教復活」とも言える現象が見られ、ロシア映画に宗教のモチーフが目立つようになってきたことを踏まえ、激変する現代ロシアで映画が宗教にどのように向き合おうとしているのかを分析し、その意味するところを考察したアクチュアルな研究だ。
扱っているのは3人の映画監督の作品それぞれ2本ずつ、計6作品。

ウラジーミル・ホチネンコ(1952年生れ) 『司祭』『イスラム教』
バーヴェル・ルンギン(1949年生れ) 『ツァーリ』『島』
アンドレイ・ズヴャギンツェフ(1964年生れ) 『追放』『エレーナ』

ホチネンコ監督の『司祭』(2010)は、ロシア正教を共産主義イデオロギーに替わるものと見なす国家の後押しを受けて作られたもので、聖職者たちが高潔な人物として描かれている。『イスラム教徒』(1995)は、異教徒に対する不寛容をテーマとしており、現代ロシア社会の矛盾を象徴している。
ルンギン監督の『ツァーリ』(2009)は、イワン雷帝を主人公にすることで、信仰心が篤くても残虐でもあり得るという矛盾した人間の姿を現代に通じる問題として突きつけ、『島』(2006)は、教会という制度から逸脱した主人公に現代の「貧しき人々」の救済を見出そうとしている。
ズヴャギンツェフ監督の『追放』(2007)は、表面的には宗教を扱っているようには見えないが、「楽園追放」「神殺し」といった宗教的モチーフを象徴的に用いており、『エレーナ』(2011)は、現代ロシアの日常に潜む「黙示録」的な要素を描きだしている。

このようにホチネンコ→ルンギン→ズヴャギンツェフと進むにしたがって、宗教的モチーフが「内在化」していくところが面白い。
『島』の主人公には、自らに過酷な苦行を課すことによって神に近づき時に奇跡を起こす力を得る「聖愚者(ユロージヴイ)」の面影が感じられる。


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           ルンギン監督『島』より


2012年6月 8日

グルジアに思いを馳せて

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6月7日(木)4年ゼミで卒論中間発表会をした後、3年生、4年生、ロシアやキルギスからの留学生を一堂に集め「グルジアワインの夕べ」を催す。総勢25人くらいいただろうか。
前もって、グルジア風に「タマダー(宴会を盛りあげる座長)」を決めておき、取り仕切ってもらった。ピザの手配から会場の整備、パワーポイントによるクイズ、賞品の準備等々、タマダーを引き受けてくれた牧野くん、鯉沼さん、ご苦労様でした!

5限の「表象文化とグローバリゼーション」の講義を終えたSF評論家の小谷真理さんも飛び入りゲストで参加してくださった! 

試飲したグルジアワインの種類は、
ピロスマニ(赤)
オールドトビリシ(赤、白)
サペラヴィ(赤)
ツィナンダリ(白)

赤ワイン「ピロスマニ」が美味しかった! グルジアの中でもとりわけ美味しいワインで知られるカヘチア地方。「ピロスマニ」は、そのカヘチア地方に育つグルジア固有のブドウ「サペラヴィ種」を用いたワインである。もちろんグルジアの画家ニコ・ピロスマニ(1862-1918)にちなんで名づけられた。


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    ニコ・ピロスマニ 「ブドウの収穫」

2012年6月10日

おおばか公?

日本比較文学会第74回全国大会 初日の6月9日(土)、東京大学大学院の松枝佳奈さんによる研究発表がおこなわれた。題して「ロシア研究者・二葉亭四迷の実像――大庭柯公との関係を手がかりに」。
松枝さんは、2010年3月に東京外国語大学ロシア語学科を卒業した沼野恭子研究室の元ゼミ生である。

二葉亭四迷と10数年にわたって親交を結んだというロシア研究者でジャーナリストの大庭柯公(おおばかこう)。このふたりの関係を探ることで二葉亭の「ロシア研究者」としての一面を明らかにするというのが今回の発表の狙いだ。1週間前の6月2日(土)におこなわれた日本ロシア文学会関東支部でも松枝さんは発表しているが、そこでは大庭柯公その人に焦点をあてた。

大庭柯公というのはペンネーム。「おおばか(大馬鹿)公」と読める。二葉亭四迷が父親に「くたばってしめえ」と言われたことからペンネームをつけたというのは有名な話だが、大庭はそれに倣ったのか、それとも自虐的な戯作趣味か、単なる偶然か...。
それはともかく、長州藩出身の大庭柯公(1872-1924)は、高等教育は受けていないが、ロシア語を習得し、世界各地を旅してまわり、新聞記者として活躍した。1921年、革命後のロシアを取材するためモスクワに行ったまま消息を絶った。
大正期の優れたロシア事情通、私たちの大先輩である。

代表作は『露国および露人研究』。これは、大空社より刊行されている全5巻・別巻・別冊付きの『柯公全集』(山下武監修)第3巻に収められている。


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2012年6月13日

「エルミタージュ」と「ミンスクの台所」

6月13日(水)ゼミの課外授業で「エルミタージュ美術館展」に行く。
16世紀から世紀ごとに特徴を確認しながら文字どおり駆け足で400年に及ぶ絵画の歴史をたどったら、美的表現への人間の欲望の果てしなさに圧倒され眩暈を覚えた。

カタログの中で、国立新美術館主任研究員の本橋弥生さんがアンリ・マティスとロシアの関係について論じているのが面白かった。
1911年マティスは、ロシアの美術コレクターだった大富豪セルゲイ・シチューキン(1854-1936)に招かれてロシアを訪れているのだ。そしてイコンを「プリミティヴな芸術」として賞賛したという。当時ラリオーノフやゴンチャロワらが「ネオプリミティヴィズム」を推し進めたのはマティスの影響だったのではないかというのが本橋さんの説である。
たしかにゴンチャロワは、「西」を追求していったら「東」にたどり着いたという逆説的な言い方をしているが、彼女が通過した「西」にはマティスも含まれていたに違いない。

国立新美術館を出て東京ミッドタウンをやり過ごし飯倉のほうに向かい、ロシア&ベラルーシ料理店「ミンスクの台所」に到着。ランチで賑わっていた。ここはいつ食べに来ても美味しくて満足できる。


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手前のお皿に見えているのは гречневая каша (ソバの実のカーシャ)。肉の付け合せに最高だ。「本日のスープ」は расссольник (ラッソーリニク)だった。рассол (キュウリ等を塩漬けにするときの漬け汁)で作るスープである。大きなジャガイモや肉がごろごろ入っていてダイナミック!

このゼミでは秋にロシア音楽のサロンコンサートを開く予定で、プログラムを練り始めている。乞うご期待。

2012年6月23日

ロシアのセレブ小説

最近「гламур (グラムール)」という言葉をよく見かける。英語のglamour(怪しい魅力、魅惑)から来たもので、裕福で贅沢な生活を象徴する言葉として用いられるようになった。ヴィクトル・ペレーヴィンの長編 『Empire V』 には、「グラムールとは金(かね)を介して表されるセックスのこと、なんならセックスを介して表される金のことと言ってもいい」と語る人物が登場する。

こうしたグラムールな生活を題材にして小説を書き人気を博しているのが Оксана Робски オクサーナ・ロプスキ(1968年生れ)だ。2007年、モスクワの高級住宅地ルブリョフカで起きた殺人事件をめぐる推理小説仕立てのセレブ小説 『Casual』 でデビューした。
この本が売れたのは、セレブたちがいったいどんな生活をしているのか覗いてみたいという人々の世俗的な好奇心のためと言われており、その点では、かつて日本で田中康夫の 『なんとなくクリスタル』 がベストセラーになった現象を思い起こさせる。


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2008年にロプスキが出した小説 『Эта Тета』 もやはり舞台はルブリョフカだが、こちらは、異星人がやってきてグラムールな地球人に愛と生殖の方法を学ぼうとするという突拍子もない物語になっている。異星人たちはやがて食事のカプセルをセレブたちに「ダイエット食品」として途方もない値段で売りつけたりするから可笑しい。

ロプスキ自身がセレブで、華麗なキャリアの持ち主である。モスクワ大学ジャーナリズム学科を卒業し、女性ボディガードの会社を立ち上げ、高級家具のネットサロンを経営している。恋愛・結婚遍歴もかなり派手なようで、そうした著者のプライべートな面が話題作りに一役買っていることは間違いない。

彼女は、小説を書くのはお金のためだと公言して憚らない。本を出すというのは娯楽でも道楽でもなくビジネスなのだという。
ロシア文学も変わったものだ(これが名高きグローバリゼーション??)。

でもセレブへの興味と私生活のスキャンダルだけでいつまでも読者を繋ぎ止めておくことはできないだろう。
このところロプスキが新しい本を出していないのはどうしたことだろう。出版市場を驚かす次の戦略でもじっくり考えているのだろうか。


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  オクサーナ・ロプスキ

2012年6月26日

コーカサス表象

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カスピ海と黒海に挟まれた地域 コーカサスはプーシキン、レールモントフ以来ロシアの詩人・作家たちの憧れの地。プーシキンの物語詩 『コーカサスの虜』 はタイトルそのものからして、コーカサスの魅力に溺れるロシア人を象徴的に表している。コーカサスは、高く聳える山、美しい女性、自由な大地というイメージでロシア文学に刻み込まれてきた。

でも、それだけにコーカサスに対してロシア人が感じるエキゾティシズムと憧れは一種のステレオタイプと化し、現実とは異なる「コーカサス幻想」を生んでしまった。
トルストイはそのコーカサスで従軍し(現代まで尾を引くチェチェン問題はこの頃のコーカサス征服戦争に端を発している)、やはり「コーカサスもの」を世に問うた。『コサック』はそのひとつである。
トルストイがロシアの作家たちの共有するコーカサス幻想にどう向き合ったかというのはとても興味深い課題だ。

主人公のロシア人貴族オレーニンも、「底なしの美しさ」を見せつける巨大な雪山に魅せられ、コサックの美しい娘マリヤーナに恋する。シナリオどおりだ。しかし...。
「ぼくの状況でなによりも恐ろしくかつ甘美なのは、ぼくは彼女を理解しているが、彼女のほうはぼくを決して理解しないだろうという思いだ。彼女がぼくより劣るから理解できないのではなく、逆に、彼女はぼくなんか理解すべきでないのである。彼女は幸せだ。自然と同様に、淡々として落ち着き、自足している」
トルストイ『コサック―1852年のコーカサス物語』乗松亨平訳(光文社古典新訳文庫、2012年)271ページ。

オレーニンがマリヤーナを「理解している」と考えるのは一種の傲慢だと思うが、いずれにしろマリヤーナに拒絶され恋は成就しない。
トルストイは、オレーニンがコーカサス幻想に囚われていることを重々知りつつそれを批判せず、自らオレーニンとともに「夢のコーカサス」に魅せられている。このあたりをわかりやすく解きほぐしてくれる訳者=ロシア文学におけるコーカサス表象を研究テーマにしている乗松亨平さんの「解説」が秀逸である。

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