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2012年9月 アーカイブ

2012年9月 1日

政局、領土問題、オスプレイ

 自民党に身を売り、基盤の党を分裂させてまで消費増税を通した野田政権は、問責決議を受けてもはや何の政策遂行能力もなくなった。一方、自民は自民で、消費増税を批判する問責決議に賛成するという無原則ぶりだ。

 こうして政府が弱体化するなかで、問題山積、内患外憂、3・11で噴き出し対応を迫られた多くの問題も積み残したまま(積み崩れるがまま)、気分はすでに選挙に突入しようとしている。しかしその選挙の構図もまったく怪しい。

 民主党の自壊で「二大政党」は早くも今は昔、分立するあらゆる小政党が「人気」にあやかって「橋下維新」にすり寄るが、その橋下が国政進出で手を組もうとしているのがなんと自民党の安倍晋三だというのだから、お里が知れる。

 3年前の選挙は「政権交代」で実に分かりやすかったのに、そのときの公約はすべて野田政権がドブに捨ててしまった。それでも、近いうちにあるだろう今度の選挙の基本的な争点ははっきりしている。ただ、その争点が政党によって区分けできないというのが問題だ。

 争点の軸は「脱原発」である。3・11以後はっきりしたのは、原子力(核エネルギー)を導入し、「安全神話」によってであれ「必要悪」としてであれ、それに依拠して社会編成をすることが、産業経済のあり方を方向付け、かつ制約し、社会の価値観にも深く影響するだけでなく、日本の国家のあり方をも決めることになっている(核政策は日米関係と深く結びついているし、グローバル世界での日本の位置取りにも関係する)、ということだった。

 つまり、戦後日本の国家政策や経済社会政策、とりわけ70年以後のそれは原発政策と切り離せず、それが旧来の自民党的日本を支えてきたということだ。だから原発をなくすことで、それらすべてが大きく変わらざるをえない。世界の中での日本の立ち方も大きく変わる(たとえば、日本が軍事的にも民生的にも核を放棄する、そしてその廃棄処理に特化する、と表明することは、近隣諸国との関係を変えるばかりでなく、世界の趨勢に大きな影響を与えることだろう――これについては折をみてまた詳述したい。

 要するに、「脱原発」はワン・イッシューつまり単発課題ではなく、あるいはたんにエコロジーの問題ではなく、国内・国外の政策全般を集約した統合課題になっているということだ。

 けれども、それを託すべき政党がないし、これを軸に政党再編がうまく進むとも思えない。だから、少なくとも「脱原発」が広範な力になるように候補者を選ぶしかないだろう(とはいえ、現時点では自民党が第一党に返り咲くことが確実視されており、首相候補の顔ぶれをみると、これだけは避けたいという連中ばかりで暗澹たる思いだが)。

 そこに被さるように、最近「領土問題」が取りざたされている。「領土問題」はふだんは気にせずにいられる「国家」の姿を不意に浮かび上がらせる。そして領土が国家の基本要件だと気付くと、「領土が脅かされている」ということで、人は急にナショナリストになったり、あらぬ「市民的義務」に目覚めてしまったりする。

 そこから「戦争」までにはまだ間があるが、ネットではないが「気分はもう戦争!」で、中国で日本大使館の公用車の国旗が奪い去られたという事件は、日本でも起きかねない(北朝鮮との関係がもめると、日本では朝鮮学校のシマチョゴリの女子高生が襲われる)。

 だが近隣諸国がみんな「敵」だというのは、なんとも情けない話ではないか。誰一人仲良しの隣人がいない。嫌われている、というか信望がない。どうしてこんなことになったのか。日本は太平洋の向こうのアメリカだけを「同盟国」としてアメリカの方を向き、一部の努力や民間交流はあるものの、積極的に近隣諸国との関係を作ってこなかった。そのための努力をしてこなかったこと、これが基本的な問題だ。(それとは対照的に、西アジアの方では日本は一定の信望があった。一度もそこを侵略したことがないからだ。だがそれも、対米追従外交で危うくなっている。)

 中国や韓国が国内で「反日教育」をしてきたため、反日世論の基盤があり、何か事件があるとそれに火がつく(そしてそれが政府に対する不満のはけ口にもされる)という事情はたしかにあるだろう。だが、両国(それに北朝鮮・台湾も)が「反日」教育をしてきたのは、実際に20世紀に植民地支配や侵略の歴史があったからであり、アジア太平洋戦争に乗り出して結局敗退した日本が、その後はアメリカの懐に飛び込んで、両国との関係を良好に修復するのに積極的でなかったからだ(田中角栄のように、勝手に仲良くしようとすると、アメリカに潰される)。そうして責任や公的な謝罪を出し渋ってきた。だから中国にとっても韓国にとっても、日本はいつまで立っても過去の「侵略国」であり、それを正そうとしない隣国なのである。

 そのつけが今、日本の統治機構の混迷のなかで「領土問題」として噴き出してきている。中国や韓国との「良好な関係」の基盤が整えられていないのだ。だからこれは対立するしかない。そのうえ弱体化した政権は、「大きな声」に迎合的な方策をとりがちになる。 

 竹島に関しては、韓国が「領土問題」は存在しないという立場をとっており、尖閣に関しては日本がやはり「帰属問題」は存在しないという立場をとっているが、ともに現実に係争になっている以上、「問題が存在しない」という主張は成り立たない。それに「固有の領土」などという観念は成立しない。尖閣・竹島は両方とも住民のいない島嶼である。その管理については、双方の利害を抑えながら時間をかけて協議してゆくしかない。

 ついでに思い浮かぶのが「抑止力」問題だが、尖閣諸島に関して、沖縄普天間や嘉手納の米軍が「抑止力」になっているという話は聞かない(米政府は一応、安保条約第5条の範囲にあるとコメントしているが)。いま「領土問題」で「危機」を作り出し、「南方島嶼防衛」とか言い出すと、沖縄は四の五の言わずに「前線基地」にできるし、ということは「沖縄戦」の凄惨な記憶も払拭できるし、自衛隊も大っぴらに出動させて、憲法改定をやれ、という話になる。そうなると、アジア太平洋戦争もたんなる歴史上の出来事で、そこから何の反省も組む必要もない、ということになる。「原発再稼働」と同じで、何にもなかったことになって、再び同じような破綻への道を進むことになる。

 アメリカ本土でもハワイでも危険で飛ばせないオスプレイを、人口密集地の沖縄普天間に配備し訓練飛行するという。日米安保条約上、日本政府はこれに口出しできない。ではそのまま配備させるのか? ここに安保条約の矛盾が集中的に表れている。

2012年9月 5日

品川正治『戦後歴程』に期待する(雑誌『世界』連載)

 いま雑誌『世界』で品川正治氏が回想記「戦後歴程」を連載している。品川氏は日本興亜損保(元の日本火災)で社長・会長を務め、経済同友会の終身幹事、1924年生まれで今年88歳になるという。

 うかつなことにこの連載を最近ひとから教えられ、遡って7月号の第1回「激戦からの生還」から読み始めた。品川氏がある事件で三高(京都)を退学、そのまま志願して敗戦間際の中国戦線に送られ、激戦地を辛くも生き延びて復員、その船の中で憲法9条に出会った時の感動を語った章だ。簡潔で要を得た筆致で、劇的な事柄が次々と語られるが、余分な講釈や言い訳がないのがじつに潔い。

 この回想記が即座に胸に響いてきたのは、理不尽な戦時体制のなかで生じた事件の責めをみずから負って前線に赴き、九死に一生を得て帰還(さしずめ五味川純平『人間の条件』のエリート版、いや大西巨人『神聖喜劇』か)、廃墟となった日本の経済的な復興を新生の志をもって担い、労働組合活動から経営者団体の指導までを経験してきたこの筋金入りの「経済人」が、今日の日本の状況を敗戦後のそれに重ねて、われわれの行く末を照らすよすがとして、みずからの生きた戦後日本を書き遺そうとする気概が溢れているからである。

 2011年の3月11日以降、日本を襲った出来事に「敗戦」を想起した人びとは少なくなかった。大津波の引いたあとの光景が、爆撃の後の焼野原を想起させたというだけではなく、また福島の原発事故が広島・長崎の原爆を想起させたからというだけではない。戦後の日本が追い求めてきたものの成果が一瞬にして崩壊し、その負の遺産が剥き出しにされたのである。だから多くの人びとが、日本は変わらねばならないと強く思い、その思いを語った。「敗戦」が想起されるのは大規模な破壊や惨事の外観のためでばかりではなく、それを経験した人びとのこの思いの深さによってである。

 「敗戦」が明治以来70年の日本の破綻であったとしたら、今度の出来事はそれ以後60余年の日本の破綻でもあった。それは現在の日本の統治構造の「メルトダウン」にも表れている。取り繕おうとする動きは絶えないが、次の選挙の構図もまったく描けず、描けるのは最悪の事態ばかり(「ペストかコレラか」はたまた狂牛病か)という政局が如実に示しているように、現在の危機と前例がないほどの混迷に入り込んでいる。

 折しも2008年にアメリカの金融システムが破綻して世界に経済危機が広がるなか、11年の春にはアラブ世界に深い地殻変動が現れた。グローバル化した世界で、日本もこれらの変化と無縁ではない、というより、それは中国やインドの成長とともにグローバル世界そのものの変容を告げている。

 それらのことも視野に置きながら、品川氏はとりわけ保険業界という経済や権力システムの舞台裏や予見に関わる特別の場に身を置きながら生きてきた戦後の日本を批判的に回想しようとしている。日本が曇天のもとダッチロールに揺れるときに、これがまたとない指針のひとつになるだろうことが今から期待される。7月号に掲載された「連載にあたって」を全文引用したいが控える。ぜひ読まれたい。

2012年9月18日

2012年9月「残りの時」

 「終りの日が近い。悔い改めよ...」というのは俗な言い方だが、「時は満ちた、神の王国は近い」という聖書の章句が、最近、ある現実味を帯びて脳裏に響く。「終末」は近く、われわれは「残りの時」を生きているのかという思いとともに。
 
 そうか、これは何もキリスト教だけのものではないのか、と思う一方で、いや世界はまさにキリスト教的黙示に呑みこまれてしまったのか、とも思う。「時は満ちた」というイエスの言葉は成就しつつある。まるで人間全体に「回心」を迫るかのように。
 
 信じる者はこれを「福音(よき知らせ)」と受けとる。彼らには救済の扉が開かれているからだ。だが不信人者には「不幸の予言」は妄言にしか聞こえず、せわしなく世事に引きずられながら破滅の道になだれ込んでゆく。
 
 信じるとはこの場合、何より「終りの日が近い...」という言葉を信じることだ。信じなければ相手にする必要はない。そして「この道」をそのまま進むことになる。信じるとはこの言葉を信じること、それはすでに「回心」であり、この言葉を信じて「破滅(終りの日)」に備えることが、「救済」につながる。だからこの言葉は「福音」だということになる。
 
 ただ、いま「破局」を予測しているのは宗教家ではなく、勧誘など考えていない科学者たちなのだ。あるいは、その科学的予測をまともに受けとめる哲学者たちである。ここ二百年来とどまるところを知らず加速度的に進む地球環境の悪化がある。それは温暖化に集約されているが、それだけではない。有害物質の排出による大気汚染も増進されるばかりだ。それにここ半世紀来始まって、誰も止められない人工放射性物質の生産がある。これは一般に「放射性廃棄物」と言われるが、分かっているのはこれは「廃棄」できないということだ。廃棄できずに貯蔵しておくと、不測の事故でいつ爆発拡散するともかぎらない。
 
 大気汚染を引き起こす他の物質は、規模の問題を別とすれば化学的な対処法もあるが、放射性物質は原理的に生物の生存条件と相容れない。もちろん、ウラルの核惨事(1957年)で汚染された池で飼われているコイのように、「実験」を繰り返せば、通常の人間より一〇倍程度の放射能には耐えられるという「品種改良」はできるかもしれない。けれどもそうなると、「改良」されたものが「人間」であるかどうかは保証のかぎりではない。だが、それを「ポスト・ヒューマン」と言うのだ(この場合はアトミック・マンか?)、それが「進化」だ、と空想科学的なことを言う人たちもいる。科学技術の成果が人間を変えるとするなら、それこそが人間の「進化」であり、その可能性には人間の方が同調しなければならないのだと考える人たちも。そういう人たちにとっては、「破局」も「人類進化」の一ステップ(好機)に過ぎないのかもしれない。
 
 だが、人類全般の生存条件に関わるそのような認識も、人間の世界では政治を通してしか反映されない。そして政治は、その語源がポリス(ギリシアの都市国家)であるように、国家の政治であり、それは分断された諸集団それぞれの目先の利害に大きく既定されており、なおかつ、その集団内でいかにして主導権をとるか(権力を握るか)というさらに小さな利害関係に動かされている。われわれの日々の生活は、そのレベル(あるいはさらに細分化された諸個人や小集団の利害関係がせめぎあうレベル)で営まれている。
 
 それぞれの国内事情、隣接する国々の地理的・歴史的関係、国際社会における関係の錯綜...、その利害の錯綜がすべての関与者をあり地獄に引きずり込むようになっている。
 
 3・11以後の日本の社会が直面するようになった諸課題、対テロ戦争と金融システム破綻以降のアメリカが抱える諸問題、近代以降の世界システムのなかで初めて主役の一画を演じるようになった中国の向き合わねばならない諸課題、そのせめぎあいがいま摩擦の火花を散らしている。残念なのは、どの国でも政治指導者たち(権力をもとうとする者たち)が、その責務を担うに足る見識をもっているとはどう見ても思えないことだ。
 
 だから「終りの日は近い」という言葉が、違うレベルで現実味を帯びる。ただしそれは、どんな意味でも「よき知らせ」ではありえない。
 
 若いころ、北極海航路の船乗りになることを夢見ながら、ヒロシマの惨劇の報に衝撃を受けて科学哲学者になったというミシェル・セールの著作に『自然契約』(1990年)というのがある。冒頭、セールは一枚のゴヤの絵を見つめる。
 
 「二人の敵対者が、棍棒を振り回し、ずるずる崩れ落ちる砂地のど真ん中で争っている。相手の戦法に神経をとがらせ、打たれれば打ち返し、身をかわされてもすかさず二の太刀を浴びせる。」まわりでは観衆が熱狂し、夢中で声をかけ、賭け金を張って、戦いの空気にのめりこんでいる。「ところでこの画家は、二人の決闘者を膝まで泥砂に浸かった姿で描いている。一歩動くごとに粘りつくように二人は穴に引きずり込まれ、そのうちに二人ともすっかり呑みこまれてしまうだろう。(...)二人の決闘者は自分が淵に落ち込んでいるとは夢にも思っていない。ところがこの絵を見ているわれわれにはそれがはっきりと見てとれる。」
 
 簡単な寓話ではあるが、われわれはどこにいるのかと考えさせる。
 

2012年9月25日

オスプレイ強行配備反対の声明

 昨日(24日)オスプレイの強行配備に反対する声明を発表し、参議院議員会館で記者会見を行った。

 じつは、民主党最初の鳩山首相が普天間基地の移設先決定を翌年5月まで先送りした2009年12月に、宮本憲一・大阪市立大学名誉教授などを中心に本土知識人・研究者が、事態をこれ以上座視できないとして「普天間基地移設計画についての日米両政府、及び日本国民に向けた声明」を発表し、翌年4月にもう一度、今度は沖縄の知識人も含めて「普天間基地に関する第二の声明」を出した。このときはインターネットで多くの賛同者が集まり、4月25日には沖縄の読谷で行われた県民大会に合わせて行われた、明治公園での「NO BASE OKINAWA」のキャンドル集会にも合流した(じつはこのブログの発端も、このときの動きと連動していた)。

 結局5月末に鳩山内閣が白旗をあげて退陣したあと、それでもこの二つの「声明」の趣旨を生かして、この混乱から見えてきたものを長期的にも役立つような形にまとめようということで、声明呼びかけ人の有志がそれぞれの立場からの見解をもち寄り、その年の暮れ『普天間基地問題から何が見えてきたか』という本をまとめた(宮本憲一・西谷修・遠藤誠治編、岩波書店)。

 ところが、この本は出版されてまもなく、東日本大震災の津波と原発事故の放射能によって押し流されてしまった感がある。そして一年半後、戦後日本が根本的に変わらなければならない試練のときに、今度は沖縄にオスプレイが強行配備されようとしている。その背後には普天間基地の固定化や辺野古基地新設への圧力があり、そこへ「領土問題」に火がつけられるといった作為が重なっている。

 このときに、普天間基地問題に関して二度の声明を出した者たちが中心になって、あらためてオスプレイの強行配備に何らかの反対表明を出すべきだということで、元『世界』編集長の岡本さんの尽力で実現したのが今回の声明である。基本の考えは一貫しているので、「沖縄問題」がせり出しているこの機に、ぜひ上記の論集もあらためて参照いただけたらと思う。

 記者会見場に大手メディアはあまり来ていなかったようだが、朝日、毎日の電子版がかたちだけ伝えている。沖縄二紙はもちろん来ていた(⇒琉球新報毎日新聞)。

 記者会見の模様はUstreamの以下のURLに上がっています(発言は、岡本さん、新崎さん、前田さん、わたしの順で、わたしの発言は25分あたりからです)。撮影の方ごくろうさまでした。⇒IWJ(インターネット・ウェブ・ジャーナル)

 この声明、意を尽くしたためいささか長く、『世界』の次号に掲載されるだろうが、今は全文を読めるところがないので、参考までにここに掲載させていただく。


【垂直離着陸輸送機オスプレイの沖縄配備に反対する声明】

1、 度重なる墜落事故を起こし、構造的欠陥が指摘されている米軍の新垂直離着陸輸送機オスプレイは、7月、山口県岩国基地に陸揚げされ、10月に沖縄普天間基地への配備と本格運用が強行されようとしている。沖縄では、県知事と41全市町村長が反対し、県議会、全市町村議会が配備反対を決議、党派を問わず、県民の9割が配備に反対している。しかし、野田総理は「米軍の配備にどうしろこうしろと言う話ではない」「沖縄の防衛にも有用」などと述べて、配備を容認する姿勢をとっている。

2、 オスプレイは今年に入ってからも、すでに2件の墜落事故を起こしている。米国防総省は、その事故調査を人為的ミスと結論づけ、野田政権もそれを追認し、「安全」をアピールしようとしている。しかし、すべての事故には人為ミスがかかわっているのであって、人為ミスといわれて安心する者は誰もいない。さらに、2010年にアフガニスタンで起きた墜落事故について、「機体に問題があった」とする調査報告に対して空軍上層部が圧力をかけ、「人為ミス」に改ざんされたと当時の事故調査責任者が証言している。米軍の事故調査はまったく信じるに足りない。

3、 米国はニューメキシコ州やハワイ州におけるオスプレイの訓練を、住民の反対で中止した。ハワイでは遺跡の保護が問題になったという。それでは、周辺には住宅が密集し、121もの公共施設(保育園、学校、大学、病院、老人ホームなどを含む)がある普天間基地で、なぜ飛行訓練が出来るのか。また配備後は沖縄の25市町村の上空を飛行するといわれる。これは沖縄の人命の軽視である。本土各地でも計画されている低空訓練は、住民を脅かすものである。

4、 折しも、尖閣諸島をめぐり、日中間で軋轢が生じている。しかし、こうした軋轢をオスプレイ配備の正当化に用いてはならない。いうまでもなく、紛争は軍事力ではなく、対話、交渉、外交により、憲法と国際法に則って、平和的に解決していくべきものだからである。日中は、かつての歴史に鑑み、非戦の誓いをなした国同士である。その誓いをいま、破っていいはずがない。

5、 日本は、これまで脅威を受けたり、周辺諸国と葛藤が生じると、米国の軍事力に依存し、より日米安保体制に傾斜するという繰り返しであった。そしてその結果、生じる負担のほとんどが沖縄にかけられるということになった。それが全国の0.6%の土地に74%の米軍専用基地が存在するという差別、不公平の現実を生んだのである。オスプレイ配備は、この差別、不公平の象徴であり、さらにその差別、不公平を維持し、拡大するものだ。沖縄の怒りは、このような差別、不公平、犠牲の一方的な押し付けに対するもので、飛行の安全性だけの問題ではない。もし配備が強行されれば、沖縄県民から確実に大きな抵抗が起きる。その結果生じるすべてに対して、日本政府は責任を負わなければならない。

6、 ここに見られるのは、日米安保体制の構造的矛盾である。仮に、安保体制を維持し、米軍を「抑止力」と位置付けるのであれば、その負担は国民全体で公平に分かち合わなければならない。そうしたくないなら、日米安保条約や日米地位協定などを根本的に変えていくことを全国民的な課題にしなければならない。沖縄は、もはやこの安保の負担、犠牲に耐えられないと声を挙げている。その地域の住民の9割の意思を無視した施策を国が強行するというなら、それは民主主義国家ではない。

7、 オスプレイの普天間配備は、沖縄県民の反対で事実上不可能になっている辺野古移設(基地新設)を進める圧力として行なわれるという観測もある。移設できなければ、普天間基地を危険なまま固定化するという「脅し」である。私たちは、このような圧力にも反対する。県内移設は、差別、不公平という日米安保の構造的な問題を何一つ解決しないどころか、さらに強化するものである。普天間基地は撤去し、海兵隊は撤収する以外にない。

8、 東村高江地区で進められている「ヘリパッド建設工事」にかんしても、配備後「オスプレイ訓練場」となることが明らかであり、ただちに中止を求める。「高江ヘリパッド」もまた、辺野古新基地建設を前提とし、それまでの間、「普天間固定化」を既成事実化させるものだからだ。
 
 以上を踏まえ、私たちはオスプレイの配備に断固反対する。

賛同
新川明(ジャーナリスト) 新崎盛暉(沖縄大学名誉教授) 内橋克人(評論家) 遠藤誠治(成蹊大学教授) 大江健三郎(作家) 岡本厚(「世界」前編集長) 奥平康弘(憲法研究者) 加賀乙彦(作家) 桂敬一(メディア研究者) 加藤節(成蹊大学教授) 我部政明(琉球大学教授) 川瀬光義(京都府立大学教授) 清宮美稚子(「世界」編集長) 古関彰一(獨協大学教授) 小林正弥(千葉大学教授) 小森陽一(東京大学教授) 坂本義和(東京大学名誉教授) 桜井国俊(沖縄大学教授) 佐藤学(沖縄国際大学教授) 島袋純(琉球大学教授) 高橋哲哉(東京大学教授) 高嶺朝一(前琉球新報社長) 千葉眞(国際基督教大学教授) 寺西俊一(一橋大学教授) 暉峻淑子(埼玉大学名誉教授) 西川潤(早稲田大学名誉教授) 西谷修(東京外国語大学教授) 原科幸彦(千葉商科大学教授・東京工業大学名誉教授) 平井康嗣(週刊「金曜日」編集長) 星野英一(琉球大学教授) 前田哲男(評論家) 間宮陽介(京都大学教授) 水島朝穂(早稲田大学教授) 宮里政玄(沖縄対外問題研究会顧問) 宮本憲一(大阪市立大学・滋賀大学名誉教授) 由井晶子(ジャーナリスト) 和田春樹(東京大学名誉教授)     
*賛同者リストを入れ替えました(9/26)


2012年9月29日

「領土問題」に関する市民のアピール

 昨日(28日)午後、やはり参議院議員会館でもうひとつの声明「〝領土問題〟の悪循環を止めよう!――日本の市民のアピール――」の記者発表が行われた。

 「オスプレイ配備に反対する声明」は、2年前の「普天間基地問題に関する声明」からの流れがあったので、前回の声明の呼びかけ人を中心にした「学者・文化人の声明」だった。それに対して「領土問題に関するアピール」は広く市民レベルの呼びかけにしようということで、数日間賛同者を募ったところ、状況悪化を憂慮して何かしたいと思っていた人たちが多かったようで、たちまち千二百を超える賛同が集まった。

 それをもって代表の人たちが今日記者会見に臨んだのだが、なんと、来たのは中国、台湾、韓国の記者やテレビばかりで、日本のメディアはほとんど来なかったそうだ!ネットで検索してもニュースは出てこない(「オスプレイ反対声明」のときは、毎日、朝日、琉球新報が配信していた)。日本のメディアは相変わらずこういう「声」に関心をもたないのだろうか。

 ともあれ、10月18日に首相官邸前でこのテーマでの行動が企画され、それまで賛同募集は続けられるはずだ。アピールの全文は以下のサイトで読むことができる:「許すな!憲法改悪・市民連絡会議」。ここには中国語版、韓国語版、英語版もある。
 便宜のため、以下にも掲載しておく。

 今年は沖縄に超大型の台風が多い。今度の17号で三つ目だ。「神風」? だが沖縄は暴風雨にさらされ、オスプレイは羽を畳んでしのぐ。その嵐を潜って、沖縄での反対運動は新しい段階に入っているようだ(⇒「辺野古浜通信」)。

【追伸(10/01)】「賛同署名」集約は10月17日まで延長されました。署名のサイトもできました。ここで登録できます。よろしくお願いいたします。
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「領土問題」の悪循環を止めよう!
     ――日本の市民のアピール――
          
2012年9月28日

 1、「尖閣」「竹島」をめぐって、一連の問題が起き、日本周辺で緊張が高まっている。2009年に東アジア重視と対等な日米関係を打ち出した民主党政権の誕生、また2011年3月11日の東日本大震災の後、日本に同情と共感を寄せ、被災地に温家宝、李明博両首脳が入り、被災者を励ましたことなどを思い起こせば、現在の状況はまことに残念であり、悲しむべき事態であるといわざるを得ない。韓国、中国ともに日本にとって重要な友邦であり、ともに地域で平和と繁栄を築いていくパートナーである。経済的にも切っても切れない関係が築かれており、将来その関係の重要性は増していくことはあれ、減じることはありえない。私たち日本の市民は、現状を深く憂慮し、以下のように声明する。

 2、現在の問題は「領土」をめぐる葛藤といわれるが、双方とも「歴史」(近代における日本のアジア侵略の歴史)問題を背景にしていることを忘れるわけにないかない。李大統領の竹島(独島)訪問は、その背景に「従軍慰安婦」問題がある。昨年夏に韓国の憲法裁判所で出された判決に基づいて、昨年末、京都での首脳会談で李大統領が「従軍慰安婦」問題についての協議をもちかけたにもかかわらず、野田首相が正面から応えようとしなかったことが要因といわれる。李大統領は竹島(独島)訪問後の8月15日の光復節演説でも、日本に対し「従軍慰安婦」問題の「責任ある措置」を求めている。
日本の竹島(独島)領有は日露戦争中の1905年2月、韓国(当時大韓帝国)の植民地化を進め、すでに外交権も奪いつつあった中でのものであった。韓国民にとっては、単なる「島」ではなく、侵略と植民地支配の起点であり、その象徴である。そのことを日本人は理解しなければならない。
 また尖閣諸島(「釣魚島」=中国名・「釣魚台」=台湾名)も日清戦争の帰趨が見えた1895年1月に日本領土に組み入れられ、その3カ月後の下関条約で台湾、澎湖島が日本の植民地となった。いずれも、韓国、中国(当時清)が、もっとも弱く、外交的主張が不可能であった中での領有であった。

 3、日中関係でいえば、今年は国交正常化40年であり、多くの友好行事が計画・準備されていた。友好を紛争に転じた原因は、石原都知事の尖閣購入宣言とそれを契機とした日本政府の国有化方針にある。これは、中国にとってみると、国交正常化以来の、領土問題を「棚上げする」という暗黙の「合意」に違反した、いわば「挑発」と映っても不思議ではない。この都知事の行動への日本国内の批判は弱かったといわざるをえない。(なお、野田政権が国有化方針を発表したのは7月7日であった。この日は、日本が中国侵略を本格化した盧溝橋事件(1937年)の日であり、中国では「7.7事変」と呼び、人々が決して忘れることのできない日付であることを想起すべきである)

 4、領土問題はどの国のナショナリズムをも揺り動かす。国内の矛盾のはけ口として、権力者によって利用されるのはそのためである。一方の行動が、他方の行動を誘発し、それが次々にエスカレートして、やがて武力衝突などコントロール不能な事態に発展する危険性も否定できない。私たちはいかなる暴力の行使にも反対し、平和的な対話による問題の解決を主張する。それぞれの国の政治とメディアは、自国のナショナリズムを抑制し、冷静に対処する責任がある。悪循環に陥りつつあるときこそ、それを止め、歴史を振り返り、冷静さを呼びかけるメディアの役割は、いよいよ重要になる。

 5、「領土」に関しては、「協議」「対話」を行なう以外にない。そのために、日本は「(尖閣諸島に)領土問題は存在しない」といった虚構の認識を改めるべきである。誰の目にも、「領土問題」「領土紛争」は存在している。この存在を認めなければ協議、交渉に入ることもできない。また「固有の領土」という概念も、いずれの側にとっても、本来ありえない概念といわなければならない。

 6、少なくとも協議、交渉の間は、現状は維持されるべきであり、互いに挑発的な行動を抑制することが必要である。この問題にかかわる基本的なルール、行動規範を作るべきである。台湾の馬英九総統は、8月5日、「東シナ海平和イニシアティブ」を発表した。自らを抑制して対立をエスカレートしない、争いを棚上げして、対話のチャンネルを放棄しない、コンセンサスを求め、東シナ海における行動基準を定める――など、きわめて冷静で合理的な提案である。こうした声をもっと広げ、強めるべきである。

 7、尖閣諸島とその周辺海域は、古来、台湾と沖縄など周辺漁民たちが漁をし、交流してきた生活の場であり、生産の海である。台湾と沖縄の漁民たちは、尖閣諸島が国家間の争いの焦点になることを望んでいない。私たちは、これら生活者の声を尊重すべきである。

 8、日本は、自らの歴史問題(近代における近隣諸国への侵略)について認識し、反省し、それを誠実に表明することが何より重要である。これまで近隣諸国との間で結ばれた「日中共同声明」(1972)「日中平和友好条約」(1978)、あるいは「日韓パートナーシップ宣言」(1998)、「日朝平壌宣言」(2002)などを尊重し、また歴史認識をめぐって自ら発した「河野官房長官談話」(1993)「村山首相談話」(1995)「菅首相談話」(2010)などを再確認し、近隣との和解、友好、協力に向けた方向をより深めていく姿勢を示すべきである。また日韓、日中の政府間、あるいは民間で行われた歴史共同研究の成果や、日韓関係については、1910年の「韓国併合条約」の無効を訴えた「日韓知識人共同声明」(2010)も、改めて確認される必要がある。

 9、こうした争いのある「領土」周辺の資源については、共同開発、共同利用以外にはありえない。主権は分割出来ないが、漁業を含む資源については共同で開発し管理し分配することが出来る。主権をめぐって衝突するのではなく、資源を分かち合い、利益を共有するための対話、協議をすべきである。私たちは、領土ナショナリズムを引き起こす紛争の種を、地域協力の核に転じなければならない。

 10、こうした近隣諸国との葛藤を口実にした日米安保の強化、新垂直離着陸輸送機オスプレイ配備など、沖縄へのさらなる負担の増加をすべきでない。

 11、最後に、私たちは「領土」をめぐり、政府間だけでなく、日・中・韓・沖・台の民間レベルで、互いに誠意と信義を重んじる未来志向の対話の仕組みを作ることを提案する。
  (以下署名)  
 

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