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いま最も必要な本--セルジュ・ラトゥーシュの新刊

 フランスの経済学者・社会哲学者のセルジュ・ラトゥーシュの近著が出た。『〈脱成長〉は世界を変えられるか? 贈与・幸福・自律の新たな社会へ』(中野佳裕訳、作品社、原題は『消費社会から抜け出るために』)だ。

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 おそらくこれは近年最も重要な、あるいは必要な本なのではないかと思う。

 いま、日本の混迷も含めて、世界に共通の問題を引き起こしているのは、グローバル化とそれを規定している「経済原理主義」である。政治はいまや経済を運営しているのではなく、経済の僕に成り下がり、どんな社会問題が起こっても、人びとの不安が高まっても、経済のために国民さえ売り渡そうとする(日本のTPPなど)。そしてその「成り下がり」を糊塗するために、政治は戦争という奥の手を使いたがる。戦争は問答無用、すべての問題をチャラにするからだ(とは言っても、核戦争ができるのか?)。

 ジャン=ピエール・デュピュイは『経済の未来』(以文社)で、経済が政治を食い尽くしている様を語った。経済はどうしてここまで肥大したのか? まさにそれが「成長」という盲目の病を抱えているからだ。経済は、人間社会の総体から離陸(ポランニー)して「自律」的になると、闇雲に「成長」しようとする。

 この「成長」は、二十世紀後半の七十年あたりに最初の警告を受けてきた。自然資源を採取して使い捨てる産業が地球環境にかける負荷が、もはや人間の生活を脅かすレヴェルに達してきたのだ。各地で産業による空気や水や大地の汚染が問題になり、その産業を支えるエネルギー資源である化石燃料の枯渇も視野に入ってきた。

 ところが、それでも経済は「成長」しようとし続け、致命的な汚染を生む核エネルギーを多用するようになり、「消費社会」のヴィジョンを打ち出して、すでに基本的なところでは充足している生活の必要を超えて、メディアの宣伝広告で人びとに新たな欲望を不断に植えつけて、コンピューターやインターネットで「イノヴェーション」を演出する。その結果人びとは消費の中毒にかかり、広告とクレジットと耐用期限の設定で「新製品」を買わされ、消費のために労働するようになり、グローバル化の競争にさらされてストレスを溜めるだけでなく、いつも失業の不安にさらされる。そして経済だけが盲目的に成長してゆくという仕組みだ。

 この仕組みがグローバル規模で「円滑に」回るために、規制緩和や市場開放が求められ、政治は介入するなということになっている。そして、消費の数字を増やしたい「市場」に要求されて、後先見ずに札束だけは増刷する。その尻拭いで政治は、使い潰され、ストレスだけを溜める人びとの不満を、「敵」に向けさせて捌け口を与え、戦争も辞さないそぶりをする。戦争は悪くない。それ自体があらゆる財の「消費」だし、「成長」の破たんを糊塗して経済に言い逃れをさせることができる。

 人類の社会をこんな破綻の急流に追い込んでいるのは、経済の専制であり、成長の神話であり、それへの盲従である。けれども、成長をやめろというのは難しい。すぐに、では失業していいのか、生活水準が下がっても、あるいは希望がなくなったらどうするのか、という批判がくる。それに対しては、失業するのはいまのシステムが続いているからだ、生活水準とは何を目安に計っているのか、目新しいものを買うことだけが希望なのか、とすぐに反論はできるが、人びとが経済成長という図式の枠組みのなかで考えることを抜け出ないかぎり、成長神話の束縛は強い。

 「成長」が難しいことがなにか不幸なことのように言われる。そして「持続可能な成長」が語られたりする。だが、「成長経済」は破綻するしかない。というより、それは人類の存続を危ぶめるものでしかない。それが明らかになっているのだ。だから、もはやそんなことは言っていられない。あるいは少なくとも、このままでは出口はないということ、そして破局は近いということを認識しなければならない。「成長」神話が人間の生存にとっていかに倒錯した狂ったものであるかを明確に示し、そしてできたら、人類が神話から抜け出てまともな社会に立ち戻る、そのための具体的な手立てがあるということを積極的に示さなければならない。それをまとめてやっているのが、セルジュ・ラトーシュなのである。

 この本はたんなるアカデミックな思想を展開しているのではない。知的分析と現実把握、そしてヴィジョンの練り上げ(というより洗い出し)と行動への誘いである。ラトゥーシュもヨーロッパの出身だ。そのヨーロッパ(西洋)近代の栄光と、いまや間近な破綻の明らかさのなかで、西洋近代文明がローラーにかけてきた非ヨーロッパ世界の悲惨、しかしそれにも関わらず残存し再生しようとしている随所の地域の知恵に啓発され、ギリシアを汲んだ自分たちの知的資産をも掘り起して、「成長」神話を脱却し、「経済」を社会生活全体のうちに有機的に埋め戻すことの必要を論じ、そのヴィジョンを描き出している。だからそのヴィジョンは、グローバルな経済の専制に抵抗し、そこから抜け出そうとする世界各地の、生存の欲求に根差すあらゆる運動と呼応しうるものになっている。

 ポランニーやジョージェスク=レーゲンの「経済」批判、イヴァン・イリッチやコルネリウス・カストリアデスの産業主義批判を引き継いで、現代のグローバル世界の人びとの真の「幸福」への要請に呼応する、現在もっとも必要とされる本だと思う。

 セルジュ・ラトゥーシュは5月11日に来日して各地で講演を行っており、東京では24日(金)夕刻に恵比寿の日仏会館で「消費社会から抜け出るために」と題して、脱成長」の理念と展望について講演する(⇒案内)、チラシはこちら)。その他、明治学院大学、麗澤大学でも講演する。

[付言]
じつは今フランスで、MAUSSのアラン・カイエたちによる「コンヴィヴィアリズム宣言」が準備されていて、たぶん6月半ばには発表される。「コンヴィヴィアル」とはもともと「共生」をさすが、一般的には「和気あいあい」といった意味である。世界をブルドーザーにかけるように経済的に一元化しながら、それがあらゆる不幸を蔓延させている、その状況に抗して共生社会をめざそうという知識人の宣言である。もともとは、カイエとラトゥーシュが2010年に来日した折に、コンヴィヴィアルな雰囲気の会食のなかからこぼれ出たその場の思い付きのようなものだったが、それが芽を吹き、何度かの会議とネット上の討議を経て、「宣言」が出されることになった。ラトゥーシュも署名している。

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2013年5月19日 09:42に投稿されたエントリーのページです。

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