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2014年2月 アーカイブ

2014年2月 1日

沖縄の熱と冬の都知事選

 1月29日に御茶ノ水の全電通労働会館で平和フォーラムの主催する「沖縄新基地建設反対1・29集会」というのがあり、17日の東京での「辺野古新基地反対声明」グループを代表して参加してきた。

 名護市長選で稲嶺進氏が再選され、沖縄は長い「自発的隷従」を断ち切って意気軒昂だが、その沖縄からヘリ基地反対協共同代表の安次冨浩さんが新基地計画について説明し、平和運動センター議長の山城博治さんが、尖閣問題で作られた日中緊張の最前線に立たされた沖縄の危機について、熱いメッセージを厳しい分析とともに伝えたのがたいへん印象的だった。

 この模様が、IWJ(Indipendent Web Journal) のサイトで見られる。安次冨さんの話が25分あたりから、山城さんの話は50分あたりから1時間15分あたり。とくに山城さんの話はぜひ聞いていただきたい。

 さて、都知事選だが――、今日FaceBookに次のような書き込みをした。このブログにも上げておきたい。

 細川、宇都宮両候補が国会前に来ると聞いて、パンパンの時間を割いて出向いた。内ゲバになったらマズイと思ったからだ。幸い、脱原発エール・プロジェクトというのもあるようだが。

 しかし...。宇都宮氏は都知事選に立候補しなくてもここに来る。今日も東京からの脱原発がいかに重要か、東京が福島をいかに支援すべきか、という話をした。

 だが、知事選のために初めてここに来た細川氏は、一国の首相を務めた者が...(あとは不明)とかで、国会前でマイクをもって大声を上げるのをジシュクし、マイクなしで誰にも聞こえない話を5分ばかりしてすぐに帰った。

 後には、 ユカワレイコとかいう自称「有名人」が、今日吉永小百合さんが細川支持を表明した、とても勇気のあることですばらしい。わたしたち「有名人」は声を上げるのが大変なのです、すぐに干されて仕事がなくなるし...(じゃ、名も無い人たちが楽だと言うのか? 毎週ここに来ている人たちを、君らの聴衆を何だと思っているのか?)、と長々としゃべった後、細川さんはマイクを持てなかったが、素晴らしいご夫人のホソカワカヨコさんがマイクを握ります、と紹介し、今度はその夫人が「夫の決意」についてまた縷々、一国の元首相の「芸術家」への転身がどうの、といったお屋敷の主観的「美談」を続けた。

 さすがに周りの人たちは一応は礼儀正しく聞いていたが、国会正門をはさんだ道の反対側の人たちは、もういいからと「再稼働反対」の合唱を始め、司会者も最後は、ここは選挙演説の場ではありませんから、と小言を言わざるをえない始末(ちなみに今日は、正面向かって左に300人、右に100人とファミリー枠に100人ほど)。

 政治が一筋縄の事業ではなく、思った通りではすまないというのは私たちも分かる。だから小泉の脱原発発言にも振り向いた。しかし、この場に来てマイクもとれない細川氏の「決意」とはいったいどんなものなのか。それに、応援団の話を聞くと、こりゃあかんわ、と思わざるを得ない。その話は、ここに来ている人たちの思いとは、はっきりズレている。

 風化と逆風のなかで、脱原発を求める機運を支えてきたのは「有名人」たちではない。もちろん彼らのイニシアチヴは貴重だったし、運動の「見える顔」になってきた。けれども、肝心なのはここに集うひとたちだ。この人たちはいつも数でしか数えられないが、その一人ひとりの存在が、その声が、運動の実質を支えてきた。それをまた数に束ねて、頼まれもしないのに、縁なき殿様の「ご進物」にしようなんざぁ、ちょっとおかしいんじゃありませんか。

 そんなに寒くはなかったが、気配が薄ら寒く、帰りながらつい一句、
 ホソ支持の ショウタイ見たり かれ尾花

 さて、フン〇〇のひもを締め直すか!

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★IWJ(岩上 Indipendent Web Journal)で昨日の国会前の集会の模様が見られます。
 始まって20分当たりから福島みずほさん、吉良よし子さん、阿部知子さんら(圧倒的に女性議員だ)が演壇に立ち、その後30分過ぎに宇都宮さんが話す。その前後に、SPに囲まれて細川・小泉の元首相コンビが登場。38分当たりで細川元首相がマイクなしで(それでも手マイクで)2、3分ばかり訴えて帰った。小泉元首相は宇都宮さんの話の途中で車で立ち去る。

2014年2月 4日

「雨にも負けず...」、都知事選事情

 こんな短文を書いて昨日の星空に散らした人がいるという。紹介しておこう。

 千年に一度の大地震と原発事故のあと、ガタガタだった日本社会はついにメルトダウンを起こし、とんでもない首相を登場させてしまった。利権の亡者や軍事オタク、消えたはずのゾンビたちが復活して、日本社会をまたぞろ底から浚おうとしている。

 この見えない大津波の気配のなかで、子供たちには怖がらなくていいよと言い、親たちにはしっかりしよう声をかけ、若者たちには希望の幕を開いていっしょに立ち上がろうと呼びかけ、年寄りにもあとひとふんばりと肩を押し、首都から政治を社会を変えようと、揺るがぬ姿勢で舵取りを買って出た人がいる。

 この人は以前から、高利貸しに苦しむ人びとのための法律作りに駆け回り、失業者に雑煮を配る村の村長も務め、ヘイトクライムを生み出した都会の空気を変えようと立ち上がった。
 その人のまわりにいま、これまでとは違う政治を作り出そうとする人びとが集まっている。いま、その息吹が熱い。


1544568_1458852671005004_984633234_n.jpg 大手のメディアはいま首都で起きている熱く穏やかな市民のうねりをまったく報道しない。都知事選期間中は原発問題はニュースにしないとか、都知事選そのものを大きく扱わないとかのメディアの動きがある(ちょうど、プーチンの「テロ」弾圧で強行しようとしているソチ・オリンピック――危ないし、交通費がないため、多くのロシア人は観に行けない――があり、金メダル期待ばなしで報道は飛ばせる)。

 何とか騒がれないうちに組織票で決めてしまおうという強い圧力がかかっているようだし(秘密保護法の精神?)、とくにある候補の演説する場所には何千人もの老弱男女が集まって、つねにない盛り上がりを示しているなどということはいっさい報じられない。

 また、 遊説カーの前ではいつも閑古鳥が鳴いているといわれる候補が「最有力」だと伝えられるが、その候補は「女は生理があるから政治は任せられない」とか、「生活保護は怠け者だし、母子家庭は甘えている」ふうなことを公言するとんでもない人物だということも隠される。だから、つい最近NHK「クローズ・アプ現代」で注目された若い女性たちの労働事情(高卒の失業率が50バーセント近く、子供がいても生活保護は役所の窓口で追い返され、やむなく託児所つきフーゾク店で働く...)があっても、こんな候補が「有力」になる。

 インターネットはあるが、ネットで積極的に情報を求める人びとはやはり少数派だと言わざるをえないだろう。経済的な理由あるいは生活形態で、いわゆる情報格差があるし、情報へのアクセスにはすでに意志がいる。だから、そこだけの騒ぎも外には広がりにくい。それに、Yahoo!などのネットニュースは「スポーツ」でも「エンタメ」でもない一般のニュース欄でも、ほとんどスポーツや芸能ネタしかあげていない。あからさまに都知事選をニュースにしないようにしているようだ。

 オリンピックや芸能は、こういうときに使われるというのが如実にわかる。

 かつて、消費社会を先駆的に批判した『豊かな社会』(原題を直訳すれば「溢れかえる社会」)の経済学者ジョン・ガルブレイズは、「なぜ選挙で何も変わらないのか。それは、そこそこの生活ができている層が、"機能上不可欠な下層階級"を必要としているからだ」と書いているが(『自己満足の文化』ちくま文庫近刊)、これが今の東京の選挙事情を要約している。

 それを変えるためにはあらゆる問題を可視化しなければならないが、隠すための「メディア・ウォール」(大量の娯楽情報を垂れ流して、それを煙幕に実際に起きている重要事の情報を見えなくする「メディアの壁」)だけが強化されている。
 
 それでも、これだけは紹介しておきたい。「東京への愛」を訴えた「在日朝鮮人三代目」の辛淑玉さんの熱弁だ。

2014年2月 6日

NHK問題にみる安倍政権の暴走、汚染水はダダ漏れ

 安倍「お友達」が暴走し始めている

 アメリカに倣ってNSC(国家安全保障会議、大本営のゾンビか?)を設置し、年末には特別秘密保護法を衆参両院の強行採決で通し、沖縄自民党議員に対する恫喝と仲井真知事の大枚「買収」で辺野古新基地建設を受け入れさせ、アメリカの牽制と周囲の反対を押し切って靖国参拝をやったが、ここにきて強行姿勢があちこちで破綻をみせている。

 いまさすがに新聞でもネットでも取り上げられてよく知られているが、要点だけまとめておこう。

 いちばん目立つのは「お友達」を無理やり押し込んだNHKだ。籾井会長は、「従軍慰安婦はどこの国でもあった...」(つまり日本だけじゃないからどこが悪い!という居直り)と言い、安倍の靖国参拝はコメントする方がおかしいと言い、原発問題を都知事選の争点にすべきでないと言った政権の肩をもつかのように、脱原発がいちばん経済的だと言おうとした中北東洋大教授のコメントを抑えようとした(中北氏が応じ、ラジオ番組への出演を断った)。

 安倍の意向でNHK経営委員になった作家の百田尚樹は、その都議選の田母神候補と「南京事件は幻...」と対談で息巻いて、世界中の歴史認識を逆なでしている。そして一昨日は、やはり経営委員の長谷川三千子が、去年の秋、93年に朝日新聞社に乗り込んで拳銃自殺した右翼団体の元会長の追悼文集にとんでもないことを書いているのが発覚した。

 この元埼玉大の哲学教授とかいう人物は、報道機関に対する右翼の「死の脅し」を礼賛し、「人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中(朝日の社員のことらしい)の目の前で、野村秋介は神にその死をささげたのである」と書き、その行為によって「わが国の今上陛下は(『人間宣言』が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神(あきつみかみ)となられたのである」と結んでいる。何たる神がかり!

 公共放送の私物化

 これが、NHKの会長であり経営委員だとしたら、それは安倍がNHKを「コントロール下」に置こうとした結果であり、権限を逸脱した首相によるNHKの私物化(これを日本のメディア用語では「民営化」と言う)である。こんなことではもはやNHKは公共放送とは言えない。受信料を徴収する資格はないだろう。

 もちろん安倍は、自分が日本の「公共」を体現しているつもりらしい(それには自民党と公明党に投票した連中に責任をとってもらおう)。だが「公共性」とは、むしろそんな権力の私物化を排する側にある。菅という官房長官は「個人的見解」は自由だから問題ないと言う。だが、そんな特殊な憲法違反でさえある「見解」(というか確信的思い込み)をもつ人物を、公共機関の会長や経営委員に選ぶこと自体、すでに問題なのだ。それが問題と見えないのは、菅もそのような見解をもっているからであり、何よりトップの安倍がそうだからだ。

 安倍が「戦後レジームからの脱却」を掲げ、その「見解」に従って強引に政治をやろうとしているように、籾井や百田や長谷川は、当然その「見解」や「信条」でNHKを仕切ろうとしている。だとしたら、「私的見解/公的役職」の分裂で言い抜けすることはできない。彼らはその「私的見解」ゆえに、安倍政権下でその任に就いたのである。

 これを黙っていると、彼らのような見解が日本の「公式」の見解となり、国内で押し付けられるだけでなく、海外にとっても日本はそのように考える特殊な国、ということになる。それに、石破自民党幹事長が年末の秘密保護法反対の市民による大規模なデモンストレーションに対して言ったように、彼らの異常な考えと違う見解をもつ者たちは「テロリストのようなもの」として弾圧されかねない。いや、彼らはすでにNHKを手中にして言論封殺とメディア操作をやっているのだ。

 自民党が衆参両院で圧倒的多数を占め(衆院291、参院114)、それを公明党が黙ってサポートしているかぎり(31+20、強行採決にも手を貸している。ついでに言っておけば、自民党がこれだけ議席を取れるのは、小選挙区制で棄権しない創価学会員の票が自民党候補を強力に押し上げるからだ)、どんな無体なことも安倍政権はできる。アメリカやEUでさえ懸念する秘密保護法のような法律も通せるし、どんな法律でも数で通せる。あと3年、選挙はない。この3年といわずとも、この1、2年でやりたいことをやり切ってしまう、それが安倍政権のねらいだろう。

 フクイチのカタストロフに背を向けて

 福島第一の高濃度汚染水がダダ漏れだということをつい最近東電は発表した。一日3.4トン、事故以来ずっとだ。それがどこに消えたか不明だという。わからなければ、見えなければいい、というので東電は柏崎刈羽の4基を再稼働して事業再建の計画を出し、それを安倍の政府は承認した。経済が大事なのだそうだ。

 だがその経済は、「アベノミクス」で見かけの数値だけの景気が上向いたといっても、儲かるのは輸出企業だけ、その儲けも、今があてのないプチ・バブルと分かっているから気前よくつかうわけにはいかないし、国際競争力とやらのためには労働力の安価な海外に投資しなければならない。

そして国内はといえば、さらに労働条件を企業に有利にして――それが法人税下げとともに外国企業の誘致に効果的だという――働く者の状況を劣化させ、非正規労働を増やし、どんなに努力しても、身を粉にして働いても一生低賃金という層を拡大する。だからバブルで儲ける投資層と、働いて低賃金しか得られない膨大な数の貧困層との分離が固定される。

 その貧困層の不満や絶望、それが生み出す社会不安を抑え込むために、対中危機を作って統制を正当化し、「国民」意識を統合の道具に使って反対派を排除する。それが現在の日本の統治の方向だろうが、今は国内だけではことはすまない。世界がこの日本の振舞いや行方を見ている。

 安倍政権に乗るような連中は、福島第一原発の現状を隠して忘れさせ、オリンピックまでもってきて目くらましをしようとしているが、そのあげくに自分たちの方でも、目先の金儲けに目がくらんで、福島の危険な惨状をほんとうに忘れてしまうだろう。けれども、メルトスルー(核燃料が格納容器の底を抜けて地中に落ちてしまう事態)は誰も実情を確かめられないし、世界も一度も経験したことがなく、手の施しようがない。それを忘れて「強い日本」作りに突っ走った先に、遠からずどんな破綻があることか、それに関して安倍政権は何の配慮も展望ももっていないだろう。

 これは都知事選の話ではない。ともかく、国政選挙はないが、手をこまねいているわけにはいかない。弱いところから突く。さしあたり安倍に私物化されたNHKの受信料不払いは最低限やるべきだろう。

2014年2月 8日

乱視の「戦後レジーム」、宮武外骨の名著復刊に寄せて

 乱視の「戦後レジーム」

 安部首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げる。だが、この「戦後レジーム」とは実はねじれている。それは日本の「敗戦」と米軍による占領統治から始まるが、戦後憲法の平和主義と基本的人権を軸に作られたはずのこの体制に、途中から――冷戦の都合で――「日米安保条約と米軍駐留」という要件が持ち込まれ、これが覆いかぶさる。

 だから「戦後レジームの脱却」を言うなら、まずはこの「日米安保体制」つまり彼らの言う「日米同盟」を解消しなければならないはずだ。ところが安部らの乱視の目で見るとそうならない(この点では田母神が演説でよく言うように、安部はマスゾエなどより田母神や石原に近い)。

 彼らの目には「日米同盟」は不動の前提で、ただ戦後憲法だけが邪魔な標的に見える。そして最近の「NHK事件」に露呈したように、安部とそのお友達の考えでは、日本が戦争をしたのは悪くない、悪いこともしていない、悪いんなら他の国も同じだ、ただアメリカには確かにすごかった、核兵器も作って落としたし、だからアメリカとは仲良くしてもらう、だが中国なんかには負けてない、アジアは下等な敵だ、それに対して日本は現人神を祀る神国で、国民はみな神のために命を投げ出す、そのために靖国がある、そうでない奴らは国賊だ、叩き出せ、日本はそういう「美しい国」なんだ、ということだ。それを本気で言う。まさかそこまで、と思っていた人たちも、一連のNHK経営幹部発言で、それが本当だと分かっただろう。

 まるで戦前の体制のゾンビ――つまりお化け――である。だがアメリカはそういう日本を気持ち悪がって、原爆まで落として潰した。それがまたぞろ復活してきたのだから穏やかではないだろう。戦後の「日米安保」や米軍駐留は、アメリカにしてみればそんなゾンビの復活を抑え込むためのものでもあったのだ。

 そのことを安部は分かっていないようだ、というより分かりたくない。早く言えば、「敗戦」を否認するというか、少なくとも「日本の戦争は悪くない」と思っているのだ。だってお祖父ちゃんやその同類たちがやったんだから。

 彼らは日本の「統治」あるいは「支配」を自分たちの役目、というより特権とみなしている。ずぶずぶと拡大する戦争をやって失敗した。国民を巻き込んだというが、国民が自分たち言うことを聞くのはあたりまえだ。「天皇の赤子」じゃないか。「天皇陛下万歳!」と言って喜んで死ね。そうしたら「英霊」にして十束ひとからげで祀ってやる、くそゴミ!と言って嫌がる天皇を祭りあげる。そして失敗すると、今度は勝者に取り入って、「お役にたちますぜ!」と貢物を差し出して、日本を統治し続ける地位だけは確保する。アメリカの「代官」としてだ。この姿勢を「自発的隷従」と言う。

 ところが国民は、敗戦でこりごりし、ことの実相を知り、もう戦争は嫌だと心底思うようになった。そこにアメリカが「平和憲法」を与えてしまった。これがまずい。実際、アメリカだって後になって、日本を軍事力として使えなくて困ったじゃないか。国民が憲法を盾に「平和」や「人権」を求める、そして政府に盾突くこともできる、そんな体制のためにお祖父ちゃんも苦労した。こんな憲法は「押しつけだ」、そんな「戦後レジーム」は一掃しなければいけない、それが彼らの論理である。

 だが、後で後悔したとしても「押しつけた」のはアメリカだ。それに冷戦が終わってからは、日本に軍備を売ってもうけようとする連中以外、アメリカは日本に「戦後レジーム」を「押しつけた」ことを後悔していない。日本も西洋と「価値観を共有する」国になったということだからだ。それなのに、安部政権はゾンビの復活を目指してひた走る。

 安部たちはその地位を確保するために「日米同盟」を頼みにしながら、「親米」の保証である「戦後レジーム」を否定しようとしているのだが、それは無理な話だ。「敗戦」を否認するなら、「西洋的価値」で作り上げたグローバル秩序の異物となることを覚悟しなければならない。そうなると、「アメリカ様」のご機嫌を損ねますよ、ということだ。

 宮武外骨『アメリカ様』を読もう

 この「戦後レジーム脱却」の倒錯は、やがて70年になろうとする「敗戦」が国民一般にとって何だったのか、それをあらためて想起することではっきりする。言いかえれば、「乱視」がなおる。

アメリカ様.JPG ちょうどそれが核心的課題になってきたときに、報道と批判の自由を求めて独特の闘いを続けた異貌反骨のジャーナリスト宮武外骨が、敗戦の翌年、東京裁判開廷の日に出版した『アメリカ様』が復活する(ちくま学芸文庫)。

 秘密保護法が強行採決で通された直後に、「入獄4回、罰金・発禁29回という輝かしい記録をもつ外骨」(裏表紙から)のこの本が、みずからの「筆禍」を羅列した『筆禍史』を付して再刊されるのは、何というタイミングか。この本は、外骨一流の諧謔とともに、簡明直裁な記述で、明治以来の日本の戦争が何であり、一般の国民にとって「敗戦」とは何であったかが、あざやかに浮かび上がらせている。ぜひ、いま読んで考えたい本だ。 この本に、「『アメリカ様』と『強い日本』」という解説を書く機会を得た。その一部をここに紹介・掲載させてもらう。この本、ぜひ読んでみてほしい。

[以下、解説の抜粋]-----------------------------------

 どういう巡り合わせか、戦前の満州国の設計者を自認しながらアメリカ(CIA)と取引して戦犯の科をまぬがれ、やがて首相になって日米安保の体制固めをした岸信介の孫が、再登板でまた首相になり、今度こそ「強い日本を取り戻す」と称して、交戦権回復(集団的自衛権)の画策、治安維持法まがいの特定秘密保護法強行採決、相変わらずの札束と闇の恫喝で沖縄再処分と次々に手を打ち、年の終わりに意気揚々と靖国参拝までやったところ、TPPの国売り出血大サービスですり寄っているにもかかわらず、そのアメリカからとうとうダメ出しが出たという、このあんまりなタイミングで宮武外骨の『アメリカ様』が再刊される。

 そう「アメリカ様」なのだ。その「アメリカ様」がご機嫌ななめだ。靖国参拝だけではない。特定秘密保護法にもイエローカードが出た。情報共有のために秘密管理をしっかりやれという要求を出したアメリカが、この法律には警戒色をあらわにしている(ニューヨークタイムズ論評、国連からの批判、そこにEUの批判も加わった)。それは安倍政権の進む路線が、戦前の日本の「復興」と重なって見えるからだ。

 現在の安倍政権は経済・財政面で、グローバル統治の主流の金融政策に歩調を合わせて「成長路線」を演出し、「景気回復」ムードを作り出して支持を得ているが、その一般的支持のもとで、目指しているのは憲法改定である。集団自衛権も秘密保護法も靖国参拝も(じつは辺野古新基地建設も)、そのための実質的な基礎固めだと言ってよい。

 集団的自衛権は、アメリカ軍の行う作戦に協力できる(実質的にはその指揮下で戦闘行為を行う)権限のことを言う。これは今は憲法第九条によって禁止されている。秘密保護法は、政府のとる行動や決定を一般市民(国民)に知らせることを禁じる法律だ。国の安全に関わる事柄に関して、ということだが、広くとればあらゆる情報が「国の安全」に関わることになる。そして首相の靖国参拝は、戦前の軍国主義体制の支柱だった国家祭祀の場にお墨付きを与えることだ。だがここは、戦争による死者を「英霊」と祀り上げて、「お国のために死ぬ」ことを国民に強要する霊場だった。そんな超国家主義の装置はほかの国にはない。

(中略)

 要するに、国民全体がアメリカに自発的に隷従しているわけではない。そうではなく、「自発的隷従」とは、権力に与る者たちが自らの権力を守るために国民を売ってでも強者に媚びる、という事態を言うのだ。「アメリカ様」へ好みの「ご進物」を差し出して、自分たちが日本の統治者として居座ることを許してもらう。「お役にたちますぜ」というわけだ。それを「代官」という。

 すると、一見、国際社会のパートナーという形をとっても、実質は「属国」あるいは植民地と変わらない。だから日本の首相は、就任するとすぐ、まずアメリカ様に認めていただこうとワシントン詣でをし、大統領といっしょに写した写真を自国の新聞に掲載させる。それが日本の首相であることの承認儀礼になる。ところが安倍首相は、そのときオバマ「大統領様」に冷たくあしらわれ、晩餐会も開いてもらえなかった。ほとんど初めてのケースだ。けれども、日本のメディアはそれを報じず、「日米同盟が危ない」とも叫ばない。どうしてなのか?

 その答えはすでに述べたとして、もうそういう状態が七〇年も続いている。いい加減にわれわれも「アメリカ様」から自立したいものだが、「自立」とは戦後のもたらした資産を一掃して旧体制のゾンビたちが生き返ること(「戦後レジームからの脱却」?)ではない。そうではなく彼らを生き延びさせた「アメリカ様」への「自発的隷従」を断ち切って、グローバル世界に新しい地歩を作り出すことだ。その自立の胎動はいま、「ご進物」として久しく差し出され続け、もはやその運命に甘んじまいとする沖縄から最も力強く起こっている。


2014年2月10日

都知事選の翌日、「アンダー・コントロール」!

 東京の「悪天候」

 フランスの友人が何人か、大雪を心配してメールをくれた。大震災と原発事故以来、日本の行く末を心配して、いろいろ気遣ってくれる。

 「雪はだいじょうぶか、被害は?」というメールには、「東京は次の日から解け始めるから大丈夫だが、ここよりたくさん降ったはずの福島が心配だ。日々の作業もできなくなるし、近頃、何があっても報道がとてもおかしいから。雪は白い。でも見えない降りものについてはドイツZDFのドキュンメタリーでも見ておいてくれ...」、と返事。

 今朝は、マスゾエの万歳写真つきのル・モンド記事をつけたFBメッセージ、「で、この悪天候は?日本はあいかわらず登り難い山なの?」。これには、「悪天候で投票率は46%、日本の当局はいつも投票率が低いことを期待している。東京都民の半分はデモクラシーを必要としていないようだし、残りの半分はそれを厄介払いしたがっている。だから、この鉄面皮な腐れゴキブリが都知事の椅子に座ることになった。ルペンみたいのもいるし、トーキョーはいつも世も末、キリストが再臨するかも...」と返事。

 マスゾエの言行・所業、とくに女子供や老人に対する悪態・侮蔑については、フランスでもイギリスでも選挙期間中に報道され、こんな人物でも都知事候補になれるのかとあきれられている。それが大差で当選したのだから、日本はやっぱり分からない!?ということになる。ちなみに今年パリ市長選があるが、予定されている候補者の大多数が女性、それもタレントでもマスコットでもないバリバリの政治家たちだ。

 ネットニュースなど見ていると、「脱原発」が3人で争点がボケている、とか報じられていた。マスゾエも「脱原発」だというのだ。ところがル・モンドなどは過去の発言からまぎれもない「推進派」と書いている。

 メディアの「恭順」=「アンダー・コントロール」

 今度の都知事選ではメディアの政府への「協力(恭順?)」が目立った。選挙中は「中立・不偏不党」、特定候補の不利益になるような報道はしない(自粛する!)という姿勢だ。ほんとうなら候補がどういう人物なのか、過去に何をし何を発言したのか、有権者にどんどん情報を出すべきだ。だが、それをやると「特定候補の不利益になる」というわけだ。だから、広報に書かれたお題目や演説内容を復唱するだけ、その結果、都合の悪いことは隠してやることになる。

 今回は、そのためにかなりの圧力がかかっていたことが露見した。いわくつき安倍トモの会長・経営委員を抱えるNHKの報道は言うに及ばず、マスコミ全体に「原発は都政の事案ではない」とか、「選挙中の原発論議は避ける」とか、「マスゾエの政治資金問題を取り上げない」とか、いくつかお達しが回っていて、結局たいていの報道機関はそれに従った。

 それに、これは一部ネットでは騒がれたが、マスゾエの街宣には人が集まらず、細川・小泉の街宣や、宇都宮の集会には何千人もの人が来る、その実情はほとんど報道されなかった。さすがの小泉も「街宣の反応と世論調査がまったく違う、おかしい」と不満を洩らしたようだ。

 この間も、一部では福島の危機的な状況や、東電のあまりにずさんで無責任かつ厚顔無恥な対応が伝えられていたが、日本全体を危機にさらしかねないこの問題についても十分報道されなかった。争点にしないためだろう。安倍がオリンピック誘致で大見得を切った「アンダー・コントロール」というのは福島第一そのものではなく、そこから漏れる情報のことだったと分かるが、今度の選挙でもメディアの「アンダー・コントロール」が都民を眠らせておくのに成功した。息を吹き返した「原子力ムラ」を挙げての圧力、これが安倍政権の隠然たる武器だ。

 汚れた溶雪、雪かきの春へ

 マスゾエは片山さつきにも支援を断られるし、ネットで悪事は次々暴露されて「マスゾエを当選させない女たちの会」のようなものがいくつもできて、海外メディアは人格暴露するし、内心戦々恐々だっただろうが、それでも自民党幹事長菅の脅しのきいたメディア箝口令と、安倍政権の「下駄の雪」(どこまでも付いてゆきます下駄の雪)に成り下がった創価学会・公明党、それに原発再稼働で放射能をまき散らして自分たちのボーナスを上げてもらおうという連合(これで労働組合か!)のおかげで、楽々勝。ともかくも、この選挙は日本の現状、そして首都東京の現状をよく照らし出した(何が「世界一」か、よくわかる)。

 安倍政権は名護市長選で苦虫をかみ潰したが、米軍やオスプレイの見えない東京ではまだ大丈夫だった。田母神票(当人が言うように、実質的な安倍シンパ)を合わせれば東京は安泰というより盤石だ。金があるところは違う!(マスゾエによれば、年寄がいちばん金をもっているから消費税で吐き出させるのだそうだ)。

 最近、自民へのすり寄りが目立つみんなのワタナベは、これでオリンピックに向けて東京の「岩盤規制」(安倍のマネ)を突き崩し、経済活性化を推進すると息巻いていた。メディアも有権者の関心を分析するとかいいながら、「景気・雇用」を一括りにする。どこでそんなことを習ったのか。いまのグローバル経済の下では、「景気」と「雇用」は両立しないのだ。「景気」をよくする、つまり企業の成長を目指すと、雇用状況はますます悪くなる。「雇用特区」の話はその象徴だ。コスト削減で最後まで費用を切りつめられるのはモノではなくヒトだからだ。その「雇用」を守る「岩盤」が標的にされ、崩されようとしている。

 危機は深まるが、この汚れた溶雪のような東京で、それでも今回、意識的に選挙に参加し、投票した人たちが二百万人近くいた。先回は百万人だった。望ましい候補を都知事にすることはできなかったが、それぞれにみんな選挙戦を戦い、あるいはその気配にふれ、多くの人びとは意気軒昂、いっそうやる気を増していると聞く。

★田中龍作ジャーナル「吹雪の死闘、脱原発2候補マイク納め」「マスコミが伝えない 脱原発二候補・敗戦の弁」

 

2014年2月15日

山形孝夫さんとの共著『3・11以後、この絶望の国で』刊行

 去年、仙台の山形孝夫さんと何度か対談し、それをまとめた本が出来上がった。『3・11以後、この絶望の国で――死者の語りの地平から』(ぷねうま舎刊)だ。今月の22、3日には書店に並ぶはず。手に取っていただければ幸甚です。

IMG'.jpg この本のモチーフを簡単に説明するのがむずかしいので、以下、わたしのむすびの文章から、モチーフに関わる部分を引用しておきます。

「対話を終えて」より――

 『死者と生者のラスト・サパー』という本がある。この本で初めて、聖書の逸話を離れて「最後の晩餐」というものが何であるかが分かったような気がした。それをわたしは、自分に親しかったジャン=リュック・ナンシーの「パルタージュ(分割=分有)」という概念に重ね合わせて読んだ。死者は自分の死を引き受けることなく去ってゆき、残された生者はその立ち去りを埋めることのできない喪失として抱え込まざるをえない。けれども、その癒しがたい欠如が、あるいは絶対的な「分離」が、越えがたいことそのものの「分有」となって「共に生きる」を可能にする稀有の瞬間がおとずれる。そのとき、人は生きる〈糧〉にふれている。それが「ラスト・サパー」なのだ、と。

(...)

 〈夜〉の慎ましい静けさは、〈昼〉の明るみに浮かんで形をとり、それが明らかな現実だと主張する饒舌な事柄にいつも押しのけられる。「千年に一度」の大災厄の無数の死も、まずは数えられ、やがて瓦礫とともに片づけられ、人びとがここで何を経験したのか(あるいは経験を果たせずに消えていった人びとの残した「無念」)は「復興」の背後に忘れられてゆく。

 わたしたちがここで思いを傾けてみようとしたのはこの「消えてゆく」事柄であり、明らかにしようとしたのは、それを消し去り「昨日を忘れ、明日のない今日」を作り出してゆく、現在の人間社会のあり方の歴史的生成とそのからくりである。

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 グローバル化したと言われる現代の世界では、政治や経済や社会状況や国際秩序、そして個人の意識や宗教などが、別々の分野としてそれぞれの専門的見地から語られる。けれどもそれを基本的に造形している、あるいはその造形を規範的に規定しているのは西洋的伝統であり、とりわけ西洋世界に近代にいたるまで鋳型を提供してきたキリスト教である。「教」とは宗教の「教」であり、また教育の「教」であり、教義の「教」である。キリスト教はたんなる信仰の枠組みというだけでなく、西洋の人と社会とそして統治の秩序を作る原理を提供することで、近世以降に分離してきた政治や経済の分野、そして個人と社会の意識形成に言いようもなく大きな作用を及ぼしてきた。

 西洋の世界化以降、世界のいわゆる宗教的事象はキリスト教の影響を受けたというだけでなく、キリスト教的観点に染められて語られることが避けがたくなっている。だからこそ、現代の死にまつわる事象を全般的に考えるときにも、われわれの知のありかたや意識を拘束しているキリスト教に立ち戻らざるを得ないのである。

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 わたしたちはそのキリスト教の〈夜〉に降り下り、キリスト教の伽藍を剥いで教会の形成とともに闇に沈んだグノーシスの冥界を渡ることになった。グノーシスばかりではない。支配あるいは統治秩序の歴史は、繰り返しグノーシスのようなものを地に沈めて(あるいは鎮めて)その上に重い墓石のように立っている。墓石は磨かれて陽光を浴びる。それが今では秩序の繁栄を体現するかのようなガラス張りの高層建築のようになっている(東京都庁!)。けれどもその空しい威風の下に、無数の犠牲者が語りのときを待って眠っているのだ。

 〈夜〉は暗く沈んでいて何もないのではない。〈昼〉の光が堕ちるとき、闇そのものが明るみをとり戻し、暖かく、ときには熱く、どこからともなく無数の人々が集まって、にぎやかな宴の時をよみがえらせる。そんな「ラスト・サパー」の片鱗を、この本に響かせることができていれば、と願っている。

☆表紙の図は、グノーシス派の冥府を渡る舟の図だそうです。
 

2014年2月22日

オリンピックとメディアと「テロ」と...「分裂」

 マスコミではオリンピックの話題が目立つ。冬季五輪なのに、今回は「冬季扱い」ではない。6年後の東京オリンピックを見すえて、冬季でも盛り上げようという空気があるのだろう。原発の話題はいけないが、オリンピックはどんどん行けというわけだ。

 そのオリンピックがいま大詰めを迎えているソチは、グルジア西端の係争地でもあるアブハジアに隣接し、チェチェン紛争に始まったイスラーム・テロのメッカにも近い。そのため、テレビが伝える競技会場の外では、プーチン体制の威信をかけた厳戒態勢が敷かれている。
 
 これは今に始まったことではない。1972年のミュンヘン五輪でイスラエル選手団がパレスチナ・ゲリラに襲撃されたことはもうほとんど忘れられているが、とりわけ「テロとの戦争」下での2004年のアテネ五輪以来、オリンピック会場はテロに備えてミサイルまで配備することになっている。そこまで「武装」しないと「平和の祭典」はできなくなっているのだ。
 
 だが、なぜオリンピックが「テロ」の標的となるのか? パレスチナ・ゲリラの頃は、無視された災厄に世界の注目を集めるためと言われたが、今は違う。これほどの厳戒下でも国威をかけて行うというのは、逆にオリンピックが、「何の問題もなく平和な領域がある」ことを力づくで示す示威的なイヴェントになっているということでもある。さらにひっくり返せば、「平和の祭典」が君臨するところ、必ず押し潰すべき「見えない敵」がいるということだ。2020年に予定されている日本の東京オリンピックの場合には、それは不気味な汚染の拡大を続ける「フクシマ」であり、安倍政権の下で高まりつつある国内の政治的軋轢だろう。

 メディアの報道は、厳戒態勢に守られた競技場の中にしか目を向けない。そこでは、競技に打ち込む選手たちが大写しになり、かれらの「感動的」な物語がクローズアプされる。それでも、ときに報道が、この「平和」の囲いの外に繋がらざるをえないときがある。20日のフランス2のニュースは、競技を断念して帰国の準備をするウクライナ選手の決断を伝えていた。
 
 ウクライナの首都キエフでは、先週からヤヌコヴィッチ政権に抗議する市民と治安部隊との衝突が嵩じて市街戦の様相を呈している。18日からすでに死者が75人と伝えられる(毎日21日)。ウクライナでは親EU派と親ロシア派との対立が続いてきたが、最近になって現政権がプーチンの強い支持のもと、EUとの距離をとろうとしたのだ。それに対して親EU派の抗議行動が続き、それがいまや国を二分するほどの深刻な衝突にまで嵩じている。
 
 もちろん、ヨーロッパではこの出来事は重大ニュースとして報じられている。だが日本でオリンピックを見ているかぎり、開催国ロシアの圧力のもとで隣国の首都に市街戦が生じているといったことはほとんど報道されない。ソチの会場の外の厳戒態勢と同様、日本のテレビカメラの視野の外に置かれているのだ。
 
 今回のソチのオリンピック報道をみていると、東京オリンピックのときはどうなることかと今から気がもめる。いや、それまでの準備プロセスも同様である。いまさら言うまでもないが、オリンピックは誰もが受け入れるべき世界的イヴェントとして、あらゆる政治的・社会的課題を押しのける最も強力な口実になる。
 
 「ナチスに学ぶ」(麻生)とはよく言ったもので、ナチスは1936年のベルリン・オリンピックを最大限に利用した。聖火リレーのために敷かれたギリシアからベルリンへの道路は、第二次大戦時のバルカン侵攻のための道路だった。2020年の東京はどうなるのか? ただ、言えるのは、今の安倍政権がいくら「復古」を目指しても、「強国日本」の将来設計をもっているようには見えず、東京をベルリンにすることはできないだろうということだ。もっとも、ナチス・ドイツはそれで「自殺の道」を突き進んだのだが、それに「学ぶ」とすれば2020年は1940年の二の舞になるだろう。オリンピックなどよりはるかに、日本には世界に対してなすべき大事なことがある。


★以前にも挙げたが、オリンピックと現代のスポーツの意義については稲垣・今福・西谷『近代スポーツのミッションは終わったか』(平凡社)で、オリンピック、祝祭、身体、経済、メディア、にわたって、あらゆることを論じつくした。ぜひ参照されたい。


[追伸]
 ウクライナはとうとう分裂状態になった。ヤヌコヴィッチ大統領は親欧派の強い首都を明け渡して、ロシアへの出国を測ったが果たせず、支持基盤の東部に退いたようだ。投獄されていたティモシェンコ元首相も釈放されたが、どうなるのかは予断を許さない。ロシアはウクライナという「伝統的な領土」を簡単に手放そうとはしないだろう。

 ウクライナの分裂は最近のことではない。もともと帝政ロシア内部に、西洋派とロシア派との分裂があったが、ウクライナはその分裂が地理的に緩衝される場所だった。ロシアと西洋とを、分けることで繋げている。もともとロシアはこの地(キエフ)に発祥したが、モスクワに居を移すことで広大な世界に開かれ、かつ西洋からの影響から遠ざかって、独自の重みと力をもつようになったのだ。
 
 だからウクライナは、ロシアにとって切っても切れない縁がある。ウクライナは故地であるとともに、現実的に、西洋に通じる広い回廊であり、もっとも豊かな穀倉地であり、さらに黒海に開けた要衝(クリミア半島)だった。そのためこの地(とくに東部)には多くのロシア人が入植移住している。

 そのことが、この地のロシアに対する従属的位置を決定づけているが、コサック、ポグロム、スターリン時代初期の食糧収奪、戦争の惨禍、等々が、近代にはこの地の固有性をかたち作ってきた。

 今回の分裂は、その意味で「冷戦の残滓」というより、グローバル化のなかで再浮上したウクライナの地政学的位置の問題だと言える。それを超える視野をもつためには、グローバル化が世界の西洋化の延長にあることを念頭に置かなければならない。

 世界の西洋化とは、技術・産業・経済システムの世界的展開を言う。「脱・産業=経済化」への視野だけがウクライナをその宿痾から解放することができるだろうが、さもなければこの国の分裂は避けがたいだろう。

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