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『世界』の表紙写真館

 本が読まれない状況とか、雑誌のあり方とか、一般に〝ものを考える〟ことが無駄で役に立たないとみなされる風潮とか、昨今の政治の混乱状況とかを考えていると、いま『世界』のような雑誌があることが文字どおり〝有難い〟ことと思えてくる。

 古く固まった頭には、あれがヒダリがかった雑誌と見られているようだが、もうだいぶ前から右も左もない。世界はただ丸いだけだ。その丸くなった世界で起こる現象は、もはや左とか右とかの物指しでは対処できなくなっている。『世界』はそういう現実に向き合っているほとんど唯一の論評誌だ。

 『世界』の表紙には四角い中窓が開いている。この開けが、今ではこの雑誌の〝志〟を象徴しているように思われる。わたしが毎号手にとってまず目をやるのはこの表紙だ。表紙だからあたりまえと言えばあたりまえだが、この表紙には素通りできない〝図像力〟がある。
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 そこにはいつも橋口譲二によるポラロイドの人物写真が載っている。長らく一七歳の少年少女たちの顔だったが、それが5年続いて本になった後、いまはここに登場するのは橋口が全国津々浦々で出会った女性たちだ。ポラロイドの顔写真、だが身分証明写真などとはまったく違って、どれもみんなこちらを真っ直ぐに見つめており、その人たちが生活に向き合うナマの視線がこちらを向く。

 表紙を一枚めくると、今度はその人の生活の場面を背景にしたモノクロの全身像がある。写真の下には、名前と年齢、撮影場所、それに職業、現在の収入、今一緒に暮らしている人、今朝の朝食、好きな音楽、最近読んだ本、今まで行った一番遠い所、今までについた職業の一問一答が記され、さらに本人が写真家に語った暮らしぶり生き方についての思いが、本人の口調を生かして書かれている。いわば、この人たちの人生のレジュメだ。

 この人たちは、政治や社会などを論じる『世界』などという雑誌とは縁なく生きてきただろうし、また、けっしてメディアに取り上げられることもなかっただろう。ただ、この国のこの時代に生まれ、それぞれの境遇のなかでそれぞれの生活を生きている。
 そういう人の一人ひとりに視線を届かせ、その視線を引き出す。ともかく、社会とはこの人たちの生きている場であり、この雑誌でさまざまな問題が論じられるのは、この人たちがそれぞれの境遇を生きているからだし、そのことをどこかで視野に置かない論評は、駄弁か、そうでなければ論者たちの自己主張にすぎないということだ。

 群れではない。社会学や政治学の統計数字に還元される集団でもない。一人ひとりの顔をもった人、そして天下国家を論じたり、この社会の成り行きに関与したりすることなく、この場に生を享け、生きている人たちだ。たとえこの人たちが『世界』など読まなくても、『世界』はその人たちを視野に入れている……のではなく、この人たちの眼差しを受けとめている。橋口の写真はそう言うために雑誌の表紙に置かれているかのようだ。

 この社会を動かす(つもりになっている)人びとではなく、この社会に生きている通常は不可視な一人ひとりの肖像を描き出し、いまこの社会にどんな人びとから成立っているのかを洗い出すようにして見せる橋口のこの姿勢は、2001年から2006年の表紙を飾った「17歳」シリーズのときから変わらない。そのシリーズが単行本になったとき、以下のような書評を共同通信配信で書かせてもらった。参照されたい。(クリックで拡大)
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2010年11月20日 23:05に投稿されたエントリーのページです。

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