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2010年11月 アーカイブ

2010年11月 1日

比嘉慂『美童物語』新作について

 ブログに何か書こうとすると、つい沖縄がらみになってしまうのは時節がらだろうか…。 

 ちょうど、11月2日から沖縄県立美術館で「母たちの神--比嘉康雄展」が開かれる。比嘉康雄を知る人もそう多くはないだろう。展示会の案内から引用すれば、「比嘉康雄は、1968年のB52爆撃機の墜落事故をきっかけに、警察官の職を辞して写真家となりました。激動期の沖縄を象徴し、戦後沖縄を代表する写真家の一人と言えるでしょう。/初期には、沖縄の社会的な現状に目を向けましたが、宮古島の祭祀との出会いに衝撃を受け、琉球弧の祭祀世界―沖縄の古層に、沖縄人の生活・文化の根となる思想を求めていきました。」とある。

 この展示会についてはまた別に紹介したいが、今日、この件にふれたのは、比嘉康雄の最後の著書が、いまから紹介しようとしているもう一人の比嘉の別ジャンルの作品に重なってきたからだ。比嘉の最後の著書は久高島のイザイホーをめぐるものである。このすばらしい本には、残念ながら『日本人の魂の原郷、沖縄・久高島』(集英社新書)というタイトルがついてしまっており、そのために題名を挙げづらいのだが、そのことについては本が出版されたとき--比嘉さんが亡くなったすぐ後だ--書評で二度も重ねて指摘した。それを思い出させる一件が、つい最近、展示会がらみでなかったわけではないが、ただ、今日はそのことではない。

 先日、近作を紹介したコミック作家の比嘉慂の未発表作品が、『モーニング』で二週続けて発表された(10月28日第46号、11月4日第47号)。『美童物語』の連作で「神女(カミンチュ)」と「キジムナー」のニ作だ。わたしがこのコミック雑誌の読者だというのではないが、幸いにして『世界』編集部で比嘉の連載を依頼している担当者が教えてくれた。「神女」とは「男は海人、女は神人」、つまり男が海で漁をし、女は神々に仕えて島を守る、と言われるあの「カミンチュ」だ。「キジムナー」は沖縄の森に棲む木の精のようなものだ。高嶺剛の映画『ウンタマギルー』にも登場する。沖縄(やその近辺の島々)では、人と神々と生き物たちと自然(森と海)との交感の感覚が濃い。それがひとつの充足した宇宙のような生活圏を作り出すが、それを演出し、人びとの生活の形や枠組みを作ってきたのが、島々の祭祀だ。

 カミンチュはその祭祀を担う女たちだ。女たちには言うに言われぬ苦労があり、痛みや苦しみを抱えていて、だからこそこの世の哀しみや辛さを共有し、その心をもって神に仕える。そして神々は祈りを向けられ寿がれることによって生を得、島の守り、つまりは人びとを生かす力となる。
 比嘉慂の「神女」の舞台はイザイホーの行われていた久高島である。作品のなかでは架空の島になっているが、最後に、下敷きになっているのはイザイホーだと明記してある。

 まだまだ沖縄戦にはなっていないが、日本の戦時体制が島々にどんなふうに浸透し、島の人びとの生活がどのように揺さぶられ、巻き込まれてゆくのか、それを戦争の歴史の側からではなく、比嘉のこの一連の作品は、カマルという「セジ(霊感)」高いノロの家系の多感な少女の生きる日々の生活の側から描き出している。
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 『モーニング』編集部も、この作品の前に「読者の皆さまへ」という紹介に1ページを割き、「気楽に読める作品では、決してありません」とわざわざ断っている。それでも、編集部が比嘉の作品を特段に掲載するのは、ここに沖縄の人びとが経験した戦争の真実が描かれている、といった評価からだけではなく、伝えがたいこと、説明や解釈を超えてしまう、けれども感じとらねばならないようなことを、書割コマの絵とコトバの連鎖でまるごと表現するという、このジャンルの可能性をこの作品が担っている、というふうにに編集部が考えているからだろう。

 比嘉慂の作品は、解説したり解釈したりする必要を感じさせない。というより、まさしくそんな作業がむだであるからこそ、比嘉はコミックを描いているのだと思わされる。もちろん、沖縄について知識があればより踏み込んで理解できるといったことはある。けれども、比嘉が描き出すのは、知識などが取り落とす生の豊かさや哀しみや、理不尽な横槍をもかわして、すべてを包み込み掬い取る存在そのものの優しさのようなものである(ハイデガーやレヴィナスの「存在」の対極にあるような、と言っておこう。)

 書籍になって、多くの人の目にふれてほしいと思う。

★『モーニング』公式サイトに紹介があります。⇒こちら

 

2010年11月12日

機密保護法?菅内閣の末期症状

 菅内閣についてはすでに6月の段階でダメ出しをしているので、いまさら論評するまでもないと思っていたが、最近の尖閣沖漁船衝突ビデオの流出をめぐる状況をどう思うかと二度も聞かれたので、ひとことだけ言っておこうと思う。

 これがどういう意図で流されたかの詳細については問わずにおこう。それがよいとか悪いとかの判断も留保する。「国益」とやらの話にしたくないからだ。それでも明らかなのは、海上保安庁が管理していたこのビデオをユーチューブに流すという行為は、政府(菅内閣)に対する現場の人間からの抗議の意味をもっているということだ。そしてこれが国家機密にあたるかといえば、そんなことはまったくない。単に起こったことの記録であって、公表されたらまずいと考えるのは、隠しておくことを外交手段に使おうとした政府だけだ――たいして役に立つとも思えないが。

 もちろん、これを公表して日本が中国漁船を逮捕しても当然だったと主張することはできる。けれども、この問題の要所は、「領土問題」が関わるこのような事件はただちに外交案件として扱わねばならないということだ。そうすれば、日中政府間にその扱い方に関する前例があり、双方政府が双方の世論や政情に押されて後に引けないといった状態に陥ることは避けられた。ところが民主党政権は、これを内向きに国内法で扱おうとしたために、中国には独善のごり押しと受け取られ、中国当局もことを荒立てざるを得なかった。

 素人でもわかる外交判断が、民主党政権にはできなかったということだ。

 そして今、責任者を処罰するとか、流出を防ぐための法律を作るとか言い出している。機密保護法か? 自民党時代の「密約」を問題にしてきたのはどこの誰だったのか。権力に都合がよいだけのそんな悪法は自民党でも作れなかった。

 この件に関しては、今日の「琉球新報」の社説が言うべきことを十分に言っていた。転載させていただく。(クリックで拡大)
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 今回の「流出」事件は現政権の対応のまずさによる混乱に輪をかけることになった。
 せっかく政権交代して、日米安保の「自発的隷従」体制が、やっと半世紀ぶりに少なくとも「自覚的追従」ぐらいになるかと期待したが、ちょっと横から揺さぶりがかかると、もう定見も何もないアメリカへの「なしくずしの盲従」という惨状である(TPP参加も含めて、それを財界が後押ししている)。もうこの政権は壊れていると言うしかない。

[追記]
 14日付けの東京新聞のコラムで山口二郎がまともなことを書いていた。その後半で気になったこと--「出先機関の暴走で、取り返しのつかない戦争が始まった」ことが確かにかつてあった。この「出先の暴走」は軍部という国家の暴力装置の暴走だった。今回の出来事は「出先の暴走」というほどではないが、政府がみずから必要とする内部的な情報統制ができていなかったということではある。ただ、今度の場合、問題なのは、この情報の政府部内統制に妥当性があったかどうかという点である。
 日中関係、日ロ関係は、もちろん今に始まったことではなく、長い自民党政権時代の〝無為〟(アメリカ頼み)のつけが一気に噴出したということでもある。そういう〝つけ〟を負ってゆかねばならないとしたら、ともかくここで〝アメリカ頼み〟でない抜本的な外交の建て直しに取り組むことが必要だろう。

[付記]
 未消化な部分があったので、一部削除しました(2010.11.16)

2010年11月14日

〝帝国の宗教〟に関する近刊いくつか

 今年は大学院の講義で「世界史とキリスト教」を取り上げている。その流れで--

 アラン・コルバン編『キリスト教の歴史』(藤原書店)に目を通した。キリスト教の形成期を扱った第一部(5世紀まで)は専門家たちが要点を書き重ねていてなかなかに興味深く、この〝大文字の宗教〟の成立の概観をたどることができ、いくつかの疑問についても案内をうることができる。だが、中世、宗教改革あたりから記述も構成もダレてきて、ついでに翻訳もいい加減になっていて、いただけない。

 キリスト教世界の形成過程を書くのは比較的やり易いが、問題はその後、つまり近代以降をどう書くかということだ。コルバンは「現代をよりよく理解するために」と副題をつけていて、その意図やよし、と言いたいところだが、結局それはできていないと言わざるをえない。というのは、キリスト教は近代の社会形成や人びとの意識の変化のなかに拡散するようにまぎれ込み、一見非宗教的なかたちで規範的効果を及ぼし続けており、そのために今も問題になるのだが、そのことを「キリスト教の歴史」として把握するのがむずかしいからだ。

 たぶんそれは、非キリスト教世界から見たほうがよくわかる。キリスト教世界では、近代は脱宗教化のプロセスとして捉えられてきたが、世界の西洋化は同時にキリスト教化として遂行されてきた。要するに、キリスト教はたんなる教会や信仰の問題としてより、世界を西洋的に改造する大きな原動力になってきたのである。たとえば近代国家の形成や、普遍主義的国際システムに鋳型を提供し、自由や民主主義のイデオロギーをも生み出してきた。だとしたら、近代の世俗社会の諸原理そのものがキリスト教の現世的展開だということになるが、そのことを「宗教史」として書くことはむずかしいだろう。

 ついでにふれておけば、フランスにマルセル・ゴーシェという政治哲学の〝大御所〟がいて(最近いくつか翻訳が出始めたようだ)、キリスト教は「宗教からの出口の宗教」であり、それが超越を必要としない、つまり神などを想定しない自律的な社会を生み出した、言いかえれば、民主主義はキリスト教社会からしか生まれなかった、と断言している。これも、頭の中までキリスト教で制度化された自閉的思考といわざるをえないが、こういう〝世俗歴史哲学〟こそがラテン・カトリック思想の現代版なのである。通信衛星を上げて、衛星回線で世界中にミサを届けようというローマ教皇庁の発想と同型だ。

 そんなふうに、人類史を呑みこんでしまおうとするところに、キリスト教の〝大文字の宗教〟たる所以もあるのだが、この宗教がそうしたいわゆる〝世界宗教〟になった秘密は、その教義の力によるのでも、〝聖者〟たちの功徳によるのでもなく、ほかでもない「貧者の信仰」だったこの宗教が、いつの間にかローマ皇帝の宗教になり、帝国の国教になったという〝奇蹟〟のためである。これについては最近、ポール・ヴェーヌ『「私たちの世界」がキリスト教になったとき――コンスタンチヌスという男』(岩波書店)の翻訳が出た。だが、ヴェーヌの関心は、帝国ひいては後のヨーロッパのキリスト教化についてのコンスタンチヌスの役割の方にあって、帝国の宗教となることでキリスト教がどう変わったのか、いかなる宗教ができてしまったのか、といったことにはないようだ。

 この最初のキリスト教皇帝を洗礼に導いたのがカイサリアのエウセビオスだった。辻邦生の『背教者ユリアヌス』(中公文庫)では、濃密な影のような存在がいささか不吉に描かれているが、そのエウセビオスの主著『教会史』が、まだ上巻だけだが講談社の文庫に入って手近で読めるようになった。こんな本が文庫になるとは思わなかったが、書籍出版の断末魔が語られる時代に、こういう本が廉価版になって出るというのはなんともありがたい。

 ついでに、参考のために--キリスト教というきわめて特異な主張と組織をもつ宗教の、きわめて特異なステイタス(アウグスティヌスが強調する「真の宗教」)について啓発的なのが、セルジュ・マルジェルの『迷信--キリスト教世界における宗教の人類学』(未訳)である。つい最近、長いフランス留学から帰ってきた友人が、数年前に教えてくれたものだ。Serge Margel, Superstition, L'anthropologie du religieux en terre de chrétienté, Galilée, 2005.

2010年11月15日

野間秀樹『ハングルの誕生』讃

 すでに今年度のアジア太平洋賞(アジア調査会・毎日新聞)を受けて十分認知された本だが、野間秀樹『ハングルの誕生』(平凡社新書)についてひと言。

 これは、15世紀半ばに朝鮮で作られたハングルという文字が、いかに独自で画期的な創案であったかを、歴史的・言語論的に解き明かした本である。書きものと言えば漢字であることが千年にわたる伝統だった朝鮮で、開明的な君主世宗の主導で当時の俊英が集められ、徹底的な言語理解の上に立って類例のない新しい表音文字体系が創出された。

 それは朝鮮語という話し言葉を、擬音や擬態語まで含めて表記しうる(そして世界のほとんどの言語も表記しうる)合理的な表音文字の体系だった。この文字体系を打ち出した『訓民正音』に続いて、実際にハングルで書かれて最初に出版されたのは朝鮮王国の建国を讃える『龍飛御天歌』であったという。そこに、世宗が独自文字創出にかけた想いが凝集されている。この文字によって、朝鮮語は十全な表記の可能性を与えられ、その言葉で生きる人びとは、自分たちの言語を時間と空間を超えて伝えることができるようになった。

 そのうえこの書記体系は、それまでの文字体系のほとんどを相対化し、語素や音素といった現代言語学の知見にまで届くような分析を踏まえて作られており、そのため一言語を超えた汎用の書記手段としても使えるものになっていた。ハングルとはそのように意識的方法的に作り出された稀有の文字体系だということである。

 野間はこの出来事を「〈正音〉エクリチュール革命」と呼んでいるが、その大袈裟にもみえるタイトルがけっして大袈裟ではないことを、本書の記述が説得力をもって示している。

 近代国民国家の形成と「国語」の創出に関してはイ・ヨンスクを始めとする仕事があるが、ハングルという文字体系創出の意義と、そこに込められた漢字文化圏における周辺国朝鮮の自立と自己充実への意志は、国民国家形成とはまた違った意味合いをもち、それがこれほど鮮やかに熱く描き出されたことは、当の韓国や朝鮮でもなかったことだろう。

 いま、野間のもとには韓国から取材が殺到しているという。朝鮮語には韓国も朝鮮もなく、また日本に生を享けた野間が、日本の学者として隣国の文字の発明に関してこのような幸福感――自分たちの言葉を十全に表記できる文字をもつ歓び――に満ちた本を書きえたということは、どんな分断も対立も超えて行き交える知の営みによる、東アジアの相互理解への掛け値なしの貢献だと言ってよいだろう。

2010年11月20日

『世界』の表紙写真館

 本が読まれない状況とか、雑誌のあり方とか、一般に〝ものを考える〟ことが無駄で役に立たないとみなされる風潮とか、昨今の政治の混乱状況とかを考えていると、いま『世界』のような雑誌があることが文字どおり〝有難い〟ことと思えてくる。

 古く固まった頭には、あれがヒダリがかった雑誌と見られているようだが、もうだいぶ前から右も左もない。世界はただ丸いだけだ。その丸くなった世界で起こる現象は、もはや左とか右とかの物指しでは対処できなくなっている。『世界』はそういう現実に向き合っているほとんど唯一の論評誌だ。

 『世界』の表紙には四角い中窓が開いている。この開けが、今ではこの雑誌の〝志〟を象徴しているように思われる。わたしが毎号手にとってまず目をやるのはこの表紙だ。表紙だからあたりまえと言えばあたりまえだが、この表紙には素通りできない〝図像力〟がある。
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 そこにはいつも橋口譲二によるポラロイドの人物写真が載っている。長らく一七歳の少年少女たちの顔だったが、それが5年続いて本になった後、いまはここに登場するのは橋口が全国津々浦々で出会った女性たちだ。ポラロイドの顔写真、だが身分証明写真などとはまったく違って、どれもみんなこちらを真っ直ぐに見つめており、その人たちが生活に向き合うナマの視線がこちらを向く。

 表紙を一枚めくると、今度はその人の生活の場面を背景にしたモノクロの全身像がある。写真の下には、名前と年齢、撮影場所、それに職業、現在の収入、今一緒に暮らしている人、今朝の朝食、好きな音楽、最近読んだ本、今まで行った一番遠い所、今までについた職業の一問一答が記され、さらに本人が写真家に語った暮らしぶり生き方についての思いが、本人の口調を生かして書かれている。いわば、この人たちの人生のレジュメだ。

 この人たちは、政治や社会などを論じる『世界』などという雑誌とは縁なく生きてきただろうし、また、けっしてメディアに取り上げられることもなかっただろう。ただ、この国のこの時代に生まれ、それぞれの境遇のなかでそれぞれの生活を生きている。
 そういう人の一人ひとりに視線を届かせ、その視線を引き出す。ともかく、社会とはこの人たちの生きている場であり、この雑誌でさまざまな問題が論じられるのは、この人たちがそれぞれの境遇を生きているからだし、そのことをどこかで視野に置かない論評は、駄弁か、そうでなければ論者たちの自己主張にすぎないということだ。

 群れではない。社会学や政治学の統計数字に還元される集団でもない。一人ひとりの顔をもった人、そして天下国家を論じたり、この社会の成り行きに関与したりすることなく、この場に生を享け、生きている人たちだ。たとえこの人たちが『世界』など読まなくても、『世界』はその人たちを視野に入れている……のではなく、この人たちの眼差しを受けとめている。橋口の写真はそう言うために雑誌の表紙に置かれているかのようだ。

 この社会を動かす(つもりになっている)人びとではなく、この社会に生きている通常は不可視な一人ひとりの肖像を描き出し、いまこの社会にどんな人びとから成立っているのかを洗い出すようにして見せる橋口のこの姿勢は、2001年から2006年の表紙を飾った「17歳」シリーズのときから変わらない。そのシリーズが単行本になったとき、以下のような書評を共同通信配信で書かせてもらった。参照されたい。(クリックで拡大)
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2010年11月28日

比嘉康雄展『母たちの神』によせて(1)

 沖縄県知事選の投票がいま行われているが、その結果は今夜を待つとして、今日は11月の初めから沖縄県立美術館で開かれている比嘉康雄写真展『母たちの神』についてふれたい。

 比嘉康雄は戦後沖縄の代表的な写真家のひとりだが、70年代半ばから島々の祭祀の写真を取り続け、また神人たちに親しく受け入れられ、祭祀の世界に深く通じて民俗学的な記録も多く残している。その記録はとりわけ『神々の古層』シリーズ全12巻(ニライ社刊)にまとめられているが、遺作となった『魂の原郷、沖縄・久高島』(集英社新書)もある。

 今回は比嘉の没後10年を記念しての展覧会である。2ヶ月半ほどの会期の間に、県美術館で三回のシンポジウムが開かれる。第1回は、11月7日にすでに行われたが、「今、なぜ比嘉康雄か」をめぐって議論がなされ、第2回が来週日曜12月5日に「琉球弧の祭祀世界と生死観」をテーマに開かれ、年末の25日には「比嘉康雄、その〈写魂〉と〈写今〉」と題して写真家・比嘉康雄が論じられる。

 わたしはこの第2回目のシンポジウムにパネリストとして呼ばれている。民俗学者でもないわたしがなぜ?という疑問もあるが(そしてこれには主催者側でのいろいろないきさつがあるようだ)、わたしとしては、比嘉康雄さんには恩義を果たせないまま亡くなられてしまったという思いがあり、何でもお役に立てれば、という気持ちで参加させていただくことにした。(続く)

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2010年11月29日

比嘉康雄展『母たちの神』によせて(2)

 比嘉康雄さんに初めてお会いしたのは1995年初頭、比嘉さんが一年間宮古島に住んでいたときのことだった。当時、明治学院大学に勤めていたわたしは、同僚で宗教思想に造詣深い阿満利麿さんの知己をえ、阿満さんに誘われて旧正月の祭りの時期に宮古島を訪れた。

 そこでわたしたちを迎え、案内してくれたのが、阿満さんの年来の友人の岡本恵昭さんと比嘉康雄さんだった。岡本さんは、かつて薩摩藩がこの地に置いた臨済宗の寺の住職として、島の内にあって外にあるというその微妙な立ち位置から、島人の生活を支えてきた祭祀の変容を見てきた人だ。

 比嘉さんはすでに『神々の古層』シリーズで「遊行する祖霊神、ウヤガン(宮古島)」を刊行していたが(1991年)、沖縄の〝復帰〟後の島の生活の急激な変化のなかで、時を経るにつれて櫛の歯が抜けるように衰微してゆくこの島の風習の、今にして思えば〝末期〟に付き添うためであるかのように、一年間宮古島に滞在していた、ちょうどその折である。

 わたしは幸運にも、この最良の〝トリオ〟の導きでシマの祭祀の世界の一端に触れることができた。これが〝最良のトリオ〟だというのは、この三人は民俗学者として、あるいは写真家として、いわゆる南島ないしは琉球弧の習俗としての祭祀に関心を寄せていたというのではなく、それぞれの人が各人のいわば〝求道〟の途上でこの地域の祭祀にふれ、それに深く感応して、その感応をたがいに分かち合っていたからだ(その穏やかなしかし揺るぎない相互の信頼に、わたしは身近でふれさせていただいた)。

 岡本さんは、この地域にはもともと浸透しなかった仏教の僧侶、それも薩摩支配の象徴として置かれた寺(臨済宗、祥雲寺)の住職として、変容にさらされる戦後の宮古島で自分に何ができるのかを真剣に考え、とりわけ〝本土復帰〟以後、急速に進む島の祭祀とそれに支えられた生活様式の崩壊を前に、「神々の死をみとり、成仏させること」をおのれの「慈悲道」と見極めたという人である。 

 阿満さんが宮古島狩俣のウヤガンに何を見たかは、『宗教の深層、聖なるものへの衝動』(ちくま文庫)に明確に書かれている。わたしはこの本を読んで、阿満さんの〈宗教〉理解に深く共感し、やはりちくま文庫版の『宗教は国家を超えられるか』に解説「阿満利麿の求道」という一文を書かせてもらった。その延長で、ちくま文庫版『親鸞、普遍への道』にも解説「いま、親鸞を生きる、とは」も書かせてもらった。阿満さんの「親鸞論-日本宗教論」をわたしなりに読み込んだ素人ながらの渾身の応答である。

 そして比嘉さんは--、比嘉さんの祭祀の写真には比類のない〝神々しさ〟が漲っている。それはただ、神人(カミンチュ)たちの揺るぎない敬虔さを写しだしているからというのではなく、比嘉さん自身の撮影行為そのものが、祭祀によって呼び覚まされる神々の空間に、他でもないニガイ(願い)のように浸透しているからだ。

 もちろん、記録するための写真ではある。けれども、比嘉さんの作品は、祭祀の記録や証言というより、それ自体が神々を祀る〈儀礼〉であり、そのつどの祭りの構成要素であるかのような居ずまいをもつ。その写真はただ単に、祭りのあり様や神女たちの振る舞いを写しているのではなく、神女たちが願い舞うことで開く敬虔な世界をこそ、感受し写しだしているのである。
 
 比嘉さんはイザイホーの久高島でも、ウヤガンの宮古・狩俣でもシマの共同体に属する人ではない。それに、祭祀はふつう女たちのつとめだ。そこに、比嘉さんは許されて入り、むしろ撮影を託される。本来なら余人の入れない祭祀に立ち入ることができたのは、とりわけ久高島で祭祀の伝統が危機にあることを自覚する並外れた祭祀のリーダーがいたからだった。半世紀近く久高島の祭りを仕切ってきたこのリーダー(西銘シズさん)が、慎ましい気品の権化のような比嘉さんに、消えゆく運命にさらされた〝神々の世界〟の撮影を託したのだろう。
 
 比嘉さんはその撮影の構えを「受視」と表現したが、祭祀に能動的に介入するのではなく、みずから受像機となって現出する〝神々の世界〟を受けとめ、それを映像化した。それだけではなく、撮影することは彼にとって--そしてたとえば最後のイザイホー(1978年)のような危うい祭りにとっても--〝よそ者〟が祭祀の世界に入るための〈儀礼〉そのものだったと言ってもよいだろう。その〈儀礼〉はまた、存続が危ぶまれる〝神々の世界〟がその瀬戸際で十全に現出するための〝支え〟のようなものであったかもしれない。だから、〝招かれた部外者〟として比嘉さんは、カメラという道具をもって、撮影を彼自身の願いとして、影のように祭祀に参加する。

 それはもちろん写真家としての営みではあるが、その職業を超えて、比嘉さんは〝神々の世界〟にほんとうに身を預けていたのでもあるだろう。つまり島の人びとの生存を支えてきたその〈信〉の空間にみずから入り、海の彼方のニライカナイを望見していたのである。その比嘉さんにとって、写真を撮ることはまさにその祭りのなかで彼に割り振られた役割であり、彼が分かちもつべき〈儀礼〉だった。

 それは、フィリピンに生まれ、早くに父親や姉妹、そして母を失ったウチナンチュが身を託すことのできた〈信〉のありかだったとも思われる。だからこそ、比嘉さんのモノクロームの写真には、静謐な敬虔さや、比類ない〝神々しさ〟が漲っている。それは比嘉康雄の〝求道〟--彼ならば、写真によって導かれた〝写真道〟を通しての--がもたらしたものだった。

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在りし日の比嘉康雄さん(阿満利麿さんと)1995年12月 ©nishitani & moriya

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