チェーホフの戯曲 『Вишнёвый сад (桜の園)』 の最終第4幕は、地主だったリュボーフィ・ラネーフスカヤが領地「桜の園」を売った後、再びヨーロッパに旅立つシーンだ。もう今にも出発しなければならないそのとき彼女はこう言う。
Я посижу еще одну минутку. 「もうあと少しだけ(すわって)いよう」
ロシアには、旅立つ前に家の中で少しの間黙ってすわっているという風習がある。道中の安全を願うおまじないのようなものらしい。
チェーホフは、数々の思い出に彩られた桜の園や屋敷と別れ難く少しでも出発を引き延ばそうとするラネーフスカヤの心情とこの伝統的な旅立ちの風習を重ね合わせているのである。一方、ラネーフスカヤの娘アーニャのセリフはこうだ。
Прощай, дом! Прощай, старая жизнь! 「さようなら、おうち! さようなら、古い生活!)」
アーニャは、もう二度と目にすることはないかもしれない桜の園にいともあっさりと別れを告げている。
過去に後ろ髪を引かれる思いの母と、未来に凛と目を凝らしている娘。この対比が心憎いほど上手い。
もうひとつロシアの別れの風習に「最後の乾杯」がある。そのときの決まり文句は
На посошок!
である。これもやはり旅の無事を祈るものだが、もともとは、посошок<посох(杖)を持って旅立つ人が出発に際して木戸のそばに杖を立て、杖の先に酒杯を載せて酒を注いでもらい飲み干したところからきているという。
まもなく若い人たちの旅立ちの時がやってくる。卒業式、修了式。
ロシアの風習にならって、少しの間心静かに口をつぐんですわり、最後の乾杯をしたら、あとは思い残すことなく力の限り羽ばたいていってほしい。