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雑感 アーカイブ

2010年4月20日

たれもがすなるブログといふもの…

 …われもしてみんとすなり(いま頃?)、というわけではないけれど、ホームページの更新は頻繁にはできないので、手軽にできる情報発信のツールを、というわけでブログを始めようと思い立ちました。
 だが、入り方がわからない。いまのところ、プールの縁に立って、さてどうやって泳ぎだそうかな、と迷っている状態です。
 HPの更新を待てないお知らせとか、耳寄りな情報、ちょっと公開しておきたいこと、とかを掲載しようと思っています。よろしく。しかし、いったい、誰に向けて書くのだろう???それがわからない…。

 ついでに、こういう人に、わたしはなりたい?

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2010年5月13日

極私的災厄のあとで

 この2ヶ月分の仕事上(はばかりながら「研究」ということですが)の覚書が、どうやらWindowsの自動更新のあおりでぶっ飛んでしまい(Wordファイルが開けなくなり、処理しているうちに真っ白になって消えてしまった)、腹いせ(?)に、これからもうどんどん公開して行こうという気持ちになりました。世界史にとってキリスト教とは何だったのか、とか、どういう倒錯からグローバル世界はこんな状況になってしまったのか、とか、いろいろ。
 それと、いわゆる本職に関して言えば、フランス思想というのはフーコー、ドゥルーズ、デリダだけではないし、ポストモダンなどと呼ばれる流れとは別に、現代世界の諸問題の根源に迫るさまざまな仕事が出てきています。それも、わたしのような者の関心とじかに切り結ぶかたちで。今までノートに眠っているだけだったそういうものも、できたら紹介してゆきたいと思っています。
 果たされない予告になるかも知れませんが。

2010年6月 9日

静岡にペソワの響き

 今年のShizuoka春の芸術祭(SPAC静岡舞台芸術センター主催)に、フランスから高名な演出家クロード・レジ(Claude Regy)が参加している。出し物はフェルナンド・ペソア作『海のオード(讃歌)』。いくつかの偶然があって(ということはほとんど必然を構成して)、この舞台のために短い文章を書くことになった。最近、オリベイラの二つの作品『ノン、あるいは支配の空しい栄光』と『コロンブス、永遠の海』を観たこともあり、ユーロ危機の話題とは別に、ここしばらく私的にポルトガルがあつい。
 以下は 『劇場文化』に寄稿した文章の一部。

         *    *    *

 ポルトガルがギリシアと並び称されるのは、ともに海の国だという理由からだけではない。それ以上に、二つはともに起源の地、発端を開いた地でありながら、近代という文明的時間から逸脱してしまった国だからだ。

 ギリシアは古代世界を開き、後のヨーロッパを準備したとされる。けれども、その後ローマに呑み込まれ、やがてキリスト教化して千年を閲し、さらに数百年イスラームの支配下にあって、長い不在の後、やっと一九世紀後半に遺跡の上に帰還した。一五世紀以来、夢に誘われて大海に挑んだポルトガルもまた、ヨーロッパの未来を切り開きながら、後に続いた計算高い機械的近代に追い越され、いつの間にか歴史の後衛に取り残されてしまった。その運命的なアナクロニズムにおいて、二つの国はヨーロッパの東西の端で響きあっている。

 そんな国の近代を身に引き受け、夢の断片のようにいくつもの異名の詩人を生み出したフェルナンド・ペソワは、故国の独特の歌謡ファドについてこう語っている。

「あらゆる詩は自分の魂に欠けているものを反映する。だから哀しい民族の歌は陽気で、陽気な民族の歌は哀しい。…力強い魂はすべてを運命に帰す。弱い魂だけが自らの意思などという存在しないものに期待する。ファドは力強い魂の倦怠であり、信じていたのに自分を捨てた神に対して、ポルトガルが向ける軽蔑の眼差しなのだ。」

 だとしたら、ペソアの生んだ詩人アルヴァロ・デ・カンポスという『海の賛歌』の作者は、その「力強い魂」を体現するひとりなのか。

 ペソアはまた言う。「森羅万象の唯一の隠された意味は、いかなる隠れた意味もないということだ。」その「剥き出し」に耐える力強い魂は、いかなる意味にも解消されない生の冒険や、胸躍る出来事や、悲惨や残酷や無慈悲を、そのままに味わい尽くす。

 (…)

 「弱い魂だけが自らの意思などという存在しないものに期待し」、かつそれで宇宙のすべてを捉えようとする。けれども「力強い魂」は、身を安全な上空において海や陸やそして世界を俯瞰しようなどとはしない。朝の港に立ち、出入りする船に魂を託し、その向こうに開ける海の無限に身を開き、そこに起こるすべての出来事を受けとめて噛み砕き、自らその出来事となる。船を動かす巨大な装置と魂の歯車とを共鳴させ、見渡すかぎりの海原にせり出して、波頭をまともに浴びながら、けっして天空に舞うことのない、それでいて宇宙を満たす力強い大海の歴史的生、その放埓な充溢を『海の讃歌』は歌い上げる。

 現代最良の文学テクストを演出し続けてきたクロード・レジが、スイスの怪優ジャン=カンタン・シャトランとともに上演するという。薄闇の舞台のなかから、どんな時間の獣の慟哭が響きだすことか、いまから楽しみである。

*ちなみに、この芝居を独演するジャン=カンタン・シャトラン(Jean-Quentin Chatelain)は、わたしが生涯でただ一度フランスで舞台に立ったときの、もっとも身近な〝共演者〟だった。上演は6月11日から3日間。Shizuoka春の芸術祭2010『彼方へ、海の讃歌』

2010年6月16日

静岡にペソワの響き(続き)

 クロード・レジ演出、ジャン=カンタン・シャトラン演じる『彼方へ、海のオード』は、港の桟橋を喚起する小さな装置に、そこをわずかに明るませる照明があるだけの、きわめて簡素な舞台だった。朝の港のはずだが、夜明けの光だとは思えない。その桟橋にシャトランが立ち、アルヴァロ・デ・カンポスの詩を朗読する。

 いや、これは朗読ではない。芝居なのだ。だが、何が〝演じ〟られているのか? 身振りはない。足を少し広げて突っ立ったまま、ほとんど動かない。動きといえば、呼び掛けや唸り声を遠くに響かせるとき、ゆっくりと腕を上げて口に添えるぐらいだ。

 ペソアの詩は、朝の港に立って船の出入りを眺める「私」が、その光景に身を預けるように、海の果てしなさに誘われるまま広大な夢想を紡ぎだすが、舞台に響くのは、朝の爽やかさや明るい光のまばゆさとはまったく違った、低く抑制した澱むような声である。

 原作の詩を読むときに響くのは、きっとそういう声ではないだろう。言葉に声を与える、詩の声を再現するというのが朗読だとしたら、これは詩の朗読ではない。また詩の語りに振りをつけているのでもない。たぶんそこが、この芝居の要所なのだろうが、詩の言葉が生きた言葉として生まれ出るべく、もごもごと静かに滾る、その発生の喫水線あたりの、しかし不退転の呟きの溢出を演じているといった印象である。

 その〝音域〟は予想外で、調子も抑揚もその後ほとんど変らない。詩が、海の男たちの冒険の夢想へと広がってゆくときも、あらあらしい航海の様子や、残酷な行為の数々が語られ、そのうえ、みずからはその犠牲者の身に立っていると独白するときにも、その語りの声はいささかもパセティックにはならない。むしろ、抑えた〝音域〟にとどまり続ける。しかし、夢想の中身の強烈さは、それを言葉にし口にのぼせることだけで、たいへんな靭力を要求するようだ。

 夢想の山場を過ぎたあたりで、実際にシャトランの体力は限界に達する。ただ、立って語り、ときに遠くに呼ばわり、ゆっくりと語り続けるだけなのだが、それだけで十分に力を汲み尽くしてしまったかのように。それが、演技というより、身をもって言葉の沸き出でる場となりながら、肉の身でこの夢想を生きるということなのだろう。

 そんなふうに、ペソア(アルヴァロ・デ・カエイロ)の「海のオード」は上演された。破天荒な夢想を語りだす言葉の生まれ出る現場を、動かぬ肉体で演じるのに立ち会ったとでも言おうか。


2010年6月28日

ちょっと沖縄がらみで私事を…

 先週はちょっときつかった。結果的にできてしまったスケジュールのせいだが、21日(月)の午後フランスから帰ってきて掃除・洗濯、翌日はさっそく午後に講義ひとつ(学部「戦争と経済」)とゼミ(「チョー哲学」)、翌日は3つ会議と学務雑用。木曜は明学仏文大学院の非常勤と、その前に信濃毎日新聞のインタヴュー、夜は朝日カルチャーセンター(「医療と人間」)。その間、時差ぼけで毎日寝られず、さすがにこの日は疲れて、おかげで金曜は午後最初の大学院の授業を跳ばしてしまった(学生には恐縮)。それでもその後のドクター・ゼミはみっちり7時までやった。そして土曜は、早稲田大学メディア・シティズンシップ研究所(伊藤守所長)主催の沖縄をめぐるシンポジウム(田仲康博『風景の裂け目、沖縄、占領の今』の出版を期に組まれたもの)。

 フランスでの用事はまったく別のものだったが、帰国直後のこの週は沖縄づいていた。信濃毎日のインタヴューも最近の沖縄をめぐる政治状況に関わるものだった。そして今日28日(月)も、沖縄がらみでひとつ打合せがあった。写真家の比嘉豊光が、去年の秋から那覇周辺の再開発の現場でつぎつぎに出てくる元日本兵の骨の写真を撮っている。普天間基地移転をめぐって沖縄がクローズアプされるのに合わせるかのように、骨たちが開発現場で「発掘される」というきわめて受身なかたちで自己主張を始めたというわけだ。それを公共的にどう可視化するか、という話だ。

 それについてはいずれ書くとして、ここでは、わたしと沖縄との関わりについて書いておきたい。というのは、それが信濃毎日の取材で最初に聞かれたことでもあったからだ。

 わたしは沖縄と私的な結びつきがあるわけではない。ただ、70年前後に大学にいた世代として、当時、日米安保改訂と抱き合せで最大の政治的イッシューだった沖縄には無関心ではいられなかった。その沖縄とはどんなところなのか見てみようと思い、「本土復帰」によってビザなしで渡航できるようになった頃、そして「復帰祝い」の海洋博でサンゴ礁などが荒らされる前にと、訪れたのが最初である。だが、そのときは本島はほとんど素通りし、2週間ほど先島ばかり(石垣から波照間、与那国まで)回った。

 その後、友人が琉球大に短期間勤めた折に、「慰問」を口実にはじめて本島を訪れた。80年代の半ばだったと思う。

 いわゆる「南島」と本格的に関わるようになったのは90年代の前半からである。当時勤めていた明治学院大学の同僚に宗教学者(あるいは日本思想史)の阿満利麿さんがいた。阿満さんには多くのことを学ばせてもらったが、とりわけ名著『宗教の深層』(ちくま文庫)の重要なトポスになっている宮古島に連れて行ってもらう機会があった。そこで、祥雲寺の住職岡本恵昭師や、当時島に住み込んで祭祀の写真を撮っていた比嘉康雄さんと知己をえて、島の人びとの生活や祭祀についてさまざまなことを学ぶことができた。それは当時「世界史論」について考えていたわたしにとって、大いに啓発されるところの多い体験で、その後何度か宮古島に通うことになった(このことは『世界史の臨界』のエピローグに直接反映されている)。

 もうひとつ、重要なきっかけがあった。それは95年の少女暴行事件を機に沖縄で8万人の県民大会が開かれた後の那覇で、雑誌『EDGE』を発行していた仲里効や田仲康博との出会いである。仲立ちをしたのは鵜飼哲だった。この雑誌は、それまでのどんな既成路線にも収まらない手触りで「デープな沖縄」を写し出す、斬新で魅力的な作りだった。

 そんなとき、沖縄に詳しいある編集者に教えられて、クリス・マルケルの映画『レヴェル5』を観る機会があった。遠い時と場所を隔てて、インターネットの時代に沖縄戦にどうアプローチするかという、きわめて現代的かつ普遍的なテーマを含んだ作品だった。ほどなくフランスにクリス・マルケルを訪ねたが、彼もこの作品が沖縄で上映されることを望んでおり、さっそくその準備にとりかかった。

 このとき、こちらの意図を受け取って、那覇の前島アートセンターでの上映会を実施してくれたのが仲里だった。これは、当時わたしが移ったばかりの東京外大で「歴史と記憶」を問い直すという科研プロジェクトが回っており、その半分を担って沖縄を軸に共同研究を組んでいた上村忠男さんの企画に、わたしが合流するというかたちで行われた。

 そして半年後、今度は『レヴェル5』に加えて、高嶺剛『夢幻琉球、つるヘンリー』と、まだ試作段階だった比嘉豊光+村山友江『島クトゥバで語る戦世』の最初のヴァージョンを東京外大で上映した。それが2001年2月。それ以来、毎年、仲里効や比嘉豊光の協力を得て、東京外大で沖縄関連の企画を行ってきた。それがちょうど「9・11」後の世界状況の激変と重なることになり、「テロとの戦争」体制のもとでぶり返された戦争や「占領と民主化」といったテーマのなかで、沖縄の位置やあり方がそのつどとり上げ直され、『沖縄、未来のドキュメンタリー』(2003年)、『島クトゥバで語る戦世』6時間版全編上映(2004年)、『沖縄・暴力論』(2007年)などの企画として実施されてきた。

 ただ、東京外大で続けてきた一連の企画は、同僚の中山智香子、米谷匡史、真島一郎(それに学外からとくに土佐弘之)らが、それぞれのひとかたならぬ思い入れをもって支えてくれ、その参加・協力なしには実現できないものだった。

 これがおおよそのところ、わたしと沖縄との関わりである。

 いくつかの企画は記録を作った。『沖縄・暴力論』はその後未来社で刊行したが、あまり知られていないものに、『EDGE』10年を記念して仲里、田仲、鵜飼を招いて行った討論会の資料付き記録『グローバル・ボーダー沖縄の今』(2007年)がある。残部あり。

 追記)ちょうど今日(6月28日)の『東京新聞』文化欄に、「〝普天間基地移設〟という問題の罠」という、田仲康博のコンパクトで切れのいい論評が掲載されていた。

 冒頭の「骨」については、8月に沖縄の佐喜真美術館で比嘉豊光写真展「骨からの戦世」がある。

2010年7月 5日

わたしが「朝日」に愛想を尽かしたわけ

 参院選が近くなった。菅内閣は、鳩山前首相の〝置土産〟になった「日米合意」の踏襲を早々と表明し、消費税論議が参院選の争点とされて、沖縄はまたもや置き去りにされたかに見える。そんな状況に「ちょっと待て」と言うかのように、東京新聞は7月1日から3日間、社会面で参院選特集として「沖縄に映るニッポン」という連載を組んでいた。

 1回目が「基地は地元を潤さぬ、見返り振興策に広がる〝ノー〟」、2回目は「反貧困、怒りの結束、年金など全国一律、負担重く」、そして3回目は「基地固定化に焦り、本土はもう忘れたのか」。この間の沖縄の問題の要所を的確に取り上げている。

 この間、時事通信、信濃毎日と、首相交代と選挙がらみの取材が続いたなかで、朝日新聞のある記者からアルジャジーラに関する取材を受けた。そんなことから思い起こしたのが次の〝事件〟である。

 2002年9月、「9・11後1年」を機に、この事件とその影響を振り返るインタヴューの依頼を朝日のある編集委員から受けた。その内容は数日でゲラになったが、折から小泉電撃訪朝があり、2週間後に蓮池さん夫妻らが帰国して日本が騒然となっていた。

 ゲラを送ってきたとき編集委員は、この時期に出すインタヴューだから「拉致問題」への言及も付け加えてくれ、という。これは日本の「9・11」かもしれないから、と。わたしはまったくそうは思っていなかった。蓮池さんらが拉致議連や「救う会」などに囲い込まれて、「対北朝鮮強攻策」や日本の戦争体制作りに利用されるに違いないと思ったから、このことに関して、「国家によって運命を翻弄された人びとを、ふたたび国策や政争の具にしてはならない」とだけ付け加えた。件の編集委員は、もっと明確に北朝鮮を非難してほしい、というような要求をしたが、わたしは、いや、これだけで十分だ、とそれ以上の加筆を拒んだ。数日後、彼から電話があって、記事は編集会議でボツになったという。

 それからしばらくして、ある会合で大学のクラブの1年先輩だった人物に出遭った。朝日の大阪の社会部長をしているという。そこで、「最近の朝日の報道はナンだ、フジ産経と変わらないじゃないか」、と文句をつけると、彼は「だってアッチの方が正しかったんだもん」と言う。これにはあきれてしまった。

 朝日の連中は、ほんとうに「拉致」などないと思っていたのだろう。そしてそれを北朝鮮が「自白」すると、フジ産経が「正しかった」といって、そのキャンペーンに追従するようになる。その結果、安部政権の誕生や、教育基本法の改悪その他の改憲路線整備に道を開くことになったのだ。

 この頃、ヒステリックなメディアと世論の合唱のなかで、もっともまともなことを書いていたのは毎日新聞で「時代の風」を担当していた作家の高樹のぶ子さんだった。

 ちなみに、それ以来、いっさい朝日からの依頼はなくなった。先日、アルジャジーラの件で取材に来た記者は、もちろんそのことを知らなかった。

2010年7月23日

iPad なんか怖くない!

 電子ブック元年とか言われて、業界が浮き足立っている。多少なりとも文筆を業とする人たちも無関心ではいられないだろう。

 そういえば去年あたり、たしか筑摩書房他の出版社が、グーグル・ブック検索をめぐる訴訟について、日本の著作権者も知らぬ間に同意扱いになる云々についての注意喚起書を送ってきていた(リンク先参照)。世界中の図書館の書籍を勝手にスキャンして全文を検索閲覧できるようにするというグーグルの〝大きなお世話〟計画は、〝便利なサービス〟を開拓して何が悪い、というカリフォルニア・シリコンバレー的〝楽天性〟に発しているともいわれるが(そうか、〝楽天〟とはここから出ているのか?)、〝楽天性〟などとはとんでもない。グーグルマップの景観が見える〝ストリートビュー〟とかいうものでもそうだが、世界中の〝全て〟の情報、〝全て〟の視野をあらかじめ収集登録して、〝消費者=利用者〟に提供するという発想は、自分には何でも際限なくできるとてんから思い込んでいる(できないと〝自由〟がないといって泣き喚く)幼児の発想である。けれどもこの〝幼児〟には、巨大資本も先端技術もあるから手がつけられない。そんな〝幼児の道楽〟の巻き添えにはなりたくないが、この〝カリフォルニア・ベビー〟はそれを〝よいこと〟だと思ってやり続けるから始末が悪い。

 じつはこのような妄想は、かつてヨーロッパ人が〝未知の大陸〟を〝発見〟して、そこの住民に何の相談もせずに〝アメリカ〟という名を勝手につけ、あげくにそこに〝所有権〟を設定して、そんなことを知らない連中を追い出して、とうとうそれを自分たちのものにしてしまったという歴史を思い起こさせるものだ。いまや地上の形あるものについては手を出し尽くしてしまったからといって、今度はヴァーチャル世界まで作り出し、それをあらかじめ自分たちの手元に一元化して、皆をそこに依存させそれで商売をしようとは、まったく〝アメリカ人〟というのは懲りない連中である。

 しかし、iPad なんかこわくない!
 つい先日のニュースで、日本で発売の始まったiPad が実はこういうところで売れている、というルポをやっていた。パソコン教室がiPad の講習を始めたら、お客さんのほとんどは高齢者だというのである。もちろんこの話は、若者や勤め人がパソコン教室なんかに通わない、という初期条件を入れて受止める必要がある。とはいえ…。

 タッチパネルで指を動かして実感操作すれば、新聞も簡単に拡大して見られるし、本も自在にワイド版だ。ああ、これならメガネをかけなおさなくてもいい! 料理のレシピも写真つき、盆栽のカタログをみるのも簡単。そのうえ、ゲームを開けば、ヨチヨチ歩きの孫もよってきて、あやさなくてもいっしょに遊べる。補聴器と杖とあわせて三種の神器である。そうか、iPad は介護用品なんだ、と納得した。

 電子書籍なんかこわくない。紙媒体だろうが電子端末だろうが、まともなものが〝読める〟なら何でもいいだろう。こわいのは〝頭を切りつめる技法〟だ。いいかえれば、ものを考えなくさせるあらゆる方策だ。こうなると救いがない。

 ここで、テレビとコンピューターは大きな役割を負っている。洗濯機や冷蔵庫のたくいは、普及するととりわけ女性の家事労働を楽にし、人びとに時間と余裕を与えることになった。ところが、八〇年代以降の新しい家電製品は、カラー・テレビとかハイビジョン、パソコンに携帯電話と、必需品ではないのに買わされて、そのうえ人の時間を食うおかしなものばかりである。とくにパソコン関係は、年々CPUの性能をあげ、そのうえ必要もないのにOSのヴァージョン変更をして、定期的に新しいものを買わせられ、そのたびにソフトや周辺機器の設定のしなおしとか、買い換えとかをさせられて、他に選択の余地のない状況のなかに人びとを追い込んでゆく(それに、OSはチョー独占企業だが、Windows XP から Vista, 7 への切り替えが進まなくなったというのは、このサイクルがもうほぼ飽和状態に達しているという兆候ではあるが)。

 そうして、こんなことまでできるようになったと、人間の手間や工夫の余地を削り取り、それが便利だ、シンポだと思い込ませて、新しいシステムに慣れる(馴致される)よう仕向ける。その結果が、きみ~、もう覚えなくたって、自分で考えなくたって大丈夫だよ、今まで頭に入れていたものはみんな外部のハードディスクに入れておけばいいし、インターネットで検索すれば答えはなんでも出てくるよ。もう、手間隙かけて考えたり工夫したりする必要はないんだよ。そんなことより、楽して楽しめ。こうして人間は技術によって、どんどん〝解放〟されるんだから。というわけで、人はますますものを考えなくてよくなる。

 その一方で、PRというものがあり、テレビのコマーシャルから町の大看板から巨大ディスプレーまで、ほとんど環境全体がPR〝環境〟になってしまった。その〝環境〟に煽られて、世の中の流れについていかないと排除されたような気分になる。いや、実際コミュニケーション環境からは除外されるのだ。

 そういったことが、〝文明の進歩〟として〝自然〟に展開しているのでないことは、注意していないとわからない。けれども、パソコンを普及させ、米軍用のインターネットを〝民間〟に開放し、〝情報革命〟を引き起こし、〝IT産業〟をかつての自動車産業のように振興する、というのは明確な政策的誘導によって行われている。それも、そうしないと経済競争について行けないから、グローバル化に乗り遅れるから、というのではなく、表に出にくい、ある方向付けによってなされている。

 戦略思想家で〝速度〟による空間変容の考察で知られるポール・ヴィリリオは、1970年代以降の都市空間、社会空間の変容に際して、「三極委員会」の果たした役割にしばしば言及している。「三極委員会」とは73年に始まった米欧日(後に東アジア)のエキスパートが、世界の諸問題や展望について〝民間〟の機関だが、ここではひとことで言って〝世界の統治〟が話し合われており、その方向付けがなされている。

 話題が広がってしまうので、今回はこのあたりでとどめるが、〝頭を切りつめる〟技法やインボウに対してはどこまでも抵抗したい。そう、望むらくは、iPadを介護用品化するようなやり方で。

 しかし、宿題は増えるばかりだ。電子書籍について、70年代の経済社会原理の転換について、頭を切りつめる技法について、PRの意味について、とくに子供向けPRの犯罪的役割について、三極委員会について…。これらも、追いつくかぎりおいまとめて行きたいと思っている。

2010年8月 2日

8月初頭にあれこれ…

 ブログを始めた以上、なるべく日をあけずに新しい内容を追加したいと思っているが、思うにまかせない時期もある。その埋め合わせで近況および雑報を。

 8月に入ってもまだ大学に何日か出なければならないが、この時期になっても学務から解放されないのは、文科省が1科目あたりの半期の授業回数をいつからか15と決めているからだ。年度初めや大学行事や連休で授業ができない日があることを考えると、これは4月2週あたりから始めてほぼ7月いっぱいということになる。

 日本は7月半ばの梅雨明けから本格的な暑さがきて、それがだいたい8月いっぱい続く。だから夏休みがあって、昔はこの季節のリズムが学期をリズムになっていた。ところが、何を基準にしてか、文科省が勝手に1学期15コマと決め、各大学はそれを命令として受け取って、酷暑の時期に〝冷房をガンガンまわせばできるだろう〟とばかり授業をやらせる。

 何年か前にいわゆる〝法人化〟というのがあったが、大学には何の自主性もない。ちなみにこれは私立大学でも変わらない。コマ数が多ければ教育内容が充実するなどと誰が考えているのだろう。あるいは〝教育サービス〟を目に見える形でやりなさい、ということなのか。もちろん、コマ数だけではない。いずれにしても日本の大学はいまボロボロ、諸悪の根源はいつも文科省にあるのだが、この役所だけがいつも責任をとらない。

 ただ、どんなに環境が悪くなっても、生き物はいつも生きられる余地を作り出して生きてゆく。とくに若い生き物は。大学がそれでももっているとしたら、そういう知的生き物たちの生きようとする本能と智恵によってである。7月最後の土曜日に、今年度初の「オイコス再考」科研の研究会を行ったが、そこに参加してくれた若い研究者たちの話を聞いて、そんな思いを強くした。

 先週はまた、沖縄でこの8月に写真展が開かれる比嘉豊光の「骨からの戦世」に関する原稿を入稿した。那覇の「新都心」の再開発地域は、かつての沖縄戦最大の激戦地跡で、ショベルカーが動くたびに骨が出てくるようなところだが、去年の秋から比嘉がその写真を撮り、65年目にしてようやく「黄泉」から帰った骨たちのイメージをわれわれに届けている。この原稿は『世界』9月号(8月8日あたりの発売)に掲載される。この号のグラビアで比嘉の写真の一部が見られるはずである。

 これについては、6月23日(沖縄戦終結の日)にすでに那覇でシンポジウムなどが開かれたが、この骨が日本兵の遺骸である以上、むしろ8月15日を問い直すべきではないか、ということで8月11日から23日まで宜野湾の佐喜真美術館で展覧会が開かれ、15日にシンポジウムが行われる(わたしも参加)。なお、東京では10月末に明治大学で写真展が行われると聞いている。

 さて、ここ数日は学生のレポート読みに費やされる。戦争を論じた授業の課題のひとつにP・W・シンガーの『戦争請負会社』の抜粋を出したところ、学生の〝食いつき〟がいい。ここでも〝自由主義〟的統治が正当化の論理となっている。戦争関連事業の多くも〝民間活力〟を生かす領域にされ、国家が負担と責任を逃れる一方で、破壊や殺人やその補助がりっぱな〝営利事業〟として推進されるようになる。こういうのは、〝破壊や殺人〟が〝犯罪〟にならないような状況、つまりは〝罰されることなく殺しうる〟という人間のカテゴリーがないとできない活動だが、そのために〝テロリスト〟という用語がつごうよく広められている。

 いずれにしてもそれが〝自由主義〟の領域拡大に役立っていることは確かであり、ここでも〝自由主義〟的統治思想がネックになっている。これが当面の課題である。
 

2010年8月21日

祝!沖縄・興南高校、甲子園春夏連覇

 沖縄の興南高校が甲子園の春夏連覇を成し遂げた!島袋・山川のバッテリーをはじめとして、選手全員すばらしかった。今年の東海大相模は強かったので、応援も気を引き締めてかかったが、全員、一騎当千、揺るがぬ力を発揮して強敵を突き放して圧倒した。沖縄健児ここにあり!
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©大西岳彦(毎日新聞)

 去年の秋から今年5月にかけて、普天間基地撤去・移設問題で、米軍基地に侵食された沖縄の状況に全国的な関心が集まったが、これに頬かむりする菅首相の登場によって、この問題は雑巾ででも拭取るかのようにして消されてしまった。そしてこの酷暑の夏、政治もそれを伝えるメディアも、涼しい軽井沢あたりに集まって、「政局」ネタばかりにうつつを抜かしている。

 そのなかで、沖縄を勝ち抜いてきた興南の高校生たちが、甲子園で熱闘6試合を勝ち上がり、とうとう優勝旗を手にした。その間、自衛隊制服組との懇談で、「防衛大臣って自衛官じゃないんだってね」と、あきれる無知ぶりを発揮した菅首相(シビリアンコントロールを知らないのか!)を尻目に、高校生たちは全国の耳目を再び沖縄に向けさせたのである。ただの高校野球ではない。キャプテンの我如古君は優勝インタヴューで、「今日の優勝は沖縄県民全員で勝ちとったものだと思います」と語った。そう、この言い方には特別の響きがある。かれらは「沖縄県民」なのだ。そしてその「県民」がいま立ちあがっている。

 島袋投手の家は、2004年8月に米軍ヘリが墜落した沖縄国際大のすぐ近くにあるという。その事故のとき、日本政府(小泉政権)は米軍の「戒厳令」のなかに沖縄を見捨てたが、それに対する抗議集会で、小学生代表として挨拶したのが島袋少年だったという。べつに特別な少年だというわけではない。けれども、「沖縄県民」にとっては、基地によって引き起こされるさまざまな問題は日々の生活に食い込んでいるのだ。

 そんななかで野球に打ち込み--たとえそれがアメリカ植民地に特有のスポーツだとしても--、この真夏の盛りを闘い抜いて、らちもない「政局」ネタばかりを追い回すメディアに風穴を開けて、「沖縄健児ここにあり!」を示した興南高校のメンバーに惜しみない拍手を送りたい。

2010年9月29日

比嘉慂『砂の剣』再刊

 沖縄戦のさまざまなエピソードを題材にした作品を描く比嘉慂(ススム)というコミック作家がいる。これまでの作品を挙げると
1)『砂の剣』(小学館、1995)
2)『カジムヌガタイ-風が語る沖縄戦-』(講談社、2003)
3)『美童(ミヤラビ)物語』(講談社、2007)
4)『美童物語②』(講談社、2008)
と寡作だが、1)、2)は、沖縄戦のさなかに起きた扱いにくい出来事を、たいていは事実にもとづいて、静かにしかも深く、きわめて個性的なタッチで描き出している。
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 3)、4)は、戦争期を多感な少女として生きるカマルという「美童」の物語だ。この少女の生活や、出会いや触れ合いをとおして、戦争期の沖縄の日常、その穏やかさをときに引き裂く鋭い緊張や狂気、そして人びとの傷や思いの襞の深さを、寡黙ななかにも繊細に描き出す。
 著者のことばにこうある。
「美童--少女、乙女の意/もっとも美しく輝く年代に入った少女/また小さな女の子の成長に寄せる美しさもいう。広くとらえれば女性の美しさへの憧憬/懐かしさとしても方言の会話で使われる。美しさとは特定の美形を指すのではなく/思春期の少女の持つ感受性の豊かさ、優しさの深さをいう」
 そんな「美童」の世界にもしだいに戦争の気配がおよび、やがて沖縄は、少女カマルは・・・。この物語はなお続くという。
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 三年前、安部内閣のころ、沖縄戦でのいわゆる「集団自決」についての記述を教科書から削除するという文部省検定委の決定があり、それに対して沖縄であらゆる党派を超えた抗議が沸き起こり、10万人を超す県民大会が開かれたことがあった。あまりにせわしなく情況の変化が起こるので、大方の人びとの記憶から遠のいているかもしれないが、今日の沖縄の情況(普天間基地の撤去をめぐって、もはや再び「捨石」にされることを受け入れないといううねりが高まっている)は、去年の政権交代で始まったことではない。

 その頃、沖縄戦がいろいろなところで見直され、わたしたちの外大の研究仲間も、沖縄から仲里効氏と作家の目取真俊氏を招いて『沖縄・暴力論 2007』と題する2日間のシンポジウムを行った。その準備過程で、雑誌『世界』の編集者から比嘉慂の作品を教えられ、すでに品切れになった『砂の剣』をアマゾンの古本で8千円近く払って手に入れた(その他の作品はまだ入手できた)。

 沖縄戦の記録は文書も回想も小説も映像ドキュメンタリーも含めてさまざまあるが、比嘉のマンガはまた独得の視点と感覚から、人びとの生きた出来事を登場人物たちの内面も含めて描き出していた。絵もせりふも、まったく饒舌ではなく、むしろ簡素な描写をとおして、沖縄戦のそれぞれの具体的な局面を、静かに厳しく、かつ深い優しさを込めて描き出している。マンガに何ができるのかということを考えさせる作品でもある。

 その初期作品『砂の剣』が一部を差し替えて再刊され、同時に未収録作品を収めた『まぶい』が、青林工藝舎から出版された。コミックだから読者は多いはずだと思ったが、先週の沖縄国際大大学院での集中講義のとき、学生たちに尋ねてみると、知っている学生はいなかった。ぜひ読んでみていただきたいと思い、ここに紹介する。
 
【追加情報】
*すでに一年半にわたって雑誌『世界』に比嘉慂の「おきなわ散歩」が連載されている。
*『アックス』というコミック雑誌の最新号(76号、青林工藝舎)に、「マブイ」と題した新作一編と、大西祥平によるきわめて内容の濃いインタヴューが掲載されている。
*東京外大のシンポジウム記録は『沖縄/暴力論』(未来社、2008)に収められている。

2010年11月 1日

比嘉慂『美童物語』新作について

 ブログに何か書こうとすると、つい沖縄がらみになってしまうのは時節がらだろうか…。 

 ちょうど、11月2日から沖縄県立美術館で「母たちの神--比嘉康雄展」が開かれる。比嘉康雄を知る人もそう多くはないだろう。展示会の案内から引用すれば、「比嘉康雄は、1968年のB52爆撃機の墜落事故をきっかけに、警察官の職を辞して写真家となりました。激動期の沖縄を象徴し、戦後沖縄を代表する写真家の一人と言えるでしょう。/初期には、沖縄の社会的な現状に目を向けましたが、宮古島の祭祀との出会いに衝撃を受け、琉球弧の祭祀世界―沖縄の古層に、沖縄人の生活・文化の根となる思想を求めていきました。」とある。

 この展示会についてはまた別に紹介したいが、今日、この件にふれたのは、比嘉康雄の最後の著書が、いまから紹介しようとしているもう一人の比嘉の別ジャンルの作品に重なってきたからだ。比嘉の最後の著書は久高島のイザイホーをめぐるものである。このすばらしい本には、残念ながら『日本人の魂の原郷、沖縄・久高島』(集英社新書)というタイトルがついてしまっており、そのために題名を挙げづらいのだが、そのことについては本が出版されたとき--比嘉さんが亡くなったすぐ後だ--書評で二度も重ねて指摘した。それを思い出させる一件が、つい最近、展示会がらみでなかったわけではないが、ただ、今日はそのことではない。

 先日、近作を紹介したコミック作家の比嘉慂の未発表作品が、『モーニング』で二週続けて発表された(10月28日第46号、11月4日第47号)。『美童物語』の連作で「神女(カミンチュ)」と「キジムナー」のニ作だ。わたしがこのコミック雑誌の読者だというのではないが、幸いにして『世界』編集部で比嘉の連載を依頼している担当者が教えてくれた。「神女」とは「男は海人、女は神人」、つまり男が海で漁をし、女は神々に仕えて島を守る、と言われるあの「カミンチュ」だ。「キジムナー」は沖縄の森に棲む木の精のようなものだ。高嶺剛の映画『ウンタマギルー』にも登場する。沖縄(やその近辺の島々)では、人と神々と生き物たちと自然(森と海)との交感の感覚が濃い。それがひとつの充足した宇宙のような生活圏を作り出すが、それを演出し、人びとの生活の形や枠組みを作ってきたのが、島々の祭祀だ。

 カミンチュはその祭祀を担う女たちだ。女たちには言うに言われぬ苦労があり、痛みや苦しみを抱えていて、だからこそこの世の哀しみや辛さを共有し、その心をもって神に仕える。そして神々は祈りを向けられ寿がれることによって生を得、島の守り、つまりは人びとを生かす力となる。
 比嘉慂の「神女」の舞台はイザイホーの行われていた久高島である。作品のなかでは架空の島になっているが、最後に、下敷きになっているのはイザイホーだと明記してある。

 まだまだ沖縄戦にはなっていないが、日本の戦時体制が島々にどんなふうに浸透し、島の人びとの生活がどのように揺さぶられ、巻き込まれてゆくのか、それを戦争の歴史の側からではなく、比嘉のこの一連の作品は、カマルという「セジ(霊感)」高いノロの家系の多感な少女の生きる日々の生活の側から描き出している。
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 『モーニング』編集部も、この作品の前に「読者の皆さまへ」という紹介に1ページを割き、「気楽に読める作品では、決してありません」とわざわざ断っている。それでも、編集部が比嘉の作品を特段に掲載するのは、ここに沖縄の人びとが経験した戦争の真実が描かれている、といった評価からだけではなく、伝えがたいこと、説明や解釈を超えてしまう、けれども感じとらねばならないようなことを、書割コマの絵とコトバの連鎖でまるごと表現するという、このジャンルの可能性をこの作品が担っている、というふうにに編集部が考えているからだろう。

 比嘉慂の作品は、解説したり解釈したりする必要を感じさせない。というより、まさしくそんな作業がむだであるからこそ、比嘉はコミックを描いているのだと思わされる。もちろん、沖縄について知識があればより踏み込んで理解できるといったことはある。けれども、比嘉が描き出すのは、知識などが取り落とす生の豊かさや哀しみや、理不尽な横槍をもかわして、すべてを包み込み掬い取る存在そのものの優しさのようなものである(ハイデガーやレヴィナスの「存在」の対極にあるような、と言っておこう。)

 書籍になって、多くの人の目にふれてほしいと思う。

★『モーニング』公式サイトに紹介があります。⇒こちら

 

2010年11月15日

野間秀樹『ハングルの誕生』讃

 すでに今年度のアジア太平洋賞(アジア調査会・毎日新聞)を受けて十分認知された本だが、野間秀樹『ハングルの誕生』(平凡社新書)についてひと言。

 これは、15世紀半ばに朝鮮で作られたハングルという文字が、いかに独自で画期的な創案であったかを、歴史的・言語論的に解き明かした本である。書きものと言えば漢字であることが千年にわたる伝統だった朝鮮で、開明的な君主世宗の主導で当時の俊英が集められ、徹底的な言語理解の上に立って類例のない新しい表音文字体系が創出された。

 それは朝鮮語という話し言葉を、擬音や擬態語まで含めて表記しうる(そして世界のほとんどの言語も表記しうる)合理的な表音文字の体系だった。この文字体系を打ち出した『訓民正音』に続いて、実際にハングルで書かれて最初に出版されたのは朝鮮王国の建国を讃える『龍飛御天歌』であったという。そこに、世宗が独自文字創出にかけた想いが凝集されている。この文字によって、朝鮮語は十全な表記の可能性を与えられ、その言葉で生きる人びとは、自分たちの言語を時間と空間を超えて伝えることができるようになった。

 そのうえこの書記体系は、それまでの文字体系のほとんどを相対化し、語素や音素といった現代言語学の知見にまで届くような分析を踏まえて作られており、そのため一言語を超えた汎用の書記手段としても使えるものになっていた。ハングルとはそのように意識的方法的に作り出された稀有の文字体系だということである。

 野間はこの出来事を「〈正音〉エクリチュール革命」と呼んでいるが、その大袈裟にもみえるタイトルがけっして大袈裟ではないことを、本書の記述が説得力をもって示している。

 近代国民国家の形成と「国語」の創出に関してはイ・ヨンスクを始めとする仕事があるが、ハングルという文字体系創出の意義と、そこに込められた漢字文化圏における周辺国朝鮮の自立と自己充実への意志は、国民国家形成とはまた違った意味合いをもち、それがこれほど鮮やかに熱く描き出されたことは、当の韓国や朝鮮でもなかったことだろう。

 いま、野間のもとには韓国から取材が殺到しているという。朝鮮語には韓国も朝鮮もなく、また日本に生を享けた野間が、日本の学者として隣国の文字の発明に関してこのような幸福感――自分たちの言葉を十全に表記できる文字をもつ歓び――に満ちた本を書きえたということは、どんな分断も対立も超えて行き交える知の営みによる、東アジアの相互理解への掛け値なしの貢献だと言ってよいだろう。

2010年11月20日

『世界』の表紙写真館

 本が読まれない状況とか、雑誌のあり方とか、一般に〝ものを考える〟ことが無駄で役に立たないとみなされる風潮とか、昨今の政治の混乱状況とかを考えていると、いま『世界』のような雑誌があることが文字どおり〝有難い〟ことと思えてくる。

 古く固まった頭には、あれがヒダリがかった雑誌と見られているようだが、もうだいぶ前から右も左もない。世界はただ丸いだけだ。その丸くなった世界で起こる現象は、もはや左とか右とかの物指しでは対処できなくなっている。『世界』はそういう現実に向き合っているほとんど唯一の論評誌だ。

 『世界』の表紙には四角い中窓が開いている。この開けが、今ではこの雑誌の〝志〟を象徴しているように思われる。わたしが毎号手にとってまず目をやるのはこの表紙だ。表紙だからあたりまえと言えばあたりまえだが、この表紙には素通りできない〝図像力〟がある。
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 そこにはいつも橋口譲二によるポラロイドの人物写真が載っている。長らく一七歳の少年少女たちの顔だったが、それが5年続いて本になった後、いまはここに登場するのは橋口が全国津々浦々で出会った女性たちだ。ポラロイドの顔写真、だが身分証明写真などとはまったく違って、どれもみんなこちらを真っ直ぐに見つめており、その人たちが生活に向き合うナマの視線がこちらを向く。

 表紙を一枚めくると、今度はその人の生活の場面を背景にしたモノクロの全身像がある。写真の下には、名前と年齢、撮影場所、それに職業、現在の収入、今一緒に暮らしている人、今朝の朝食、好きな音楽、最近読んだ本、今まで行った一番遠い所、今までについた職業の一問一答が記され、さらに本人が写真家に語った暮らしぶり生き方についての思いが、本人の口調を生かして書かれている。いわば、この人たちの人生のレジュメだ。

 この人たちは、政治や社会などを論じる『世界』などという雑誌とは縁なく生きてきただろうし、また、けっしてメディアに取り上げられることもなかっただろう。ただ、この国のこの時代に生まれ、それぞれの境遇のなかでそれぞれの生活を生きている。
 そういう人の一人ひとりに視線を届かせ、その視線を引き出す。ともかく、社会とはこの人たちの生きている場であり、この雑誌でさまざまな問題が論じられるのは、この人たちがそれぞれの境遇を生きているからだし、そのことをどこかで視野に置かない論評は、駄弁か、そうでなければ論者たちの自己主張にすぎないということだ。

 群れではない。社会学や政治学の統計数字に還元される集団でもない。一人ひとりの顔をもった人、そして天下国家を論じたり、この社会の成り行きに関与したりすることなく、この場に生を享け、生きている人たちだ。たとえこの人たちが『世界』など読まなくても、『世界』はその人たちを視野に入れている……のではなく、この人たちの眼差しを受けとめている。橋口の写真はそう言うために雑誌の表紙に置かれているかのようだ。

 この社会を動かす(つもりになっている)人びとではなく、この社会に生きている通常は不可視な一人ひとりの肖像を描き出し、いまこの社会にどんな人びとから成立っているのかを洗い出すようにして見せる橋口のこの姿勢は、2001年から2006年の表紙を飾った「17歳」シリーズのときから変わらない。そのシリーズが単行本になったとき、以下のような書評を共同通信配信で書かせてもらった。参照されたい。(クリックで拡大)
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2010年11月28日

比嘉康雄展『母たちの神』によせて(1)

 沖縄県知事選の投票がいま行われているが、その結果は今夜を待つとして、今日は11月の初めから沖縄県立美術館で開かれている比嘉康雄写真展『母たちの神』についてふれたい。

 比嘉康雄は戦後沖縄の代表的な写真家のひとりだが、70年代半ばから島々の祭祀の写真を取り続け、また神人たちに親しく受け入れられ、祭祀の世界に深く通じて民俗学的な記録も多く残している。その記録はとりわけ『神々の古層』シリーズ全12巻(ニライ社刊)にまとめられているが、遺作となった『魂の原郷、沖縄・久高島』(集英社新書)もある。

 今回は比嘉の没後10年を記念しての展覧会である。2ヶ月半ほどの会期の間に、県美術館で三回のシンポジウムが開かれる。第1回は、11月7日にすでに行われたが、「今、なぜ比嘉康雄か」をめぐって議論がなされ、第2回が来週日曜12月5日に「琉球弧の祭祀世界と生死観」をテーマに開かれ、年末の25日には「比嘉康雄、その〈写魂〉と〈写今〉」と題して写真家・比嘉康雄が論じられる。

 わたしはこの第2回目のシンポジウムにパネリストとして呼ばれている。民俗学者でもないわたしがなぜ?という疑問もあるが(そしてこれには主催者側でのいろいろないきさつがあるようだ)、わたしとしては、比嘉康雄さんには恩義を果たせないまま亡くなられてしまったという思いがあり、何でもお役に立てれば、という気持ちで参加させていただくことにした。(続く)

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2010年11月29日

比嘉康雄展『母たちの神』によせて(2)

 比嘉康雄さんに初めてお会いしたのは1995年初頭、比嘉さんが一年間宮古島に住んでいたときのことだった。当時、明治学院大学に勤めていたわたしは、同僚で宗教思想に造詣深い阿満利麿さんの知己をえ、阿満さんに誘われて旧正月の祭りの時期に宮古島を訪れた。

 そこでわたしたちを迎え、案内してくれたのが、阿満さんの年来の友人の岡本恵昭さんと比嘉康雄さんだった。岡本さんは、かつて薩摩藩がこの地に置いた臨済宗の寺の住職として、島の内にあって外にあるというその微妙な立ち位置から、島人の生活を支えてきた祭祀の変容を見てきた人だ。

 比嘉さんはすでに『神々の古層』シリーズで「遊行する祖霊神、ウヤガン(宮古島)」を刊行していたが(1991年)、沖縄の〝復帰〟後の島の生活の急激な変化のなかで、時を経るにつれて櫛の歯が抜けるように衰微してゆくこの島の風習の、今にして思えば〝末期〟に付き添うためであるかのように、一年間宮古島に滞在していた、ちょうどその折である。

 わたしは幸運にも、この最良の〝トリオ〟の導きでシマの祭祀の世界の一端に触れることができた。これが〝最良のトリオ〟だというのは、この三人は民俗学者として、あるいは写真家として、いわゆる南島ないしは琉球弧の習俗としての祭祀に関心を寄せていたというのではなく、それぞれの人が各人のいわば〝求道〟の途上でこの地域の祭祀にふれ、それに深く感応して、その感応をたがいに分かち合っていたからだ(その穏やかなしかし揺るぎない相互の信頼に、わたしは身近でふれさせていただいた)。

 岡本さんは、この地域にはもともと浸透しなかった仏教の僧侶、それも薩摩支配の象徴として置かれた寺(臨済宗、祥雲寺)の住職として、変容にさらされる戦後の宮古島で自分に何ができるのかを真剣に考え、とりわけ〝本土復帰〟以後、急速に進む島の祭祀とそれに支えられた生活様式の崩壊を前に、「神々の死をみとり、成仏させること」をおのれの「慈悲道」と見極めたという人である。 

 阿満さんが宮古島狩俣のウヤガンに何を見たかは、『宗教の深層、聖なるものへの衝動』(ちくま文庫)に明確に書かれている。わたしはこの本を読んで、阿満さんの〈宗教〉理解に深く共感し、やはりちくま文庫版の『宗教は国家を超えられるか』に解説「阿満利麿の求道」という一文を書かせてもらった。その延長で、ちくま文庫版『親鸞、普遍への道』にも解説「いま、親鸞を生きる、とは」も書かせてもらった。阿満さんの「親鸞論-日本宗教論」をわたしなりに読み込んだ素人ながらの渾身の応答である。

 そして比嘉さんは--、比嘉さんの祭祀の写真には比類のない〝神々しさ〟が漲っている。それはただ、神人(カミンチュ)たちの揺るぎない敬虔さを写しだしているからというのではなく、比嘉さん自身の撮影行為そのものが、祭祀によって呼び覚まされる神々の空間に、他でもないニガイ(願い)のように浸透しているからだ。

 もちろん、記録するための写真ではある。けれども、比嘉さんの作品は、祭祀の記録や証言というより、それ自体が神々を祀る〈儀礼〉であり、そのつどの祭りの構成要素であるかのような居ずまいをもつ。その写真はただ単に、祭りのあり様や神女たちの振る舞いを写しているのではなく、神女たちが願い舞うことで開く敬虔な世界をこそ、感受し写しだしているのである。
 
 比嘉さんはイザイホーの久高島でも、ウヤガンの宮古・狩俣でもシマの共同体に属する人ではない。それに、祭祀はふつう女たちのつとめだ。そこに、比嘉さんは許されて入り、むしろ撮影を託される。本来なら余人の入れない祭祀に立ち入ることができたのは、とりわけ久高島で祭祀の伝統が危機にあることを自覚する並外れた祭祀のリーダーがいたからだった。半世紀近く久高島の祭りを仕切ってきたこのリーダー(西銘シズさん)が、慎ましい気品の権化のような比嘉さんに、消えゆく運命にさらされた〝神々の世界〟の撮影を託したのだろう。
 
 比嘉さんはその撮影の構えを「受視」と表現したが、祭祀に能動的に介入するのではなく、みずから受像機となって現出する〝神々の世界〟を受けとめ、それを映像化した。それだけではなく、撮影することは彼にとって--そしてたとえば最後のイザイホー(1978年)のような危うい祭りにとっても--〝よそ者〟が祭祀の世界に入るための〈儀礼〉そのものだったと言ってもよいだろう。その〈儀礼〉はまた、存続が危ぶまれる〝神々の世界〟がその瀬戸際で十全に現出するための〝支え〟のようなものであったかもしれない。だから、〝招かれた部外者〟として比嘉さんは、カメラという道具をもって、撮影を彼自身の願いとして、影のように祭祀に参加する。

 それはもちろん写真家としての営みではあるが、その職業を超えて、比嘉さんは〝神々の世界〟にほんとうに身を預けていたのでもあるだろう。つまり島の人びとの生存を支えてきたその〈信〉の空間にみずから入り、海の彼方のニライカナイを望見していたのである。その比嘉さんにとって、写真を撮ることはまさにその祭りのなかで彼に割り振られた役割であり、彼が分かちもつべき〈儀礼〉だった。

 それは、フィリピンに生まれ、早くに父親や姉妹、そして母を失ったウチナンチュが身を託すことのできた〈信〉のありかだったとも思われる。だからこそ、比嘉さんのモノクロームの写真には、静謐な敬虔さや、比類ない〝神々しさ〟が漲っている。それは比嘉康雄の〝求道〟--彼ならば、写真によって導かれた〝写真道〟を通しての--がもたらしたものだった。

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在りし日の比嘉康雄さん(阿満利麿さんと)1995年12月 ©nishitani & moriya

2011年1月 2日

2011年 年頭に

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沖縄、本部半島、勝山農村交流センター屋根越しに八重岳を望む ©nishitani

 去年4月に始めたブログをひとわたり振り返ってみると〝沖縄ネタ〟がひじょうに多い。考えてみれば当然といえなくもない。というのは、始めた理由のひとつは、メモ・ファイルを飛ばしてしまったことだが、より実用的には、ホームページの更新が臨機応変とはいかないので、早めに情報を公表したり告知したりするのにブログが便利だということで、とくに「普天間基地移設に関する声明」関連の情報を提供したいという目的があったからだ。

 もちろん、目的はそれだけでなく、「自発的隷従」や「倒錯の国」などに関して提供したい情報も公開してきた。とはいえ、日米安保50年の去年は沖縄を軸に日本の政治が動いてきたこともあり、時事所感や、写真展や漫画の件も含めて、沖縄関連のものがどうしても多くなった。わたし自身に関わることでも、岩波フォト・ドキュメント『骨の戦世』(写真、比嘉豊光)と、上記声明呼びかけ人有志による『普天間基地問題から何が見えてきたか』(岩波書店、12月刊)の編者に名を連ねることになり、また比嘉康雄没後10年を記念する展覧会が開かれたりして、沖縄に何度も足を運ぶことになった。9月には沖縄国際大の桃原一彦さんのお世話で、同大の大学院で集中講義を行う機会もえた。

 写真は、12月5日の比嘉康雄展シンポジウム(第2回)に訪れたとき、漫画家の比嘉慂さんに『カジムヌガタイ--風が語る沖縄戦』(講談社、2003年)創作のモデルとなった現場を案内していただいたときに撮ったものだ。本部半島の勝山は実は以前にも訪れたことがあった。NHKのETV特集で2005年に『島クトゥバで語る戦世』を制作したとき、最後に庭で野外上映をしてヒージャー宴会をやったのが、たしかこの勝山の農村交流センターだった。

 ここから八重岳方面に見わたせる山地の一帯が、『カジムヌガタイ』の表題作の舞台だという。この作品は、終戦後まもないころ、ヤンバルのこのあたりまで足を伸ばして荒らしに来る(婦女子を襲う)不良米兵を、村人たちに一命を助けられたひとりの旧日本兵の指導で、村人たち自身が独力で〝退治〟するという話で、沖縄の〝自助-自治共和村伝説〟と言ってもいいようなものだ。20年ばかり前、このあたりの開発の途中で、ずっと行方不明だった3人の元米兵の遺体が見つかり、この話が初めて公になった。比嘉さんは新聞記事でこのことを知り、知り合いに現場を案内してもらって、「ここを見たら、一気に描けましたよ!」とのことだった。

 当時沖縄は米軍の直接統治下で、沖縄の人たちの生存や人権を守る権威は他になかった。今では日本政府がその責任を負っている。その日本政府(菅政権)はいま、どんな長期的展望も持たないまま短期的な情勢に流されて、沖縄に「基地負担は甘受せよ」(仙石)と言う。ましてや「日米地位協定」を見直す話などまったく出ない。これでは沖縄と日本との亀裂は深まるばかりである。

 「沖縄の〝復帰〟に関しては、時が経つにつれて癒合してゆく体の一部のようにではなく、むしろ老朽化とともにそこかしこに亀裂や剥離を引き起こす原発施設のように、留めたはずの接合部がいつまでも軋みをたて、そのつど社会的な違和が表面化する。だから沖縄は、いつまで経っても、というより時が経てば経つほど年毎に〝復帰〟の齢を数え直さなければならない」と以前に書いたことがある(『沖縄・暴力論』、「はじめに」、未来社、2008年)。この状況は〝政権交代〟によって改められるどころか、菅政権に至ってかえってあからさまになっている。

 やがて〝復帰40年〟になるが、そのとき沖縄がどうなっているか、それは日本の政治のあり方そのものを象徴する課題だろう。沖縄を〝併合された軍事植民地〟(それもアメリカに委ねるための)にしてしまうのか、それとも〝日本を豊かにするインテグラルな一部〟にするのか、そのことに日本の政治の内政と外交のすべてがかかっていると言っても過言ではない。そうである以上、今年も沖縄から目を離すわけにはいかないだろう。

2011年1月 4日

じつは箱根駅伝のファンである…

 もう一昔前、「世紀末」と言われていた頃、共同通信配信で 『日暮れの透視図』 という月1回のコラムを2年間続けていた。その22回目に箱根駅伝をとり上げた。今年も正月の箱根をテレビ観戦して、一方で否みがたい様変わりを感じながらも、やはり箱根!と、つい昔の記事を思い出した。9・11以前に書いたもので、日暮れの〝のどかさ〟が漂っていないでもないが、余興に復刻させていただきます。

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  東日本ではいつになく雪の多い一月、長野オリンピックは秒読み段階に入り、(…)日本代表のワールド・カップ初出場も決まって、今年はサッカーも話題になりそうだ。
 スポーツは世界に開けている。われわれはテレビで観戦するだけだが、それでも「世界」ということをいちばん身近に感じるのは、スポーツの世界大会のときかもしれない。
 地域の同好会や学校のクラブに始まって、大学や企業のチームが競い合い、地区大会を勝ち進めば全国大会がある。するとその先は世界の舞台だ。これはほとんどどのスポーツで同じだろう。地域のサッカーチームなどから見れば、ワールド・カップは遥かに遠いが、それでも勝ち進んでゆくステップの先には世界がある。

 こういうシステムは近代オリンピックから始まった。世界大会をするためにはルールが統一され、競技が規格化されなければならない。そこで認定された競技が各国でスポーツとして育成されるようになる。それが国際規格のスタンダードな競技だ。だからどこでも、小学校から世界大会まで同じ競技の場ができるわけだ。
 だが、そんな規格におさまらない競技もある。毎年正月に行われる箱根駅伝がそうだ。これは大学対抗で、全国大会というのではない。その先に全国大会があるのではなく、ましてや世界大会はない。箱根は箱根、これはこれでひとつの頂点なのだ。
 
 駅伝は名前からもわかるように日本で考案された競技だ。大正時代に東京遷都五〇年を記念して、読売新聞の土岐善麿が考え出したイベントが始めだったという。このときは京都三条から東京上野不忍池までを、関東組、関西組の両チームがそれぞれ二三人で走り継いだ。東海道五三次の宿駅を二区づつということだが、昼夜兼行で四一、二時間かかったという。
 箱根駅伝は、予選を通過した15大学チーム[当時]が、東京大手町から神奈川県箱根町までの一〇〇キロ強を、計一〇人の選手が一泊二日で往復する。
 マラソンと同じでただひたすら走るだけだ。だが個人競技ではない。ある程度のレベルの選手の頭数がそろわなければならない。ひとりの力ではどうにもならないのだ。

 それに距離が長い。いくつもの街を走り抜ける。テレビを見ていても、さっきは小田原、いま戸塚、やがてもうすぐ品川と、頭のなかに地図が広がってゆく。そういう具体的な空間のイメージのなかで、人の走りが意外に速いことに驚いたり、走ることがほんとうに場所を移動することだと、あらためて実感したりする。
 もちろん速さを競うのだが、走りはここでは、トラック競技のようにスピード記録という数字に完結しはしない。それは幾何学的な空間で行われるのではなく、地理的な空間を踏破する旅なのだ。
 その旅も、マラソンのようにひとりの選手の孤独な闘いというドラマには収斂しない。複数の選手によって引き継がれ、担われる。もちろん個々の選手の個性や活躍は浮かび上がるが、その活躍も個人では完結しない。むしろ「走り継ぐ」という人と人との繋ぎが際立つ。
 
 今年は神奈川大学が、去年に続いて二連覇をはたした。第一走者は出遅れたが、とくに第四、第五走者のがんばりで往路首位に立ち、復路は第一走者が山下りで飛び出して、あとは最後までほぼ独走だった。

 この駅伝にさらに上の世界大会はない。だが、駅伝の選手たちはそれぞれトラック・レースの選手だったりする。もちろん駅伝専門の選手もいるが、選手一人ひとりには、世界化したスポーツの領域が開けている。
 言ってみれば駅伝は、走るというもっとも基本的で普遍的なスポーツと、具体的な歴史や文化をもつ土地とのアレンジメントでできた競技だ。走る方も見る方も、その土地の風物に多かれ少なかれなじみがあり、それが駅伝の魅力になっている。具体的な土地や生活空間とのつながり、それは世界化するスポーツがスタンダードな規格となるために削ぎ落としてゆく要素だ。
 駅伝が世界に広がる兆しもあるようだ。たしかに駅伝は伸縮自在で、どんな場所にも移植することができる。だが駅伝には世界のスタンダード競技になってほしくない。そうなると、国旗を背負ってスピードを競うだけの、ただの長距離リレーになってしまう。
 駅伝の醍醐味は、人びとの体感にひびく具体的なこの場で、この道を、一人ひとり際立つ選手たちが走り継ぐというところにある。だから箱根は、箱根だけで頂点なのだ。 (1998.01)

2011年2月 4日

E・グリッサンの旅立ちに合掌

 今朝の新聞で『力士漂白』の宮本徳蔵さんが亡くなったことを知った。1985年に小沢書店から出たこの本(現在はちくま文庫)は、大陸からの相撲の伝来を語ってひときわ鮮やかな印象を残した。折しも大相撲協会が激震にさらされているときだが、相撲をこよなく愛していたに違いない宮本さんは、どんな思いで旅立ったのだろうか。ともかく、記憶に残る本の著者の冥福を祈りたい。
------------------------ * * *
 さて、
 今日はもうひとつ訃報が届いた。パリ滞在中の中村隆之が、2月3日、クレオール作家のエドゥアール・グリッサンが亡くなったことを知らせてきた。1928年9月21日の生まれだから82歳だ。
 
 グリッサンは日本に二度ほど来ていて、そのたびに縁があった。最初は1996年に東京大学駒場で「ポストモダン後の近代性」という国際シンポジウムが開かれたとき。このときはチュニジアのフェティ・ベンスラマも招待され、わたしも参加していた。シンポジウムが終わって渋谷の中華料理店で懇親会があったが、このときどういうわけかグリッサンとベンスラマとわたしが3人だけ固まりになり、幽霊話に花が咲いた。マルチニックと日本の似たところは幽霊が出るということだ、とわたしが言ったためだが、ベンスラマがアラブ世界でも出ると言う。するとグリッサンは、少年時代(第二次大戦中)に魔術師に出会って不思議な体験をしたという話を、わたしたちを相手にしてくれた。それは彼の『第四世紀』という小説の主人公の体験として出てくる話だった。(『第四世紀』はもうじき翻訳が出るはずだ。)
 
 二度目に来たのは2001年で、このときは一ツ橋大での講演などの他、三浦信孝氏のアレンジで日仏学院で「クレオールと雑種文化」をめぐって加藤周一さんとの公開対談が行われ、わたしはその司会を務めさせてもらった。この対談はNHK教育テレビの「ETV・2001」シリーズで「カリブ海から世界へ~グリッサンと加藤周一の対話」(45分)として7月16日に放映された。「グローバル化とクレオール化」を対比させて歴史的パースペクティヴのなかで「世界化」の諸原理と現在を考える、といった内容になったが、そのときはもちろん、二ヵ月後に起こる事件とその後の世界の展開についてはまったく予想していなかった。
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左:96年、ベンスラマと幽霊を語る ©nishitani   右:01年6月、日仏会館にて
 
 湾岸戦争の後、1991年から92年にかけて、わたしは一年間パリに滞在したが、そのときゴンクール賞をもらったパトリック・シャモワゾーをはじめとする若いクレオール作家たちの活躍に目を見張った。それ以来、エメ・セゼールからグリッサンを通ってシャモワゾーやラファエル・コンフィアンなどにいたるまで、クレオール文学の航跡をたどって、今まであまり意識していなかった「歴史との別の関係」に気がついたのは、わたしにとってほとんど啓示のようなものだった。
 
 それから、クレオールの問題系を考えるのにきわめて啓発的なシャモワゾー&コンフィアンの『クレオールとは何か』(原題はむしろ「クレオール文芸」、平凡社ライブラリー)を訳し、当時勤めていた明治学院大仏文科のゼミでも、エメ・セゼールやグリッサンをテクストとして取り上げた。そのころ学生だったのが、訃報を届けてくれた中村隆之で、グリッサンの初期の小説『レザルド川』を一行一行、ことばの手触りを確かめるようにして読むゼミに出ていたのがきっかけで、かれはとうとうクレオール文学の研究に入ることになり、曲折を経て、外大に移ったわたしのもとで博士論文『エドゥアール・グリッサン、〝反歴史〟の詩学』(2006年)を書き上げることになった。この論文には、グリッサン自身も大いに関心を寄せてくれていたようだ。
 
 そんなこともあって、書かれたもので知るだけでなく、グリッサンには少なからぬ縁と馴染みがあった。そのグリッサンが不帰の人となった。手元には、去年出た真っ赤な表紙の『全-世界詩抄--大地、火、水、風』(La Terre, le Feu, l'Eau et les Vents, Une anthologie de la Poetique du Tout-Monde,)が残されている。

 カリブ海のワニともカバともつかぬ風貌の、穏やかに澄み渡る不思議な眼をして、体躯に似合わぬ高い声で「全-世界」のこだまを紡ぎだす詩人…。パリで亡くなったというが、きっと魂はカリブ海に帰ることだろう。カリブ海にはニライカナイはあるのだろうか。いや、島からの眺めではない。地平のない「全-世界」にとっては、いまやいたるところがニライカナイに違いない。紺碧の海の上に広がる空に、魔術師が「遠くを見る眼」と言ったというあの透明な眼をした親しげな顔が浮かぶ。合掌--。
 
★グリッサンが運営する"institut du Tout-Monde"のサイト:http://www.tout-monde.com/
★中村隆之の運営する"BANZIL KREYOL"--カリブ文化・文学研究交流サイト:
http://www.page.sannet.ne.jp/nakamuu/index.html 

2011年2月 8日

大相撲騒ぎに、余分なひとこと

 「現代思想」でつい先ごろ、柄にもなく大相撲のことに口出しした手前、今回の「メールで八百長発覚」事件を受けて、相撲協会が4月からの春場所を中止する方針を決めたというニュースに関してひとこと。

 無期限中止というが、これで細々暮らす全国津々浦々のお年寄りたちからまたひとつ楽しみが奪われる。八百長が発覚したからといって、興行をやめる必要はないだろう。そんなことをして「膿を出し切る」とかやったら、「治療は成功したけれど、患者は死んだ」ということになりかねない。いや、ほとんどそうなるだろう。大相撲再興の基本は、むしろ「世間の冷たい目」のなかで黙々と相撲をとり続け、おれたちは本気でやってんだ、ということを示す以外にないだろう。だが、今の大方の対応は大相撲を再起不能の崩壊に導くだけのようにみえる(協会は経済的にも破綻し、これで力士になろうという若者はほとんどいなくなるだろう)。

 大相撲は賭け事ではないのだから、実害を受けた観客はいないはずだ(隠れて賭けをやっている連中は別として)。力士の間ではといえば、正直にやっている多くの力士は割を食ったかもしれないが、部屋や「番付」という狭い枠のなかで暮らしている身である。八百長力士が適正な処分を受ければ、むしろみんな相撲はとった方がいい。場所がなくて、どうして稽古に励めるのか。そのために力士は相撲取りになったのだから。

 大相撲が「フェアーなスポーツ」という言い方もおかしい。純然たる競技としてのスポーツとは違って、かなり融通のきかない制度としきたりに支えられた、いまやさすがに神事とは言わないが、それでも祭りや奉納の気配はとどめた特殊な芸能(お国芸能)のようなものである。相撲に限っては、競技のスタンダードはない。それではだめだと言うのなら、部屋もちょん曲げフンドシも土俵も、妙な四股名もやめてしまって、レスリングやジュードーのように、体育館の丸い輪のなかでやる近代スポーツにしてしまえばいい。

 大事なのは画一的なルールでも歯の浮くような「公正さ」でもないだろう(だいたい「公正さ」を振りかざす連中がいちばん「不公正」に胡坐をかいている)。相撲において「公正」であることは、ファンや観客に対する基本的な礼節――というより「仁義」か――ではあっても、それが相撲の「真髄」なのではない。力士たちが本気で力量のかぎりを尽くす取り組みは白熱の面白さだが、ときにふと人情や人生の綾が影をさす相撲もまた妙味がある。だいたい「名勝負」の歴史というものにはそういう挟雑物があふれている。

 当然ながら勝負は「公正」にやるべきだが、今さら八百長が発覚したからといって、場所を中止してどうするのか。客が怒って大相撲を観にいかなくなる、というのなら話はわかる。それで大相撲が潰れるなら、それはもう仕方がないだろう。「違反」の「制裁」が必要だというなら、「やらせない」で潰れさせるのではなく、恥をさらして続けさせるのが相撲を育てる「制裁」というものだろう。

 だが、「世論」を僭称するメディアがよってたかって「けしからん」と叩き、その陰に隠れて文部省の小役人の「指導」とやらの圧力で、場所を中止させてしまう。これではまともな「改革」などいつまでたってもできないだろう。いま大相撲で食っている力士はじめ大勢の人たちはいったいどうするのか。全国のとりわけ施設でこれだけを楽しみにしている人たちはがっかりするし、力士たちはこのままでは路頭に迷いかねない。

 「徳俵」が象徴するように、相撲は米と切っても切れない縁がある。大相撲の「危機」は、避けがたく日本の農政の危機を思わせる。食料自給率30パーセント以下、誰が日本の農業をここまで追い込んだのか。匿名で無責任に「処分」をちらつかせる役人や、「有識者」たちの形式「倫理」やマネージメント一辺倒の頭で、本当に大相撲を潰してしまっていいのか。最近どうも、この手の「叩き」が多すぎる。

2011年5月 3日

曇る五月の原発ツアー (浜岡編)

 ニュースというのは新しく起こったことだ。新しくなければニュースにならない。それでも日々、原発関連では新たな事態が生じ、あるいは過去の情報が掘り出され、その後景になった福島第一では、日々現れる困難に遭遇しつつ、今日も始末におえない原子炉をなんとかなだめすかす作業が続いている。
 この連休のはじめに、田舎の両親を訪ねるついでに、思い立って原発ツアーをやってみた。田舎は三河の吉田だから(生まれは北設楽郡だ)、今その動向が焦点になっている御前崎の浜岡原発まで70キロ、北は若狭湾の海岸に14機の原発が点在する「原発銀座」までは160~70キロの位置だ。
 
 東京からの途中に掛川で降りてまず浜岡原発に向かう。ここは静岡県御前崎の西側、予想される東海地震の震源域のほぼ真上にあり、そのうえこれまで事故も少なくなく、世界で「最も危ない原発」と言われている。5機の原子炉のうち2つはすでに稼動を終えている(巨大でやっかいな廃棄物になろうとしているということだ)。MOX燃料(プルトニウム・ウラン混合)を使うプルサーマル発電を4号機で去年からやろうとしたが、安全性の保障ができず、この計画はいま中断している。3号機は定期点検中で、3月から再稼動する予定だったが、福島第一原発の事故のため延期になり、中電はつい先日7月からの再開を発表したが、これが物議をかもしている。
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 いまどき原発を見にくる人などいないだろうと思っていたが、連休初日の土曜、それでも親子連れやカップルがここを原子力館を訪れていた。発電所には入らせてもらえない。理由は「アメリカ同時多発テロ以降、テロ対策のため立入りをお断りしている」そうである。以前は近づけたのに、「テロ対策」は見せたくないものから人を遠ざける口実に役立っている。だから訪問者はPR館で満足することになる。
 
 なかなか立派なPR館で(それでないとPRにならないが)、実物大の原子炉内部の威容や、稼動の仕組みを示すイリュミネーション付きの模型があったりして、原発の仕組みはよく分かる。あとは、原子力発電がいかに強力かつクリーンで安全か、資源の少ない日本に必要か、放射能は管理すればぜんぜん怖くない…、といったベンキョウができるようになっている。なるほど、とながめながら納得するのは、これだけのPR館をあちこちに作って、子供用のアミューズメント館まで用意し、人びとをてなづけないと維持できないのが原発なのだなということだ。
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 浜岡は中部電力唯一の原発である。だからどんなに危なくても、中部電力はこれをやめられない。というのは、原子力発電を推進するのは国の方針であり、「夢のリサイクル」であるフルサーマル発電をやるのも国の方針だから(だったから)、9の国策電力会社のひとつである中部電力も落ちこぼれるわけにはいかないのだ。あちこちで断られ、他に立地の候補もない。だからここに新たな増設計画も作ったが、今となってはもはや難しいだろう。
 
 浜岡周辺には風力発電機がいくつも立っている。中電は風力もやっていますよということだろうが、遠州灘の長い海岸はそっちの方に向いているのかもしれない。原発から外に向かう巨大な送電線の塔の間に、どういうわけか朱塗りの大鳥居が立っている。科学の粋を集めた原発も、とりわけ地震の多い日本では(そして浜岡では)、神のご加護にすがるほかないということだろうか。
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 近くには戦国時代に武田と徳川の抗争の前線となった山城、高天神城の跡がある。さして高くはないが城を建てるには険しい山をそのまま使って築いた城の跡だ。追手門になっていた杉の巨木が今でも残っている。だが、原発は廃用になってもけっしてこのような自然の景勝を残すことはないだろう。浜岡から5キロも離れていないこの城跡が、人の立ち入れない〝ゾーン〟にならないことを祈るばかりである。

★浜岡原発のサイトは: http://www.chuden.co.jp/energy/hamaoka/index.html
★内藤新吾さんによる案内「浜岡原発の危険を語る」 (1~5)がYouTubeにあります。よくわかる浜岡。

曇る五月の原発ツアー (敦賀編)

 2日目は米原で若い友人2人と合流し、北陸本線で敦賀に向かった。駅で画家の宇佐美圭司さん夫妻と待合わせだ。宇佐美さんは20年ばかり前、越前町の日本海に向かう絶壁の上に引っ越したら、向かいに遠く例のもんじゅが見えるのだという。原発地域から20キロ圏内に住んで、「大洪水」や「アフター・ヒロシマ」の大作を描き続けている。『世界』5月号に寄稿した「制動・大洪水のこと」には、そんな作品を支えて広がる想念が語られている。

 昼とはいえ、食うものも食いあえず(? ともかく蕎麦が食べたかった)、さっそく敦賀半島の先にある日本原電の敦賀発電所に向かう。「原発銀座」と呼ばれるここ若狭湾に置かれた14機の原発すべてを回る余裕はないので、ともかく敦賀半島の三つの原発を訪ねることにしたのだ。

 それでもここには、日本で最初の商用運転を始めた敦賀発電所と、加圧式軽水炉を始めた美浜原発、そしていま炉の中に部品を落としてしまって〝瀕死〟の状態のにある高速増殖炉もんじゅがある。いわば老舗の原発地帯で、稼動し始めたのは70年から71年頃だ。
 トラブル歴にも事欠かず、美浜もそうだが、敦賀は「事故隠し」で名を上げている。また、美浜では2004年にタービン建屋内の配管から高温蒸気が漏れ出て、5人の作業員が亡くなるという大事故があった(このときは被曝ではなく全身やけど)。

 半島は奥に入る道が両側に1本づつあるが、それぞれが敦賀発電所と美浜原発に通じており、その間を横断道がつなげている。道はそれで全部。小さな漁村があるほかは、まさに原発の半島だ。

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 まず敦賀発電所に行く。ここには2つの原子炉と廃炉になったふげんがある。70年稼動の1号機は2009年末に廃炉になるはずだったが、予定した3号機、4号機の設置が遅れているため、運転期間の延長申請をした。しかし、老朽化しているうえに、溶接部分の点検が一度もなされていないことが判明するなど、不安材料が目立って現在も停止中だ。ちょうどわれわれが訪問したころ、2号機にまた新たな問題が生じて(核燃料の被覆管の損傷?)停止することになり、これで敦賀は休眠状態に入ってしまった。

 ここも原発には近づけず、付属の原子力館からながめる。ここには、これだけ揺れても大丈夫という「地震体験くん」なるアトラクションがあったが、何に気を遣ってかこれも「休止中」と掲示があり、試してみることはできなかった。
 
 さて、美浜はじつはお目当てだった。というのは、ここがRCサクセションの「サマータイム・ブルース」に歌われた海水浴場から見える原発のモデルだという話があるだけでなく、森崎東監督が沖縄流れの原発ジプシーをネタにして作った映画『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(倍賞美津子、原田芳雄主演、1985年)の舞台になっているからだ。
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 掘江邦夫の『原発ジプシー』(現代書館、講談社文庫版が最近復活した)が出たのが79年、森崎は70年のコザ暴動での手配を逃れて密航し、福井に流れ着いて「原発銀座」周辺の闇を潜って生き死にする沖縄の元若者たちの運命を、多少荒っぽい手つきで秀逸なドタバタ悲喜劇に仕立ている。

 その中で、宮里(原田)が入るのが美浜原発の建屋であり、バーバラ(賠償)が水商売の少女たちと遊ぶのが、原発が向うに見える白浜の海水浴場だ。たしかに、丹生大橋を隔てた対岸には、水晶浜とか、ダイヤ浜とかいう、風光明媚な砂浜が広がっている。砂の上を歩いてふと目を上げると原発が見える。そしてその手前には、ここにもまた安全祈願の鳥居が立っている。

 美浜でも、原発敷地に通じる丹生大橋は渡らせてくれなかった。だから、敷地内にある「根上りの松」というここの名物も、今では近づけない(パンフレットの表紙になっているのだが)。例によってPR館で満足するしかない。ただし、ここのPR館は軽水炉ということもあって奮っており、核反応する原子炉の中にいる気分にさせてくれる。アトラクションもキョウイク的なばかりでなく、中性子をうまく一個に制御して連鎖反応を抑制するゲームとか、α線とβ線、γ線をそれぞれ紙や金属で遮って被曝を避けるゲームとか(いずれにしても失敗すると大変なことになる!)で楽しませてくれるが、考えてみれば、熱中しても笑えない不気味にリアルなゲームである。
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 美浜から一本しかない道をさらに進むと、その先の奥の院のようなところにもんじゅがある。もちろん構内の入り口で締め出され、脇の浜からその姿を見る。今は喉にやっかいな骨がひっかかり、身動きできないからしゃっくりも抑えこまなければなければならない。じっと我慢の不動のもんじゅ。

 いかめしい鎧を着たもんじゅは孤独そうだ。本当なら優等生として作られたはずだ。だが、フランケンシュタインのように人目を避け、半島の奥の森影に一機寂しくたたずんでいる。そう、人間の野心によって作られながら、人間たちの嫌悪と憎悪の的となり、泣きながら北極の雪原に消えていったあの不幸な人造人間のように。
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(写真はすべてクリックすると拡大します。© nishitani)
 
★美浜原発のHPはこちら:http://www.asahi-net.or.jp/~hi2h-ikd/film/morisakidata/di001330.htm
★森崎東監督の『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』については、以下のサイトを参照:森崎東アーカイブズ
 原発の周囲にできる日本社会の闇に蛍火のように浮かぶ、沖縄と原発の隠れた繋がりを題材にした先駆的作品だ。この作品、お蔵入りは惜しい。何とかDVDにならないものかと思う。2008年7月にGSLが東京外国語大学で行ったラウンド・テーブル「核と現代」の初めにこの作品をビデオ上映した。そのときには人を介して監督本人の許可をいただいたが、制作会社がすでに消滅しているため権利関係は不明なままだ。
★いま『東京新聞』の「こちら特報部」では、「新日本〝原発〟紀行」というシリーズを掲載している。各地の原発の状況、地域の〝原発中毒化〟の事情などが取材されている。新聞は『東京』か『毎日』にかぎる。『産経』もおもしろいが。『朝日』などというのは東電と同じようなものだ。〝消費者〟なら商品を選ばなければならない(わたしは〝消費者〟などではないが)。

2011年6月12日

例の東京新聞が新刊を…

 東京新聞という奇特な新聞がある。朝日とか読売とかいう、体質的に東京電力のような大新聞を、誰もが惰性でとり続けるので、なかなか〝地方紙〟は浸透しにくい。独自の販売店ももっておらず、毎日や朝日の販売店に委託しているため、まともに面倒もみてもらえない(もっとも親会社の中日新聞は、中部地方では販売網をもっているが)。部数が少なくて広告収入もおぼつかないだろうが、そのためにかえって、かなり自由な紙面づくりができるのだろうか、いつも、他紙が手をつけにくい話題を、大胆に調査し取材して紙面にしている。とくに、ほぼ毎日の朝刊に掲載される二面ぶち抜きの「こちら特報部」は、ほとんど〝解放区〟のように〝禁断〟の話題をとりあげる。とくに3月11日以降は、被災地の事情や原発事故関連の踏み込んだ記事を満載して、読みでのあることこのうえない。そのうえ、広告が少ないのでかさばらず、購読料も安い。

 だからわたしは東京新聞の読者なのだが、それとはまったく関係なく、昨日(11日)夕刊の「土曜訪問」という欄で、6月刊の『“経済”を審問する』(せりか書房)に関する取材記事を掲載してくれた。これも奇特な話である。東京新聞を購読している人はそういないだろうから、ここで紹介させていただく。写真が入っていてどうも見苦しいのだが、これが新刊の本の〝つぼ〟です。(ついでに、同じページの左下のコラムもとてもいい。)

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                      (クリックで拡大)

2011年7月11日

山形孝夫「〝黒い海〟の記憶」をぜひ…

  8日に発売された『世界』8月号に山形孝夫「『黒い海』の記憶」が掲載されている。3月11日の大震災後、政府の機能不全と政治の「脳死」状態のなかで、多くの人びとのおびただしい発言があり、怠惰にしてそれをあまりフォローしているとは言えないが、それでも山形のこの一文は、恐るべき災害とそれが引き金を引いた福島原発事故の衝撃とを、現代の人間的経験としてその具体相に付き合いながら全幅に受け止め、余念なくその意味を開示しようとした、稀有の印象深い文章である。

 この文章は具体的な三人の「記憶」を軸に書かれている。仙台市荒浜小の元教師多田智恵子さんの「黒い海」の記憶と、対象のない、それだけに癒しがたい「喪失」の思いはエンブレム的だが、塩釜の二人の「漁の民」佐藤栄二さんと小泉善雅さんのそれぞれの思いは、一方で独立した小生産者としての漁民の「自由」と、それとは条件を異にするいわば移民の「自由」との相克を照らし出し、被災からの復興の現実的な課題を浮かび上がらせる。そして最後に、現代の社会システムが、個々の人びとの「犠牲」のうえに「安全神話」を建立することで成立した別種の「カルト社会」であるとして、「黒い海」がそのからくりを暴いた以上、復興の行方が奈辺にあるかを示唆している。

 山形さんは仙台在住の宗教人類学者で、わたしがこよなく愛読した『レバノンの白い山』『砂漠の修道院』『聖書の起源』『治癒神イエスの誕生』等の著者である。
 
 また、遠からず、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』の翻訳が出ると聞いているが、さまざまな災害(自然災害から大事故、政治的災害まで含めて)を利用してハイエナのように被災地に群がり、地場産業の瓦礫にブルドーザーをかけて「自由市場」の「特区」を作りだし、それを巨大資本が利潤をむさぼる漁場にしてしまうことで、この間どれだけ世界が荒廃したかが、この本にはごまんと描き出されている。被災地の復興がどんなふうであってはいけないかを肝に銘じるうえでも、一刻も早い翻訳が待たれる。参考サイト⇒http://cybervisionz.jugem.jp/?eid=59

2011年7月29日

中国、若松、デュピュイなど

 前回からだいぶ日数があいてしまった。
 
 7月22日に北欧ノルウェーから極右青年による爆破・銃乱射事件のニュースが届き、翌23日には中国温州で高速鉄道の大事故のニュースが届いた。オスロの事件はさておき(これも2011年の幕開けとなったアラブ民衆革命の余波かもしれないことについては別に考えるとして)、中国の「新幹線」事故には思い当たる節がいろいろある。
 
 中国は、最近の飛躍的な経済発展を象徴するものとして「新幹線」網を、文字どおり超特急で作り運行にこぎつけたが、技術盗用問題に加えてトラブルが続出、とうとう停止中の先行車に列車が突入して何輌も高架から墜落するという大事故を起こしてしまった。

 にもかかわらず、1日半で運行再開とか、当局がすぐさま墜落車輌(それも先頭車)を重機で裁断して現場に埋めてしまったとか、証拠隠しを非難されて中央の指令でそれがまた掘り出されたとか、あまりに荒っぽいやり方にはあきれるほかないが、この出来事、まるで他人事とも思われない。というのは、中国にとってのこの事故は、日本にとっての原発事故と同じような意味合いをもっているだろうからだ。
 「安全神話」を掲げて推進する政策の破綻が大事故として露呈し、それを当局が「洗い流し(埋め)」、口を拭って居座りながら規定路線を続けようとする。そのうえ情報統制され、さすがに民衆は怒らずにはいられない。

 自国の技術の「安全と信頼」が問われ、そんな無茶な政策を後先見ずに推し進めてきた利権集団が明るみに出る。日本の原発事故で「原子力ムラ」が裸にされたように(それでも姑息に隠れようとしているが)、中国でも圧倒的な利権をもつ「鉄道王国」(独自の警察や裁判組織までもつ鉄道省)が槍玉にあがる。
 
 日本(や米欧)では、中国のメディア統制がいつも批判されるが、日本でも経産省の資源エネルギー庁が、原発に関するメディア情報を監視してきたことが報じられた(東京新聞7月23日)。一般市民のツイッターやブログも監視しているようだ。本年度は補正予算で8300万の予算がついている。外注で、去年までは電力会社社員らが理事を努める財団が受注していたという。「不正確で誤った情報」があると、それに反論したりするのが仕事らしい。やり方は中国よりはおとなしいが、利権が絡んでいることまで含めて、構造やメンタリティは中国と基本的には変わらない。

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 久しぶりにもんじゅ君(@monjukun)のツイッターをのぞいてみたら、7月27日の参議院厚生労働委員会での児玉龍彦さんの証言のことにふれていた。児玉さんは東大先端研でシステム生命医学という最先端医療の研究をしている(東大教授にもいろいろある)。南相馬市でいま緊急の除染活動をしていて(「違法」なのだそうだ)、現場の危機状況をデータで具体的に示しながら、国会や政府の怠慢を厳しく告発し対応を要請する「怒りの証言」である。これはぜひYouTubeで見てみてほしい。⇒こちら

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 26日(火)夜は、新宿朝日カルチャーセンターでもう五年以上続けている半年に一度の小森陽一との対談だった。半年に一度、日本の政治や社会と世界の情勢について総括し展望を探るという企画だが、今回は当然ながら「3・11後」に話題は集中する。その冒頭に小森氏は南相馬の詩人若松丈太郎の詩を朗読した。「みなみ風吹く日」という詩だ。2007年3月に福島第一原発の数々の事故隠しが露見したときの「風景」を淡々と厳しく歌っている。

 このとき小森氏がもっていたのは、最近出版された『福島原発難民--南相馬市・一詩人の警告、1971~2011』(コールサック社)だったが、この詩は『北緯37度の25分の風とカナリア』(弦書房、2010年)という詩集に含まれている。この緯度のあたりに、福島第一と柏崎刈羽、それに実現しなかった能登の珠洲原発候補地があるだけでなく、水力発電のダムも集中し、この地帯が日本のエネルギー供給地帯となってきたという。その「ゾーン」の各地をうたったのがこの詩集だ。これもお勧めしたい。
 
 また、『世界』5月号に冒頭を紹介したフランスの科学哲学者ジャン-ピエール・デュピュイの『ツナミの小形而上学』(岩波書店)が刊行された。ギュンター・アンダースによる「ノアの破局の予言」を引いて、「破局」の頻発する現代に(中国にもノルウェーにも!)、人間にとって何が緊急に必要とされているのかを論じて、「未来との関係」の問い直しを迫る、きわめて刺激的な小著だ。
 6月に著者が来日したときのインタヴューも、来月8日発売の『世界』9月号に掲載される。併せてお読みいただければ幸いです。

2011年10月 1日

サイッド・コンサートという“出来事”

 ムスタファ・サイッドの3回のコンサートがすべて終わった。3日連続、それも28日は福島市飯野町の五大院、翌日は南相馬市原町の銘醸館、そして昨夜は福島から移動して東京は江東区門前仲町の門仲天井ホールだ。
 
 3回とも、すばらしい雰囲気の中で行われた。五大院は天台宗の旧寺で、毎月28日の不動明王の縁日の護摩に合わせて地域づくりの団体がさまざまな催しを行っている。サイッドの最初のコンサートはこの機会を借りて行われた。本堂の脇奥に座ったサイッドが、ウードの音を合わせながらそのまま演奏に入って、いつまのにかコンサートが始まるといういかにも縁日風の出だしだった。そこに同じくウードのヤン・ピタールとサックスの仲野麻紀が加わり、おそらくふだんの縁日とは趣の違う気配が広がりだす。
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 *五大院でのムスタファ・サイードのソロ演奏風景

 ご本尊を横に見ながら、畳に敷かれた座布団の席を埋めたのは、もちろん縁日に訪れた飯野町の人たちである。それに、ここは飯館村が仮役所を置いているところでもあり、もちろん飯舘村の人たちも招かれていた。

 この日のコンサートは「までいライブ」と名づけられていたが、町興しのこの縁日の行事を仕切っていたのは、観音様+恵比寿様のような丹治敬子さんというニコニコ顔の女傑!である。近くの観音寺住職による昼の護摩行をはさんで、11時と13時の二度行われたコンサートの合間には、丹治さんとお嬢さんの朱美さんの気配りのきいた采配で、お仲間のボランティアの人たちからダゴ汁とおにぎり(もちろん漬物も)が振る舞われた。

 ついでに言えば、五大院では珍しいものを見た。秋葉権現という翼の生えた嘴のある山伏風の仏像(?)である。それも白い狐の上に乗っている。これが火伏せの明王の脇に立っているのだ。こんなお寺であるからこそ、若い盲目のエジプト人がウードを奏でながらルバイヤードを歌い、そこにサックスが絡む、といった取り合わせも妙に溶け込んでしまう。
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*縁日の飯野町五大院本堂と 丹治敬子さん、そして「までいライブ」のポスター

 この日には、フォーラム福島の支配人阿部泰宏さんにもお世話になった。車で飯野町まで送ってもらっただけでなく、もう閉鎖されて久しい芝居小屋享楽館跡を案内していただいた。

 翌日の会場は南相馬市の中心部原町区にある銘醸館。かつて醸造を営んだ旧家の施設を再生したギャラリーのひとつを借りた。ここではもう少しふつうのコンサートに近い雰囲気で、サイッドのソロと、ヤン・ビタールとのデュオに、仲野のサックスが加わるトリオの演奏が行われた。仲野の抑えたサックスの音が、繊細なウードの音色を引き立てる。演奏が終わると50人ばかりの観客から万雷の拍手を受け、3人はアンコール曲でこれに応じた。

 『北緯37度25分の風とカナリア』(弦書房)で知られる詩人の若松丈太郎さんも足を運んでくれ、初めて親しく言葉を交わすことができた。若松さんの仕事については、最近まとめられれた『福島原発難民、南相馬市・一詩人の警告1971~2011』(コールサック社)をぜひ参照されたい。

 ただ、会場にはひとりの子どもの姿もない。もちろん夜のコンサートだがらということもある。けれども、昼間も町に子どもの姿を見るのはごくまれだ。子どもの避難や疎開の状況も気になったが、学校の様子について、やはり会場に来られた相馬高校の渡部義弘さんから事情の一端を聞くことができた。
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 *南相馬市、原町銘醸館二番蔵でのトリオ演奏

 30日は午前中に南相馬を出発し、人気なく雑草の生い茂った飯舘村や、子どもたちの姿も見える川俣町を通って、昼過ぎに福島に戻り、新幹線で東京に向かった。そして夜の門仲天井ホールだ。

 サイッドのビザ取得の事情もあり、また非公式の来日ということもあって、事前にコンサートの告知を広く行うことができなかったが、お知らせした多くの方々から反応があり、客入り心配はしていなかった。だが、広いとはいえない会場に予想を超えて多くの方々が来てくださり、濃密な雰囲気の中で、この夕べはサイッドのソロ演奏が披露された。

 その後はわたしとの「対談」ということだったが、今回はともかくムスタファ・サイードという音楽家のことばを引き出すことに眼目を置いて、聞き手に徹することにした。というのは、この一連のイヴェントは、エジプトの民衆革命に感応して祖国に戻り声を張り上げた若い音楽家が、福島の出来事に感応してともかく福島で演奏したいと望み、それを友人・知人のつながりが支えて実現したという、何の公的な枠組みなく、また口実や意味もない、特異なそして幸運な出来事だったからである。

 もちろん、その背景には、2011年という年を刻む、アラブ民衆革命と日本の3・11という出来事がある。けれどもそこに意味づけの根拠を求めたり、公的なメッセージを送ったりすることではなく、その状況をみずから生きるという音楽家の意欲が、人びとを触発し、感応させて、一連の出来事を引き起こしたのである。

 コンサートは、援助する人びとや、集まって耳を傾ける人びとなにしは成立しない。そういう一人ひとりがこの音楽家の意欲に感応し、この一連のコンサートを実現させた。だから、福島と東京とそしてエジプトをつないだこの3回の演奏会には、歴史的な事件に連動する意味があるのではなく、この演奏会そのものが出来事であり、それはそれ以上の意味づけを要しない。歴史的な事件にかこつかけ行為ではなく、むしろこのような出来事が、その連鎖や呼応が歴史的な事件を引き起こすのだということ、3回の演奏会に付き合って、あらためて確認したような気がする。(念頭に浮かんでいるのは、この春以来ふたたび想起することの多いモーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』である。これについては、自由や民主主義との関係でも、もう一度本格的に論じてみたい。)
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 *五大院で演奏後にくつろぐ3人と、南相馬の海岸を歩くヤン

 ムスタファ・サイッドの福島行を実現するために、「献身」の気配さえ見せず、当たり前のことのように体当たりで奔走した仲野麻紀さん(とその仲間のヤン・ビタールさん)、その依頼に応えてさっそく動き、五大院と銘醸館という格好の会場を捜し出し、京都から足を運んで短期間で段取りをつけながら福島のコンサートには来られず、昨日の東京会場に駆けつけて、受付で応対していた立命館の渡辺公三さん、このお二人の無償の働きには深く敬意を表したい。
 
 なお、五大院での演奏はNHKで制作準備中のアラブ民衆革命をめぐる番組の一部に紹介される予定です。また、銘醸館での演奏は「映像ドキュメント.com」で近くビデオ配信される予定です。

2011年10月 6日

福島から福井へ

 福島ではサイッドのコンサートに付き合うかたわら、いろいろな人たちに会って話をうかがうことができた。とくに「県北地域絆作り支援センター」のスタッフで、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク(子ども福島)」世話人も務めているYさん、やはり「子ども福島情報センター」のSさん、「国際協力NGOセンター」のTさん、それに「原子力政策を問い直す宗教者の会」の世話人、Oさん、Okさんなど。

 「子ども福島情報センター」は、われわれも馴染みの広河隆一さんの迅速な支援で、ホールボディー・カウンターを用意し、「市民放射能測定所」を開設している。Yさん、Sさん、それにOさんたちは、みな子どもや子どもをもつ親を「疎開」させたり、そのための条件作りに尽力しているが、事故から半年以上経ってステージが変わり、新しい困難に逢着してその打開に心を砕いているようだった。

 事情は複雑で簡単にはまとめられないが、おおざっぱに言うと、「除染」と「避難」の角逐が出ている。基本的には避難するのがいちばんだが、それがさまざまな事情からままならない。そこで除染ということになるが、除染したら大丈夫というわけではない。除染には限度があるし、効果も長続きしない。それに費用も労力もかかり、補償のメドもまだない。汚染土や水のもって行き場もない。けれども、自治体は除染ですませたい。人口が流出してしまっては、自治体自体が成り立たなくなるからだ。

 だから、ホットスポットが出るとすぐに除染し、それを消す。そして「安全だ」と宣言する。結局、多少の汚染にはがまんしてそこに戻っても大丈夫、住んでいても大丈夫と言うことになる。ほんとうにそうなのか? 少なくない道県が、準備を整えて避難の受け入れを表明している。だが福島県や市は、住民に出て行かれたくない。そこで、とりわけ子どもをもつ母親たちが板ばさみで苦しむことになる。

 「福島はだいじょうぶ」ということになると、避難した人たちは臆病か自分勝手で、残ってがんばる人たちがエライということになる。そこに対立さえ生まれる。そして今では、避難する人たちは避難しているから、残っている人たちが当然ながら多数派である。学校の塀には「負けないぞ、○○児童」とか書かれている。だが、何と戦えと言うのだろうか?

 「臆病風」あるいは「風評」? だが間違えてはいけない。「敵」は放射能であり、それを撒き散らした責任のある東電や国(とくに経産省)である。放射能とは戦えない(「だいじょうぶ」と言い続ける「学者」もいるが)。だとしたら、福島の住民がどういう道を選ぶにせよ、かれらにその「苦渋の選択」を強いているのは東電と国であり、それを見誤っては住民の災厄には輪がかかるだけだろう。初期に避難した人たちには補償が出るが、後になって(あるいはいまから)避難する人たちには出ないという、支援のやり方には大いに問題がある。

 そんな福島を訪れた後で、5日は、とある市民団体に招かれて、講演のために福井に行った。テーマは「核とわれわれの未来」。

 どういうわけか「福」がつく県には原発が多い。福島は災厄にみまわれていまは注目を集めているが、、福井県には17基の原発が集中している。若狭湾のいわゆる「原発銀座」だ。福島の事故以来、知事は県下の原発の再稼動にいろいろ条件をつけて粘っているが、地元の方がしびれをきらして、再稼動や敦賀原発の増設を求めて突き上げているという。敦賀はかつて、原発をやるとどんどん金が出てくるから、50年後か100年後かに子どもが全部カタワになるかどうかはわからないが、「わかりませんよ、でも今のところはおやりになったほうがいいですよ」という 身もふたもない講演をぶって有名になった高木孝一市長を輩出したところである。(あまり品のいいサイトではないが、ここでも高木講演のサワリが読める。)

 原発を止めても、廃炉までに2、30年かかるから、その間「廃炉事業」は同じようにあるだろうし、国策に従ってやったのだから撤収も面倒を見ろと国にせまることもできる。そしてその間に、もっと将来性のある市作り県作りをするということもじゅうぶん考えられるのに、絵に描いたように「ヤクが切れる~、原発をくれ~!」と叫び出した。福島の災厄を見てもこのありさまで、とても正気の沙汰とは思えない。放射能が仕込まれていても、金は金だと言うのだろうか。原発は地域を解体し、滅ぼしかねないということを、いま福島が示しているのに。(これについては、元福島県知事佐藤栄佐久氏の再度のインタヴューも見られたい--『世界』10月号)

 講演の後の懇親会で知ったのだが、この会の中心メンバーたちはすでに四半世紀にわたって福井で反原発の運動を担ってきた人たちだった。かれらがいまもっとも心配しているのはいわずと知れた高速増殖炉もんじゅだ。しばらくのぞいてみなかったが、あの絶妙のもんじゅ君のツイッターもフォローしてみよう。

2011年12月23日

冷える仙台からのメール


 寒い。冷え込むと、何ができるわけでもないが、気持ちがふと北の方に向かう。夏は東京なみに暑くても、冬はずっと寒い。ここ数日はだいぶ冷え込むという。被災地はどんなだろうかと思っていたところへ、ふと昔の教え子からメールが届いた。明治学院のフランス文学科に勤めていたころの、もう20年程前の学生で、付き合いの悪い教師だからその後のことは何も知らなかったが、今は仙台に住んでとある教育施設で教員をしているという。
 今日はそのメールを紹介させてもらう(許可済み)。

    *     *     *

 近所のショッピングモールには人があふれ、
 クリスマスイルミネーションが輝いています。
 道路の亀裂やうねりを修復するドリルの音や、
 居住できなくなった建物を取り壊すショベルカーの音がなければ、
 あの3月に起きた事は夢だったのかな?と思ってしまいそうです。

 しかし私が現在勤務する、......校の生徒たちの
 こんな話を聞くと「震災は終わっていない」ことを
 強く思い知らされます。

 東松島に住む"自称・ガキの頃から荒れていた"18歳の少年は
 「沿岸部の瓦礫はやっとなくなったけど、
 臭いがひどくて、マスクとかメガネがないととても歩けない。」

 彼が住むアパートは1階部分が津波で完全に浸水したものの
 自宅は2階だったので、危うく難を逃れました。
 避難所で出会ったおばあちゃんが
 「今仮設で、ひとりでさびしそうだから」
 時々話し相手になりに行っているそうです。

 福島県の浪江町から避難し、現在仙台市で1人暮らしをしている
 17歳の女の子は
 「一時帰宅で自分の部屋に行ったら、白かった床が真っ黒になってて、
 よく見たらウジ虫がわいてた。仕方ないから棚の上の方に置いてた
 香水の瓶とかだけ持って帰ってきた」
 
 彼女は、震災以来普通に眠れなくなってしまったので
 医師に睡眠導入剤を処方してもらっているのですが、

 「弱い薬じゃ全然効かなくて、最近強いの飲んでるんだけど
 そうするとね、寝る前の記憶がとんじゃうの。
 この間起きたらアロマキャンドルがついたままになってて
 びっくりした(笑)」

 ・・でもみんな懸命に生きている・・のですが、

 国や東電の言うことは、相変わらず信用できないし
 宮城県知事はどうも、放射能被害を明らかにしたり
 除染に取り組んだりしないことが
 県民の利益になると考えているらしいしで、
 腹の立つ事ばかりです。

 (......)

 先生のブログ、時々読ませていただいております。
 先生の益々のご活躍、心よりお祈りしております!

    *     *     *

 メールありがとう。とても...。がんばります。

2011年12月25日

師走の一夕、芝を焼くー有馬記念の後

 毎年、師走も押し迫ってくると下総中山の競馬場では中央競馬会最大のレース有馬記念が行われる。ファン投票とJRAの選抜で、牡牝年齢に関係なく、その年いちばん強い馬が勢ぞろいする。距離も2500メートルと長い。

 今まで最高齢で勝ったのは、1969年と70年に6歳と7歳で驚異の連覇を果たしたスピードシンポリ(野平祐二騎手)だったが、今年は牡3歳のオルフェーヴルが勝った。この今年の3冠馬(皐月賞、ダービー、菊花賞)は1番人気で払戻金は安いが、その底力を見せつけるみごとな走りで楽しませてくれた。勝ちタイムは2分36秒0。3/4馬身差の2着にルメール騎手騎乗のエイシンフラッシュ、これで引退の名牝馬ブエナビスタは7着だった。

 始めから中盤までスローな流れで、オルフェーブルは後ろから2番手につけていた。鞍上の池添謙一騎手もかなりスローでやきもきしていたというが、3コーナー手前から徐々に流れが速くなると、外を回ってスーと進出、4コーナーを大外からまくり気味に加速すると、直線入り口では5、6番手まで押し上げた。「沈むような走りでハミを取って進んでいってくれた」と池添騎手。ハナを切ったアーネストリー、2番手のトーセンジョーダンに外から並びかけると1完歩ずつ差を広げ、馬場の真ん中を割ってきたエイシンフラッシュを一気にかわすと、外から迫るトゥザグローリーを寄せ付けず先頭でゴールに飛び込んだ。(日刊スポーツによる)

 この映像はYouTubeで観られる。
 今年はこの後でブエナビスタの引退式が行われたようだ。

 中山競馬場はこの日が一年の最後となる。有馬記念は10レース目で、弓取り式のような11レースが終わり、すべての馬と人がはずれ馬券の舞い散るなかを去ってゆくころ、競馬場の芝には火がつけられる。来春の芝を生やすために芝焼きが行われるのだ。寒風に掃かれるようにして一筋の赤と黒の線が枯れた広い芝生の馬場を渡ってゆく。

 若い頃、毎年暮れに見た風景だ(ふとした縁があって、何年間かここで働いていた)。ここには豊穣を祈る「春の祭典」はない。一年の労苦を風に委ねて静かに舞わすように、人の去ってゆく馬場の芝の上を今年も低い煙がはっていったことだろう。

2011年12月29日

被災地再訪、および仏教

 年末までにもう一度被災地をという思いを、昔の学生の便りに後押しされるようにして、26、27日とまた宮城に行ってきた。案内をしてくれたのは、以前もお世話になった山形孝夫さんと富永智津子さん、それに今年某テレビ局に入社して、何を買われてかのっけから仙台支局に配属された卒業生のIだ。

 山形さんが「"黒い海"の記憶」(『世界』8月号)に書いていた荒浜小学校、それに四月初めに訪れたとき近づけなかった閖上大橋を渡って閖上地区、そこから福島方向に下って亘理郡山元町に行った。

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  (左:海岸の公園から荒浜小方向を見る  右:時計の止まった閖上中学校)

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  (左:閖上中学校の中から見る校庭   右:閖上漁港付近のゴミ集積場)

 いちごのハウス栽培が盛んなところだったようだが、低地は壊滅で、海岸近くを走る常磐線はいまも津波に襲われたまま放置されている。町は常磐線をもっと陸側に移し、新市街区を作る計画をもっているようだが、それが磯浜漁港を拠点に生活する漁民たちの利害と対立しているという。

 漁業という生業は農業や商工業、とりわけ給与生活者たちとはまったく違うようだ。山形さんのエッセイに実例が描かれているが、「海の幸」が相手であるため、土地との関係や、企業その他の組織に頼って生きるサラリーマンたちとは生き方・考え方が違う。近代社会の枠で考えれば、漁業組合や漁業権をもとに生業を成り立たせるわけだが、その結びつきと「権利」とは、企業や所有権とは違って、むしろ「コモンズ」と言われるものをもとに考えた方が分かりやすいような生活の仕方だ。

 岩手県ではそれなりに行政の配慮があるようだが、宮城県はこの機会に外部資本を導入して、企業原理で漁業を作り変えようとしているようだ。そうなると、今の主流の考えでは経済的には「復興」を目指すことになるが、地域住民の生活全体のことを考えると、津波に輪をかけた「荒廃」を生み出しかねない。漁業権を債権化して売るという話は、後に国家破産に陥ったアイスランドでも、甘い話の発端にあったことだ。
 「復興」をめぐるそんな問題の縮図が山元町にもある。

 27日は、石巻北部の大きな仮設住宅を訪ねた。そこで、お寺の坊さんたちが移動式の「カフェ・デ・モンク」を開いていたからだ。釈迦の説法をするのではなく、被災した人たちにコーヒーや茶をふるまいながら愚痴や「モンク」をひたすら聞く、というカフェだ。道具一式を軽トラックに積んで、夏の間は青空カフェ、今は仮設住宅の集会所などで店開きする。

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  (左:石巻北部の大仮設住宅の一画   右:カフェ・デ・モンクの一隅)

 ガンジー金田と名乗る和尚を中心に、曹洞宗や真宗の坊さんたち、それにキリスト教の牧師さんたちも混じってやっている。「心の相談室」をやっているその道の専門家もいるようだ。ガンジー金田に聞いたところ、曹洞宗の寺の住職だが、このカフェではもう宗派は関係ないし仏教も捨てた(!)と言っていた。気持ちはわかる(!)。会ったとたんに冗談全開でポンポン話のできる「モンク」だった。

 東北にはお寺が多いと聞く。今度のような大災害のとき、もちろん多くの人が寺の世話になる。だが、それに以外に寺に何ができるのだろう。多くの新興宗教の活動もあるだろう。だが、伝統宗教に何ができるのだろうか。いわゆる葬式仏教として存続してきた日本の仏教者たちは、いま試されているのではないかと感じてきた。それに、若い(といっても中年が多いが)僧侶たちがこんなかたちで活動を展開している。そしてその活動はそれなりに受け入れられ、機能しているようだが、そこから日本の仏教の新しい展開ができるだろうか。

 福島でも、放射能の不安と地域のしがらみとの間で苦しむ母親たちを支援する坊さんたちに出会った。「原子力行政を問い直す宗教者の会」(⇒)や「放射能から子供を守る宗教者ネットワーク」でも宗派を超えた多くの僧侶たちが活動している。秋には、永平寺の僧侶有志が原発を問うシンポジウムを開き、真宗大谷派は「原発を問う公開研修会」を開いた。また、臨済宗妙心寺派は「原発に依存しない社会の実現」を謳った宣言を採択し、そうした動きを受けて、12月1日には全日本仏教会が「原子力発電によらない生き方を求めて」という宣言文(⇒)を出した。

 宗派を超えて個人で動く僧侶たちの活動があり、おそらくそれが宗派組織にも影響を与えて、いま仏教界からさまざまな動きが現れている。これが日本の一般的な宗教意識をどのように更新してゆくのか、見つめてゆきたい。

 ついでに言えば、年明け早々の1月7日(土)午後1時半から、明治学院大学横浜キャンパスで、「震災と宗教」をめぐるシンポジウムが開かれる。日本近代史の原武史さんの企画で、阿満利麿さん、島薗進さん、V・アレキサンダーさん、それに私が参加することになっている。(⇒案内


2012年1月 3日

年はまた改まり...

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 この「時」の変わり目とは何なのだろう。この大地(地球)が太陽の周りをまた一周したという。それに同調させて、人間はおのれの持続の「時」を計っている。人間(人類)の持続は無数の重なり合う断片によって縒り合され、その断片たる一人ひとりの人間は、またそれぞれに自分の齢を数えている。

 ピカソをはじめ20世紀の画家たちは、ラスコーの壁画に感嘆したという。たしかにその圧倒的なリアリティーは1万5千年という「時」の隔たりを超えて迫ってくる。だが、その「時」を超えるのはわれわれの意識ではない。逆にその「時」の方が、われわれの意識を凌駕している。1万年という「時」を、われわれはひとまとめに名指すことはできても、現実感をもって想定することはできないからだ。

 科学技術(というよりむしろ技術科学=テクノサイエンス)とは何をするものなのか? それも人間の知的関心によってというより、産業・経済システムによって促される(せき立てられる)技術科学とは? 個々の人間の意志を超えて、「理性の狡知」(ヘーゲル)あるいは「見えない手」(A・スミス)が働いている? いや、盲目の「計算的理性」(ハイデガー)の衝動が...。

 サイバネティクスの提唱者ノーバート・ウィーナー自身が半世紀前に言っている――
「われわれの多くが気づかずにいることは、過去400年間は世界史のなかできわめて特殊な時期だということである。この時期に変化が次々に訪れた歩みの度合は、それらの変化の性質そのものと同様、それまでの歴史に前例のないものだった。このことは、ひとつにはコミュニケーションの増加の結果だが、またひとつには自然を支配する力の増加の結果でもあり、後者は、地球のような限られた惑星上では、長い目で見れば自然への隷属の増加であるかもしれないのだ。(...)」

 またこうも言う――
「われわれは個人の死の不可避性を直視する勇気をもつのと同様に、われわれの文明の最終的な滅亡を直視する勇気をもちたいものだ。進歩を単純に信じることは、われわれの強さに属する確信ではなく、むしろ黙従に属し、したがって弱さに属するものでしかない。」

2012年3月16日

吉本隆明氏の逝去に合掌

 昨日(15日)はさんざんな一日だった。

 朝、気が付いてみると、前日アップデートしたiphone が不具合で、何度やってもいつもの画面にならず、電話も使えない。だからこんな不便なものはいやなんだ、と苛立ちながら会議のために大学に出かける。そして帰り、夜都心で会合の予定があったので、オートバイを置くためにいったん帰宅してみると、キーホルダーがない! 大学のどこかに忘れたのだ。ところが電話が使えず、家人に連絡することも(携帯の番号はiphone に入っている)、大学の同僚に連絡することもできない。会合の連絡先だけはメモしてあったので近くの公衆電話で断りを入れ、ともかく大学に戻ることにした。共同研究室の鍵を自分で開けて入ったまでは覚えているので、あてはあったのだ。
 案の定、鍵は見つかり、そこにいた会議流れの同僚たちと久しぶりに食事をして帰ったが、厄が一度に来たような一日だった。

 そして今朝、吉本隆明氏の訃報を受けた。

 人は誰でも死ぬ。だから吉本氏が特別だというわけでもない。それに、おそらくもう20年来吉本氏には縁がなかった。以前、駒込に住んでいたときは何度か、駅の近くで白山方向に自転車で走る吉本さんに出くわしたものだった。吉本さん!なんですかいま頃、と声をかけると、あぁ、運動不足だから朝ここまで新聞を買いに来るんですよ、と答えた。だが、いまの住所に引っ越してからはばったり出くわすこともなく、それ以後吉本氏の書くものや発言にとり立てて関心をもつこともなかった。

 それでも吉本さんの死にただならぬ感慨を抱くのは、若いころ一方的に受けた大きな恩義を感じているからだ。わたしやもう少し上の世代の多くの者と同じように、1960年代から70年代にかけて、あらゆる混乱と喧騒のなかで、ものを考えるということ、それも「自立」的に考えることを教えてくれたのは、吉本隆明の著作だったからだ。

 『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』『擬制の終焉』『言語にとって美とは何か』『自立的思想の拠点』『共同幻想論』『源実朝』『最後の親鸞』『悲劇の読解』『心的現象論』...、政治状況から思想的議論、戦後の日本を揺さぶった激動と混迷のなかで、世界のさまざまな書物を読み、状況と格闘しながら、この人は何ものにも依拠しない「自立」の思想的基盤を、みずからの営みの根本である「言語表現」に認め、言葉の発生から日本の現代の表現までを一貫して考察する『言語にとって美とは何か』を書き上げた。そして日本の制度性・政治性の基盤をなす「共同幻想」に取り組み、やがてさらに個的・私的な「心的現象」を扱う。それは日本という世界の片隅で、「輸入思想」に身を預けず(あるいは憑依せず)、文字通り「独力」で全世界に拮抗する思想を構築しようとする壮大な野心の展開だった。

 吉本さんはマルクスには基本的に同意しながら、その方法を言語表現や心的現象に応用し、ソシュールやニーチェやフロイトや、当時はやりのフランス実存主義の向うを張ろうとした。わたしがまったく無根拠にフランス文学の世界に踏み入り、フランス思想などをやるようになったについても、実はひそかな機縁がある。少なくともわたしは、当時の外国文学者に対する吉本さんの厳しい批判を呑み込むことから、いまにいたる仕事の道に入った。

 戒めのひとつは、ひとの褌で相撲を取らない(外国の虎の威を借る狐にならない)こと、もうひとつは、知的探求をアクチュアルな課題と切り離さないこと、等々。

 いまではわたしは吉本さんの行き方に同意していない。それは基本的には、「近代」の世界化状況のなかでの思想的交錯やその展開について、そしてそのなかに自分をどう位置づけるかについて、わたしが吉本さんとは違う考えをもつようになったからである。

 それについては、1984年にわたしがモーリス・ブランショの思想的遺書とも言ってよい『明かしえぬ共同体』を訳したことが契機となって、翌年雑誌『ユリイカ』で「共同性」をめぐる議論を行ったことからしだいに明瞭になった。このとき幸運にもわたしは6時間近くにわたって吉本さんとかなり密な議論をする機会をもった。

 『悲劇の読解』でバタイユにふれ、『最後の親鸞』では「非知」をキータームとしていた吉本さんに、「大衆の原像」という独自の概念と「非知」との関係、それも西洋現代の思想に登場する「非‐知」との関係について、両方の読者としてわたしは延々と語り、吉本さんが日本でこの地の知的状況にあくまでとどまりながら展開している議論の世界的共時性について、その相互照応について、自分の理解をとことん語った。けれども吉本さんはそれを受け入れなかった。わたしは誠心誠意、全力を傾注して説得したが、吉本さんは自分の議論はそんなものではないと否定して、ついにその孤塁を出ようとはしなかった。

 そのときにわたしは、吉本さんとは道が違ってしまったと思わざるをえなかった。だから、親しく突っ込んだ話しをしたのはそれが最初で最後になった。その後吉本さんは、ある人に言わせれば「大きなトラックに引っ越し荷物を満載して、狭い十字路で舵を切った」(つまりマルクス主義を捨てたということだ)が、もはやわたしには身近な話ではなかった。それでも『世界史の臨界』を書くとき、『アフリカ的段階について――史観の拡張』(1998年)には目を通した。西伊豆の海で事故があった後に出た著作だ。

 自分で言うのも恐縮だが、かつて酒井直樹さんと『〈世界史〉の解体』(以文社、1999年、増補版2004年)という本を作ったとき、酒井さんはあとがきでこんなことを書いてくれた。

 対談を始めて最初に私を襲ったのは、西谷さんが私とは異質な存在であるというどうしようもない感覚だった。彼には、庶民的なものとの繋がりへの固執、根をもつことに関する熟考、庶民の感性的な生活に根差した保守主義に対する意識された配慮、があったように思った。いわゆる「サヨク」の知識人が鈍感であり、ともすれば看過しようとする「庶民」の多様性としたたかさに共感する彼自身の能力への確信が彼にはあった。宮古島への彼の関心やクレオール文学への彼の思い入れは、その点を見事に示している。(...)

 わたしには過分なことばだと思えるが、酒井さんがそういうものを敏感に感じ取ってくれたとしたら、わたしが自分の経験からそういう傾向を身につけたというだけでなく、それを意識的に学んだのは吉本隆明の「大衆の原像」という観念があったからである(ただし、この表現については誤解が蔓延し、あるいはわたしが自分流に「曲解」しており、80年代の吉本氏と話がずれたのもその「曲解」に関係している)。

 上に挙げたような吉本さんの著書は、いま読むとほとんど理解しがたいものもある(例の『共同幻想論』にしてからがそうだ)。けれども、わたしだけでなく日本の戦後の一時代の若者に、詩とは、批評とは、思想とは何か、考えるとはどういうことかを示してくれたのは、70年代までの吉本隆明のこれらの著作だと言ってもよいだろう。もちろん、人それぞれに学んだことは違っているだろうが。
 
 言葉から始めて、共同性、法(規範性)、主体の意識、政治思想、古典から現代の文学表現、そして宗教まで、一貫して考えることを示したのもこれらの仕事だ。それは比類ない力業だった。その吉本さんがとうとう逝った。87歳だという。心から冥福を祈りたい。

 これからおびただしく出されるだろう追悼の言葉の末端にこの一文を添えておきたい。

2012年6月 5日

仏文学会「バタイユ・ワークショップ」

 先週末、東大本郷キャンパスで仏文学会の大会があった。学会など放っておけばよいという話もある。たしかに、学会がたんなる「業界」団体で、つまらぬ権威と階層秩序を作るだけのものなら潰れてもよいだろう。けれども、「業界」そのものが弱体化し、日本におけるフランス関係の研究自体が衰退してゆくとなると、これは残念だと言わざるをえない。何でも英語ですませればよいという風潮が、ブルドーザーのように知的領域を均してゆくことに、大学行政ばかりか当の大学までが進んで乗ってゆくご時世では、とりわけカウンターの参照軸は確保しておきたいと思う(これはなにもフランス研究だけの話ではなく、たとえば十分な近代化研究を踏まえた中国畑の研究の発展が望まれる)。

 長らく学会とは、ささやかなカンパのつもりで会費を収めるだけの関わりしかなかったが、今年は「バタイユ没後50年」という節目の年で、若い研究者から、この間日本でバタイユ研究を担ってきた何人かを集めてワーク・ショップを組みたいという話があり、そこに志があるのを感じて参加した(そういえば去年も、シュルレアリズム研究を異様に盛り上げている鈴木雅夫に誘われてワークショップに参加したが)。

 日本はバタイユがもっともよく読まれてきた国のひとつである。小説や『エロティシズム』だけでなく『内的体験』が文庫(といっても平凡社ライブラリーだが)で手に入る国など他にはない。フランスでも単行本は出ていない未定稿の『有用性の限界』まで文庫になっている。ここでは踏み込まないが、それには一考に値する理由があるだろう。

 バタイユとともにブランショも読まれてきたし、それと無縁でないかたちでレヴィナスもよく読まれている。「無縁でない」というのは、三者の初期の紹介者が重なっているからだ。バタイユには出口裕弘、澁澤龍彦、生田耕作など、ブランショには出口、粟津則夫、清水徹、豊崎光一といった人たちがおり、レヴィナスについて最初期の紹介論文を書いたのは清水徹で、80年代初頭にこのユダヤ人哲学者の本格的な導入を始めたのは合田正人、内田樹、それにわたし、そのうち二人はブランショ研究から入っている。

 これまで、アカデミズムの研究というと、それぞれの世代が本家フランスの方を見るばかりで、日本に蓄積されてきた成果はあまり顧みられなかった。その一方で、若い世代の関心やテーマを触発してきたのはむしろ日本の研究環境だったと言ってもよい。その交錯をきちんと視野に入れることが、いわゆるグローバル化の時代の研究の基本姿勢だろう。

 ましてや、日本でよく読まれてきた作家・思想家の話である。その「なぜ?」を踏まえれば、フランスやヨーロッパで読まれるのとは違った貢献を日本の研究者は「本家」にもたらすこともできるだろう。とりわけバタイユ研究では、フランスの研究者たちの「本家」意識への自足がその幅を狭め、生産的な展開を阻んでいるようにもみえるのが残念だ。

 バタイユもブランショもレヴィナスも、われわれの世代以降も若い研究者が多く出ている(レヴィナスに関しては哲学プロパーの領域でもすぐれた研究者がいる)。今回のワークショップを企画したのは、去年『バタイユと文学空間』を出した福島勲(北九州市立大)で、発言者として参加したのは、バタイユ関連の著作をいくつも出し重要な翻訳もしている酒井健(法政大)、『宗教の理論』を訳し駒場で長年学生たちを指導してきた湯浅博雄(東大)、長く地道を研究を続け『ジョルジュ・バタイユ』をまとめた岩野卓司(明治大)、バタイユの文学作品を研究しフランス語での発表が多い濱野耕一郎(青学大)、それにわたしの5人だった。

 限られた時間で(そのうえわたしは順番が最後で残り時間がなく)大した内容の話はできなかったが、せっかくのバタイユ研究者(曲がりなりにも、こんな妙な横紙破りの思想家に入れ込んだ非正統的研究者たち)の集まり、遠慮なく(それでも大分おとなしく)やらせてもらった。緩んだ時間もあったが、集まっただけのことはあっただろう。

 バタイユはキリスト教化以来西洋二千年の大きな波動を画す思想家だというのがわたしの持論だが(そのことはバタイユがごく私的な体験を世界大に押し広げたという強引な知的冒険と齟齬しない)、その展開には踏み込まず、70年代にバタイユの思想がもったインパクトと、ブランショのバタイユ論=共同体論の意義、そしてその延長にいかなる「戦争論」があるのか、さらにはピエール・ルジャンドルとの出会いがあるのかということの大筋だけを開陳させてもらった。

 若いフランス文学・思想の研究者やその予備軍にいささかの刺激を供給して、この領域を活性化してもらうためにも、こういう集まりは悪くない。これからも重ねてみたいと思わせる集いだった。音頭をとってくれた福島君に感謝。

2012年9月 5日

品川正治『戦後歴程』に期待する(雑誌『世界』連載)

 いま雑誌『世界』で品川正治氏が回想記「戦後歴程」を連載している。品川氏は日本興亜損保(元の日本火災)で社長・会長を務め、経済同友会の終身幹事、1924年生まれで今年88歳になるという。

 うかつなことにこの連載を最近ひとから教えられ、遡って7月号の第1回「激戦からの生還」から読み始めた。品川氏がある事件で三高(京都)を退学、そのまま志願して敗戦間際の中国戦線に送られ、激戦地を辛くも生き延びて復員、その船の中で憲法9条に出会った時の感動を語った章だ。簡潔で要を得た筆致で、劇的な事柄が次々と語られるが、余分な講釈や言い訳がないのがじつに潔い。

 この回想記が即座に胸に響いてきたのは、理不尽な戦時体制のなかで生じた事件の責めをみずから負って前線に赴き、九死に一生を得て帰還(さしずめ五味川純平『人間の条件』のエリート版、いや大西巨人『神聖喜劇』か)、廃墟となった日本の経済的な復興を新生の志をもって担い、労働組合活動から経営者団体の指導までを経験してきたこの筋金入りの「経済人」が、今日の日本の状況を敗戦後のそれに重ねて、われわれの行く末を照らすよすがとして、みずからの生きた戦後日本を書き遺そうとする気概が溢れているからである。

 2011年の3月11日以降、日本を襲った出来事に「敗戦」を想起した人びとは少なくなかった。大津波の引いたあとの光景が、爆撃の後の焼野原を想起させたというだけではなく、また福島の原発事故が広島・長崎の原爆を想起させたからというだけではない。戦後の日本が追い求めてきたものの成果が一瞬にして崩壊し、その負の遺産が剥き出しにされたのである。だから多くの人びとが、日本は変わらねばならないと強く思い、その思いを語った。「敗戦」が想起されるのは大規模な破壊や惨事の外観のためでばかりではなく、それを経験した人びとのこの思いの深さによってである。

 「敗戦」が明治以来70年の日本の破綻であったとしたら、今度の出来事はそれ以後60余年の日本の破綻でもあった。それは現在の日本の統治構造の「メルトダウン」にも表れている。取り繕おうとする動きは絶えないが、次の選挙の構図もまったく描けず、描けるのは最悪の事態ばかり(「ペストかコレラか」はたまた狂牛病か)という政局が如実に示しているように、現在の危機と前例がないほどの混迷に入り込んでいる。

 折しも2008年にアメリカの金融システムが破綻して世界に経済危機が広がるなか、11年の春にはアラブ世界に深い地殻変動が現れた。グローバル化した世界で、日本もこれらの変化と無縁ではない、というより、それは中国やインドの成長とともにグローバル世界そのものの変容を告げている。

 それらのことも視野に置きながら、品川氏はとりわけ保険業界という経済や権力システムの舞台裏や予見に関わる特別の場に身を置きながら生きてきた戦後の日本を批判的に回想しようとしている。日本が曇天のもとダッチロールに揺れるときに、これがまたとない指針のひとつになるだろうことが今から期待される。7月号に掲載された「連載にあたって」を全文引用したいが控える。ぜひ読まれたい。

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