Надежда Ламанова ナジェージダ・ラマノワ (1861-1941)。ロシアのファッションデザイナーの祖ともいうべき才能ある芸術家である。
帝政時代には皇后アレクサンドラ・フョードロヴナのお抱えデザイナーでいながら、革命後もロシアにとどまり、ワフタンゴフ劇場やモスクワ芸術座で衣装を担当したり芸術映画の衣装に腕をふるったりとソ連時代も活躍を続けた。その生きざまにも、作品にも、そしてロシア文化におけるデザイナーとしてのラマノワの位置にも、興味が尽きない。
(コンスタンチン・ソモフ 『ノーソワの肖像』 1910-1911)
この絵の被写体が身に着けているのは、革命前にラマノワがデザインしたドレスである。
ラマノワは、「女性の身体をコルセットから解放したデザイナー」として有名なフランス人ポール・ポワレと親交があった。1880年代にパリに留学したとき知り合ったのだが、ポワレのほうも1912年にロシアを訪れ旧交を温めている。
面白いことに、ロシアでは1890年代より「ジャポニスム」に似た現象が起こったが、ファッション界でも日露戦争の頃に日本の影響が見られた。それはキモノの裁ち方を取り入れることなどに現れたというが、1910年代末にデザインされた下のような作品を見ると、ポワレの影響とジャポニスムの両方が絡みあっているのではないかと思えてくる。
革命後、亡命したロシア人はヨーロッパで服飾関係の仕事に就くことが多かった。マリヤ・パーヴロヴナ公女やユスーポフ公爵夫妻はパリで高級メゾンを開いている。ロシアのオートクチュールはパリに移ったのである。
しかし1925年に開かれたパリの万国博覧会では、そうした並みいるライバルたちと競ったあげく、ラマノワのファッションがグランプリを獲得した。
ひるがえって現代のロシアでは、これまであまり振るわなかった自国のファッション産業を盛りあげようと、年に2回「ロシア・ファッション・ウィーク」が開かれ、若手デザイナーを発掘・奨励するコンクールがおこなわれている。大御所ボリス・ザイツェフが主催するこのコンクールには「ラマノワ」の名前が冠されている。