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2010年6月 アーカイブ

2010年6月 3日

〝5月決着〟鳩山首相辞任について

 みずから希望を与えて火をつけた沖縄の声や、社民党との連携を差し置いて、「日米関係」最優先でともかく「5月決着」に形をつけようとした鳩山首相は、そのことであらゆるところからレッドカードを出されてしまいました。思えば「5月決着」とはこのことだったのでしょう。辞任の弁にしても、〝いい人〟だったのに、という思いがないではありませんが、この難局・難題を正面から受けようとして、尻餅をついてしまったというところでしょう。
 細かい話はとばしてひとことでまとめれば、鳩山首相は日本の官僚機構やマス・メディアその他を拘束している〝自発的隷従〟の構造を突き破れなかったということでしょう。これは時間と根気とさまざまな技が必要な大仕事です。引き継ぐ人は、期限など区切らず、じっくりやってほしいものです。
 マス・メディアやその解説者たちは〝悪人小沢〟を仕立て上げて、盛んに〝小沢氏との距離〟を問題にしますが、民主党政権の課題はもはやそんなところにはないはずです。小沢氏を〝闇の焦点〟に仕立てるあらゆる論議は、「政権交代」を矮小化しようとするものです。

追伸)
アメリカのゲイツ国防長官は、まだ決まってもいない新首相に、早くも「日米関係の重要性を表明するよう」求めています。民主党の最初の首相が「アメリカ離れ」を表明したために面倒が生じ、あげくに短命だったため、今度ははじめから釘をさしておいて従わせようというのでしょうが、鳩山首相の息の根を止めたのはほかならぬ「日米合意」だったということを忘れてはいけないということです。(6月3日)
 

2010年6月 9日

静岡にペソワの響き

 今年のShizuoka春の芸術祭(SPAC静岡舞台芸術センター主催)に、フランスから高名な演出家クロード・レジ(Claude Regy)が参加している。出し物はフェルナンド・ペソア作『海のオード(讃歌)』。いくつかの偶然があって(ということはほとんど必然を構成して)、この舞台のために短い文章を書くことになった。最近、オリベイラの二つの作品『ノン、あるいは支配の空しい栄光』と『コロンブス、永遠の海』を観たこともあり、ユーロ危機の話題とは別に、ここしばらく私的にポルトガルがあつい。
 以下は 『劇場文化』に寄稿した文章の一部。

         *    *    *

 ポルトガルがギリシアと並び称されるのは、ともに海の国だという理由からだけではない。それ以上に、二つはともに起源の地、発端を開いた地でありながら、近代という文明的時間から逸脱してしまった国だからだ。

 ギリシアは古代世界を開き、後のヨーロッパを準備したとされる。けれども、その後ローマに呑み込まれ、やがてキリスト教化して千年を閲し、さらに数百年イスラームの支配下にあって、長い不在の後、やっと一九世紀後半に遺跡の上に帰還した。一五世紀以来、夢に誘われて大海に挑んだポルトガルもまた、ヨーロッパの未来を切り開きながら、後に続いた計算高い機械的近代に追い越され、いつの間にか歴史の後衛に取り残されてしまった。その運命的なアナクロニズムにおいて、二つの国はヨーロッパの東西の端で響きあっている。

 そんな国の近代を身に引き受け、夢の断片のようにいくつもの異名の詩人を生み出したフェルナンド・ペソワは、故国の独特の歌謡ファドについてこう語っている。

「あらゆる詩は自分の魂に欠けているものを反映する。だから哀しい民族の歌は陽気で、陽気な民族の歌は哀しい。…力強い魂はすべてを運命に帰す。弱い魂だけが自らの意思などという存在しないものに期待する。ファドは力強い魂の倦怠であり、信じていたのに自分を捨てた神に対して、ポルトガルが向ける軽蔑の眼差しなのだ。」

 だとしたら、ペソアの生んだ詩人アルヴァロ・デ・カンポスという『海の賛歌』の作者は、その「力強い魂」を体現するひとりなのか。

 ペソアはまた言う。「森羅万象の唯一の隠された意味は、いかなる隠れた意味もないということだ。」その「剥き出し」に耐える力強い魂は、いかなる意味にも解消されない生の冒険や、胸躍る出来事や、悲惨や残酷や無慈悲を、そのままに味わい尽くす。

 (…)

 「弱い魂だけが自らの意思などという存在しないものに期待し」、かつそれで宇宙のすべてを捉えようとする。けれども「力強い魂」は、身を安全な上空において海や陸やそして世界を俯瞰しようなどとはしない。朝の港に立ち、出入りする船に魂を託し、その向こうに開ける海の無限に身を開き、そこに起こるすべての出来事を受けとめて噛み砕き、自らその出来事となる。船を動かす巨大な装置と魂の歯車とを共鳴させ、見渡すかぎりの海原にせり出して、波頭をまともに浴びながら、けっして天空に舞うことのない、それでいて宇宙を満たす力強い大海の歴史的生、その放埓な充溢を『海の讃歌』は歌い上げる。

 現代最良の文学テクストを演出し続けてきたクロード・レジが、スイスの怪優ジャン=カンタン・シャトランとともに上演するという。薄闇の舞台のなかから、どんな時間の獣の慟哭が響きだすことか、いまから楽しみである。

*ちなみに、この芝居を独演するジャン=カンタン・シャトラン(Jean-Quentin Chatelain)は、わたしが生涯でただ一度フランスで舞台に立ったときの、もっとも身近な〝共演者〟だった。上演は6月11日から3日間。Shizuoka春の芸術祭2010『彼方へ、海の讃歌』

2010年6月16日

静岡にペソワの響き(続き)

 クロード・レジ演出、ジャン=カンタン・シャトラン演じる『彼方へ、海のオード』は、港の桟橋を喚起する小さな装置に、そこをわずかに明るませる照明があるだけの、きわめて簡素な舞台だった。朝の港のはずだが、夜明けの光だとは思えない。その桟橋にシャトランが立ち、アルヴァロ・デ・カンポスの詩を朗読する。

 いや、これは朗読ではない。芝居なのだ。だが、何が〝演じ〟られているのか? 身振りはない。足を少し広げて突っ立ったまま、ほとんど動かない。動きといえば、呼び掛けや唸り声を遠くに響かせるとき、ゆっくりと腕を上げて口に添えるぐらいだ。

 ペソアの詩は、朝の港に立って船の出入りを眺める「私」が、その光景に身を預けるように、海の果てしなさに誘われるまま広大な夢想を紡ぎだすが、舞台に響くのは、朝の爽やかさや明るい光のまばゆさとはまったく違った、低く抑制した澱むような声である。

 原作の詩を読むときに響くのは、きっとそういう声ではないだろう。言葉に声を与える、詩の声を再現するというのが朗読だとしたら、これは詩の朗読ではない。また詩の語りに振りをつけているのでもない。たぶんそこが、この芝居の要所なのだろうが、詩の言葉が生きた言葉として生まれ出るべく、もごもごと静かに滾る、その発生の喫水線あたりの、しかし不退転の呟きの溢出を演じているといった印象である。

 その〝音域〟は予想外で、調子も抑揚もその後ほとんど変らない。詩が、海の男たちの冒険の夢想へと広がってゆくときも、あらあらしい航海の様子や、残酷な行為の数々が語られ、そのうえ、みずからはその犠牲者の身に立っていると独白するときにも、その語りの声はいささかもパセティックにはならない。むしろ、抑えた〝音域〟にとどまり続ける。しかし、夢想の中身の強烈さは、それを言葉にし口にのぼせることだけで、たいへんな靭力を要求するようだ。

 夢想の山場を過ぎたあたりで、実際にシャトランの体力は限界に達する。ただ、立って語り、ときに遠くに呼ばわり、ゆっくりと語り続けるだけなのだが、それだけで十分に力を汲み尽くしてしまったかのように。それが、演技というより、身をもって言葉の沸き出でる場となりながら、肉の身でこの夢想を生きるということなのだろう。

 そんなふうに、ペソア(アルヴァロ・デ・カエイロ)の「海のオード」は上演された。破天荒な夢想を語りだす言葉の生まれ出る現場を、動かぬ肉体で演じるのに立ち会ったとでも言おうか。


〝自発的隷従〟の具体相

★いま出ている『世界』の7月号に、沖縄タイムズの渡辺豪が「辺野古回帰という泥舟…」という一文を寄せている。渡辺はこれまでも、沖縄に絡む日米関係のすぐれたルポルタージュを書いているが、鳩山政権の失敗の背景を洗い出した今回の論で、日米安保を枠とする〝自発的隷従〟のからくりを、きわめて明確に描き出している。ぜひ参照されたい。
 ついでに、神保太郎「メディア批評」の、とくに後半の鳩山評が秀逸。

2010年6月22日

ナント高等研究所(IEA-Nantes)

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エルデル川・ローワル川に面して立つナント高等研究所の建物(2009.02)

 わたしがよく世話になるフランスのナント高等研究所(Institut d’Études Avancées de Nantes)について紹介しておこう。
 この研究所は2006年のフランス教育省の指針にもとづいてパリ、リヨン、エクス=マルセイユとともに設置が決められた高等研究所(IEA)ネットワークの一環だが、その先陣をきって2009年1月に開設された。いまどきめずらしい人文・社会科学に特化した研究所で、ナントの場合は、毎年20人規模の滞在研究者を世界各地から受入れ、各自が応募時に提出した計画にしたがって10ヶ月間自由に研究させてくれる。
 わたしが滞在した開設1年目は、インド、ブルキナファソ、カメルーン、スイス、ドイツ、フランス、イタリア、アゼルバイジャン、アメリカ、ブラジルから、人類学者、歴史家、哲学者、法学者、経済学者、美学者など、それも老若男女とり混ぜた多彩な研究者が集まっていた。その研究者たちが、同じ建物に研究室を与えられ、数ヶ月間、日常的に交流しながら各自の研究をする。
 滞在期間の終りに研究報告書を出すほかはとり立てて義務はないが、週1回のゼミナールがあり、滞在中に1度は自分の研究について同僚たちの前で発表することになっている。それに、週3回研究所のサロンでいっしょに食事をとることになっている(2度の昼食と1度のディナー)。それがここではなかなかの意味をもつことになる。
 その他、研究所が招待する外部の学者たちの講演会が逐次あり(これが一般的にきわめて質が高い)、滞在研究者がワークショップやシンポジウムを組織することもできる。その場合、手配や費用は研究所がサポートしてくれる。
 滞在研究者には住居も支給されるし、家族で行く場合にはその配慮もしてくれる。若手研究者で収入のない者にはその援助もあるはずだ。ともかく、至れり尽くせりで、人文・社会系の研究が切り詰められ切り捨てられてゆく世界共通の風潮のなかにあって、その領域での創造的研究の場を作り出し、目先の成果は求めず未来に賭けようという、ほとんどドンキホーテ的と言ってもいい試みである。
 実は、IEAの企画はもともとはナントから出ている。ナントはかつて奴隷貿易で繁栄した街だが、その歴史の〝負〟の遺産を現在のグローバル世界のなかで〝陽性転化〟するとともに、中央に集中しがちな文化活動の地方移転を促進する役割も込めて、ナント市長がアイデアを求めたのに応じて、ナント大学のアラン・シュピオが出したアイデアが「南北先端研究所」というものだった。〝北〟から〝南〟への知の輸出や、〝北〟による〝南〟の育成といった〝援助〟でもなく、グローバル化のなかでそれぞれに起こる諸問題がここで対等に交差し照射しあうような知的活動の場を作って提供する、という趣旨だ。
 このプランに教育省が乗ってきて、全国に5か所に高等研究所(IEA)を作るという計画になったが、結局、順調に発足していま2年目の終りを迎えようとしているのはナントだけのようである。それは、発案者のアラン・シュピオが初代の所長を務めて、みごとな采配を振るっているからだろう。
 このような研究所を作る見識が日本にもあったら、日本に対する知的評価もあがると思うのだが、とりあえずは、時代に抗して船出したナント高等研究所の順調な運行と発展にいささかでも貢献したいと考えている。

★IEA-Nantesのウェブサイト:http://www.iea-nantes.fr/

2010年6月28日

ちょっと沖縄がらみで私事を…

 先週はちょっときつかった。結果的にできてしまったスケジュールのせいだが、21日(月)の午後フランスから帰ってきて掃除・洗濯、翌日はさっそく午後に講義ひとつ(学部「戦争と経済」)とゼミ(「チョー哲学」)、翌日は3つ会議と学務雑用。木曜は明学仏文大学院の非常勤と、その前に信濃毎日新聞のインタヴュー、夜は朝日カルチャーセンター(「医療と人間」)。その間、時差ぼけで毎日寝られず、さすがにこの日は疲れて、おかげで金曜は午後最初の大学院の授業を跳ばしてしまった(学生には恐縮)。それでもその後のドクター・ゼミはみっちり7時までやった。そして土曜は、早稲田大学メディア・シティズンシップ研究所(伊藤守所長)主催の沖縄をめぐるシンポジウム(田仲康博『風景の裂け目、沖縄、占領の今』の出版を期に組まれたもの)。

 フランスでの用事はまったく別のものだったが、帰国直後のこの週は沖縄づいていた。信濃毎日のインタヴューも最近の沖縄をめぐる政治状況に関わるものだった。そして今日28日(月)も、沖縄がらみでひとつ打合せがあった。写真家の比嘉豊光が、去年の秋から那覇周辺の再開発の現場でつぎつぎに出てくる元日本兵の骨の写真を撮っている。普天間基地移転をめぐって沖縄がクローズアプされるのに合わせるかのように、骨たちが開発現場で「発掘される」というきわめて受身なかたちで自己主張を始めたというわけだ。それを公共的にどう可視化するか、という話だ。

 それについてはいずれ書くとして、ここでは、わたしと沖縄との関わりについて書いておきたい。というのは、それが信濃毎日の取材で最初に聞かれたことでもあったからだ。

 わたしは沖縄と私的な結びつきがあるわけではない。ただ、70年前後に大学にいた世代として、当時、日米安保改訂と抱き合せで最大の政治的イッシューだった沖縄には無関心ではいられなかった。その沖縄とはどんなところなのか見てみようと思い、「本土復帰」によってビザなしで渡航できるようになった頃、そして「復帰祝い」の海洋博でサンゴ礁などが荒らされる前にと、訪れたのが最初である。だが、そのときは本島はほとんど素通りし、2週間ほど先島ばかり(石垣から波照間、与那国まで)回った。

 その後、友人が琉球大に短期間勤めた折に、「慰問」を口実にはじめて本島を訪れた。80年代の半ばだったと思う。

 いわゆる「南島」と本格的に関わるようになったのは90年代の前半からである。当時勤めていた明治学院大学の同僚に宗教学者(あるいは日本思想史)の阿満利麿さんがいた。阿満さんには多くのことを学ばせてもらったが、とりわけ名著『宗教の深層』(ちくま文庫)の重要なトポスになっている宮古島に連れて行ってもらう機会があった。そこで、祥雲寺の住職岡本恵昭師や、当時島に住み込んで祭祀の写真を撮っていた比嘉康雄さんと知己をえて、島の人びとの生活や祭祀についてさまざまなことを学ぶことができた。それは当時「世界史論」について考えていたわたしにとって、大いに啓発されるところの多い体験で、その後何度か宮古島に通うことになった(このことは『世界史の臨界』のエピローグに直接反映されている)。

 もうひとつ、重要なきっかけがあった。それは95年の少女暴行事件を機に沖縄で8万人の県民大会が開かれた後の那覇で、雑誌『EDGE』を発行していた仲里効や田仲康博との出会いである。仲立ちをしたのは鵜飼哲だった。この雑誌は、それまでのどんな既成路線にも収まらない手触りで「デープな沖縄」を写し出す、斬新で魅力的な作りだった。

 そんなとき、沖縄に詳しいある編集者に教えられて、クリス・マルケルの映画『レヴェル5』を観る機会があった。遠い時と場所を隔てて、インターネットの時代に沖縄戦にどうアプローチするかという、きわめて現代的かつ普遍的なテーマを含んだ作品だった。ほどなくフランスにクリス・マルケルを訪ねたが、彼もこの作品が沖縄で上映されることを望んでおり、さっそくその準備にとりかかった。

 このとき、こちらの意図を受け取って、那覇の前島アートセンターでの上映会を実施してくれたのが仲里だった。これは、当時わたしが移ったばかりの東京外大で「歴史と記憶」を問い直すという科研プロジェクトが回っており、その半分を担って沖縄を軸に共同研究を組んでいた上村忠男さんの企画に、わたしが合流するというかたちで行われた。

 そして半年後、今度は『レヴェル5』に加えて、高嶺剛『夢幻琉球、つるヘンリー』と、まだ試作段階だった比嘉豊光+村山友江『島クトゥバで語る戦世』の最初のヴァージョンを東京外大で上映した。それが2001年2月。それ以来、毎年、仲里効や比嘉豊光の協力を得て、東京外大で沖縄関連の企画を行ってきた。それがちょうど「9・11」後の世界状況の激変と重なることになり、「テロとの戦争」体制のもとでぶり返された戦争や「占領と民主化」といったテーマのなかで、沖縄の位置やあり方がそのつどとり上げ直され、『沖縄、未来のドキュメンタリー』(2003年)、『島クトゥバで語る戦世』6時間版全編上映(2004年)、『沖縄・暴力論』(2007年)などの企画として実施されてきた。

 ただ、東京外大で続けてきた一連の企画は、同僚の中山智香子、米谷匡史、真島一郎(それに学外からとくに土佐弘之)らが、それぞれのひとかたならぬ思い入れをもって支えてくれ、その参加・協力なしには実現できないものだった。

 これがおおよそのところ、わたしと沖縄との関わりである。

 いくつかの企画は記録を作った。『沖縄・暴力論』はその後未来社で刊行したが、あまり知られていないものに、『EDGE』10年を記念して仲里、田仲、鵜飼を招いて行った討論会の資料付き記録『グローバル・ボーダー沖縄の今』(2007年)がある。残部あり。

 追記)ちょうど今日(6月28日)の『東京新聞』文化欄に、「〝普天間基地移設〟という問題の罠」という、田仲康博のコンパクトで切れのいい論評が掲載されていた。

 冒頭の「骨」については、8月に沖縄の佐喜真美術館で比嘉豊光写真展「骨からの戦世」がある。

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