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ウリツカヤ 『緑の天幕』

リュドミラ・ウリツカヤ(1943年生れ)はけっして「社会派作家」ではない。たしかに、慈善事業にも携わっていれば、「子供のための本」プロジェクトも率いているし、脱税などの罪で獄中にいる元石油財閥ミハイル・ホドルコフスキーと書簡を交換して間接的に支援するなど社会問題に高い関心を寄せてはきたものの、これまで直接政治活動をしたことはなかった。
そのウリツカヤが今回の大統領選挙では、反プーチンを掲げる市民運動に積極的に関わり、正義を求めるリベラルな市民のシンボルとしての役割を自ら買って演じている。

下は、昨年出版されたウリツカヤの最新長編『緑の天幕』である (Людмила Улицкая "Зеленый шатер" М.: Эксмо, 2011)。

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物語は、同級生の男の子3人を中心に展開する。写真を撮るのが好きでやがて亡命するイリヤ、ピアニストを夢見て挫折するも音楽の道を歩み続けアメリカに移住するサーニャ、ユダヤ人の孤児で文学に携わるうちイリヤとともに地下出版に関わるようになり逮捕され、やがて自殺するミーハ。3人が知り合うのはちょうどスターリンの死んだ1953年で、これは作者自身の子供時代と重なっている。
スターリン後のソ連の現実を背景に、イリヤ、サーニャ、ミーハとこの3人を取り巻くさまざまな人々がドラマの糸を縒り合わせ、複雑な光沢と色合いの織物を織りあげていく。3人は才能と興味を異にし、人生の軌跡も別々だが、反体制的な気質を共有している。
権力の押しつけてくる教条的なイデオロギーとは相容れない「自由思想」を彼らが持つようになるのは、文学(国語)の先生の影響であった。当時、彼らのような反体制知識人を結びつけていたのは、パステルナークの『ドクトル・ジヴァゴ』、ナボコフの『断頭台への招待』、ダニエルの『こちらモスクワ』などといった地下出版でしか読めない小説だったのである。
ロシア社会において「文学」の持つ意義がいかに大きいかということ、ロシア文学の果たす機能が日本の文学とは比べものにならないほど重要だということを思い知らされる。

『緑の天幕』は、大雑把な言い方をすれば、抑圧的な「停滞の時代」に生きたリベラルな知識人についての追憶の書である。しかし単に過去を懐かしむだけの懐古的な物語かというと、むろんそうではない。昨年の2月に行われた「文学の夕べ」でウリツカヤ自身がこう述べている。

「自分自身の青春時代、つまり1960-1970年代を再確認してみようと思ってこの小説を書いていたのですが、書き終えたら、アクチュアルなテーマの作品だったことに気づきました。最近我が国では意図的に個人崇拝の復活が進められています。(......)専制的な体制によって挫折させられた『緑の天幕』の主人公たちの運命が、ソビエト時代を良い時代だったと懐かしむ人々への警告となることを願っています」

ウリツカヤは、下院選不正選挙疑惑(2011年12月)の起こるずっと前から、ロシア社会の「スターリン化」を危惧していたのである。
当然のことながら、今ロシアの読者は、この作品に描かれている近過去の主人公たちの懊悩を自分自身の問題と捉えていることだろう。

ちなみに、この小説は最初 『Имаго(成虫)』 と名づけられる予定だったという。これはこの作品の「成熟」というテーマと深く関連している。責任感がなく未熟なまま大人になってしまう人たち――ミーハも自分がいつまでも子供だと痛感して悲観的になる。

ひるがえって日本は? 日本は成熟した民主的な社会と言えるだろうか?
ロシアの現状とともに、社会の「成熟」とは何なのかを考えさせられる。

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2012年2月28日 02:50に投稿されたエントリーのページです。

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