« 〝帝国の宗教〟に関する近刊いくつか | メイン | 『世界』の表紙写真館 »

野間秀樹『ハングルの誕生』讃

 すでに今年度のアジア太平洋賞(アジア調査会・毎日新聞)を受けて十分認知された本だが、野間秀樹『ハングルの誕生』(平凡社新書)についてひと言。

 これは、15世紀半ばに朝鮮で作られたハングルという文字が、いかに独自で画期的な創案であったかを、歴史的・言語論的に解き明かした本である。書きものと言えば漢字であることが千年にわたる伝統だった朝鮮で、開明的な君主世宗の主導で当時の俊英が集められ、徹底的な言語理解の上に立って類例のない新しい表音文字体系が創出された。

 それは朝鮮語という話し言葉を、擬音や擬態語まで含めて表記しうる(そして世界のほとんどの言語も表記しうる)合理的な表音文字の体系だった。この文字体系を打ち出した『訓民正音』に続いて、実際にハングルで書かれて最初に出版されたのは朝鮮王国の建国を讃える『龍飛御天歌』であったという。そこに、世宗が独自文字創出にかけた想いが凝集されている。この文字によって、朝鮮語は十全な表記の可能性を与えられ、その言葉で生きる人びとは、自分たちの言語を時間と空間を超えて伝えることができるようになった。

 そのうえこの書記体系は、それまでの文字体系のほとんどを相対化し、語素や音素といった現代言語学の知見にまで届くような分析を踏まえて作られており、そのため一言語を超えた汎用の書記手段としても使えるものになっていた。ハングルとはそのように意識的方法的に作り出された稀有の文字体系だということである。

 野間はこの出来事を「〈正音〉エクリチュール革命」と呼んでいるが、その大袈裟にもみえるタイトルがけっして大袈裟ではないことを、本書の記述が説得力をもって示している。

 近代国民国家の形成と「国語」の創出に関してはイ・ヨンスクを始めとする仕事があるが、ハングルという文字体系創出の意義と、そこに込められた漢字文化圏における周辺国朝鮮の自立と自己充実への意志は、国民国家形成とはまた違った意味合いをもち、それがこれほど鮮やかに熱く描き出されたことは、当の韓国や朝鮮でもなかったことだろう。

 いま、野間のもとには韓国から取材が殺到しているという。朝鮮語には韓国も朝鮮もなく、また日本に生を享けた野間が、日本の学者として隣国の文字の発明に関してこのような幸福感――自分たちの言葉を十全に表記できる文字をもつ歓び――に満ちた本を書きえたということは、どんな分断も対立も超えて行き交える知の営みによる、東アジアの相互理解への掛け値なしの貢献だと言ってよいだろう。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.tufs.ac.jp/blog/mt/mt-tb.cgi/4213

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2010年11月15日 21:44に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「〝帝国の宗教〟に関する近刊いくつか」です。

次の投稿は「『世界』の表紙写真館」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。