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2010年5月17日

〝自発的隷従〟について(1)

 今年の『世界』2月号(普天間基地移転問題特集)に寄稿した「〝自発的隷従〟を超えよ-自立的政治への一歩」は、幸いいくらか人目にとまり、沖縄-安保問題の理解を深めるのに貢献したようだ。この小論ではほとんど解説する余地がなかったが、編集部がタイトルのうえに肖像画を入れて喚起してくれたように、この〝自発的隷従〟という表現は16世紀フランスの人文学者エティエンヌ・ド・ラ・ボエシー(1530-1563)の小著を典拠としている。このことについて少しまとめておきたい。

 じつはこの言葉、初めて引用するわけではない。2007年11月10-11日に東京外大で行った映画上映+シンポジウム「沖縄・暴力論」のポス ターで、「暴力論」という赤い題字に重ねて「帝国的テロル&経済原理主義」と「自発的隷従vs.自爆的抵抗」という二つの標語が刷り込んであった。
 前者がグローバル世界の規定性、後者はそこでありうる対応の「あれかこれか」を示唆している。〝自爆的抵抗〟というのは、高嶺剛監督の映画『ウンタマギルー』(1989)の最後の場面(西原製糖所の親方が養女で妖女のマレーを腕に抱えながら、「今日から沖縄は日本だ~!」と叫んで自爆する)からわたしが思いついた表現だ(「ウンタマギルーの眉間の槍」『〈テロル〉との戦争』2006所収、参照)。
 これを「暴力論」に刷り込んだのは、戦争-戦後の占領-日本復帰-基地永続という時代の流れを通して沖縄が置かれた状況を、グローバル秩序との関連で「暴力論」の観点から捉え直そうとするとき、沖縄に働く「暴力」の質を見定めるのに、「自発的隷従vs.自爆的抵抗」という二つの対表現が、潜在構造を照らし出してくれると考えたからである。(ただしこの二つは、最近またぞろ知ったかぶりの若い論者たちが無知をさらして批判した気になっている「二項対立」などという単純なものではなく、一方があったら他方がないという相互転換関係にある。)

 また、この対は、カズオ・イシグロの衝撃的作品『わたしを離さないで』を論じたとき、終始念頭にあったものでもある。「〝思い出をもつ〟ことの無惨」(『理性の探求』、岩波書店、2009年に収録)と題したそのエッセーを書きながら、いつも脳裏を去らなかったのはパレスチナ人監督ハニ・アブ・アサドの作品『パラダイス・ナウ』(2005)だった。
 人が揺るがしえない〝結界〟のこちら側でそれなりに満足な生を生きようとすると、〝自発的〟に〝隷従〟を選ぶことになり、それを受入れずに〝結界〟を破ろうとすると、そこはもはや生かしてもらえる場所ではなく、〝結界〟を越えること自体が〝自爆的抵抗〟になってしまう。
 イシグロは〝結界〟のこちら側で、従容として〝満足な生〟をまっとうしようとする存在(クローン)の心的世界を描き出した。けれども意図してか否か、イシグロの作品は、核エネルギーや生命科学テクノロジーが、現代の人間の統治の装置そのもの(〝分離壁〟と一体の〝クローン技術〟)であることを示唆する力をもっている。そしてそのことはまた、〝自発的隷従〟を語った16世紀半ばのフランスの一学徒の作文が、統治の根源的的側面をみごとに射抜いていたことをも証しすることになる。

 〝一学徒〟と書いたのは、『自発的隷従論』は古典学と法学を学ぶド・ラ・ボエシーが16歳か18歳のときに書いたとされる小論だからである。とはいえ、彼は22歳でボルドー高等法院の評定官となるほどの俊英で、少し遅れて同僚となったミシェル・ド・モンテーニュ(1533-1592)と厚い親交を結ぶ。その交友の深さはモンテーニュの『エセー』に印象深く語られている。
 『自発的隷従論』は、人間は自由に生きるよう生まれてついているにもかかわらず、いつの時代にも圧制がはびこって絶えず、人々もまた喜んで隷従を受入れているように見えるのはなぜか、と問うた稀有の考察である。つまり、当時広まり始めた「自然権」の考えにもとづきながら、圧制は支配する側の力によって維持されるのではなく、むしろ支配される側の自発的な隷従によって支えられ永続する、と論じたのである。
 モンテーニュの姉妹(未亡人)と結婚したド・ラ・ボエシーは、33歳の若さで赤痢(あるいはペスト)に罹って世を去る。モンテーニュはその死を悼んで遺稿集を出版するが、件の小論だけはそこに加えなかった。というのは、フランスが宗教戦争に揺れた当時としては、誤解を招きかねない内容をもつ、しかし透徹したこの小論を、彼はすでに名声を得ていた自分の『エセー』の最終巻に組み込むかたちで、保護しつつ公表しようと考えていたからだ。
 けれども、原稿の写しがユグノー(フランスのカルバン派新教徒)一党の手に渡り、彼らは自派のパンフレットに原稿の一部を組み込んで出版し(1574年)、さらにユグノー派の牧師の著作『シャルル9世治下フランス国の覚書』のなかにさらに長い部分が引用され、刊行されてしまった(1576年)。そのため、カルバン派の嫌疑をかけられることを嫌ったモンテーニュは、自分の計画を断念せざるをえなかった。結局この小論は、宗教戦争下で新教徒の主張を代弁する政治パンフレットとして流布することになったのである。(つづく)

★なお、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシー『自発的隷従論』は以下の二つの邦訳がある。
ド・ラ・ボエシー「自発的隷従を排す」荒木昭太郎訳、『筑摩世界文学大系74・ルネサンス文学集』、1964年
山上浩嗣 「ラ・ボエシ『自発的隷従論』、解説・訳・注」(1)~(3)、『言語と文化』(関西学院大学言語教育センター紀要)第7号、2004、第8号、2005、第10号、2007。この解説は簡にして要、意を尽くしている。
★フランス語ではポケット版もいくつか出ているが、Muriel AbensourによるPetit Bibliotheque Payotの版が、作品に関係する他の文献資料も含んでいて便利である。Etienne de la Boetie: Le discours de la servitude volontaire, Payot, 1976, Payot & Rivage, 2002.

2010年5月21日

〝自発的隷従〟について(2)

 まず、ド・ラ・ボエシーの論の概要を紹介しておこう。

 彼は、人間は本来、自由に生まれついているはずだと考える。つまり、誰かに隷従するためにうまれたのではないと。獣も折に入れられれば苦しむように、「われわれが自然の状態において自由であるということは疑いえない」。ところが、古典古代からの歴史も、現代に近いところでも、人びとも国々も、いたるところでひとりの圧政者の支配を耐え忍んでいる。それはなにゆえにか、と彼は問う。

 彼に言わせれば、圧政者の力は、じつはその支配下にある人びとが与えている力にほかならない。圧政者が人びとを害するのは、人びとがそれに耐え忍ぶことができるからだ。けれども、かれらが同意しなかったらとしたら、圧政者も支配を維持することはできない。だから、自由であるためには、圧政者から何かを奪いとる必要はない。ただ、そう欲するだけでよい。自由であろうとすればいいのだ。にもかかわらず、人びとは隷従にあまんじている。まるでそれを望んでいるかのように。

 権力を手にするには3つの様態がある。一つは選ばれて、二つめは武力つまり征服によって、三つめは家系つまり継承によって。方法はさまざまだが、圧政の様態は変わらない。
 そして圧政(強権の支配と考えればよいだろう)のもとでは、
「…信じられないことに、民衆は隷従するやいなや、自由をあまりにたやすく、しかもはなはだしく忘却してしまうので、ふたたび目覚めてそれを取り戻すことなどできないようになってしまう。なにしろ彼らは、あまりに自由に、みずから進んで隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく隷従を勝ち取ったのだ、とさえ見えるほどだ。
たしかに、人はまず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人びとは、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されることによってなしたことを、進んで行うようになる。そういうわけで、頚木のもとに生まれ、隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見出したもの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えないし、自分が生まれた状態を、自分にとっで自然なものであると考えるのである。」(山上訳 Ⅱ-229-230、訳は多少簡略化してある)
 
 習慣が、隷従の毒を飲み続けることで、それをまったく苦しいと感じなくなる人びとを作る。つまり人間の自然性がいかに自由を求めようとも、習慣はそれを忘れさせてしまうのだ。だから、自発的隷従の第一の原因は習慣だということになる。

 けれども、たとえ自由が世界中から失われたとしても、みずからそれを想像し、味わいさえする資質が人間にはある。だから、自由への性向を眠らせる巧みな方策もまた生じる。
 著者はここで、古代ペルシャのキュロス王の例を出す。リディア人が叛乱を起こしたとき、これを制圧した王は、その町に軍を常駐させる代わりに、淫売屋、居酒屋、公共の賭博場(カジノ?)を建て、住民はこれを大いに利用すべしという布告を出した。これ以降、リディア人に剣を抜く必要はなくなった。これが「娯楽」というものだそうである。
 ローマ帝国の名物に「パンとサーカス」がある。それは、「民衆にとって隷従の餌、自由の代償、圧政のための道具であった。…こうして民衆は阿呆になり、そんな暇つぶしをよきものと認め、目の前を通り過ぎるだけの空しい悦びに興じたのであり、そうして隷従に慣れていったのである。」(Ⅱ-142)
(つづく)

2010年5月22日

〝自発的隷従〟について(3)

 だが、何といってもこの論の眼目は、著者が「人びとをより自発的に隷従へと向かわせる方法」について述べたところにある。ド・ラ・ボエシーは、圧政者が軍隊や武器で守られていると考えるのは大きな間違い――それは体裁か、たんなるこけおどし――であって、圧政者を守るのは、つねにほんの少数の人間たちなのだと言う。それはこういうことだ。

 「…王がみずから圧制者だと宣言したとたん、国のすべての悪い部分、すべてのくず――小悪人のことではなく、激しい邪心やめざましい貪欲さに駆られた者たち――が、獲物の分け前にあずかろうと、そのまわりに集まってきては彼を支え、その大圧制者のもとで、自分たちが小圧制者となる」のである。

 「…まず、5,6人の人間が圧政者の信頼をうる。つぎに,みずから彼に近づくか、彼に誘われて残虐なふるまいを共謀し、逸楽の場に同伴し、淫行のお膳立てをする。また、略奪から得られたもののおこぼれにありつく。この者たちは、主君をうまく調教することによって、この集団全体の益になるように、主君が邪悪でなければならないようにした。その邪悪さは、この主君自身の悪行のみならず、その手下どもの悪行にも起因しているのだ。彼らは、みずからに服し、その地位を享受する5,6百人を従え、自分たちと圧政者との関係と同じような関係を、彼らとの間に築いた。そしてこの5,6百人は、みずからのもとに6千人を登用し…」
 つまり、圧政者のすぐ下に、圧政者の悪行のおこぼれに預かる連中がいる。かれらはまた、圧政者の力を後ろ盾に、みずからも下にいる者たちに圧政を及ぼし、またその手下が…ということだ。

 こうして圧政者は、ただいるだけで何もしなくても圧制は下々にまで及ぶ。けれども、圧政者の権威を利用する者たちにも、いいことばかりがあるわけではない。
 「それにしても、卑屈にも圧政者に服従し、この者の支配と民衆の隷従から利益を得ようとするこれらの連中を目にするにつけ、しばしばその悪辣さ加減にあきれる一方で、ときおりその愚かさ加減があわれに思われてくる。というのも、圧政者に近づくことは、自らの自由から遠ざかり、いわば両手でしっかりと隷従を抱きしめることでなくてなんであろうか。
耕作人や職人は、隷属はすれども、言いつけられたことを行えばそれですむ。だが、圧政者のまわりにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。彼らは圧政者の言いつけを守るばかりでなく、その意向をあらかじめくみとらなければならない。この連中は彼に服従するだけでは十分ではなく、気に入られなければならない。…」
 そのうえ、圧政者は財をもつものを好む。つまりその蛮行の餌食にする。だから、圧政者の支配と民衆の隷従から利益を得ようとする者たちは、それによって肥え太り、圧政者の前で、まるで貪欲な獣の前におのれの身をさらすかのような立場におかれる。

 こう論を展開して、人間の自由な性向こそが人びとの間に「友愛」の絆を生み出す、と考えるこの若い人文主義者は、次のように述べて結びを準備する。
「たしかなのは、圧政者はけっして愛されることも愛することもしないということである。友愛とは神聖な名であり、善人同士の間にしか存在しないし、互いの尊敬によってしか得られない。それは利益によってではなく、生き方によって維持される。」
(つづく)

2010年5月23日

〝自発的隷従〟について(4)

 支配を権力を論じる際に、多くの論者たちは、それを支配者による被支配者の一方的な力の関係(能動/受動)とみて、加害者/被害者という図式をあてはめ、そこに悪/善の判断を重ねて加害者の悪を告発する、といった構えをとる。それに対して、ド・ラ・ボエシーの論の面目は、「圧制は支配する側の暴力によって維持されるよりも、支配される側の自発的な隷従によって支えられる」と喝破するところにある。放っておけば崩れてしまうはずの権力も、従属する側がみずから進んで支えて維持するということすらある。だから彼は、支配の不当を難じるよりも、なぜ人びとはかくも嬉々として隷従を選びとるのか、と問うのだ。

 日本でも掃いて捨てるほどいるフーコー教徒たちがこの論を読めば、そうだよね、フーコーが示したように権力は上から働くだけではない、むしろ頭のないミクロ権力の網の目が毛細管のようにはりめぐらされているのだ…、などとしたり顔で言うだろう。けれども、何でもフーコーの枠に落とし込んで分かったつもりになるそんな浅知恵は、意味のないアカデミズムの論文の数を増やすのには役立っても、現実の政治を理解することとは何の関係もない。そういう手合いは早いところ20世紀の訓詁学の穴の中に落ちて眠ってもらおう。

 むしろここで想起すべきは、今は歴史の闇の中に消えてしまったソヴィエトの論理学者ジノヴィエフである。レーニンの側近でスターリンに粛清されたジノヴィエフではなく(彼は本名が別にある)、ソルジェニツィン騒ぎの余燼のなかで小説『恍惚の高み』が国外出版されたため、ソ連を追放された元モスクワ大学教授アレクサンドル・ジノヴィエフだ。

 1976年、片道切符で降り立ったミュンヘンの空港で、待ち受けて「自由の空気はどうですか?」と争ってマイクを差し出す西側ジャーナリストの群れを前に、奇想天外爆笑放屁の小説の著者は、侮蔑もあらわにこう言い放った。「自由の味だって? 君たちは何もわかっていない。君たちがありがたがって自慢する〝自由〟なんて〝向こう側〟では何の意味もないんだよ。あの体制が圧政だけで成立っていると思ったら大間違いだ。そんなことで70年ももつわけがない。……あれは、〝自由〟など必要としない90パーセントの人びとによって支えられているんだ。かれらはそんな面倒なものは欲しがらない。かれらに〝自由〟を与えるなんて、魚に傘をさせって言うようなものさ…。」
 以後、この追放者は西側ジャーナリストの総スカンを食い、彼らが熱狂した「ペレストロイカ」のまやかしも徹底的に批判したため――彼はそれを「カタストロイカ」と呼んだ――ほとんど狂人扱いされ、無理解のうちに「20世紀のカッサンドラ」を自認して、戯画を描きながら2006年に流謫の地で世を去った(ジノヴィエフを思い出すにはよい機会だ。関心のある向きは『余計者の告白 上・下』(河出書房新社、1991)を参照されたい)。

 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシーがいま思い起こされるのは、フランスで宗教戦争の時代に古典的教養で育った利発な若者が、そのまっすぐな知性で見抜いた圧政存続のからくりが、いまでもいたるところに存在しかつ作り直される理不尽な支配体制継続の基本的構造を照らし出すからである。手の込んだ抽象的な理論化ではなく、ずばりと的確に言い表された表現が、時代を超えて、人びとの生きる世界のあり方や、その核心的な関係を、鷲づかみするようにして理解させてくれる。「自発的隷従」とはそのような表現なのだ。
 (つづく)

2010年5月26日

〝自発的隷従〟について(5)

 いま日本でこの表現が想起されるのは、とりわけ戦後のアメリカとの関係に関してである。

 日本はアジア太平洋戦争に敗北し、5年間アメリカの占領統治下に置かれた。その間に、「戦争放棄」を定めた日本国憲法が制定され、1951年に連合国とサンフランシスコ講和条約を結ぶことで独立を回復したが、同時に、アメリカ軍の駐留継続を認めるため二国間安保条約を結ぶ。また、このとき沖縄は日本から切り離され、アメリカ軍が自由に使用する前線基地の島となる。朝鮮戦争後、冷戦が深刻化するなか、アメリカは日本に「自由世界」防衛の一端を担わせるため、再軍備のための憲法改定と教育基本法の改定を求める(池田・ロバートソン会談)。その要請に応えるため、日本の保守勢力を統合し「自主憲法制定」を掲げる自由民主党が結成されることになる。そして1960年、岸内閣によって新安保条約が締結される。

 もう一度ド・ラ・ボエシーを引用しよう。
「人はまず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人びとは、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されることによってなしたことを、進んで行うようになる。そういうわけで、頚木のもとに生まれ、隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見出したもの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えないし、自分が生まれた状態を、自分にとっで自然なものであると考えるのである。」
 とはいえそれは、隷従状態に利益と安逸を見出した者たちにとってである。とくに、切り離された沖縄にはそのような安逸はなかった。

 新安保条約は期限を10年とし、以後は双方の1年前の予告で破棄できるということになっているが、70年に自動更新されて以来、一度もその意義を問われることなく今日に至っている。
 70年の更新は沖縄の施政権返還とセットになっていた。それ以後、日米安保の存在は、沖縄の米軍基地とともに、日本にとって動かしえない所与の前提であるかのように、冷戦が終わってもそのまま存続してきた。
 その間、「日米地位協定」に端的に表われているようなアメリカへの従属を、日本にとってあたかも「自然なもの」であるかのような環境が作られ、政治においても(国際政治であからさまにアメリカに追従することは言うに及ばず)、経済においても文化においても、アメリカに従い、アメリカを範とし、「アメリカのようになる」ことが理想のように求められてきた。とくに、あらゆる分野のエリートたちは、アメリカで教育を受けたり、職業訓練を受けたりして帰国し、二言目には「アメリカではこうしている」を切り札のようにもちだす習性を、恥ずかしげもなくひけらかしてきた。

 かれらはもはや従属を従属と意識せず、アメリカに認められることを喜び、「アメリカ的である」ことを誇りさえする。そんな連中に関しては、「従属を勝ち取った」気になり、「従属を抱き締めている」かのようだと憐れんでやればいい。だが、たちが悪いのは、自分たちが祀り上げるアメリカの威光を、自分たちの恣意的な権力行使の後ろ盾にしたり、自分たちにとってアメリカとの関係が命綱だからといって、「アメリカを怒らせてはいけない」と、他の者たちにまで圧力をかけて従属を押し付けようとする手合いである。
 ド・ラ・ボエシーは書いていた。「…だが、圧政者のまわりにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。彼らは圧政者の言いつけを守るばかりでなく、その意向をあらかじめくみとらなければならない(「思いやり」?)。この連中は彼に服従するだけでは十分ではなく、気に入られなければならない。…」
 こういう手合いが、冷戦終結後20年のいまも旧態依然の日米関係を支えている。それは日本におけるかれら自身の地位が、この隷従関係を足場に作られており、当のアメリカ以上に、かれらこそ対米従属を必要としているからである。

 もはや細かくは論じないが、現在の普天間基地移転問題とその扱われ方の背後には、日米安保条約を不動の前提としたこのような「自発的隷従」の環境がある。
 この十数年にわたって日本の社会を激変させたいわゆる「構造改革」も、実はこの環境のもとで繰り返された日米構造協議やそれに伴うアメリカの日本政府に対する「年次要望書」に従って推し進められてき。その結果が、あちこちで崩壊をさらしている今日の日本の社会である。
 無差別殺人や幼児虐待のような救いがたい悲惨な犯罪は、家庭道徳やモラルの問題に解消されるものではなく、日本の社会がもはや人を生きられるように育てる力を衰弱させてしまっているということの兆しである。それに対して取られる処方箋が、またまたアメリカの要求するもの(厳罰化、裁判員制度、自己責任原則、etc.)だとしたら、事態はますます悪化するばかりだ。
 もういい加減、「まがいものの夢」(『現代思想』2009年3月号オバマ特集)から醒める時だろう。「夢(アメリカン・ドリーム)」ではなく「希望」を、人びとが、とりわけ若者が抱ける社会にしたいものである。そう書きながら、若者たちのわずかな「希望」のおき火を撮り続けた橋口譲二の写真集『17歳-2001-2006』(岩波書店、2008年)を想起する。

*実はド・ラ・ボエシーの論は「友愛」論をも含んでいて、現代日本のコンテクストのなかにおくと何やら意味深長なのだが、話はこれ以上に広げず、今回はとくに戦後日本の政治的規定性との関連だけにとどめておきたい。あとは『世界』2009年11月号の「政治が回復するとき」と2010年2 月号の「自発的隷従を超えよ――自立的政治への一歩」を参照していただければ幸いである。(了)

2010年7月 6日

歴史は過ちに頓着しない-S・ツヴァイク『アメリゴ』から(1)

 「アメリカ」という響きも押し出しもいい名はどのようにして付けられたのか。少し調べればこれは誰にでもわかる。イタリアの航海士アメリゴ・ヴェスプッチの「功績」にちなんで付けられたということだ。
 その「功績」とは、コロンブスが到達した島々やその先の陸地が、このジェノヴァの船乗りが頑強に信じていたようなインド近辺ではなく、未知の大陸だということを、ヴェスプッチが初めて「発見」し報告したことだとされる。

 けれども、アメリゴ・ヴェスプッチは当時の並み居る著名な航海者のひとりとして名を残してはいない。正気の沙汰ではないと言われながらも大西洋横断を企て、何度もカリブ海周辺に航海したコロンブスや、アフリカ南端を目指して希望峰を発見したバルトロメウ・ディアス、それに東インド航路を開いたバスコ・ダ・ガマ、あるいは後に世界一周を企てたマゼランのように、船団を率いた航海者として知られているわけではない。

 そのべスプッチがなぜ、大西洋と太平洋を隔てる巨大な大陸と、世界の未来を開く偉大な国(?)に名を残すことになったのか。そのきっかけを作ったのは、ヴォージュ地方(現在のフランス西部)の小さな町で一五〇七年に出版された一冊の本であり、『宇宙誌入門』というこの本に、「最近発見された未知の大陸」を書き込んだ地図を載せた、マルチン・ワルトゼーミュラーという地図製作者だった。彼は新大陸の「発見者」をアメリゴ・ヴェスプッチだと解説し、その功績を記念してそこは「アメリカ」(アメリクスというアメリゴのラテン語名の女性形)と呼ぶのがふさわしいと提案し、かつその地図に「アメリカ」の名を書き込んだのである。

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 この本は、相次ぐ地理上の発見に沸くヨーロッパで、世界の新たなイメージを提供するものとして好評を博し、各国語に翻訳されて(もとはラテン語)、「アメリカ」の名はたちまち広まった。

 けれども、「新世界」や航海者たちの冒険にそれほど通じていたとも思えないヨーロッパの片田舎の若者が、どうして「新大陸」命名の権利を得ることになったのか。そこには、断片的な情報の独り歩きと、偶然が紡いだ小さな私的な山っ気や功名心の錯綜、それに世界が大きく揺らいでいるときに、何か時宜に適ったつごうのよいものが何の根拠もなくいつの間にか広く受入れられてしまうという、人間の世界のいい加減さがある。

 その事情について詳しく教えてくれるのが、伝記の名手として知られるシュテファン・ツヴァイクの小著『アメリゴ』である。日本語では入手の困難なこの本の仏訳を、ふとしたことから手にして読んだ。何年か前、パリからナントに行く列車に乗り遅れ、モンパルナス駅のキヨスクで暇つぶしの本を物色していたとき、なんとツヴァイクの文庫本が並んでいて、そのなかに『アメリゴ』があったのである。以下はこの本で知ったことだ。(つづく)
 

歴史は過ちに頓着しない-S・ツヴァイク『アメリゴ』から(2)

 アメリゴ・ヴェスプッチは、もともと船乗りでもなければ冒険家でもなく、50歳になってそれまで勤めていた銀行(メディチ家)の出店が閉鎖され、ふとした機縁で、コロンブスが〝発見〟した〝西インド〟探索の船団に乗り込んだようである。

 ところが、当時の荒くれで怪しい船乗りたちのなかでは格段に教養もあり、その代わり物欲や野心はなく、ただ職業上身につけた船や星読みの知識を生かして、未知の世界を知りたいと願っていたらしい彼は、一四九九年の最初のスペイン船団の航海で頭角をあらわし、次にはポルトガル王がカブラルの漂着した陸地(ブラジル)の南を回ってインド航路を探るために派遣した船団に、今度は名指しで案内人として雇われる。この航海は実を結ばず、熱帯から温帯、さらにはその先へと進んでも一向陸地の切れ目が現れず、一行はとうとう諦めて引き返すことになるが、このときヴェスプッチは問題の陸地がインド近辺などではなく、未知の大陸だと確信したのである。

 彼はそのことをポルトガル王や元の雇い主(メディチ家の当主)に書面で報告した。そこには、地上の楽園を思わせるようなブラジルの様子なども、自由な筆致で書かれていた。

 その文書が流出して、北イタリアのあざとい印刷業者の手に渡り、『新世界(Mundus Novos)』と題したラテン語のパンフレットとして出版された。当時はラテン語が学識の証であり、おそらく箔をつけるために翻訳されたのだ。ほどなく、それを元につぎはぎで作られたと思しき『四つの航海』という文書も現れた(ヴェスプッチの航海は実際には3回だったと思われるが、それに先立って、コロンブスの第3回航海の前年に最初の航海があったとされている)。それはただちに、当時地理上の発見に貢献したコロンブスやディアス他の航海日誌などを集めた集成に収録されて注目を集めた。というのは、ヴェスプッチの文書はインド航路の開拓記ではなく、そのタイトルによってはっきりと『新世界』の出現を告げていたからである。

 その頃、最近の劇的な冒険の成果を取り入れて、伝統的なプトレマイオス図の当代版を作ろうとしていたヴァルトゼーミュラーとその仲間は、真偽の怪しいこの冊子を手に入れ、自分たちの本『宇宙誌入門』にそのまま収録した。そして「アメリカ」命名の提案をしたのである。

 ところが、やがてこれにはクレームが付く。たしかに、コロンブスは自分が到達したところをインドだと信じ込んでいたが、大西洋を横断できることを最初に示したのは彼であり、他の者たちはその後に続いたに過ぎない。ヴェスプッチはそこが未知の大陸であると報告しただけである。

 もちろん、人間世界にとってはその認識こそが肝要だと言うこともできる。コロンブスは古い認識の枠にとどまっていたが、ヴェスプッチはそれが未知の大陸だと認識し、そのことでヨーロッパ人たちの世界像を一気に広げることになった。

 とはいえ、ヴォージュの若い地図製作者は、どうやらそこまで考えてヴェスプッチの功績を評価したわけではないようだ。というのは、数年後に本の改版を出したとき、ワルトゼーミュラーは自説を撤回し、地図上の「アメリカ」の名前も消して「未知の大陸」に置き換えている。けれども時すでに遅く、「アメリカ」の名はひとり歩きして広まり、人びとの胸を膨らませた未知の世界のイメージに貼りついてしまっていた。
 
 やがて本格的にこれに噛みついたのは、『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』で知られるバルトロメオ・ラス・カサスである。彼は一五〇二年にエスパニョーラ島に宣教師として赴いて以来、長く新大陸周辺にとどまって、そこで起こった変化をつぶさに観察してきた。そのラス・カサスは、父親がコロンブスの航海に同行したという事情もあって、あくまでそこを「インディアス」と呼び、『インディアス史』を書き残した。そこで彼は、新大陸の発見はコロンブスの功績であり、何の功績もないヴェスプッチはその簒奪者に過ぎないと非難したのである。

 それ以来、ヴェスプッチは「簒奪者」の汚名をこうむることになる。けれども、彼自身は自分が「発見者」だと公言したわけでもなく、『新世界』という冊子を出版したわけでもない。ただ、彼の私的な報告が計算高い印刷業者によって勝手にラテン語訳され、しかもラテン化された著者名で出版され、それがためにその文書は「当代一の碩学が書いたもの」といった評判を受け、さらにそれを手にした事情に疎いヴォージュの印刷業者と地図製作者が、またまた都合よく手を加えて(文書の宛名を自分たちの領主名にしている)、あげくに僭越な勇み足とも言える大胆な提言をしたのである。

 ヴェスプッチ自身はこうした成行きににはいっさい関わっていない。彼は三度目の航海のあと五八歳でセヴィリアに隠居し、自分の名にまつわる喧騒とはほとんど無縁に、どんな栄誉に包まれることもなく一五一二年に他界している。ついでに言えば、コロンブスもまた、自身の妄想ゆえにとはいえ、たちまち訪れた忘却に埋もれて、一五〇六年に世を去っていた。
 
 しかしともあれ、見出された未知の大地とは縁遠いヨーロッパの田舎から、不意に天空に現れて人びとの心をさらった気球のように、「アメリカ」の名はたちまち「新世界」に形を与えるもののようにして浸透し、もはや消しがたいものとなっていた。「未知」を埋めようとする人びとの思いに、この名はいかにもふさわしいものと響いたのだろう。

 とはいえ、恣意的な操作と集団的誤解以外に根拠のない、いかにもいい加減な名づけではある。けれども、どんな異論が出ようと、どれほど胡乱に思われようと、歴史はついぞそれを訂正しようとはしなかった。そのために今日、その名は世界で最もよく知られた固有名詞となっている。「アメリカ」の命名の無根拠をさらしだす逸話だが、現在もめずらしくないメディア的現象のからくりをヨーロッパ社会があられもなく演じた例だともいえる。

 ウーンディド・ニーで殲滅されるスー族最後の長老タタンカ・ヨタンカ(アメリカ人たちは彼をシッティング・ブル:座せる雄牛と呼んだ)はこう言い遺している。「昔、わしらの国はずっとよい名をもっていた。いまここは悪名を負わされている。ときに座って考える、誰がこんな名を負わせたのか。」
 
★シュテファン・ツヴァイクについて一言。ツヴァイクは一九三三年、ヒトラー政権を嫌ってイギリスに逃れ、四〇年にはアメリカ合州国に移り、翌年ブラジルに移住して、四二年二月、ヨーロッパとその文化の未来に絶望してブラジルのペトロポリスで妻とともに命を絶った。『アメリゴ』は彼がアメリカに滞在した四一年に書かれたもの。邦訳は『マゼラン・アメリゴ』(ツヴァイク伝記文学コレクション、みすず書房、1998)があるが、品切れ中。

2010年7月 8日

歴史は過ちに…(補遺)

 アメリゴ・ヴェスプッチの2つの出版物「四つの航海」と「新世界」が、1960年代に出ていた岩波書店の「大航海時代叢書」第Ⅰ期第1巻『航海の記録』(1965年)に収録されているのを確認。ツヴァイクとは多少解釈の異なる解説もある(後述の増田による)。なお、この巻には、コロンブスの四回の航海記や、マゼランの航海記も収められている。

 編者の増田義郎が巻頭に「総説」として、歴史的背景などを説明している。短いものだが、簡にして要を尽くすというだけでなく、実に目配りと見通しがよく、アラブ・イスラーム世界との関係でこの頃のヨーロッパとヨーロッパ人の意識について基本的なことを再確認させてくれる。

 ちなみに、この叢書にはラス・カサスの『インディアス史』も入っており、第Ⅰ期11巻、 第Ⅱ期25巻が出た後の番外エクストラシリーズには、J.M.G.ル・クレジオの名著『メキシコの夢』のベースになったベルナール・ディーアスの『メキシコ征服記』(全3巻)まで入っている。いまではもうこんなシリーズは出せないだろう。

2010年9月12日

ドュフール『倒錯の国』について(1)

 いつまでたっても目処がつかないので、とうとう見切り発車することにした(最近やっと、人生とはそうするしかないものらしいと観念している)。このブログを始めた動機のうちのかなりの部分は、この本の「読書メモ」を含むファイルがぶっ飛んでしまったことにあるという、いわくつきの本についての話だ。

 ダニー=ロベール・デュフール(Dany-Robert Dufour)というフランスの哲学者の近著『倒錯の国、自由主義とポルノグラフィー』(La Cité perverse, libéralisme et pornographie, Denoël, 2009)である。

 この著者は、いわゆるポスト構造主義云々といった潮流とは何の関係もないとみていいだろう。だが、9・11以後(そういえば昨日がそうだったが、あらためて何の感慨もない)、ここ数年、経済と自由主義の問題に関わるようになったわたしなどにとっては、今もっとも意味のある仕事を展開している著者だとみえる。見ているものが共通しており、関心のあり方がかなり重なっている。そしてわたしなどが切り込めず、展開できない領域にズバリ切り込んで、きわめて刺激的な見通しを出してくれる。とりわけ、ここ3,40年の現代世界の見方が、わたしがこの間考えてきたことと響きあい、共感できるところが多い。

 そろそろ65歳ぐらいになるはずだが、ここ数年で、『頭を切り詰める技法』(2003)『人間の仕上げ(成仏?)』(2005)『神なる市場』(2007)といった相当イケテル本を書き、去年きわめつきと言っていい上記の著書を刊行した。ひとことで言えば、いわゆる「ポスト・モダン」社会における「自由原理主義」のもたらす倒錯的状況を俎上にのせ、その構造的かつ歴史的由来を解き明かそうとした本だ。このダニー=ロベール・デュフールの仕事、とりわけ『倒錯の国』の内容を何回かに分けて紹介しておきたい。
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 この本のテーマはいたって明快だ。
 キリスト教的伝統の上に立つヨーロッパ世界では、アウグスティヌス以来の「二世界論」がある。「二つの愛が二つの国を作った。すなわち、神をあなどる自己愛が地上の国を作り、他方、自分をあなどる神への愛が天上の天上の国を作ったのである。…」地上では人びとが私利私欲にかられ、自分大事で争い合い騙し合っているが、神への愛に目覚めると、無私の姿勢で神の誉れのためにのみ生きるようになる、そしてそれが救済への道であるということだ。つまり自己愛(自分大事)は神への愛(他のために尽くす)の前に斥けられるべきものだった。

 ところが現代の西洋世界では(西洋だけでなく、西洋規範のグローバル化によって世界中のいたるところで同じようなことになっている)、個人の欲望の追及が「自由」の名のもとに何をおいても称揚され、あげくに保護され、アウグスティヌスが挙げた三つの欲望(所有し支配する欲望、感覚的な欲望、そして知ろうとする欲望)が「解放」されて、翼を広げて禿げ鷹のように飛び回っている。そしてサドの小説の悪漢たちのように、「享楽せよ!」が万人にとっての至上命令となり(楽しまない者はバカ!)、誰もが自己の欲望の実現に駆り立てられている。
 
 その極みが、近年あられもなく破綻したバブル金融ゲームにのった金儲け礼賛の風潮であり、そのアクターたちの厚顔無恥な高給取り逃げであり、目も当てられないグローバル規模の貧富の格差、そして貧困や荒廃の罪悪視であり、サイバー・スペクタクル社会のポルノ化と痴呆化の促進であり、限界を知らない盲目的な科学技術の展開であり、それらすべての利益追求とのリンクである。そして、そのような傾向の止めどない進展を「ネオ・リベラリズム(新自由主義)」と呼ばれるイデオロギーが推進してきた。

 かつてキリスト教社会では(他の社会と同じように)、「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るのよりむずかしい」と言われた。今では、利潤追求が社会の発展の唯一の推進力とされ、富と贅沢とその享楽が「成功」の当然の報酬として称えられ、そのような「成功」が人びとの従うべき立派な手本とされている。 「神への愛」はもはや何ものでもなく、「自己愛」の貪欲な追求によってこそ、「幸福」は実現される。西洋世界の価値原理のこの真逆といっていいような転換は、いったいいつから、どのようにして起こったのか、それを西洋思想の展開にいくつかの転機となる契機を見つけながら解き明かそうというのがこの本の課題である。

 もちろんそれは、世俗化のために宗教的価値観が捨てられたとか、近代化とともに人びとが現世的になり、物欲に動かされるようになったとかいう、誰でもできるようなおおざっぱな話ではない。むしろ、他でもないキリスト教世界の伝統のなかから、どのような経緯でこんなメチャクチャな世界を支える論理が生まれてしまったのか、どのようにして「善」が「悪」にとってかわられたのか、というより、いつの間に「悪」が「善」として君臨するようになってしまったのか、そういうことを問おうとしているのである。(つづく)
 

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