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山形孝夫さんとの共著『3・11以後、この絶望の国で』刊行

 去年、仙台の山形孝夫さんと何度か対談し、それをまとめた本が出来上がった。『3・11以後、この絶望の国で――死者の語りの地平から』(ぷねうま舎刊)だ。今月の22、3日には書店に並ぶはず。手に取っていただければ幸甚です。

IMG'.jpg この本のモチーフを簡単に説明するのがむずかしいので、以下、わたしのむすびの文章から、モチーフに関わる部分を引用しておきます。

「対話を終えて」より――

 『死者と生者のラスト・サパー』という本がある。この本で初めて、聖書の逸話を離れて「最後の晩餐」というものが何であるかが分かったような気がした。それをわたしは、自分に親しかったジャン=リュック・ナンシーの「パルタージュ(分割=分有)」という概念に重ね合わせて読んだ。死者は自分の死を引き受けることなく去ってゆき、残された生者はその立ち去りを埋めることのできない喪失として抱え込まざるをえない。けれども、その癒しがたい欠如が、あるいは絶対的な「分離」が、越えがたいことそのものの「分有」となって「共に生きる」を可能にする稀有の瞬間がおとずれる。そのとき、人は生きる〈糧〉にふれている。それが「ラスト・サパー」なのだ、と。

(...)

 〈夜〉の慎ましい静けさは、〈昼〉の明るみに浮かんで形をとり、それが明らかな現実だと主張する饒舌な事柄にいつも押しのけられる。「千年に一度」の大災厄の無数の死も、まずは数えられ、やがて瓦礫とともに片づけられ、人びとがここで何を経験したのか(あるいは経験を果たせずに消えていった人びとの残した「無念」)は「復興」の背後に忘れられてゆく。

 わたしたちがここで思いを傾けてみようとしたのはこの「消えてゆく」事柄であり、明らかにしようとしたのは、それを消し去り「昨日を忘れ、明日のない今日」を作り出してゆく、現在の人間社会のあり方の歴史的生成とそのからくりである。

(...)

 グローバル化したと言われる現代の世界では、政治や経済や社会状況や国際秩序、そして個人の意識や宗教などが、別々の分野としてそれぞれの専門的見地から語られる。けれどもそれを基本的に造形している、あるいはその造形を規範的に規定しているのは西洋的伝統であり、とりわけ西洋世界に近代にいたるまで鋳型を提供してきたキリスト教である。「教」とは宗教の「教」であり、また教育の「教」であり、教義の「教」である。キリスト教はたんなる信仰の枠組みというだけでなく、西洋の人と社会とそして統治の秩序を作る原理を提供することで、近世以降に分離してきた政治や経済の分野、そして個人と社会の意識形成に言いようもなく大きな作用を及ぼしてきた。

 西洋の世界化以降、世界のいわゆる宗教的事象はキリスト教の影響を受けたというだけでなく、キリスト教的観点に染められて語られることが避けがたくなっている。だからこそ、現代の死にまつわる事象を全般的に考えるときにも、われわれの知のありかたや意識を拘束しているキリスト教に立ち戻らざるを得ないのである。

(...)

 わたしたちはそのキリスト教の〈夜〉に降り下り、キリスト教の伽藍を剥いで教会の形成とともに闇に沈んだグノーシスの冥界を渡ることになった。グノーシスばかりではない。支配あるいは統治秩序の歴史は、繰り返しグノーシスのようなものを地に沈めて(あるいは鎮めて)その上に重い墓石のように立っている。墓石は磨かれて陽光を浴びる。それが今では秩序の繁栄を体現するかのようなガラス張りの高層建築のようになっている(東京都庁!)。けれどもその空しい威風の下に、無数の犠牲者が語りのときを待って眠っているのだ。

 〈夜〉は暗く沈んでいて何もないのではない。〈昼〉の光が堕ちるとき、闇そのものが明るみをとり戻し、暖かく、ときには熱く、どこからともなく無数の人々が集まって、にぎやかな宴の時をよみがえらせる。そんな「ラスト・サパー」の片鱗を、この本に響かせることができていれば、と願っている。

☆表紙の図は、グノーシス派の冥府を渡る舟の図だそうです。
 

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2014年2月15日 21:48に投稿されたエントリーのページです。

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