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トルスタヤの未来小説

本日5月1日(火)付 『東京新聞』 夕刊の「世界の文学」欄で、Татьяна Толстая タチヤーナ・トルスタヤの長編 『 Кысь (クィシ)』 を紹介させていただいた。


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2000年に発表された長編なので、すでに別の媒体で紹介したことがあるが、フクシマの原発事故を体験した今読み直してみると、この作品に描かれているグロテスクな未来社会が不思議なリアリティをもって迫ってくる。

「大爆発」が起こってから200年経った未来が舞台だ。かつてモスクワのあった地には独裁国家ができている。と聞けば、否応なく1920年代に書かれたエヴゲーニイ・ザミャーチンのアンチユートピア小説 『われら』 が思い浮かぶだろう。
トルスタヤの創りあげた独裁都市国家フョードル・クジミチスクでは、電気もなく(!)ガスもなく、ネズミを主食にする原始的な生活が営まれている。爆発の後に生まれた人間は、トサカやエラやシッポの生えた突然変異体(ミュータント)。野蛮で粗暴だ。
しかし、これだけならSFではさして珍しいことではないだろうが、トルスタヤのすごいところは、この突然変異が言葉そのものにまで及んでいることである。

例えば、次の大文字の語に注目していただきたい。

Бенедикт иной раз допытывался у матушки: отчего да отчего был Взрыв? Да она толком не знала. Будто люди играли и доигрались с АРУЖЫЕМ.
(ベネジクトは時おり母さんに、いったい爆発はなぜ何が原因で起こったの、と訊ねたものだが、母さんもはっきりは知らなかった。人間が「ヘーキ」と戯れているうちに、戯れが高じて大変なことになったということらしい)

АРУЖЫЕ という語は現代ロシア語にはない。これは「兵器、武器」を意味する語 оружие の綴りをわざと崩した突然変異体なのである。ロシア語の正書法では本来 ж の後に ы を綴ることはできないので、それだけでもかなり違和感がある。
また、タイトルの Кысь という語もロシア語にはない(トルスタヤはあるインタビューでコミ語だと言っていたが本当だろうか?)。小説の中で Кысь は「得たいの知れない怖ろしい生き物」とされているが、やはり正書法ではふつう к の後に ы を綴ることはできないため、タイトルからして異常さが目立つわけである。

じつは、先日の日本ペンクラブ女性委員会主催のシンポジウム「女性と原発」でこの話をして上と同じ個所を引用した。ロシア語の АРУЖЫЕ の奇異さを日本語でも出すために「兵器」ではなく「ヘーキ」と表記した。
そうしたら、一緒にパネリストとして参加していた作家の中島京子さんが、これを見て「『ヘーキ』というのは『兵器』のほうではなく『平気』という意味だと思った。原発事故の後『安全』という言葉の意味がすっかり変わってしまったことと関係があると思った」とコメントしてくださった。

たしかに私たちは、兵器に転用できるモノと平気、平気、安全、安全と戯れているうちにとんでもない状況に陥ってしまったのだから、これはじつに含蓄のある読みである。徹底的に言葉にこだわるトルスタヤの翻訳テクストに中島さんが見事に応じてくださり、ロシア語と日本語の間で思わぬ言葉遊びができていたというのが、私にはことのほか興味深かった。


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2012年5月 1日 18:11に投稿されたエントリーのページです。

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