« 2011年8月 | メイン | 2011年10月 »

2011年9月 アーカイブ

2011年9月 2日

ロシアのピノッキオ

翻訳をしていたら、"пахать как папа Карло" という表現に出くわした。「(カルロ・パパのように)がむしゃらに働く」という意味で、 Алексей Николаевич Толстой アレクセイ・ニコラエヴィチ・トルストイ (1883-1945)の『Золотой ключик, или Приключения Буратино 金の鍵 あるいはブラチーノの冒険』 (1936)という童話から生まれた慣用表現だということがわかった。

アレクセイ・トルストイという作家がふたりいるため父称をつけて区別しているが、この童話を書いたのは、『アエリータ』(1924)の作者でソ連SFの創始者のひとりとも言われるアレクセイ・ニコラエヴィチ・トルストイのほう。

じつはこの『ブラチーノの冒険』、イタリアの作家カルロ・コッローディの『ピノッキオの冒険』(1883)を翻案したものである。だから「カルロ・パパ」というのは、原作者への敬意が込められているのだろう。
作中、カルロは手回しオルガンの奏者ということになっており、「しゃべる薪」を削って人形を作り、ブラチーノと名付ける。
ブラチーノは「ロシアのピノッキオ」なのだ!

buratino.jpg

(アレクセイ・トルストイ 『金の鍵 あるいはブラチーノの冒険』 絵レオニード・ウラジミルスキー、アムフォラ社、 2010年)

ブラチーノの物語の前半は、ほぼピノッキオの物語を忠実に再現しているのだが、後半がだんだん異なってきて、最後に決定的な違いが用意されている。それは、ピノッキオが最終的には人間になるのに対して、ブラチーノは最後まで人形のままでいること。
人間になることが幸せなのか、それとも人形は人形としてそれで素晴らしいのか、難しいところだ。

ブラチーノは出版された当初から子供にも大人にも大人気だったという。
人形劇、芝居、アニメ、オペラ、バレエといろいろなジャンルに広がったが、とくに有名なのは、セルゲイ・オブラスツォフの人形劇だろう。
下は、イワン・イワノフ=ワノ監督によるアニメ(1959)。


51hFRixK8uL__SL500_AA300_.jpg

2011年9月 5日

ロシアのファッションデザイナーの祖

Надежда Ламанова ナジェージダ・ラマノワ (1861-1941)。ロシアのファッションデザイナーの祖ともいうべき才能ある芸術家である。
帝政時代には皇后アレクサンドラ・フョードロヴナのお抱えデザイナーでいながら、革命後もロシアにとどまり、ワフタンゴフ劇場やモスクワ芸術座で衣装を担当したり芸術映画の衣装に腕をふるったりとソ連時代も活躍を続けた。その生きざまにも、作品にも、そしてロシア文化におけるデザイナーとしてのラマノワの位置にも、興味が尽きない。

%D0%9A%D0%BE%D0%BD%D1%81%D1%82%D0%B0%D0%BD%D1%82%D0%B8%D0%BD%20%D0%A1%D0%BE%D0%BC%D0%BE%D0%B2.%20%D0%9F%D0%BE%D1%80%D1%82%D1%80%D0%B5%D1%82%20%D0%95.%D0%9F.%D0%9D%D0%BE%D1%81%D0%BE%D0%B2%D0%BE%D0%B9%201910-11%20%28%D0%9F%D0%BB%D0%B0%D1%82%D1%8C%D0%B5%20%D0%BC%D0%B0%D1%81%D1%82%D0%B5%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%B9%20%D0%9B%D0%B0%D0%BC%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%BE%D0%B9%29.jpg

(コンスタンチン・ソモフ 『ノーソワの肖像』 1910-1911)

この絵の被写体が身に着けているのは、革命前にラマノワがデザインしたドレスである。
ラマノワは、「女性の身体をコルセットから解放したデザイナー」として有名なフランス人ポール・ポワレと親交があった。1880年代にパリに留学したとき知り合ったのだが、ポワレのほうも1912年にロシアを訪れ旧交を温めている。

面白いことに、ロシアでは1890年代より「ジャポニスム」に似た現象が起こったが、ファッション界でも日露戦争の頃に日本の影響が見られた。それはキモノの裁ち方を取り入れることなどに現れたというが、1910年代末にデザインされた下のような作品を見ると、ポワレの影響とジャポニスムの両方が絡みあっているのではないかと思えてくる。


%D0%BC%D0%B0%D1%81%D1%82%D0%B5%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%B0%D1%8F%20%D0%9B%D0%B0%D0%BC%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%BE%D0%B9.%20%D0%9A%D0%BE%D0%BD%D0%B5%D1%86%201910-%D1%85.jpg


革命後、亡命したロシア人はヨーロッパで服飾関係の仕事に就くことが多かった。マリヤ・パーヴロヴナ公女やユスーポフ公爵夫妻はパリで高級メゾンを開いている。ロシアのオートクチュールはパリに移ったのである。
しかし1925年に開かれたパリの万国博覧会では、そうした並みいるライバルたちと競ったあげく、ラマノワのファッションがグランプリを獲得した。

ひるがえって現代のロシアでは、これまであまり振るわなかった自国のファッション産業を盛りあげようと、年に2回「ロシア・ファッション・ウィーク」が開かれ、若手デザイナーを発掘・奨励するコンクールがおこなわれている。大御所ボリス・ザイツェフが主催するこのコンクールには「ラマノワ」の名前が冠されている。

2011年9月 8日

モスクワ国際ブックフェア潜入

モスクワに滞在している。
「モスクワ国際ブックフェア」(9月7日~9月12日)の初日にあたる今日、会場となった全ロシア展示センター(ВВЦ)の第75パビリオンを訪れ、出版社のブースを覗いてまわり、作家たちのプレゼンテーションを聞いた。21世紀の詩についてのラウンドテーブルもあった。


bookfair.JPG


ロシアにこれほどたくさんの出版社があるのかと驚嘆するほどさまざまなブースがびっしり並んでいる。通路に、ドストエフスキー・アヴェニュー、マヤコフスキー・アヴェニュー、ゴーゴリ・アヴェニューなどと文豪たちの名がつけられているのは、やはりロシアらしいと言うべきか。


Chekhov%20avenue.JPG
(これはチェーホフ・アヴェニュー)


そんな中で、入り口近くの最も目立つ場所に大きなブースを構え、自分のところから本を出したスター作家たちを招いて人々の注目を集めていたのが АСТ(アスト社)と ЭКСМО(エクスモ社)である。下の写真は、アスト社のスタンドで、Захар Прилепин ザハール・プリレーピン(1975年生まれ、向かって左)と Антон Уткин アントン・ウトキン(1967年生まれ、右)がプレゼンテーションをしているところ。

プリレーピンはリャザン州(スコピン地区)のイリインカ村に生まれ、ニジニ・ノヴゴロド大学卒業。「ナショナル・ボリシェヴィキ党」という非合法の政党に所属し「反体制」を標榜している。 『Санькя サニキャ』(2006)で才能が認められたが、これは作者を思わせる主人公が深く政治にコミットしているいわゆる「社会派小説」だ。
一方、ウトキンはモスクワ出身、 19世紀を舞台にしたロマン主義的歴史小説である『輪舞』(1996)で高い評価を受けた。
ふたりとも「ヤースナヤ・ポリャーナ」文学賞を受賞しており、ウトキンは1990年代、プリレーピンは2000年代を代表する作家と見なされている。


Prilepin%20%26Utkin.JPG


2011年9月10日

モスクワ現代美術館

muzei.JPG


モスクワ現代美術館を訪れた。
現在進行中のブックフェアが今年を「イタリア年」としているのに連動してか、ここ現代美術館では、イタリア現代アートの巨匠アゴスティノ・ボナルミ特別展が開かれている。キャンバスに裏側から針金で凹凸をつけて赤や白や緑一色の作品に驚くほど多彩な表情を与えている。

もうひとつの収穫は Александра Экстер アレクサンドラ・エクステル(1883-1949)の作品 『Женщина с рыбой 魚を持つ女』(1932-34) が見られたこと。原作は美術館の中だが、入り口近くにそのコピーが飾ってあった(上の写真)。
エクステルはキエフ出身のアヴャンギャルド芸術家。1910年代から1920年代前半にかけて、ロシアのアヴャンギャルド・シーンで華々しい活躍をしたのは有名だが、1924年にパリに去った後はどうしていたのかあまり知られていない。
東郷青児を思い起こさせるこの作品は、1930年代のエクステルが、抽象絵画を極めた後どこに向かおうとしていたのかを暗示しているように思えた。

モスクワ現代美術館は1999年に創設された。ロシア芸術アカデミー総裁で彫刻家の Зураб Церетели ズラブ・ツェレテリ(1934年生れ)が館長を務めている。屋外に展示されているツェレテリの作品のひとつが下。伝説の俳優で吟遊詩人ウラジーミル・ヴィソツキー(1938-1980)の彫像である。


vysotski.JPG

 

2011年9月12日

モスクワのシャーマン

小雨の降りつづくモスクワ、9月11日深夜10時。有名なアングラ文化スポット「オギ」に、自他ともに認める「シャーマン」の歌を聴きに行く。
シャーマンの名は Вера Сажина ヴェーラ・サージナ
1960年にモスクワ郊外で生まれ、モスクワ大学心理学部を卒業してから長く病院に勤めていたが、1980年代後半より音楽パフォーマンスや絵画展への出品を始める。2003年には 『По обе стороны невода 魚網の両側』 という詩集も出しているから、多彩な才能の持ち主である。

「天に向かって祈ることを私に教えてくれたのはアメリカ・インディアンやトゥヴァの大草原。オオカミのラジオに耳をすますことを教えてくれたのはモスクワ郊外の松林。深く瞑想的に歌うことを教えてくれたのはクリミアの海」だという。


sazhina%20%26%20letov.JPG


サージナ(写真右)は大小のアコーディオンやバラライカを使い分け、次々と歌を披露した。共演者は入れ替わり立ち代わり、サックス奏者 Сергей Летов セルゲイ・レトフ (写真左)だったり、ギタリスト、パーカッション奏者だったり。
彼女の歌声は、美しく澄んだ高音と、ユニークな発声法の野生的な(少々野卑な感じもする)低音。じつに独特の、しかしたしかな世界があり、聴いているうちに「癒し」のような感覚を覚える。
その憂愁を帯び祈りにも似た歌が、10年前の今日起こったニューヨークの同時多発テロの犠牲者や、ちょうど半年前の東北地方の震災で亡くなった方々の霊を慰めてくれることを願った。

下はサージナの新しいCD 『Подземные воды 地下水』。


podzemnye.jpg


2011年9月14日

ヴィンザヴォード

Vinzavod.jpg


Винзавод ヴィンザヴォード=「ワイン工場」を訪れた。とはいえ、ワインを飲みに行ったわけではない。
1889年、クリミアやコーカサス産のブドウでワインを製造する工場がモスクワに設立され、ソ連時代もずっとワインを作りつづけたが、今では生まれ変わり、画廊、フォトギャラリー、ブティック、書店、カフェのあるコンテンポラリー・アートの一大拠点となっている。


contemporary.JPG


いくつか面白いギャラリーがあった。
アレクサンドラ・エクステルに師事したアヴャンギャルド Борис Аронсон ボリス・アロンソン(1900-1980) が1922年にロシアを去るまでのユダヤ劇場での活躍に注目した展覧会、「アート・クヴァルタール」の現代美術展(上の写真)、コンスタンチン・ラティシェフのコセプチュアルな個展など。
下は、ラティシェフの「現代アートってきらい」というタイトルの何とも自虐的な(?)作品。


Latyshv.JPG

2011年9月16日

イリヤ・グラズノフ 『永遠のロシア』

今モスクワのプーシキン美術館では「サルバドール・ダリ展」が催されており、正面入口から建物に沿って長蛇の列ができるほどの大変な人気を博している。
そのダリ展を尻目に、向かいにあるもうひとつの美術館に行った。コバルトブルーの美しい建物。イリヤ・グラズノフ・ギャラリーである。


museum%20of%20Glazunov%20%28trim%29.jpg


Илья Глазунов イリヤ・グラズノフ (1930年生れ)は、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を初めとする作品にイラストを描いて有名になった画家。1987年から絵画・彫刻・建築アカデミー総裁を務めている。かなり保守的な志向の持ち主で、君主制を支持していると言われる。
館内に、グラズノフがロシア1000年の歴史をすべて描きこんだという作品が展示されていて度肝を抜かれた。縦3メートル、横6メートルの巨大な作品で、『永遠のロシア』(1988)と名づけられている(下)。
磔にされたキリスト、最前列には聖者たちとともにドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリ、プーシキン、レールモントフらが並び、トゥルゲーネフ、マヤコフスキー、チェーホフ、チャイコフスキーなど名だたる作家や芸術家、ピョートル大帝、エカテリーナⅡ世らツァーリ、レーニン、トロツキー、スターリンといった政治家の顔が見える。クレムリン、ルブリョフのイコン『三位一体』、タトリンの「第3インターナショナル記念塔」、青銅の騎士、そして顔を覆っている(なぜか)裸体の女……
描かれているのがだれなのかを考えるのは面白いが、絵画作品としての価値はどうなのかやや疑問だ。


vechnaya.jpg


この他、ロシアの資本主義的な傾向を揶揄したかなりどぎつい『わが国のデモクラシー市場』(1999)というやはり巨大な作品もあった。

2011年9月17日

ボリス・グリゴーリエフ展

P1010841.JPG


トレチヤコフ美術館でグリゴーリエフの生誕125年を記念する特別展が開かれるとテレビで報じていたので見に行く。トレチャコフの本館ではなくエンジニア館のほうだった。
Борис Григорьев ボリス・グリゴーリエフ (1886-1939)は、「芸術の世界」に所属していた画家だが、1919年に亡命。以後、ベルリン、パリを経てアメリカに渡り、肖像画家として人気を得た。
最も有名なのは、アヴャンギャルド演出家 Всеволод Мейерхольд フセヴォロド・メイエルホリド(1874-1940)を描いた 『メイエルホリドの肖像』(1915)だろう。20世紀初頭ロシア文化の絢爛たる祝祭的気分が伝わってくるような作品で、迫力があった。


200px-Grigoriev_Meyerkhold.jpg


もう1点、今回の展覧会で印象に残ったのは、作曲家 Сергей Рахманинов セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)を描いた『ラフマニノフの肖像』(1930)である。
頭部のいびつな形、異様なほどに浮き出た血管、刻みこまれた皺。ここには対象を「美化」する意図はまったく感じられない。ラフマニノフもグリゴーリエフ同様、1917年にロシアを後にして、ついに最後まで故郷に帰ることはなかった。作曲に専念することもできず、ロシアへの郷愁を抱いたまま半ば演奏活動を強要された。画家はラフマニノフの苦悩に深く共感をおぼえていたにちがいない。


grigorev%20rakhmaninov.jpg


ちなみに、1920年代にグリゴーリエフが取り組んだ大作は「Лики России ロシアの面立ち」と名づけられている。лик という言葉は лицо(顔)の古い言い方で、複数形だと「特徴」という意味がある。
グリゴーリエフは、メイエルホリド、フレーブニコフ、レーリヒ、シャリャーピン、ゴーリキーらの肖像を描くことを通してロシア文化の特徴そのものを探っていたのではなかろうか。

2011年9月18日

【お知らせ】 学会の季節

10月には、関係する学会・シンポジウムが3つもある。

日本ロシア文学会第61回研究発表会(慶應義塾大学日吉キャンパス)

10月8日(土)
中野幸男 「ギェドロイツとタミズダート―亡命ポーランドにおけるロシア文学出版」
関岳彦 「ブロツキー初期作品の研究」
宮川絹代 「『胎内的なもの』というイメージ:ブーニン文学の恋愛を読むために」
奈倉有里 「サーシャ・ソコロフ『ばかの学校』のレアリア」
前田しほ 「戦争という記憶の語りについて:アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』証言集,映画,演劇をめぐって」
コベルニック・ナディヤ 「ロシア語における“Vt sebya”と“Vt -sya”の対応性について」
恩田義徳 「古代教会スラブ語および古代ロシア語の分詞の誤用について」
シャトヒナ・ガンナ 「Инновации в преподавании РКИ (разработка урока по теме ≪Телефон≫)」
クロチコフ・ユーリー 「ヨーロッパの教育機関におけるバイリンガル生徒への実践的教育」
ペトリシチェヴァ・ニーナ 「Russian Phatic Interjections: Development and Functions」
籾内裕子 「芥川龍之介によるトルストイ受容―『イワン・イリイッチの死』読書から「蜘蛛の糸」「枯野抄」
執筆まで」
山路明日太 「「光」と「闇」からみたゴーリキー―『イゼルギリ婆さん』を中心に」
一柳富美子 「声楽作品におけるグリーンカの「保守性」~同時代のアリャービエフ,ダルゴムィーシスキイとの比較を通して~」
上田洋子 「絵画から演劇へ ―ニコライ・タラブーキンのメイエルホリド論」
河村彩 「生産主義の広告論とロトチェンコのグラフィックデザイン」

ワークショップ (1) 「Карнавал революции: гротеск и советская культура 1920 ? 1930-х годов」
村田真一、イチン・コルネーリヤ、グレチコ・ヴァレリー、楯岡求美

ワークショップ(2) 「ロシア文学研究の先駆者,昇曙夢を語る」
和田芳英、中本信幸、源貴志、籾内裕子、南平かおり

10月9日(日)
秋月準也 「『巨匠とマルガリータ』における「家」と「アンチ家」―ロトマンの作品解釈をめぐって―」
石原公道 「ビートコフは何処に?」
小澤裕之 「オベリウ以前のハルムスの詩学」
平賀雄 「イサーク・バーベリ『騎兵隊』における登場人物:作品と日記との間」
古川哲 「『幸せなモスクワ』における身体毀損―プラトーノフにおける身体・空間把握の変遷」
中堀正洋 「異教神ヴォロスの月神としての一機能」
塚田力 「アレクサンドル・ブロークと古儀式派:『十二』における救世主の呼称をめぐって」
福安佳子 「ロシア語命令法における命令動作の動作主― 『イワン・デニーソヴィッチの一日』の中で―」
村越律子 「命令文とモダリティ」
世利彰規 「ロシア語の間接話法におけるde dictoのモダリティ」
越野剛 「ナポレオン戦争におけるマロース(冬の寒さ)の表象」
山下大吾 「『エヴゲーニイ・オネーギン』における西洋古典―散文をめぐる「抒情的逸脱」を中心に」
高橋知之 「描かれない夢―1840年代のドストエフスキー作品について」
坂中紀夫 「『未成年』における理念の無矛盾性について」
加藤純子 「アレクセイ・カラマーゾフの瞑想と「糸」の比喩:日本的概念「縁」との対照」

ワークショップ(3) 「いま,ソ連文学を読み直すとは」
野中進、安井亮平、中村唯史、岩本和久、平松潤奈

詳しくはこちら
 ↓
http://yaar.jpn.org/%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/?action=common_download_main&upload_id=65


日本比較文学会第49回東京大会(東京外国語大学)

10月15日(土)
総合司会: 沼野恭子、平石典子
開会の辞: 井上健
会場校挨拶: 亀山郁夫

研究発表
塚本利明 「『三四郎』における「浪漫的(ロマンチック)アイロニー」」
成谷麻里子 「自由な詩とは何か―日仏の自由詩生成期において志向されたもの―」
内田真木 「有島武郎・森本厚吉のリヴィングストン理解について」
羽鳥杏子 「久生十蘭と函館」
市川しのぶ 「ジョリス=カルル・ユイスマンスと田山花袋―La-haut と『残雪』を中心に―」
籾内裕子 「芥川龍之介とトルストイ―《Karma》受容をめぐって―」
須藤直子 「能「葵上」とエウリピデス「メデイア」の比較可能性」
杜翔南 「中国における日本新感覚派―その受容と変容―」
劉岸偉 「周作人と『順天時報』」

シンポジウム 「第二次世界大戦前夜のパリで―横光利一、大澤壽人、藤田嗣治を中心に―」
司会: 小林茂
パネリスト: 中村ともえ、生島美紀子、林洋子

hikaku.png

ロシア・東欧学会 JSSEES  2011年合同研究大会(東京国際大学)

文化に関するシンポジウムは以下のとおり。
10月23日(日)
シンポジウム 「ソビエト崩壊20年―生活の変化、思想の変容―」
司会:三浦清美
研究報告
本田晃子 「フューチャー・フォビア?―ポスト・ソヴィエト建築の諸相―」
神岡理恵子 「アンダーグラウンドからグローバル・サバイバルへ―ロシア現代美術の現場から―」
岩本和久 「ポスト・ソヴィエトのロシア文学」
討論: 沼野恭子

2011年9月19日

セルゲイ・シャルグノフ 『写真のない本』

sergei%20shargunov.jpg


モスクワの「ビブリオ・グロブス」という書店に行ったら、店を挙げての「イチオシ図書」だったのがこの本。
Сергей Шаргунов セルゲイ・シャルグノフ 『Книга без фотографий 写真のない本』(アリピナ・ノンフィクション社、2011)である。

シャルグノフは1980年生れ。モスクワ大学ジャーナリスト学部の学生だった2001年 『Малыш наказан 子供は罰せられる』 という中編で、新人のための文学賞である「デビュー賞」を受賞した後、作家、評論家として活躍している。政治活動にも携わっており、2007年より野党「Справедливая Россия 公正ロシア」の幹部を務める。『Птичий грипп 鳥インフルエンザ』はロシアの若者の政治活動を描いた本だという。


foto%20c21544-s-shargunov-4783.jpg


端整な顔立ち、華麗な経歴、さらに新刊が自伝的な内容とくれば話題にならないはずはない。しかし、この『写真のない本』はまったく浮ついたものではなさそうだ。日本に戻ってくる飛行機の中で拾い読みしただけだが、抑制のきいた語り口で過去のエピソードを鎖のように連ねたシャルグノフの方法には、何よりも「誠実」という言葉が似合うような気がする。係争地へ出向いた経験にもとづく「チェチェンへ、チェチェンへ!」という短編がよかった。

2001年に『新世界』誌に寄せた評論でシャルグノフは、ペレーヴィンやソローキンらの「ポストモダニズム」も大衆文学もほとんど評価せず、すでにはっきりとオーソドックスな純文学的「リアリズム」の復活を明言していた。こんなふうに。

「結局のところ、根も土壌も昔のままなのだ。土壌はリアリズム、根は人々である。
目を凝らしてみよう。華やかな色とりどりの中にリアリズムの蕾がある。リアリズムは芸術の庭におけるバラである。
私は呪文のように繰り返そう。新たなリアリズムと!」

いい意味でロシア文学の伝統を受け継ぐ「大物」作家に成長するのではないか。そんな予感がする。
今回のモスクワ出張の最大の収穫であった。

2011年9月23日

大江健三郎さんを支持する

cropped-top1.jpg


先日9月19日、東京の明治公園で「さようなら原発集会」が開かれていたことを知った。
約6万人もの人が参加した(主催者発表)と聞いて驚くとともに、マスコミの扱いがあまりに小さいことに怒りをおぼえる。

大江健三郎さんが呼びかけ人のひとりだ。
大江さんは、フランス文学者、渡辺一夫の言葉を少し変えて引用し、おおよそ次のように語ったという。

「狂気(原発による電気エネルギー)なくしては偉大な事業は成し遂げられないと言う人々もいるが、それは嘘である。狂気によってなされた事業(原子力によるエネルギー)は必ず荒廃と犠牲を伴う。真に偉大な事業は狂気に捉えられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって誠実に地道になされるものである」
 
原発エネルギーがなければ大停電が起こるとか日本経済が崩壊するといった不気味な予測は、どれほど狂気に似ていることだろう。
今こそ狂気に踊らされず冷静に未来を考えるときではないのか。今こそヒロシマ・ナガサキの記憶を心に深く留める国民として脱原発の道を探るときではないのか。今こそイタリアのように国民投票をするときではないのか。
そして、今こそ私たちの誇るノーベル文学賞作家の言葉に耳を傾けるときではないのか。

2011年9月25日

アルセーニイ・タルコフスキー詩集 『白い、白い日』

Арсений Тарковский アルセーニイ・タルコフスキー (1907-1989)の素敵な訳詩集が刊行される。前田和泉訳、鈴木理策写真 『白い、白い日』(Ecrit、2011)。


img_tarkovsky_01.jpg


詩人アルセーニイ・タルコフスキーは、現代ロシアの生んだ最も優れた映画監督アンドレイ・タルコフスキー(1932-1986)の父。アンドレイの映画 『鏡』や『ストーカー』や『ノスタルジア』の中では、父アルセーニイの詩がいくつか朗読されている。

本書は、じつにセンスのいい、しかも贅沢な詩集である。厳選されたロシア語作品が前田和泉さんの美しい日本語の「詩的言語」に変身し、そこに鈴木理策さんの素晴らしい写真が添えられているからだ。詩と写真の絶妙なコラボレーションによって、アルセーニイ・タルコフスキーの哀しみに満ちた抒情の本質がよく伝えられている。雨に濡れたライラックのようにしっとりとした感情に浸ることができる。
集中私がいちばん好きな「初めの頃の逢瀬」の冒頭部分を原詩とともにあげておこう。『鏡』で朗読されている作品である。

Свиданий наших каждое мгновенье
Мы праздновали, как богоявленье,
Одни на целом свете. Ты была
Смелей и легче птичьего крыла,
По лестнице, как головокруженье,
Через ступень сбегала и вела
Сквозь влажную сирень в свои владенья
С той стороны зеркального стекла.

逢瀬の一瞬一瞬を
僕らは祝福した、まるで神の顕現のように、
世界にただ二人きりで。君は
鳥の羽よりも大胆で軽やかだった、
階段を、まるでめまいのように、
一段飛ばしで駆けおり、そして導いてくれたのだ、
濡れたライラックの茂みを抜け、自らの領地へと、
鏡のガラスの向こう側の。    (前田和泉訳)

なお、来る10月8日(土)15:00より 馬喰町ART+EAT で、刊行記念イベントとして、訳者と滝本誠さんのトークショーが予定されている。詳しくはこちら。
 ↓
http://www.art-eat.com/event/?p=1591

2011年9月29日

ギャラリー「ナシチョーキンの家」

モスクワで訪ねたギャラリーのひとつ「ナシチョーキンの家」で面白い展示を見た。
ギャラリーの名の由来は、建物が、プーシキンの友人で芸術のパトロンだったパーヴェル・ナシチョーキンの屋敷だったこと。プーシキンは最後のモスクワ訪問の際、この家に滞在したという。
1994年に美術館としてオープンして以来、Михаил Шемякин ミハイル・シェミャーキン、Олег Целков オレーグ・ツェルコフ、Эрнст Неизвестный エルンスト・ネイズヴェスヌィら亡命して国際的に認められたロシア出身の現代アーティストたちの作品をいち早く精力的に紹介し「ロシアに取り戻し」てきた。

私が行ったときは、ギャラリーの創設者 Наталья Рюрикова ナターリヤ・リュリコワの「一族」の作品を集めた「Семейные Ценности 家族の価値」展が開かれていた。


Nashchokin.JPG


映画『罪と罰』(1969)や『赤と黒』(1976)などで美術を担当した映画美術デザイナー Петр Пашкевич ピョートル・パシケーヴィチ(1918-1996)を初めとする7人のアーティストは、ひとつの家族・親戚を成しているのに世代も作風も違い、それぞれとても個性的だった。

ピョートルの息子で画家の Андрей Пашкевич アンドレイ・パシケーヴィチ(1945-2011)は、1980年代後半のペレストロイカ期に 「Политэкология 政治エコロジー」というシリーズで一連の作品を描き、当時の社会の混乱を独自の視点から写しとった。そのうちの1枚が下。
イコンを運び去るワシが、眼下に急流を見下ろす位置で描かれている。双頭のワシが帝政ロシアの国章だったことや、槍で竜を退治する聖ゲオルギーが古来モスクワの庇護者とされてきたことを思い出せば、ワシが、どこに流れ着くかわからない川=ロシアから、聖ゲオルギーのイコンを救い出す図は、あまりにわかりやすすぎるような気もするが、象徴性、寓意性、ダイナミックな構図は興味深いと思った。他にゴルバチョフやプーチンを「人間的」に描いた作品もあるこのシリーズには、改革への期待も希求も失望も込められているという。


Andrei%20Pashkevich.jpg


ピョートルの孫にあたる画家の Анастасия Рюрикова-Саймс アナスタシヤ・リュリコワ=サイムスは1969年モスクワ生まれ。1993年から舞台美術デザイナーとしてアメリカで活躍しており、これまでに 『巨匠とマルガリータ』や『父と子』などの舞台を手がけたという。
画家としての才能もなかなかのものだ。下は『神の夢』と題する彼女の作品で、私はいたく気に入った。


Anastasia%20Riurikova-Saims.jpg

About 2011年9月

2011年9月にブログ「沼野恭子研究室」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2011年8月です。

次のアーカイブは2011年10月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。